アイデンティティー

アイデンティティー

総理官邸の移動のニュースをテレビで見た時には本当にびっくりした。「サンダーバード」ファンなら誰でも一瞬頭に思い浮かべただろうな。官邸が崩れ落ちるのを。それとも私だけ?お話の中でしかお目にかかれない・・と思い込んでいたものを、実際にこの目で見ると驚きとともにとまどいを感じてしまう。最近の映画は技術の進歩もあって、ありえないこともいろいろ見せてくれる。あんまり見せるものだからもういいよ・・と食傷ぎみだし、たいていのことでは驚かないよ・・という気にもなる。それだけに現実に起こっていることの方にかえってびっくりしたりしてね。さてサスペンス映画にどんでん返しはつきものだけれど、引っくり返せばいいというものではない。「閉ざされた森」ではやらなくてもいいことまで引っくり返していて、話全体が成り立たなくなっている。この映画は観客、つまり我々をだまそうとしている。「シモーヌ」では、我々は真実を知っているが、シモーヌの映画を見る観客をだましている。「永遠のマリア・カラス」ではカラスの20年前の絶頂期の声を使って「カルメン」を作る。作っている方も、将来これを見る観客もこれは今現在の声でないことを知っている。知っていてだまし、知っていてだまされる。結局カラスはこれは偽りだからと言って「カルメン」を破棄させるのだが・・。最近私が見た映画は三作とも多かれ少なかれ「だまし」が一つのテーマとなっている。別にただの偶然なんだろうけど、最近の映画は発想が似たり寄ったりな気もする。表現方法はバラエティーに富んでいるけど、何を言いたいのか不明瞭だったり言いたいことがありきたりだったり。「閉ざされた森」で作り手が一番言いたかったことは何?そもそも言いたいことなんてあったのだろうか。そんなことを言っていて今回また「アイデンティティー」なんて見に行っちゃった。どんでん返し、衝撃の結末・・私もこりないなあ・・。上映の前に「結末をまだ見ていない人に決してもらさないでください」とかなんとか注意書きが出る。そんなにすごいのかと言うと・・「?」である。人によっては「笑撃の結末」かも・・。私だったらラストに細工をして、注意書きは「場内が明るくなるまで決して席を立たないでください」とするだろう。このことは後で書くけど。

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「閉ざされた森」を見た後では、お客(私)も経験を積んだから「だませるもんならだましてごらん、こちとらたいていのことじゃ驚かないぞ」ってなもんである。途中である程度のことはわかってくる。・・と言うか向こうから種明かししてくれる。もっと言うと題名からして・・何とかしろよ!「閉ざされたモーテル」の方がまだマシじゃ。「人格」だの「乖離」だのという医師の言葉が出てきた時点で、この惨劇が空想の産物なのだということがわかってしまう。・・で、先が見えてしまった時点でそれまでの積み重ねが急に色あせて見えてくる。その後でまた惨劇の続きに話が戻ったとして、いったん離れたお客の心をどうやってつかむのか。殺し合いをしようが、女性が恐怖にわめこうが、お客はもうそれが現実に起こっていることではないことを知っている。しかも物語のカギとなるマルコムを演じているのはつい最近「シモーヌ」でお目にかかったばかりのプルイット・テイラー・ヴィンス。マックスに笑った後ではいくら連続殺人犯だぞ、多重人格だぞ・・なんて言われたってちっとも怖くない。そう言うわけで、前半のきびきびとした怖さ満点の話が一気にスピードダウンしてしまう。何とかお客の心をつなぎとめようという綱渡り的展開。よっぽどラストのどんでん返しに自信があったのだろうな。多重人格ものは、少し前にテレビで「真実の行方」を見たばかりだ。(しかも原作も続編も読んでしまったぞ!)医師の言ういくつかの人格の中の一人が殺人をやったので、他の人格には罪はない、病人として治療すべき・・も「真実の行方」と同じ。明日死刑執行というのが引っくり返ったマルコムは病院送り。でも彼がそのままで終わるなんて見ているお客の誰も思わない。・・で案の定引っくり返るんだけれど、ここは大方の予想とは(もちろん私の予想とも)違って、犯人は意外にも・・となる。でもあの人物が犯人だったとして、それもやっぱりマルコムの人格の一つなのだから、マルコム自身は罰せられない。多重人格を扱った映画ではジョアン・ウッドワードがアカデミー主演女優賞をとった「イヴの三つの顔」が知られている。日本でも昔三田佳子さん主演でテレビドラマ化された。この話のモデルになったクリスという女性は、実際には22の人格があった。彼女の場合現われるのは皆女性だが、人によっては異性の人格だったり子供だったり年寄りだったりさまざまらしい。

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これはマルコムの場合もそうである。彼はモーテルの主人と10人の客、それと彼の元々の人格もあるだろうから、全部で12の人格を持っていることになる。クリスの場合は22の人格が同時に存在したわけではなく、人格が新しく現われたり消えたりした。マルコムだってこれから増えるかもしれないし、消えるかもしれない。減らしていって一つにするのが治療でもある。「私はイヴ」という本を読めばわかるが、本人にとっても家族にとっても苦しくやっかいな病気である。「真実の行方」にしろ、この映画にしろ、一見落着したように見えて最後に残るのは悪の人格の方だ。その方が映画としてインパクトがあるからだが、病気に対する偏見を助長する恐れもある。この映画にPG-12という制限がついているのは、残酷な表現があるからというより、年少の者に誤った考えを持たせないようにという配慮から来ているように私には思える。さて事件が解決したのかどうかはっきりしないうちに映画が終わって、観客はモヤモヤ気分のままほうり出される・・というのはよくある。「閉ざされた森」をどうしても引き合いに出してしまうが、あちらは何が何だか誰が誰だかさっぱりわからないものを三種類見させられる。・・でそれが全部ウソ。清濁あわせ持つジョン・トラボルタの魅力と、宝塚の男役みたいにきりりと潔いコニー・ニールセンがいなかったら「金返せ映画」である。それにくらべればこちらは顔もわかるし、余計なシーンもない。終わって時計を見ると1時間半しかたっていない。エンドロールも短めだし、複雑な展開のわりにはすっきりとしていて、物足りなさも残らない。顔ぶれは地味だけどなかなか豪華だ。モーテルに10人の客が集まる。車にはねられ重傷を負ったアリス。夫のジョージとアリスの連れ子のティミー。彼は家を出た実の父親に暴力をふるわれ、それが原因でしゃべることができない。アリスをはねたのは女優キャロラインのおかかえ運転手エド。彼は警官だったが、ある事件が元で精神障害が出て辞職した。演じているのはジョン・キューザック。大人になりきれない30男・・という役どころが多いが、そういうのは見る気になれない。いつも同じだしわざとらしいし・・(予告だけ見てこういうことを言うのはまずいけど)。「コン・エアー」の正義感の強い連邦保安官もよかったが、今回のような人生に疲れたような男性の役が意外とはまっている。

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エドの雇い主のキャロライン役はレベッカ・デモーネイ。「マドンナ★コップ」はわりとまともな作品で、彼女の美しさが際立っていたが、この映画を見ると「年を取ったな・・」と思ってしまう。大雨のため救急車を呼ぼうにも電話は不通、道路は冠水、キャロラインのケータイは電池切れ。(こういう映画で充電100%のケータイなんて出てきたためしがない)他に娼婦のパリス(「隣のヒットマン」のアマンダ・ピート)、結婚したばかりのルーとジニー(「パラサイト」や「ノイズ」のクレア・デュヴァル)のカップル。最後に現われたのは囚人を護送中のロード。演じるレイ・リオッタはいかにも悪人風で、見ているお客の誰もがこのままではすまないぞ・・と思う。例え警官だとしてもね。実際後でニセモノだとわかるけど、途中でヒントとなるシーンが出てくる。彼が着ているシャツの背中の部分に穴があいて血がついているのだ。彼が「シックス・センス」に出てくるような幽霊じゃないとしたら、誰かを殺してその服を着ているとしか思えない。ここはチラリと見せるだけなのにけっこう怖い。リオッタはジョージ・マハリスに似ているなあ・・。エドはロードに救急車を呼ぶのに警察無線を使わせてくれるよう頼むが、通じなくなっている・・と断られる。これはもちろんウソ。さてモーテルでの出来事と並行してマルコムの審理も行なわれている。マルコムの到着が遅れているというので、見ている方はロードの連れている囚人がマルコムなのかな・・と勘違いする。映画の冒頭でマルコムの写真が出てくるから、モーテルに現われた囚人とは別人なのだけれど、冒頭のシーンなんかもう忘れているからね。マルコムが病人だと説明する医師はアルフレッド・モリーナ。エンドロールで名前を見るまで、彼が「ダドリーの大冒険」でスナイドリーを演じた人だとは全く気がつかなかった。・・さて一見関係のなさそうな二つの出来事が途中で唐突に結びつき、マルコムとエドが同一人物であることがわかる。もちろんエドだけでなく、他の人もマルコムなのだが。鏡で自分の顔を見せられて「オレの顔じゃない」とわめくシーンは、怖いシーンのはずなのに笑ってしまう。そりゃ誰だって自分をジョン・キューザックみたいないい男だと思い込みたいでしょうよ!事件は最初はここにいるうちの誰かが殺して回っているように見えるが、だんだんオカルト風な雰囲気になってくる。

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ジニーはこのあたりに先住民の墓があるという話をする。モーテルにはそのことを書いたチラシが置いてあった。このモーテルから脱走した囚人のメーンは、どういうわけかまたこのモーテルに戻ってきてしまった。そうなると犯人は人間と言うより霊のようなものに思えてくる。再びロード達につかまったメーンも殺され、ロードはメーンを見張っていたラリーを犯人だと決めつける。騒動の最中に冷凍庫の扉が開き、出てきたのは男の死体。ここまで来るとコメディーだ。題は「死体がいっぱい」。ここでラリーの正体が明らかになる。モーテルの主人だと思われていた彼は実は通りすがりの者。彼がここに着いた時にはどういうわけか主人は死んでいた。腐るといけないので死体は冷凍庫に入れた。お客(ジョージ達)が来たのでとっさに主人のフリをした。ラスベガスで大負けした彼はお金が欲しかった。ロードはウソだと決めつけたがエドやパリスは信じた。キャロライン、ルー、メーンは誰かに殺され、ジョージはラリーの車にひかれて死に、いったん意識を取り戻したアリスもいつの間にか死んでいた。実はこのアリスの死がヒントだ。ティミーが隣りの部屋へ行くのを、私はオシッコに行くのだと思っていた。前にジョージがティミーをオシッコに連れて行くシーンがあったからだ。でも二回目を見ている時に彼が行ったのは母親のアリスのそばだということに気がついた。さてエドはジニーとティミーに車でここから逃げ出すよう言うが、車は爆発し、消火器で消し止めたら中はからっぽ。キャロライン、ルー、メーン、ジョージ、アリスの死体も消えている。血のあとも・・。彼らの誕生日は全員同じ5月10日だった。これは偶然だろうか。さらにエドは全員の名前がダコタとかメーンとかネバダとかアメリカの州の名前であることに気づく。もうこうなると怖さも謎もなくなってしまう。ルー・イジアナなんていう名前の人はいるはずがない。この時点で話そのものが成り立たなくなってしまう。成り立たなくなるのはもちろんこれがマルコムの頭の中での出来事だからだ。・・でお客は一気に興ざめするのだが、ここまでは非常によくできているし、おもしろいと思う。・・でこの後も殺し合いは続き、「そしてパリス以外は誰もいなくなった」となる。・・で私の考えたラスト。車の中で果樹園のことを想像しているマルコムのシーンでいったん終わりにするのよ。

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たくさんあった人格が消滅してパリスの人格だけが残ったとお客は思っている。パリスはモーテルでの殺人の犯人ではないし、マルコムが現実の世界で起こした6人の殺人とも無関係である。それらを起こした犯人は消えていった人格の中の誰かである。だからパリスが夢に描いていた果樹園のシーンで映画が終わったとしてもおかしくはない。私みたいにアリスのシーンのことを、多くの人は気がつかないでいるだろうから。エンドロールになってたいていのお客は立ち上がるだろう。最初の注意書き(「結末を・・」ではなくて「明るくなるまで・・」の方ね)を覚えている人と、例え忘れていても疑り深い人と、私みたいに最後まで見る主義の人はちゃんと残っている。・・でエンドロールが終わった後でパリスが木の下を掘るシーンがまたスクリーンに現われるわけよ。そしてモーテルのルームキーが現われ、思いがけない真犯人の登場!医師達を乗せた車が急停車し、画面はそのまま暗くなり・・ね?この方がずっとインパクトあるでしょ?気早なお客は肝腎のシーンを見逃し、ちゃんと最後まで見るマナーのいいお客は得をすると言うわけよ。見逃したシーンを見るためにもう一度来るお客もいて、ウワサがウワサを呼んで映画はヒット・・となるかもよ。どうせどんでん返しにするならこれくらいすればいいのに、この映画はサラッとしすぎですな。エドがナイフを見つけるシーンもそう言えばあったわね。ただ凶器がこのナイフだったとしても犯人は返り血も浴びていないし、キャロラインの時は雨の降る中での犯行だったけどぬれてもいなかった。頭の中で起こったことならそういうこともクリアーできちゃうけど。私が行ったのは公開してすぐのレディス・デーだったので、一回目も二回目も驚くほどお客がいた。私が普段行くところは六人とか八人とかだから・・。帰る時三回目の開場を待っている人達に「この映画はおもしろいよ!」と言ってあげたい気分だった。ところで今気がついたけど真犯人は○○だったとして、死体が見つからなかったのは○○だけじゃないよね。△△も見つからなかったよね。・・てことは△△の人格も残っているのかしら?ああもう何て楽しいのかしら、映画はこうでなくちゃ。「閉ざされた森」とはくらべものにならないわ(まだ言ってる)。それにしてもあれくらいのたくさんのお客に「フレイルティー」を見て欲しかったな(これホンネ)。