イノセンス

イノセンス

劇場で本格的なアニメを見るのは久しぶりだ。日本のアニメの質の高さはいやと言うほど聞かされているけどあんまり興味がない。これでも子供の頃は「空飛ぶゆうれい船」とか「サイボーグ009」とか見に行ったんだけど・・。将来はマンガ家になるぞ・・って思っていたんだけど。いつマンガへの興味をなくしたんだろう。今回見に行ったのは映像がすばらしいという評判だから。ストーリーはあんまり期待していない。私の目から見てバトーを始め、登場人物には魅力(内面的なものではなく外観・・予告編では内面まではわからない)が感じられなかったし、やたらに引用されるありがたいお言葉にはうんざりさせられそうだ。・・で、実際に見てみると・・映像は確かにすばらしかった。実写映画を見ていて、CG部分になるととたんにうそっぽくなって(よくできてはいるんだけどさ)がっかりさせられるのに、アニメでまるで本物のように見えるシーンがあると、「うわっ、すごい」と感心してしまうのは皮肉なことだと思う。タイトルシーンでの目くるめくようなイメージの洪水には本当にびっくりさせられた。これを見ただけでモトは取れたぞ・・という感じ。姫神みたいな曲が流れてきた時には正直言って違和感を覚えた。何でこんなの流す?でもだんだん耳になじんで来て、それ以外には考えられなくなった。あれは土に根ざした曲・声だ。洗練された文化ではない。力強く生きるもの、ひたむきに生きようとするもの、生きるために戦う・・そんなイメージの曲だ。何と言ってるか歌詞は聞き取れないのだが。映像の方は卵に精子が飛び込み、あっと言う間に卵割が始まったように見える。生命の芽生えだが、線がのびて複雑な構造になり始めると、もうそれは生物には見えず、機械である。次に出てくる細長いものは、私には遺伝子に思えた。でも実際には(ロボットの)背骨のようだ。ロボットの目が生命を持つところは・・背筋がゾクッとした。何かとんでもなくよくできたイメージビデオを見せられたようで、すごくショックだった。ここまでアニメは進んでいるのかと呆然とした。次にこの曲が流れるのはお祭りのシーンで、これがまたすごいのなんのって・・。ごてごて、ぴかぴか、悪趣味でけばけばしくて、胸が悪くなるほどなのに、心の奥・体の芯に訴えかけるものがある。「生きている」という感じがする。「悟ってない」という感じがする。

イノセンス2

「好きなことをしろ」とそそのかされているような気がする。三回目はバトーが人形達と戦うところかな。映像はどんなにすばらしくても人の動きはなめらかでなく、それが日本のアニメの特徴なんだろうけど、そういう限界を感じさせつつも、このシーンでの人形達のぎくしゃくした動きはよかった。ディズニー映画みたいななめらかな動きの日本のアニメってあるのかな?さてストーリーはロボットが所有者を殺したのはなぜか・・という謎解きものにしてある。そういう内容にでもしないとお客は(マニアならともかく)ついてこない。画面や登場人物は暗くてどよーんとしてるしね。映画が終わった時「内容が全然わからない」という声が聞こえた。確かにこの映画はすばらしい映像で見る者の心に訴えかけてくるけど、何を言いたいのかは今いちはっきりしない。映像に圧倒されてぺちゃんこになるようなショックを受けたけど、迫力イコールテーマではない。作り手の言いたいことは映像だけでなくストーリーやセリフの中にもあるはずだが、それがうまく伝わってこない。その理由として、何を言ってるのかわからないというのがまずある。私が邦画をあまり見ない理由の一つがこれだ。「陰陽師」のようにはっきり聞こえる映画はまれで、たいていはセリフが聞き取れなくていらいらさせられる。ちゃんと聞こえるような努力・工夫を作り手がしていないように思える。次にこの映画では言ってることの半分はなくてもすむもの、つまり無駄口である。あれほど映像にこだわるのなら、なぜもっと言葉にもこだわらないのか。それともこだわった結果があれ?言葉の洪水は映像の洪水ほどにはうまく機能していない。映像に凝るのなら逆に言葉はシンプルにすべきだったのでは?両方洪水じゃバランスが取れない。とめどなく垂れ流されるありがたい無駄口なんか誰が聞きたいと思う?お客がまず聞きたいのは謎解きをしてくれるはっきりとした説明だと思う。なぜロボットが狂ったのか、あの少女は誰?キムって誰?狂ったロボットに殺された所有者と、ボートハウスで殺されていたロクス・ソルス社の社員とはどう区別される?結局ロクス・ソルス社はどうなる?こういったことが一度見ただけでちゃんとわかる?ニヒルな長ゼリフの間にはさまれるトグサの「何の話です?」という言葉は、私自身の気持ちを代弁するものだったが、そのうちにトグサまでが何やら引用し始める。

イノセンス3

「おまえもそんな言葉が検索に引っかかるようになったか」とか何とかバトーが言った時には「あれ?」と思った。バトーと違ってトグサは生身の人間なんでしょ?でもここでは生身の人間の脳もネットにつながっているらしい。西洋の文学だと聖書とかシェークスピアの引用が多いし、日本の古典だと和歌とか漢詩が引用される。書き手はそれなりに聖書や和歌に通じているわけだ。でも検索となると・・原典を読んだことがなくても、その場にふさわしい警句をコンピューターが選んでくれるってこと?人はそれを口に出すだけでいい。本を読む手間も記憶する必要もない。便利だし仕事の能率も上がるかも。でも私はそんなのいやだな。日記を書くのに私もいろいろ引用するけど、書かせてもらう以上はその本をちゃんと読むよ。今全部は無理だとしても、一冊ずつ読んでいくよ。バトーの言葉は自分の経験に裏打ちされたもの?つまりちゃんと原典を読んだ上での引用?それとも検索?知識があって人生経験豊富で、しかも虚無を感じているのなら、あんなにべらべらしゃべらないと思うな。犬の描写も過剰な感じがしたな。気持ちはわかるけどさ。バトーがホログラフを見ている時に軽い衝撃を感じて目をやると、エサを食べて満腹した犬がバトーの膝だかに頭を乗っけて寝ちゃってるってのはうまい描写だと思う。犬やネコを飼っている人ならきっと思い当たるはず。例えばテレビを見ていると、腿に二ヶ所圧迫を感じるわけ。目をやるとネコが前足二本を乗っけてこちらを見上げているわけよ。映画を見ながらその足二本分の重みを思い出してしまった。あるいはそのまま膝に乗ってきて丸くなった時の重みや感触もね。うれしい反面身動きできないし、足もしびれる。バトーもあの後ずっと椅子に座りっぱなしだったと思うな。後ろ足で蹴られた時の感触、エサを食べながらお皿をずるずる動かすところ、しっぽを振る時のぱたんぱたんという音。そういうのはいいんだけど地球儀みたいなのとか看板はやりすぎ。エンドロールの「フォロー・ミー」は腰くだけだったな。いくら本編が重厚・骨太でも、やっぱり最後には「おかあさーん」みたいな女々しさが出てくるのね。無骨な外見とは裏腹に癒しを求めているバトーの弱さもわかるけど、甘くせつない曲でその弱さをさらすより、全部ぐっとこらえてヘビメタガンガンで最後まで男っぽく行ってもよかったのでは?ともあれいい「映像」でした。