陰陽師

陰陽師

去年の秋、いろいろ映画を見るつもりでいた。夏の映画館は冷房が強すぎて、長時間いると私は病気になってしまうのでだめ。館主さんよ、涼しければいいってもんでもないのだぜい。さて秋になって、最初に見たのが「陰陽師」。野村氏(以下N氏)の歩く姿を見たとたん、「ブリジット・ジョーンズの日記」も「ラッシュアワー2」も「ロック・ユー!」もどこかへ消し飛んでしまった。「陰陽師」も「見たい」という度合いから言えば、これらの映画とほぼ同じだった。ただ内容から言って、まわりとは距離を置き、世俗に悩まされない主人公の生き方が、今の私に何か光明を与えてくれるのでは・・という気はしていた。他の映画より先に見たのは単にこの理由による。見たとたんはまりにはまって、そこから抜け出せなくなるなんて思いもよらなかった。N氏は今まで見たどの俳優とも違っている。まず姿勢。後頭部から首、背中にかけてまっすぐで、あごを引いているからちょっと見ると今にも後ろに引っくり返りそうだ。平安時代の衣装だからよくわからないが、お尻は出ているような。私は太極拳をかじっているので、あの姿勢のまっすぐさは非常に印象的だった。変な意味でなく、「すみません、ちょっとその衣装を取って、中がどうなっているか見せてくれません?」と頼みたいくらいだった。重心は足のどこにかかっているのだろう。あれで収臀にしたらいくらなんでも立っていられないだろうな。後でN氏の著作を読んだら(狂言は)骨盤を下に向けるとあった。・・てことは太極拳とは逆みたい。太極拳はおへそを上に向けるから。最初の渡殿を歩くシーンでまず度肝を抜かれ、青音を呼び出すシーンでのそっくり返りぶりと、そのまま自然に歩き出すところに感心し、呪を吸いこんだ青音を見下ろしている時の横顔の美しさと、頭から臀部までの一直線ぶりに驚嘆した。こんなに美しい人がいたんだわ。手のクローズアップになると、これがまたすばらしい。長くて細くてしなやかで、無駄なところが全くない。呪を唱える時、字を書く時、袖を押さえる時、ひん死の博雅を抱きかかえた時の拳・・手だけ見るとまるで女性のようだ。枝から葉をちぎり取るところ、パッとひもをといてふところから畳紙を取り出すところ、瓜に呪符を貼りつけ小刀で切るところ。澄んだ空気、清純、清涼・・いろんな言葉が頭に浮かぶ。

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次に低くてはっきりした力強い声。特にまわりのアイドル達とくらべるとそれがいっそうはっきりする。彼らに限らず映画でもテレビでも身のまわりでも、今の人、特に若い人はしゃべり方がはっきりしない。話すのは相手に自分の意志や希望を伝えるためのはずなのに、自分に(体力的に)負担のかからないしゃべり方、息の抜けたようなボソボソした無気力なしゃべり方をするため、何を言っているのか、何を言いたいのかわからないことが多い。またこういうふてくされたようなしゃべり方をするアイドルのまねをする人が多いのは、それをカッコよさと勘違いしているせいだろう。邦画を見ていて「字幕をつけろ~何言ってるのかさっぱりわからん」といつも頭にきている私だが、N氏の声を聞いて「言ってることが全部聞き取れる!」と感激してしまった。真田氏(以下S氏)もそう。この二人は声やしゃべり方は違うものの、聞き取りやすさという点では申しぶんなかった。伊藤氏(以下I氏)の一本調子でセリフ棒読みなのには驚くと同時に呆れてしまったし、小泉嬢(以下K嬢)の今にも消えてしまいそうな声には、おいおいしっかり息つぎせいよ・・と突っ込みたくなった。まあそんなことは、ストーリーが頭に入ってからはどうでもよくなったけど。N氏しか見てないもんね。普通の演劇だと演じる人はその役の人物に自分を近づけ、あるいは取り込み、ついには一体化し、その人になりきって心から笑い、心から悲しんでいるんだろうけど、N氏の場合はあまりそういう感じはしなくて、セリフにメロディーをつけてその心情を表現しているように思える。役になりきって、あるいは楽しいことや悲しいことを思い浮かべて笑ったり泣いたりするのではなく、笑う時はこうする、泣く時はこうする、という型に従っているように思えるのだ。晴明が博雅に「あなた様がこの世からいなくなるということではありません」と言う時の「ありません」で表現される「博雅を軽くからかっている晴明」。最後の方で「一つだけわからぬことがある」と言われて「何だ」と答える時に観客の心の中に浮かぶ「一件落着で博雅とお酒を飲んで、くつろいでいるんだけれど心の中では別な事、おそらくは道尊のことを思っていて心がそこにない晴明」。まあ私のかってな思い込みかもしれないが、N氏の声を聞いていると何となく音楽的なものを感じてしまうのだ。

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もっともN氏のしゃべり方や演技がいつも成功しているかというとそうでもない。ここはちょっと・・という場面はある。博雅に「斬れーっ」とどなるところや、「目を覚ましてくれ」と叫ぶところである。ここでは自然さがなく、芝居っぽさが出てしまった。逆にI氏の方は祐姫の死のところでは、役になりきっていて、見る者を感動させるいい演技をしていた。さて声の次は立ち居ふるまいの美しさ。平安ものといえば女性の衣装のきらびやかさが売り物。「千年の恋」の予告を見ただけでもそれはわかる。摂関政治がテーマなんてことはありえなくて、ぞろぞろ出てくる美しい女性達の衣装と悲しい恋がメイン。ところがこの映画では何人か女性は出てくるものの、主役の男性達の前ではかすんでしまう。十二単ではなく、狩衣や直衣の美しさに目を見張ることとなる。晴明の場合、小柄で細いから、垂れ下がった纓はまるで黒髪のようで、りりしい青年に見えると同時に美しい女性のようにも見える(最初の方の蝶を拾うところとか)。動作が女っぽいというのではなく、きりっとしてしなやかで、荒々しいところや雑なところが皆無なのがそう感じさせるのである。博雅がいくらメソメソしたり、優柔不断でうじうじしていても女性的に見えないのとは対照的だ。晴明は中性的な存在に見える。男性や女性である前にまず人間であるということ。鬼を相手にするのに性別は関係ないし、男性なら普通夢見る出世栄達にも彼は関心がないようだ。さてそれにしても当時の服装は動きにくそうだ。例えば蜜虫が博雅を迎える時、スーッと幽霊のように移動しているが、次に博雅の後を追うように歩くところは、足に着物がからまってそれでも何とか歩こうとして肩をゆすっている。最初の部分は足が見えていないから何かに乗っているのだろう。しかし全身がうつっている時は実際に歩かなくてはいけないから、精霊らしからぬドタドタ歩きになってしまったというわけだ。竹林の中を走るシーンを見ると、蝶なんだから飛べばいいのにと思ってしまう。まあ晴明だってあれだけ飛べるんだから走る必要はないような・・。でも走るシーンはこの映画の見どころの一つでもある。上体をゆらさず、足の力で軽やかに走る。腰の位置が決まっていて、何も余計な力が入っていないのが見ていてわかる。でこぼこした地面の不均等さを腰や膝で吸収している。

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あごを引いてまっすぐ前を見て走る。たいらでないところを下を見ないで走るというのは、かなり勇気のいることだと思う。現代の人は腕を振って走るから、今井嬢(以下I嬢)も肩がゆれる。さて今回一番感じたことは、「日本人でよかった」ということである。今までは欧米の映画に目が向いていて、日本の映画をバカにしていた。邦画を見るのは「シャル・ウィ・ダンス?」以来だし、はまって何度も見に行ったのは「火の鳥」以来である。この映画だって「日本版マトリックス」なんて大ボラもいいところである。「何でこうなの?」というところがいっぱいある。将軍塚の破壊から都の炎上なんてため息が出てしまう。あれだけハデにやって道尊のやり遂げたことって・・。門の上で大笑いしているわりには数ヶ所火事になっているだけじゃん。空に現われる親王の顔なんて誰が見たって「ハムナプトラ」。道尊の不死身ぶりは「ザ・クロウ」を思い出させる。ユダの「刺されたって平気だよーん」ってシーンね。これってきっと私だけね。ムフフ・・こっち(S氏)の方がましですけど。都は大騒ぎのはずなのに、一般民衆は全く出てこない。腕が飛んでも血は申し訳程度。右近が兵士を斬るところも、祐姫が首を切るところも、晴明が道尊に斬られるところも、これでも映画?って思うくらいリアルさゼロ。後でそうじが面倒だから?任子の所に投げ込まれた生首も、道尊に生気(?)を吸い取られてしまう長正の顔(これもハムナプトラのパクリ)もひどい。生首は綾子のらしいが、映画ではそうは言っていない。考えてみれば綾子も任子の出現で帝の寵がうすれたクチで、祐姫と同じ境遇。祐姫が綾子を恨む理由はない。この生首も出来が悪く、わざわざ出すほどのものではない。何というか他の表現があるだろうに・・と思ってしまう。祐姫の変身シーンもそう。夏川嬢(以下N嬢)はこの映画の女性出演者の中ではピカイチで、角や牙を生やさなくたって生成りを表現できたと思う。博雅の腕にかみつくシーンはかなりひどい。全くリアリティがないし、その後の博雅は笛を吹いたり道尊と戦ったりと腕に何の影響も出ていないじゃないの。そしてカラス。最初いいムードで映画が始まったのに、あのカラスがうつったとたん何だこりゃ。ぬいぐるみか機械じかけか、どちらにしても最新技術を駆使してなんていう宣伝文句がとんでもないうそっぱちであることが、始まってすぐばれてしまった。

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ゴジラやラドンの世界じゃあるまいし(あれはあれで大好きなんですけれども・・)。カラスがうつる度に、鳴く度にトホホなんて思っていて、しかもこれがいったい何なのか、よくわからないでいた。後になって道尊の式神だとわかったけど、晴明の式神とはえらい違いだ。・・などなど悪口をいっぱい書いて「日本人でよかった」と感じたこととどうつながるんじゃい・・と思うだろうが、それがちゃんとつながるのである。鳥辺野の散乱した死体から黒い煙が立ち上って、都へとスーッと流れていくシーンがいい。当時はちゃんと埋葬される人はほんの一部で、たいていは置きっぱなしにされてカラスや犬にくわれたり、盗人に髪や着物を取られたりしていたらしいから、この鳥辺野のシーンはきっとこういう感じだったんだろうなと納得できる。変な化け物が出てくるんじゃなくて、黒い煙なのがかえって見ていてワクワクさせられた。朱雀門のあたりに黒い雲が地響きを立てて押し寄せてくるところもよかった。祐姫の死ぬところも、最初は何じゃこりゃ、お涙ちょうだいもいいところじゃん・・などと笑いをこらえていたのだが、何度か見ているうちに、あら不思議何だかウルウルしてきたじゃないのよ。I氏もここだけは真に迫ったいい演技してるし。しょぼいカラスもだんだんかわいく見えてくる。ちゃんとお仕事してるし。道尊はまるで猫をなでるみたいにカラス君をちょちょっとなでてやる。飛んできた矢の前に身を投げ出して道尊の身代わりになって死んでしまうけなげさ。何とか助けようとする道尊のうろたえぶり・・。こういう日本的な、あまりにも日本的な表現に、私もいつしかはまってしまっているのである。おどろおどろしいムード、お涙ちょうだいのムード、しょぼいんだけどかわいくてけなげなところ。つまり欠点も大目に見てしまうってことなんだけど。・・そしてN氏。この人が出ているというだけで、たいていのことは許せちゃう。欠点は欠点としてどうしようもないくらいそこらじゅうに存在していて、映画が完成した今それらはもう動かしようがないんだけれど、でもN氏の存在にくらべればそんなのどうでもいいよ・・って思えちゃう。すぎたことをああだこうだ言うのじゃなくて、とにかくこの映画に出てくれてありがとう、リアルタイムで見られる今に私を生かしてくれてありがとう。正直に言うとこんな感じ。

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さてストーリー順に見ていくと、大事な奏聞をほったらかして綾子のお相手をする晴明。いつも家にいるし、いちおう役人なのにおかしいな。他の陰陽師とも一線を画しているし、陰陽頭である道尊とも、この時が初対面って感じ。蝶をふところにしまった晴明。博雅を見るが、その横顔には何の反応もなく、何とも思ってない様子。こちらに向き直りながら「ふふん」というような顔をする。呪にかかって幻を見、自分のことを「怪しいやつ、蝶を殺める非情なやつ・・と思っているな、でもオレはそんなことぜーんぜん気にしないもんね」とでもいうような不敵な顔つき。博雅クンに一目ぼれってことはこの様子だとありえませんな。次に道尊の方を見て顔つきが変わる。目に力が入り、挑戦的な表情になる。それに対し、道尊は正面から堂々と晴明を見すえる。目に力を入れるのではなく、体全体で発止と受け止める。次に晴明がうつると、うす笑いを浮かべ、斜めに上目づかいに見るいかにもずるがしこそうな表情になっている。この時の二人の視線の応酬というか、ガンの飛ばし合いというか、無言の対決で、私はすっかりこの映画に引き込まれてしまった。力で押してくる道尊と、一見弱そうでいて実は一筋縄ではいかない晴明という対照的な二人をここでばっちりと見せる。道尊は晴明の術には引っかからないし、晴明にもそれはわかっている。「なかなかやるが、俺はそんなことは全部お見通しさ」という道尊と、それをはぐらかすようにうす笑いを浮かべる晴明。この時のN氏の表情ときたら・・。もうこれで私は完全にKOされてしまいました。あんなにすばらしい表情はめったにお目にかかれませんぜ。DVDだと画面が明るすぎてあのすばらしさが半減してしまうのがとても残念。そこに至るまでのいくつかの表情もいい。葉を吹いて飛ばす時の目の美しさ。蝶がまっぷたつになって落ちて来るのを見て貴族達が驚くのを、横目で見るともなく見ている全身像と、いかにも妖しげな表情の美しさ。この時は珍しく足もうつっている。素足なんだけど、その足までが美しい。次に博雅が晴明の家にやって来るシーン。庭はいかにも作り物っぽく、花はまるでティッシュぺーパーで作ったよう。晴明の家自体が異界なのだと表現するためらしいが、どう見たって失敗している。「私の顔は・・」と言う時のN氏の顔はどう見たって狐かイタチで、こういう演技はI氏には逆立ちしたって無理である。

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しゃべり始める時の間が絶妙で、I氏の方は「き、き、聞こえたと言うのか」と台本棒読みだから、それがいっそう際立つ。「はは」とかしこまる時のメロディーもいい。いかにも博雅をからかっているというのがはっきりとわかる。兼家の屋敷での晴明もいい。字を書く時、書いた紙を見せる時、瓜に貼りつける時、筆を置く時、小刀を抜く時、瓜を切る時、中の蛇をつかみ出す時・・一つ一つの動作、立っても座っても、指の一本一本までが美しい。蛇に向かって口をとがらせ、戯れているところもかわいい。次のシーンは、見ていて本当にうれしくなった。いわゆる朱雀大路を見せてくれるのである。しかも両方向から。広い広い都大路を、蛇を追ってのんびりと歩く。もう少し蛇を見てびっくりする人達を(たった二人ではなく)たくさんにするとか、牛車が急ブレーキで止まるとか遊べばいいのに・・ともったいなくなるくらい短いシーンだが、私は後で出てくるハデな爆発シーンよりも、平安京全景シーンよりも、ここが一番好きだ。VFXだか何だか知らないが、一番自慢していいシーンだと思う。うってかわって橋の上をゆっくり歩く遠景もきれいだ。ここらへんでは、狩衣、烏帽子といった平安時代の服装の美しさが堪能できる。夕陽を浴びて庭にたたずむシーンもいい。博雅の目に指を当てて呪を唱え、向き直って兼家の方を見る時の表情、動作の間の取り方が絶妙である。流れるように自然だ。呪の正体を見て単純に驚き、感心している博雅に向かって、軽く頭を下げ、静かに去っていくシーンがいい。歩いていく時のぴんと伸びた背筋。まっすぐ前を向いている顔。こんな何気ない動作なのにどうしてあんなに美しく、りんとしているのだろう。その後の祐姫と博雅のシーン。はー全くため息が出る。あのセリフ、あの表情、あのしぐさ。見ていてどつきたくなる。もう少し何とかならなかったのか・・。あ、でもI氏はホントかわいいのだ。本人はそれなりに一生懸命やってて、でもはたから見るとボーッとしていて、何の欲もなさそうに見える。監督にしごかれて、なにくそっと奮起しても、子供がムキになっているようにしか見えないタイプ。つまり表に結果として現われてこないタイプ。私にはそう思える。まあN氏とはもまれ方が違うのだから仕方がないんだけど。さて次に晴明が出てくるのは、敦平にかけられた呪を解くため。

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この時の晴明は笑いすぎで、明るいというよりも軽く見える。もう少し感情の表わし方が静かな方がいいと思うのだが。後で出てくる泣くシーンもそうだが、違和感がある。だから青音に「ごりっぱになられました」と言われて照れくさそうに下を向いたり、後で博雅を「大事になさいませ」と言われて「えへ・・(と聞こえる)」と複雑な表情をするところは、感情をはっきりさせないのでかえって晴明らしくてとてもよかった。笛を聞かせてくれと頼むところ、聞いている時の後ろ姿(しっかり背中で演技している)、扇をパチンと閉じるところ、青音にあいさつをするところ。はー何と美しい。それにくらべて笛を吹こうとする時の博雅。この映画を見てからN氏のたった一つの出演作である「乱」を見た。その中で笛を吹くシーンがあった。笛を取り出し、唇に当て、吹き始めるまでの体の動き・・は博雅には全くない。彼はまるっきり何にもしないですぐに笛を吹き始める。名人だから姿勢も呼吸も整える必要はないというのか。指の動きと笛の音が合っていないのも興ざめだ。もうちょっとそれらしく見える工夫をすればいいのに。さて敦平の呪を解くシーンでは、晴明が並々ならぬ力を持っていることが明らかになる。火をボーボーと燃え立たせ(ありゃどう見てもガスだよね)、大声で力強く唱える道尊と、扇を広げ、静かに唱える晴明。道尊は力で押してくるが、晴明の方は「力」とはちょっと違う気がする。瓜の女にしても、次に出てくる生成り姫にしても、力でねじふせるのではなく、相手が満足するような方法を取る。彼にとって亡霊や鬼は憎しみの対象ではなく、ちゃんと弔い、供養してあげるべきものなのだ。生成り姫のためには、人形を作った。例えだましてでも思いを遂げさせようとする。最終的な解決にはならないかもしれないが、相手を殺し、自分も死ぬなんていう悲惨な状況はできるだけ招かぬようにしている。前にも書いたが青音を見下ろす横顔と姿勢は美しい。次の青音の背中に針を刺し、呪を唱えるシーンは非常にエロティックである。映画館によって音響効果はまちまちだが、ある館では、確かに声の微妙な意識が感じ取れた。つまりN氏はこの時の声を、ただ呪を唱えるのではなく、針を通して青音の体の中、骨の髄から温めていくような感じにした・・と言っているのだが、それが聞いていてわかるのである。

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あらま、のっけから晴明様のシーンをカットですか。その後もあっちでカットこっちでカット。それでいて特撮シーンはノーカット、やっぱりね。TBSさんよ、日本中のN氏ファンを敵にまわしましたぜ。でも最後まで見たのは目的があったからなのよん。特報、そう、これこれ。主演野村萬斎・・よーしこれで一安心。2が製作されることは間違いないけれど、主演が誰かが問題なのだ。N氏が自分の口から「やります」と言ったことは一度もない(と思う)。まわりがそう言って、あるいは書いているだけ。今回もそうだけど、テレビ放映の後だから、はっきり明示してあったからまあ信じていいかな・・と。というか信じたいよーん。さて昨日の続き。呪を唱えていても晴明の顔は全くぶれない。しかしかなり不自然な姿勢なので、さすがに遠景で見ると体が少しゆれている。わざわざ遠景で、しかも上からうつしているのはカラスの視点だからだが、別の効果を狙っているのは明らかで、こういうところは監督はうまいなあと思う。何度も映画館に通っていると、いろんな予告編を見る(というか見せられる)わけだが、中には「うわっ、何じゃこりゃ、これから陰陽師を見るっていうのに、目がけがれるじゃないの」と思うようなものもある。同じ色っぽいシーンでも見せ方によってずいぶん違う。晴明は別に怪しいことをしているわけではないのに、見ている者をドキドキさせる。無表情に呪を唱えているだけなのに何で?でもそういうことができる人を晴明役に持ってきたからこそ、この映画は成功したんですけどね。一方「太刀をお抜きください」と言われて引き抜く博雅。ひゃー太刀ってもう少し重いものなんじゃないの?私、鉄の剣で套路をやったことありますけど、数日間肩の痛みが取れませんでしたよ。たくし上げるところなんてもうほとんど重量挙げですもんね。博雅クン、そんなに軽々と抜いちゃっていいの?私の前の席に座っていた男の人は舌打ちしていたぞ。あんまり役には立たないしいちいち反応が大げさな博雅。でも彼は我々の代弁者だし、彼の視点は見ている者の視点でもある。だからだんだん彼のことが好もしく思えてくる。晴明のやらないことを皆彼がやって、そのために晴明の冷静さ、技の巧みさがいっそう際立つというわけ。都の守り人というのに何もしなくても、何かしたのに結果が出なくても彼の場合それでいいのだ。存在しているだけでね。

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逆に晴明は泣いたりうろたえたりしてはいけないのだ。そういうのは博雅の領分という刷り込みが見ている者の中にあるから、晴明がそうなると見ている者は違和感を感じてしまう。ところでこの時の呪だが、形としてはエイリアンタイプにうんざりしていた私の気に入るタイプで、青音の口から出た後、空中にわだかまっていて、そこから白い人魂みたいなのがいくつか分かれ出るのがとてもよかった。グチャグチャベトベトはもうたくさんだ。青音は呪の正体はわからないとウソをつくが、早良親王に関係があるってことは呪を飲み込んだ時点でわかっている。しかしこの時点で道尊は早良親王に祈っているわけではない。道尊が祈っている像はてっきり早良さんかと思ってたら坂上田村麻呂だというし、いろいろつじつまの合わないことが多い。早良さんが甦らないようまつってある坂上さんに何で祈っているのかわけがわからん。次の月を見ながら酒を飲むシーン。晴明には青音がウソをついていることはわかっているが、追及はしない。相手の領分には入らず見守るだけである。その少し気にかかる様子で、でも黙って酒を飲んでいる姿が美しい。博雅の方は顔も名前も知らない女性のことで頭がいっぱいだ。思っていることをつい口に出してしまう弱さがかわいい。それを聞いた時の晴明のちょっと驚いた顔・・意外なことを聞くものだという顔だ。そして「さては・・」とからかうような笑み。「図星のようだな」というしてやったりの顔。次々と微妙に変わる表情と声。何て上手なんだろう・・と見とれてしまう。「月をくれてやることもできるぞ」と身を乗り出す時の顔つきのずるがしこいこと。それにくらべ「どうやって」と言う博雅のボーッとした顔。上気して目も少しうるんでいて、酒と自分の物思いに酔っていて、冷たくさえた晴明の表情とは対照的である。くれてやる方法を言った後がまたすばらしい。柱に寄りかかり、言った言葉の余韻がまだまわりに漂っていて・・。その中で月の光を浴びながら静かに庭の方を見るともなく見ている横顔の美しさ。酒を飲む時の動作もほれぼれする。「言えぬのか」と言った時のわざとらしくびっくりした顔・・。はーそれにくらべて次のシーン。学芸会かよもう・・。まんまと引っかかって月をあげるとくどいたのだ。少しは期待する顔になるでしょう?相手が泣き出したのに気づいたらそんな顔はしないでしょう?

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「ありゃ、これはおかしいぞ」って少しはうろたえるでしょう?ところがI氏ときたら完全に相手の次のセリフ待ってます状態なのだ。あるいは次にこういうセリフ言いますのスタンバイ状態なのだ。牛車が去っていくのをいたずらに手をこまねいて見送るしかない博雅。もうちょっと心のゆれがあるでしょうに。月をあげるなんて言っちゃってかえって悲しい過去を思い出させちゃって失敗した・・と後悔しないの?歌をくれた相手は誰?って心はざわめかないの?「はいIクン、牛車の去っていく方向を目で追ってねー」ってそのまんまの演技じゃん。余情も何にもなし。ところで最初に見た時は、牛車に乗っているのはてっきり亡霊か鬼か、そういう魔性のものだとばかり思っていた。だからこのシーンで祐姫だとはっきりわかった時には意外な気がした。こういう女性(更衣)がホイホイ外に出られるか?まわりにいっぱい女房がいるはずだ。またせっかくの悲劇のヒロインなのにあんまり美人じゃないし。普通もっときれいな女優さんを出さない?まあこれは後になって考えを改めましたけど。それに博雅が両手を広げて待っているっていうのに、あんなさえない帝のことを忘れられないなんて・・。元方さんも演じているのが柄本さんだから、悪役は左大臣の方だとばかり思っていたのよね。最初に見てる時ってストーリーがわからないから、けっこういろいろ思い違いをしていたりする。晴明と青音をつかまえて「その女が口から鬼を吐くのを見た者もいるのだ」と元方が言って、晴明が「さて、それはどなたにございましょう」と言った時も言葉の意味がわからなかった。でも後になって青音が鬼を吐き出したのは晴明の家の庭でだから、誰も見ている者はいないはずで、「見た者もいるのだ」という元方の言葉がおかしいことに気がついた。晴明はカラスがスパイしていたことは知らないが、道尊の仕業だろうということは見当がついている。「いつでも都から去りましょうぞ」と、誰とも争う気のないことをはっきり言う。この時の「去りましょうぞ」と言った後、青音の方に向き直る時の間がいい。すぐに横を向くのではなく、言った後一瞬元方の方に視線を置いて、それから向き直るのである。この時は顔のクローズアップではなく、全身がうつっているんだけど、それでも元方にガンを飛ばす晴明の鋭い視線が強烈だ。一瞬後には何事もなかったように青音の縄を解きにかかる。

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この場をおさめてくれた師輔の方を見る時の、きりっとした表情もいい。こういうきかん気の、ちょっと強情そうな顔をした小学生っているよなあ。N氏はシーンによって顔つきが全然違う。それは目鼻立ちが整っていないからである。目鼻立ちが整っているということは、いつどこから見ても変わりばえがしないということだ。N氏の場合は、ある時は子供っぽく、ある時は邪悪そうに、ある時は妖しく・・と声と同じく千変万化。「都とは」とささやく道尊の不敵な面構え。S氏の男性的な魅力全開だ。それに対する晴明のやや恨めしげな表情。「ん~もう・・(怒)」とでも言いたそうな女性的な目つき。ここらへんの二人の対比がうまい。次の不老不死云々には正直言って「そんなあ・・」と引いてしまった。いくら作り話でもそこまで行くとちょっと。でもここで冒頭のシーンの意味がわかってくる。ここまで晴明に見とれていて、冒頭のシーンなんて全く忘れていたのよね。「どなたか心に」は明らかに晴明の失言。彼にもそんな失敗はあるのね。おもむろに笛を吹き出す博雅。彼は親王の霊をなぐさめるために吹いているらしい。青音の回想シーンで、親王とは恋仲だったことがわかる。じっと見つめ合って幸せそうに微笑み合うだけだが、青音の美しさ、親王の人のよさが伝わってくるいいシーンだ。こういう奥ゆかしいところがいいのよね。なんでもかんでも口に出して、行動に出してじゃなくて。ふと我に返った青音が、二人が都の守り人だと気づく時の晴明がまた美しい。扇を手に岩か何かに寄りかかって空を見上げて笛に聞きほれているところ。ああこうやって昔の人達は月をめでていたんだろうなあ・・とわざとらしい構図もN氏のおかげで雅に見える。さていつの間にか晴明の家に入りびたりの博雅。「笛など結局は何の役にも立たぬものだ」と自嘲的につぶやく。「おまえは・・」のきめゼリフがまずここで出てくるが、博雅には通じない。彼の笛は聞く者の心を癒してくれるのだが、彼自身はそのことには気がついていない。彼は別に誰かを癒そうと思って吹いているわけではない。「博雅と笛」というのは「陰陽師」の重要なポイントだが、映画ではそれがあまり伝わってこない。まあI氏の演技のまずさのせいもあるんだけれど。師輔を迎える晴明。彼は今ではすっかり博雅と同等の口のきき方をするし、師輔の前で帝を「あの男」呼ばわりする。

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久しぶりに続きを書くぞ。映画館で22回見たので、この感想も22回で終わらせようかな・・なんて思っているのだけれど、それまでに書ききれるかな?「あの男」呼ばわりはあまりにも不遜で、晴明がものにとらわれないことを表わすためとはいえやりすぎだと思う。博雅と二人きりの時に言うのならいいが。「行こう」とさっさと出かけるところも軽すぎる。下から光の当たった笑い顔はコロッケそっくりだし。さて熱のこもった道尊の姿を見せた後、静かに呪を唱える晴明がうつる。扇を片手に持ち、もう一方の手は口元に。扇を顔の前に置いているのも何か意味があるのか。きちんと座ってまっすぐ前方を見ている姿や表情が美しい。風がザザーと御幣をゆらし、ローソクの炎がゆらめく。「教えてけじゃれ」と感情のこもらないうつろな声がして祐姫が現われる。これこれ、これこそ日本映画の醍醐味。あの独特の平安時代の室内、几帳だの何だので幾重にもたれこめたような、それでいてがらんとした・・。中央に置かれた人形、さまざまな道具(三宝とか)。仏教的な品物がこの映画にはほとんど出てこないのが印象的だ。部屋に入ってきた祐姫が晴明の方を見ると、彼の姿はぼうっとかすんで見えなくなる。それでいて絶えず聞こえる呪文。居眠りをしていてハッと目を覚ます博雅。彼は奏聞の時も居眠りしていたし、たるんでいるというか、緊張感に欠けるというか。緊迫した状況なのにきりきりした感じがなく、どこか抜けた印象がある。そしてそれでまた見ている方はいっそうわくわくさせられたりして。おびえあわてふためく博雅や帝がいるからこそ晴明や祐姫の行動が際立つ。祐姫役のN嬢はとてもよい。人形を見つけた時の「あらうれし」という言葉。書物の中で読んだことはあっても、実際に発音されるのを聞いたことがない言葉をこの耳で聞く楽しさ。しかも棒読みでない、ちゃんと感情のこもった言葉として聞くうれしさ。例え恨み言であっても、日本語って何と美しいんだろ。恨み言を言う祐姫の目には涙がたまり、頭上のローソクからはポタポタろうが垂れる。帝は歌でやっと彼女を思い出す。子供まで生ませておきながら全く忘れ去っている帝なんて、呪い殺されて当然じゃ。・・で何で祐姫がそこまで帝のことを思っているのかということになる。若くてハンサムで誰よりも深く愛してくれるやさしい博雅が、両手を広げて待っているというのに・・。

陰陽師14

博雅の腕に飛び込めない祐姫の気持ちはわかる。人間ってそうそう簡単にAからBには乗り換えられないものなのだ。それは呪にしばられているってことなんだけど、人間だから呪にしばられるのだ。自分で自分を追い込んで、この祐姫のように自殺してそれでやっと解決(呪から解き放たれる)する。さて歌の途中で晴明が祐姫の方を見る。彼女が博雅の思いこがれている女性だとわかったからだ。帝が不用意に声を出したために結界が破れ、立ち上がる晴明。ここまではよい。しかし次に祐姫が槌を振り上げて博雅に襲いかかった時に、何もしないで突っ立っているってのはどうもねえ。「この角度からとるから、(晴明は)うつらないからそのまま突っ立ってていいよー」・・なんて言って実はうつってたってわけ?襲われている博雅を前にして、晴明がぴくりともしないなんてあるわけないでしょ、友達なんだから。さてここらへんのN嬢はきれいだし、笑い声もとてもよい。首の後ろに符がついているのに気がつく晴明。この時もただハッとするといった単純な演技ではなくて、顔を回すようにして表現する。遠くからはっきりしないものを確認するよう目をこらし、「ムッ、あれは・・」という顔つきをする。その目が鋭くなるのがこちらにも伝わって、見ている方もムムッと思う。符をはがす時も扇でパッと髪の毛をはらって、サッとはがし、くるりと一回転。すごく芝居がかった動作なんだけどこれがこの場にはぴたりとはまる。今度こそ本当に我に返った祐姫。符を見た晴明はそこに博雅の名前が書かれているのに「?!」となる。ここらへん彼が無言なのがよい。さすがの晴明も、なぜ帝でなく博雅の名が書かれているのか・・と意外だったろう。後ろで帝がオタオタしているので、クールな晴明がいっそう際立つ。さてあまりの恥ずかしさに祐姫は泣き出す。映画ではそれでも控えめだったが、原作では(恨み言の内容が)かなり露骨だった。まあ女性としてはそれこそ死んでしまいたくもなるだろう。しかも博雅に聞かれてしまったのだから。やさしい博雅はこのことで祐姫を嫌いになるどころか、かえって好きになっただろうが。それにしてもN嬢の熱演にくらべI氏のぼーっとした横顔ときたら・・。祐姫が恨みの念を再燃させた時、道尊の呪にかかって彼女は生成りになってしまう。こういう緊迫したシーンでドキドキさせる一方、隅の方ではお約束のギャグが・・。

陰陽師15

「いかん・・」と扇をほっぽり出す晴明もおかしいし、呪を解こうとする晴明に恐怖のあまり抱きつく帝もおかしい。クールな晴明が身動き取れずにびっくりし、また顔をしかめ、あわてるところがおかしい。ほんの一瞬の間に表情がくるくると変わり、体の方も「こんなことしてる(帝に抱かれてる・・って冗談ですけど)場合じゃないのに・・」というのが伝わってくる。変身した祐姫が飛びかかる寸前の晴明もおかしい。片手を帝につかまれ、もう片手は・・とにかくじたばたしているのがかわいい。みんなが一緒くたに吹っ飛ぶところもいい。ただ倒れるんじゃなくて、足をポーンと上に上げて、本当に吹っ飛ぶという感じなのだ。他の人の倒れ方?わかりません、N氏しか見てませんから。このあたりのどたばたシーン(?)はよくできていると思う。祐姫のそれこそ「あばれる」ところがすごい。何しろほとんど帝は何もできないとはいえ、男三人に女一人である。帝にしがみついては引きはがされ、敦平に飛びかかろうとしては押さえられ・・で祐姫は分が悪い。敦平を抱き、帝を逃す晴明。追おうとする祐姫をつかまえる博雅。ここまではよい。でもその後の腕にかみつくシーンは、前にも書いたがオヨヨ・・である。「私を食らえ」と言った博雅の顔のアップを見てびっくり。大立ち回りをやって、腕にかみつかれて、汗一つかいてないってどういうことよ。いつもこのシーンになる度にがっくりする。もう少し何とかなっただろうに・・。博雅のやさしい言葉に我に返った祐姫。普通ならここで博雅がやさしく祐姫を抱いてあげるところだが、気がきかないからボーッとしているだけ。祐姫が博雅の刀で自害するのも呆然と見てるだけ。何だか笛以外は何をやっても不器用な気の毒な博雅クン。祐姫は首を切ったというのに血はほとんど出ないし、あんなにしゃべることができるわけないのだが、このシーンはかなり泣ける。しかし幼い子供を残して自殺するかね・・という気はする。さて符にささやきかけ、弓を引きしぼって射る晴明の美しいこと。かがり火のぱちっとはぜる音がよい。人を呪わば穴二つ。成就しなかった呪いは送り主のところへ戻ってくる。もうゾクゾクしちゃうこの設定。さて晴明に邪魔ばっかされてちっとも仕事がうまくいかない道尊。ボーッと座ってるけど、呪が返されるってことに気がつかないはずないだろうに。それだけ疲れていたのか・・。

陰陽師16

道尊の身代わりになって焼け死ぬカラスのかわいそうなこと。ここはCGを使ってなかなか見事。さてこの後はほころびの目立つ展開が続く。VFXだか何だかよくできているのからアホらしいのまでいろいろ出てくる。時間的、あるいは距離的におかしいのも知ったこっちゃないとばかりに最後の決戦まで持っていく。道尊と戦う博雅のへなちょこぶりがここでも披露される。スローモーションで見て、あんなやり方じゃ相手斬れるわけないじゃん・・と思ったりして。弓を床に力一杯投げつけたりして狂いは生じないものなの?目をつぶって射っても命中するなんてウデがいいのね。それよりも何よりも「探す手間が省けもうした」と言われて、のこのこついていくI氏には引っくり返りそうになったわよ。いくら後ろ姿とはいえ素で歩いてるのまる見えよ。もうちょっと何かあるでしょ、ためらいの気持ちとか・・。はー絶句。最初に見た時は博雅が死んじゃうのにびっくりした。青音が「私の命を・・」って言い出して、不老不死のはずなのにそんなに簡単に死ねちゃうの?とその矛盾にまたびっくり。荒っぽい展開は別として、倒れている博雅を見つけてびっくりしてかけ寄り、「んあぁっ」と抱き起こす晴明がよい。そりゃあ自分よりひとまわりデカイ博雅を抱き起こすには力がいるでしょうよ。掛け声も出るわな。左手が握り拳になっているのがかわいい。画面の左上のはしに晴明の顔があるんだけど、そのぷっくりしたほっぺのかわいいこと。画面中央の博雅のデカイ顔なんてどうでもよくて、ほっぺの何とすべすべときれいな・・と見とれている私。しかし晴明はこんなふうに泣きわめいてはいけないのだぜい。ありえないことが起こって呆然としている方がリアルだ。N氏ここだけは演技はよくない。その後の泣いたためにハーハー言ってるところはうまいけど。泰山府君の祭のシーンはよくできていると思う。K嬢もここだけは人間ぽくない、別の世界で生きているという感じがよく出ている。動いてセリフを言っている時はあんまりいいとは思わないのだが、横たわって光につつまれていると、そのやつれた感じ、不自然な若さがいかにも自然の節理に逆らって生きているというふうに見えてくるのだ。早良親王説得のシーンでは、二つの人格を演じ分けるS氏のうまさが際立つ。親王の霊が抜けて倒れる時の倒れ方も実にうまい。続いてうつる博雅のへぼい倒れ方とは全然違う。

陰陽師17

昇天する青音達を見て袖を目に当てる蜜虫。とってつけたような泣きの演技が見苦しい。はーここでも絶句。悪いこと言わないから蝶のままでいなさい。さて我に返って立ち上がる道尊。「我らの思いも知らず」の「我ら」ってどういう意味よ。仲間は誰よ。鳥辺野で甦らせた怨霊達?まさか「晴明と自分」・・じゃないよね。まあ待ちに待った二人の対決シーンだからそんなことどうでもいいことなんでしょうけど。晴明は道尊を呼捨てである。最初の頃とはえらく態度が違う。道尊と顔を合わせるのはこれでやっと三度目だっちゅうのに。「私には勝てぬ」なんて自信たっぷりなのは、五芒星の符が道尊の体内にあって、彼の力がいくらか封じられていると知っているからか。術合戦じゃなくて、道尊が刀を振り回したのは陰陽師らしくないという見方もあるようだが、符で術が使えなかったからと考えれば合点がゆく。「ダークシティ」の超能力合戦シーンもそうだが、どんな方法を取ったとしても全員がほめたたえるなんてことはありえない。この映画の場合ワイヤーアクションを使って、それをウリにしていて、でも正直言ってそれが成功しているとも思えないのだが、じゃあこの対決シーンは失敗かというとそんなことはない。ワイヤーはともかく、片方が刀を振り回し、片方は徹底して逃げるというのは、今までにない設定だと思う。しかも平安時代の服装でだ。烏帽子くらい吹っ飛んで髪が乱れた方がリアルだと思うがそれはなかった。「陰陽師2」でやってちょ。道尊の動きを見ると思いっきり刀を振り回していて、さすがS氏・・と思う。それをぎりぎりのところでよけているN氏もまたすばらしい。「殺陣の経験ないのでは・・」なんてけなしている人もいるけどとんでもない。ああいう「見切り」はちょっとやそっとではできないのよん。うつし方や編集でごまかすのではなく、動きをそのまま見せているのがよい。対決シーンは短いし、残念なことにそのうち半分は空を飛んでるしで物足りない気もするけど、なかみは濃い。ワイヤーなんて使わなくたってひらりと跳び上がるその跳躍力は目に焼きつく。あれって跳び上がった後で膝を曲げるからすごく高く見えるのよね。それと刀をよけるために後ろに反るところ。空中でも大きく反っているし、きっと体がやわらかいのね。袖を巻きつけて刀をよけるところも私にとってはツボだ。何しろ太極拳はまずよけますからねえ。

陰陽師18

戦いの間にある「静」もよい。晴明をあおる道尊と、全く動じない晴明。晴明は呼吸も乱れず、汗もかいていない。呼吸はともかく、実際のN氏も顔には全く汗をかかない。テレビであの動きの激しい「三番叟」を見たが、終わった直後の顔のアップを見て全く汗をかいてないのにはびっくりした。さてこの時の晴明は、戦ってる最中だというのに、一筋二筋と髪が乱れ、こってりとお化粧をした歌舞伎の女形・・とまではゆかないが、やたらになまめかしくつやっぽい。長いまつげにお色気たっぷりの流し目で、何だこりゃ?と最初はびっくりした。この映画にはいわゆるお色気シーンてほとんどなくて、親が子供と一緒に見てもあわてる必要のない、近来珍しい映画なんだけど、ちょっと見方を変えるととんでもなく色っぽい映画なのよね。結果的にそうなったのか、密かに狙ったのかはわからないが、このへんは監督の腕のよさだと思う。女っぽいしぐさのN氏だが、声が低いのでそのアンバランスがまた印象的。「道尊、やめよ」とおなかにビンビン響くような太い声がすごい。・・まあ「道尊様、おやめになって」とも聞こえますけど。道尊にえり首つかまれているところはナンパされてるとしか見えません。そばで博雅がオタオタしてるけど完全に二人の世界。道尊が蝶になった蜜虫を斬る時に、晴明がびっくりして首を伸ばすところがかわいい。あわや道尊の刀が晴明の上にって時に、蝶が飛び立って道尊の邪魔をするのだが、それを見ている晴明の様子が何となくのんびりしている。それがヒョッという感じで首が伸びるのよねかわいいー。でもやっぱり晴明は怒っていて、呪を唱えながら道尊に向かっていく。・・で斬られて倒れるんだけど、その倒れ方や表情がまた女性みたいになよなよしてるんだよね。道尊がとどめを刺すと晴明の体は人形に・・。これはすごくいいアイデアだと感心させられたが、誰もが疑問に思うのはいつ人形と入れ替わったの?ということ。術の使えない道尊は簡単にだまされていて、始めっから晴明が優位に立っていたのね。「今のあなたでは私には勝てぬ」って言ってたし。晴明が呪を唱えると、道尊の額に五芒星が浮き上がる。ここらへんのS氏の演技も見事だ。首を切ったのに血はちょっぴり。やっぱりそうじが・・。次の朱雀大路のシーンは、前のと歩いている人がいかにも同じ。すばらしいシーンなんだからもうちょっと工夫しましょうね。

陰陽師19

事件が解決(いちおうはね)して、酒をくみかわす晴明と博雅。この時のN氏の演技がまたすばらしい。お酒を飲む時の表情、視線のやり方、何とも言えない口元。楽しそうにくつろいで。「覚えておるぞ」と博雅に言われて、思い当たってヒョッという顔をして、さあどうやってごまかそうかとでもいうように口をとがらせるところ。次の画面で「俺は泣いてなどおらん」と言う時の顔つき、特に視線をあらぬ方向におよがせるところと口元、そして手の動きなどなど。文章にするのは難しいが本当にうまいのだ。失策がばれてごまかそうとうろたえる太郎冠者といったところか。博雅に「おまえもな」と言われた時の晴明の表情は、どう見ても「相手に媚びを売っているゲイバーのマダム」である。ずっと前にテレビで見た「ハングマン」で阿藤海(当時)氏が見せた表情とそっくり。やれやれこんなこと覚えてる私って・・。まあこの時の晴明の表情はそれほど怪しいってことなんですけどね。その後三人(?)して明るく笑ってメデタシメデタシなのだが、最後の最後にあんな怪しい(あるいは妖しい)表情を見せるなんてやっぱりただの単純なアクション時代劇じゃないのね。さて私はどんな映画でも最後まできっちりと見る。ただ長いだけで何の趣向もなくても、音楽を聞いて何かに使えないかなあ・・と思ったりする。ところがこの映画のエンドロールは、間違いなく私が今まで見た中でも最高と言える。泰山府君の祭の時の晴明の舞をスローモーションでいろいろな角度、大きさで見せてくれる。博雅の笛を吹くシーンも出てくるが、それはまあ置いといて、とにかくN氏の舞にうっとりと見ほれることとなる。本編では姿勢のよさに驚嘆したが、ここでは顔つきというか、目線に目が行った。太極拳の目線(眼法)はなかなか難しく、ついキョロキョロしたり下を向いたりしてしまう。目玉で見ないで顔で見る(顔をそちらに向ける)とか、焦点を目(顔の表面ということ)にではなく、後頭部に結ぶようにするとかまあいろいろあるのだが、それがなかなか実感できないでいた。このエンドロールでのN氏を見てああこれだ!と思った。祭のシーンをどうするかで悩んで参考になるものはといろいろあさった中に太極拳もあって、結局は即興で舞ったらしいがちゃんとその中には太極拳の要素も含まれていて、私のように「お勉強させてもらっている者」もおるわけですな。

陰陽師20

さてだいぶ間があいてしまったが、しつこく陰陽師いきます。本編ではN氏の舞いは祭のシーンということでキラキラチカチカが多く、動きそのものははっきりとはわからなかった。それをここエンドロールではちゃんと見せてくれるのだから本当にうれしい。呪を唱えているところでは、顔立ちは整っていないし、目はうつろだし、よくこのシーンを使う気になったなあと思う。横向きにゆっくりと回っていくところはNHKの大河ドラマのオープニングにそのまま使えそう。ぴょーんと跳び上がってくるりと回って着地して、着ているものが下にゆったりと垂れて(まさに長拳の動きだ)、画面が暗くなって、何を考えるかといえば「もう一度見たい!」なのである。なぜもう一度見たくなるかというと、この映画は自分が日本人であることを再認識させてくれるからである。日本人の美しさ、日本語の美しさ、日本の風土、歴史の美しさ、よさを気づかせてくれる。どんな特殊撮影も「人間の美しさ」にはかなわない。これら目に見えるもの、耳に聞こえるものの他に、感じることのできるものがある。晴明と博雅の間にあるお互いをなくてはならない存在として頼り合う気持ち。友情とか恋愛感情(この二人が恋愛関係にあるととらえて楽しむ女性の何と多いことか。ネットで腐女子という単語を目にした時には、てっきり変換ミスだと思った。わざとそう自称しているのだとわかって今度は感心した。最初に自称した女性はえらい!しかし私の見るところこの二人はノーマルである。博雅は望月の君に恋こがれているし、晴明は美しい式神達をそばに侍らせてお酒を飲んだりしている。カラス相手の道尊とはえらい違いだ)とは違うもっと運命的なものがこの二人を結びつけている。小説ともコミックとも違うのは「二つの星が一つに・・」などという大げさな設定だが、そういうのを考えなくたって相手に運命的なものを感じるという心情は理解できる。晴明の方が(表には出さないが)より強い結びつきを感じているのは間違いない。誰ともつきあわず、訪れる人もいないがらんとした屋敷で気ままに暮らしていて、孤独でいることを何とも思っていなかった彼が博雅の訪問を明らかに喜んでいる。・・と言って博雅が恋をしていても失恋してふさいでいてもそれに対して影響を受けるわけではない。軽くからかい、軽くそそのかし、軽くなぐさめてそれ以上は深入りしない。

陰陽師21

もし恋愛感情があるのなら望月の君に嫉妬したり、博雅の元気のなさを心配したりするはずだ。これが道尊が相手だと少し違ってくる。道尊の方は晴明に「自分と根底では同種の人間」という思いを抱いている。でもそれについて書く前に、映画の表面部分に現われた道尊を見てみる。彼は人間の怒りや嫉妬のエネルギーを利用して都を混乱させるが、彼自身の本当の望みはあいまいなままである。都を支配するわけでも帝の地位を狙っているわけでもない。どちらかというとそのプロセス、人を惑わせ、破滅させ、怖がらせて喜んでいるタイプである。普段は周囲に部下がいて、けっこう面倒を見て(陰陽師達は明らかに彼を尊敬している)、仕事もきちんとこなしているのだけれど、心の中では冷たい風が吹いているような人だ。孤独でいてそれを何とも思わない晴明と、人の中にいて孤独を感じている道尊。道尊の方がより強く晴明に引かれるのも当然なことだ。戦っている最中に晴明に仲間になるよう詰め寄る道尊が哀れで人間的なのに対し、晴明の方は達観しているように見える。博雅が死んだ時の取り乱し様から見ると矛盾するが、あれも人生、これも人生、人は人に強制されてどうにかなるようなことはあってはならないし、誰かを強制してどうにかしようとしてもいけないのだ・・という心境なのだろう。呪にしばられてはいけないが、呪にしばられるのは人間だからでもある。いろいろあってややこしいけれど、そんな人の世も捨てたものではないという大らかであいまいなもののとらえ方。これって日本的な考え方よね、はっきりと決着をつけないままにしておくという。この映画を見、小説やコミックを読んでから「呪にしばられる」ということについて少し考えた。どれだけ多くの人が呪にしばられていることか・・。いや待てよ、生きている人で呪にしばられていない人なんて生まれたばかりで名前のついていない赤ん坊以外いないか。いやいやもうすでに「赤ん坊」という呪がかかっているか。呪がどうのこうのというのは原作者の夢枕氏の創作であって、実在の晴明とはさして関係のないことだろう。でも「ただ一人呪にしばられていない晴明」がN氏によって見事に表現され、それを目の当たりにすることができた私は運がいい。生きていく上での指針を指し示してもらったような気がするのだ。苦手な人がいてもうまく身をかわして関わり合いにならないようにしようとかね。

陰陽師22

さて「陰陽師」は今回で最後なので、三人の思いを検証してみましょうかね。晴明は博雅に運命的なものを感じ、離れがたく思っているが、それは自分には欠けているものが彼と一緒にいることで満たされ、それで人間として幸せだからである。一方博雅の方は晴明に対して友情や尊敬の念を抱いているが、望月の君への思いはそれとはまた別の強いものである。晴明が彼に対して持っているような切実な思い(自分をこの世につなぎとめてくれる存在)は持ってはいない。だからはたから見ると博雅が晴明を頼っているようだが、実際は晴明の方が博雅を頼りにしているのである。道尊から見ると晴明は自分と同じタイプの人間であり、彼が自分をこの世につなぎとめてくれる存在である。晴明がいるから自分の存在意義が見出せる。考えていることが皆わかる博雅は彼の興味の対象外である。渡殿でも白洲でも道尊の目は晴明に向いており、博雅は眼中にない。退屈しのぎに相手をすることはあっても、あきると何のためらいもなく殺し、生き返ると「まだ生きておったのか」とうんざり顔をする。それに対し晴明には執着心を見せる。仲間になれと迫り、簡単に殺せる状況にあってもその機会を先にのばす。晴明に対する愛情と憎しみがまじり合い、刀をふるいながらも戦う楽しさに笑わずにはいられない。晴明に袖で顔を打たれてニヤリとするところは、小娘にちょっかいを出してツメで引っかかれた中年男そのままである。何事もなかったように立って逃げない晴明は、まさしくちょっかいを出されるのを心の中では待ち望んでいる小娘の姿である。危ないとわかってはいるが、自分が相手の目にどううつっているのか興味がある。まああの状況で晴明がそんなことを考えているはずはないのだが、博雅によって精神的に満たされている晴明は道尊への執着心はあったとしてもその程度。だから道尊は自分になびかぬのなら・・と最後には晴明をためらわずに斬る。他の者ではなく自分の手でという愛情からきた独占欲。道尊の晴明への思いは切実で、精神的な愛情ばかりではなさそうね。さてこの映画のおもしろいところは、出てくる人が皆片思いだということ。道尊→晴明→博雅→祐姫→帝→任子という感じ。両思いなのは道尊とカラス君だけね、きっと。さて「陰陽師2」のニュースがやっと入ってきましたな。敵役が中井貴一さんですか。S氏は出ないのね。女陰陽師の件はどうなったのかな。