ヴィレッジ

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途中から「ウヒヒ」とか「デへへ」とか心の中で笑っちゃって、暗闇なのを幸い、顔がゆるみっぱなしだった。予告を見た時からいかにも怖がらせようとしているのが見え見えで、こりゃきっとあんまり怖くないんだぜベイビーって思ったわけよ。で、見たらやっぱり怖くなかったのよ。作り手もわかっていると見えてやたら大きな音入れて驚かせようとするわけ。ごていねいにエンドロールに入る時まで大きな音させてさ。こうなったらもう終わりだよな。みんなシャマラン監督だから何かある・・って期待して見にくるわけでしょ?でも驚きは大したことないし、怖さに至っては・・演技している俳優達がアホに見えちゃうんですけど。それで何で見に行ったかというとホアキンが出ているから。彼が出ていなきゃ見に行きませんてば。シャマラン監督に期待なんかしていませんてば。まずよかったとこ行きますね。エンドロールの、カレンダーにしたいようなセピア色の写真がよかった。哀愁をおびた音楽がよかった。「男は黙って」を絵に描いたようなホアキン扮するルシアスがよかった。無口なのは愚かだからではない。頭の中では一生懸命考えていて、たいていの者よりは真実に気がついている。どの映画でもペチャクチャしゃべりすぎの人ばかり出てくる。しゃべることによって考えたり真実に行き当たる人がいるのも事実だが、全員がそうではないってこと。だからルシアスのようなキャラに出会うとホッとさせられる。ブライス・ダラス・ハワード扮するアイヴィーとのポーチでの会話にはオバさんぐっときてしまいましたわ。ハワードは才能がこぼれんばかりで、そのうちきっとアカデミー賞とか取るんじゃない?何だか見ていて他の人とは違うのよ。シシー・スペイセクとかミア・ファローを思い出させるんだけど、線の太さも感じさせる。アイヴィーはペチャクチャしゃべる方で、これはまあ仕方ないんだろうな。盲目なぶん耳や口に頼るしかない。ポーチでのシーンは感動的な反面、ハワードの顔や鼻のでかさが気になっておかしかった。ホアキンて顔小さいのね。しかも鼻は遠慮がち・・。ハワード嬢のは堂々としているのに。エドワード(ウィリアム・ハート)とアリス(シガニー・ウィーバー)の秘めた恋心もよかった。差し出した手を握ってくれなかったエドワード。そっと引っ込めた後のアリスの複雑な表情。思いきって差し出したけれど、無視されることはわかっていた。

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彼が私のことを思ってくれていることもわかってる。これでいいのだ・・。いやー大人ですな。踏みとどまるモラルがあるからこそ、ここでの生活が続いてこれたんですな。でなければこんな狭い社会、とっくに破綻しています。脇役ではルシアスの友人フィントン役のマイケル・ピット!「完全犯罪クラブ」に出ていた人。丸顔で体つきも丸くて声もしゃべり方も唇もみーんなぼってりとしていて女っぽい。夜のシーンでもマントで顔が見えなくてもすぐに彼だってわかっちゃう。森を抜けて行く自信がなくてアイヴィーを残して途中で帰っちゃう。ルシアスの親友なんだからもっと勇気出せよ・・と思ったけど、アイヴィーの強さを強調するためには連れがいない方が・・ってことなんだろうな。結局この映画のテーマは「愛は勝つ」ってことなんでしょ?目の見えない人が、入ったことのない森を抜けて、どこにあるかわからない町へ行って、手に入るかどうかわからない薬を手に入れて(第一人に出会うかどうかもわかんない。こっちから見つけるわけにはいかないんだし。目が見えないんだから、誰かに見つけてもらわなけりゃならない)、しかも無事に帰ってくるのよ!なぜそんなことを許したのか。つまりなぜ父親のエドワードが自分で行かないのか。盲目でも大丈夫、愛が導いてくれるってか?なぜ彼女は成功したのか。愛があったから・・こっちの方がよっぽどホラーだぜベイビー、説明がつかん。あっ、この映画のいいところを上げていたんだっけ。何てったってケヴィン君ですよ!この映画で一番びっくりしたのはあそこだもんね。冒頭のお墓に刻まれた数字を見ててっきり19世紀末の話だと・・。それにしてもアイヴィー、最初に出会った人がケヴィンみたいないい人でよかったわね。狐につままれたような、ハトが豆鉄砲くらったようなケヴィン君のういういしさが新鮮でよかったですぅ。何たってもう一人の町の人がアレですからねえ。どうやって出てくるのかと思っていたら・・。モチみたいに自分の出番引きのばしていましたな。やれやれやっと終わったぜ・・と思ったらオエッ、またしゃべり出したぜベイビー。自分で自分の映画つまらなくしているんだって全然気がついていないようだぜ。ぐだぐだ無意味なことをいかにも意味深に・・。ルシアス助かってよかったね、助かったんでしょ?彼を刺したナイフは、ノアが家畜を殺すのに使ったものなんでしょ?

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そんなバイキンだらけのもので刺されてよく何日も持ちこたえたわね。それも愛だぜ、愛!一つの生は一つの死の上に。喜びの涙は悲しみの涙の上に。成就されるべき愛は他の何よりも優先し・・。ノアの両親はがまんせいっちゅーことですか?考えてみりゃアイヴィーは怪物が本物ではなく、村の誰かが化けているのだということをエドワードに聞いて知っているわけでしょ。森の中でその怪物を殺したこともわかってる。そりゃ自分の身を守るためにはああするより他になかったんだけどさ。ノアの死は怪物の仕業だと村人に信じ込ませることは可能だ。でもアイヴィーは自分がノアを殺してしまったことをどう受け止めるのかね。ルシアスには話すのかね。ノアの両親に対してどうふるまうのかね。観客も愛の力でハッピーエンド♪なんてウルウルしているバヤイではないのだよ。てなわけで、思いきりハーレクイン・ロマンスでしたな。さて・・電気もガスもない19世紀後半の生活をエドワード達は実践していて・・それでいて何であんなに夜も明るいんですか?自分達を襲うはずのない怪物を何で夜も寝ずに見張るんですか?あんなに毎晩景気よく火を燃やせるわけないでしょ。冬はかなり寒いようだけど暖房用のマキは?食事の支度にもマキを使うんでしょ?・・で、胸に手を当ててよーく考えてみてよ。森に入れないってことは木を手に入れることができないってことでしょーが!着るものは?学校で使う教科書は?孤立して暮らしているってことは、今あるものがなくなっても次に入ってくるものがないってことよ。作物みたいに次にまた作れるものばかりとは限らない。それでも暮らしていこうというのならもっとつつましくて厳しい生活ぶりになるはずでしょ?ひび割れたガラス(割れたらそれっきりなんだから)、つぎはぎだらけの衣服やシーツ。夜は真っ暗で聞こえるものと言えば木々のざわめき、鳥や獣の鳴き声、風のうなり・・だからこそ怖いんでしょ?ねえ監督さんよ、もしこれからも怖さを売り物にするんならもうちょっと考えましょうね。愛を売り物にするのなら(お客はついてこないと思うが)思わせぶりな宣伝はやめましょうね。「魔女達は残らず絞首刑にされ、キリスト教とローソクがこの世にもちこまれたにもかかわらず、多くの人間はいまもって、いくぶん暗闇を怖がっているらしい」・・・byヘンリー・デイヴィッド・ソロー。