オックスフォード連続殺人

オックスフォード連続殺人

これは前から見たいと思っていたが、レンタルビデオ店は遠いし、いつになることやら・・と思ってた。原作は古本を見つけて読んだ。少し前中古DVDを見つけて購入。レンタル落ち・・借りる人いないのか。ネットでの評価は似たり寄ったり。日本では未公開だが、その理由は見ればわかる、おもしろくないからだ・・という意見。確かに「ダ・ヴィンチ・コード」のような知的な謎解きを期待すると、当てがはずれる。数学の世界はなじみがなく、わかりにくい。芝居がかった、もったいぶったジョン・ハートのしゃべり方にもうんざりだ。連続殺人とは言え、今にも死にそうな、あるいは具合の悪い人が死ぬので、あんまり盛り上がらない。次に多いのが、ラブシーンが変に濃くて、意味もなく長いという意見。学問の町オックスフォードの古くて落ち着いたたたずまい、高尚そうな数学、渋いハート・・知的ムードは十分なものの、これでは若い人は食いついてくれない・・とでも思ったのか、いらぬサービスシーンを挟み込む。原作は「わたし」というアルゼンチンからの22歳の留学生が語り手。名前は不明。映画はアリゾナ出身のアメリカ人で、名前はマーティン。子供っぽいイメージを払拭しようと言うのか、イライジャ・ウッドがラブシーンに挑戦だ。ラテン系なら女性が吸い寄せられてきてもおかしくないが、イライジャではあんまり説得力がない。上半身裸になるが、ぽっこりとした小学生みたいなおなか突き出して立ってるところは、セクシーどころか笑ってしまう。子供っぽく見えて実は脱いだら見事に割れた腹筋の持ち主だった・・ってんなら意外性もあるけど・・。いや、別にそんなの見たくないですけど。ほとんどの人は、マーティンの恋人で看護婦のローナ(「死ぬまでにしたい10のこと」などのレオノール・ワトリング)が、素裸でエプロンだけつけて台所に立っているシーンとか、スパゲッティの女体盛りとかについて書いている。まあこういうシーンでもないと、見ている人は眠気催しちゃうんだと思う。誰が犯人でもいいや・・みたいな。と言うより、うすうすわかるんだけどね(あんまり隠してない)。マーティンはセルダム教授(ハート)の指導受けたくてオックスフォードへやってきた。下宿先のイーグルトン夫人(アンナ・マッセイ)は足が不自由。娘のべス(ジュリー・コックス)は地元のアマチュア楽団でチェロを弾いている。

オックスフォード連続殺人2

イーグルトン夫人は余命半年と宣告されたが、もう五年も生き延びている。べスの看護のおかげだが、彼女が束縛感を感じているのも確か。夫人が殺された時、真っ先に疑われたのはべス。母の死で自由になれた。しかしセルダムは犯行予告のようなものを受け取っていた。しかも次の犯行もありそうで・・。マーティンと研究室が一緒なのが、同じく留学生のポドロフ。演じているバーン・ゴーマンはどこかで見たような・・と思ったら、「ミス・マープル」の「無実はさいなむ」のジャッコだった。当然のことだが、映画は原作よりドラマチックにしてあり、ポドロフの出番も多い。クライマックスの交通事故もハデだ。べスのマーティンに対する態度・・私を女として見てくれてるんじゃなかったの?・・もあからさま。途中で肉の塊が出てきてギョッとする。本文読んでいてもイメージ浮かばないのを、映画はずばり見せてくれる。原作だとマーティンは、シーツの下にあるものを想像するだけだ。冒頭のウィトゲンシュタインの逸話、途中の完全犯罪の話、そしてこの肉の塊になり果てた狂った数学者の話・・わざわざ映像化してサービス。それでいてローナの部屋が推理小説であふれているという描写は省かれる。謎の方もどんなにユニークかと期待したらただの1、2、3、4だし。足すと10になって、バスに乗ってる子供の数になるってのも気づきにくい。さて、ここからはネタばらし。自分の頭を整理するために書く。もっとも、前にも書いたようにべスが犯人というのは予想がつく。途中で唐突にスクールバスの運転手フランク(ドミニク・ピノン)が浮上してくるが、イーグルトン夫人に関してはべスの犯行だ。母親から解放される日を待ち続けていたが、なかなか死んでくれない。それどころかガンが小さくなって、あと10年は生きられるという医者の話。で、べスは行動を起こしたのだ。起こしたものの、疑いがかかるのは自分だ。こんな時泣きつけるのは・・セルダムしかいない。映画ではセルダム夫妻、イーグルトン夫妻の四人が乗った車が事故を起こし、セルダム夫人とイーグルトン氏が犠牲になる。30年前の話だ。イーグルトン夫人はセルダムとの再婚を望んだようだが、彼にその気はなく・・。どうやら彼は若い女性を好んだ・・と。ある時期にはローナも彼と関係を持っていたらしい!

オックスフォード連続殺人3

それはともかく、彼はべスの父親を死なせたことを負い目に感じており、それで今回のべスのピンチを救おうとしたと・・。犯行予告をでっちあげ、自然死した人を殺されたように見せかければ、犯人は他の・・数学の知識があり、セルダムに知的挑戦を挑む人物ということになる。つまり、ある殺人を目立たなくするには、連続殺人に見せかけるのが一番いいってこと。二番目、三番目は自然死だけど、みんなは犯行が続いているのだと思い込む。セルダムの細工はべスの容疑を晴らすのには成功したが、別の惨劇を招くこととなった。フランクの娘は、早急に肺の移植手術を受けないと死んでしまう。思い余った彼は、この事件に便乗し、いつも運転しているスクールバスの乗客・・障害のある子供を事故に見せかけ殺すことにする。臓器提供のことを考えて事前に救急車を呼び、ガソリンも最小限にしておく。彼は事故で死んでしまうが、死んだ子供の肺は娘に移植され、彼の望みはかなう。結局連続殺人の犯人は彼ということで事件は解決。・・一方原作ではべスはイーグルトン夫人の孫ということになっている。セルダム夫妻とべスの両親は事故に会い、セルダムだけが生き残る。事故を起こしたのは、今回のバス事故と同じ場所。つまり有名な事故多発地点なのだ。べスがセルダムに助けを求めたのは、彼が父親だから。どうもセルダムとべスの母サラは不倫していたらしい。こういう背景があるのなら・・セルダムの行動も納得できるのに、映画は何で?もっとも彼のセリフに、「すでに過ちを犯しすぎた」というのがあるから・・父娘だというのをほのめかしているのかも。ラスト、マーティンは真相に気づき、子供達を死なせる原因を作ったとセルダムを非難するが、セルダムは逆にそもそもの原因を作ったのは君だ・・と言い出す。もちろんマーティンには何のことかわからない。自由を求めていたべスの前に突然現われたマーティン。彼は自由で幸せそうで・・「やってみたら?」「行動を起こしてみたら?」と、彼女に勧めた。その言葉が頭にこびりついて離れず・・ついに彼女は自由になるための行動を起こした。マーティンのせいで・・ちょ・・ちょっと待ってよ、いくら何でもそれはないでしょ。人のせいにするなっちゅーの!!と言うわけで、後味は悪いけど、全体的には楽しめた。次は「ケンブリッジ連続殺人」をお願いします。