玉川上水のタヌキを調べる

講師:高槻 成紀


ー講座概要ー




ー講座内容ー

<自動撮影カメラによる玉川上水の哺乳類の生息状況>


玉川上水を上空から撮影した写真をながめると、細長い緑の筋がずっと続いているのがわかります。私はこれを「一条の緑」と呼びたいと思います。


自動撮影カメラによって玉川上水の哺乳類の生息状況を調べようと思ったとき、私はつぎの2点を課題として設定しました。


ひとつは、東京の自然は「西高東低」、つまり西側の高尾山から山梨に続く丘陵地、山地には豊かな動植物がいますが、東になるにつれて多摩丘陵や狭山丘陵のような丘陵地に限定的になり、平野は市街地になって、都心では自然は「風前の灯火」のような状況にあります。だから、玉川上水沿いにすむ哺乳類も西で豊富で、東にいくほど貧弱になるだろうと考えたわけです。これをカメラで確認したいと思いました。


もうひとつは、なんといっても玉川上水は「つながっていること」に価値がありそうなので、そのことを示すために、「つながっていない」緑地(孤立緑地)と比較してみようと思ったのです。哺乳類は鳥と違って飛ぶわけにいきません。それにある程度体が大きいので、暮らしてゆくにはある程度の広さが必要です。タヌキのすめる緑地が市街地化されて分断されると、タヌキは暮らしにくくなり、ついにはいなくなります。現に都心ではそういうことが起きました。そこで、玉川上水の周りにある孤立緑地でも同じ調査をして、玉川上水の結果と比較することにしました。


調査は多田美咲さんの卒業研究として2008年の6月から2010年の1月までで、羽村の取水場の近くから都心の浅間橋までの32kmのあいだに24カ所、その範囲で孤立緑地を8カ所選んでおこないました。カメラを木の幹にとりつけ、カメラの前にドッグフードとピーナツを置き、1週間後にデータを回収しました。


その結果、タヌキが一番よく撮影され、152枚写りました。驚いたことに、羽村でテンが5枚、キツネが1枚撮影されました。テンやキツネは東のほうではまったく撮影されませんでしたから、「西高東低」の一端が垣間見える結果でした。これで1番目の課題にはある程度答を得たといえます。


ところが、タヌキの撮影記録からは「西高東低」の傾向はよみとれず、むしろ東のほうで多いこともあり、東西という意味では傾向を見出すことはできませんでした。それで、なぜそういうことが起きたか理解しようと現場を訪問してみたところ、あることに気づきました。小平には監視所といって、水質を監視する施設があります。ここで水道に使う水をとるので、ここより上流は水質をよい状態に保たなければなりません。そのために上水両岸は植物が繁茂しないように刈り取りをしています。ところがこれよりも下流では水量が少なくなり、両岸にはアオキ、ヒサカキ、ソロダモなどの低木や草が生えてヤブになっています。もちろん上流にもときどきヤブがあるし、下流でもヤブでないところもあります。

それで、ヤブがあるあところと、ないところで撮影率を比較してみたら、「ヤブあり」で撮影率が高いことがわかりました。


このことはたいへん重要な意味をもっています。玉川上水は緑地面積では微々たるものです。それでも長く連なっていることで、タヌキが暮らすことができています。ところが、孤立緑地ではタヌキが暮らせないことが多いのです。私たちの調査で、「一条の緑」は市街地に囲まれた緑地の中でも特別な存在だということがわかりました。



「地球永住計画」が始ったので、私は改めて玉川上水のタヌキを調べることにしました。それにあたって狙いをつけたのは、「ポケット」です。玉川上水は細長い緑地ですが、ところどころにその細い緑に「ふくらみ」のような緑地があります。そのようなところには、暗いところに生える草などがみつかることが多く、もちろんタヌキの生活の場の可能性も多いものと予想されます。私はこれを「ポケット」と呼ぼうと思います。ちょっとしたふくらみがあって、そこに生き物が入っているというイメージです。私は前々からそうした「ポケット」のひとつとして津田塾大学に目をつけていました。津田塾大学は玉川上水に接しており、キャンパス内にはうっそうとした森があります。だから、私はきっとタヌキがいると考えました。許可をもらって調べることにしました。ところが期待していた「タメフン」が見つかりません。タヌキは同じ場所に糞をするので、これを「タメフン」といいます。いわばタヌキのトイレです。小一時間歩いても見つからないので、あきらめかけていたとき、関野先生が笹薮の中で見つけてくれました。私が確認にいくと、間違いなくタヌキのタメフンでした。そこでここに自動撮影カメラを設置しました。同時に、別の場所にもカメラを設置して、その前にベーコンとリンゴを置いておきました。そうしたら、早くもその日の夜にタヌキが写っていました。タメフンのあったところではタヌキがフンをするようすも写りました。というわけで、私が「きっといる」とふんだ津田塾大学にタヌキが暮らしている証拠が得られました。


私はさらに、タメフンを拾ってきて、顕微鏡を使って内容物を分析しました。すると3月のフンからは鳥の羽や足、ギンナン、植物の葉などが検出されました。植物の葉の一部はヤブランであることがわかりました。またゴム手袋の破片も見つかりました。


<タヌキによる種子散布>

以下には玉川上水のタヌキを離れて、私がこれまで調べたタヌキのことを紹介します。東京の日の出町に廃棄物処分場があります。ここは立ち入り禁止になっていて、タヌキなどがのんびりと暮らしています。私は坂本有加さんと卒業研究でタヌキによる種子散布を調べました。120個のフンを分析したところ、32,472個の種子が検出されました。坂本さんは移動の実態を知るために、ソーセージの中に7412枚のプラスチックマーカーを入れて野外に置きました。それを食べたタヌキはタメフン場で糞をしますから、タヌキがどこからどこまで移動したかがわかります。こうして調べたところ、森林においたものは森林にも草原にも移動しましたが、草原においたものはほとんど森林には持ち込まれませんでした。つまりかなり一方向の移動をしていることがわかったのです。


また、長野県にあるアファンの森で、タヌキのタメフン場とそれ以外の場所での実生(みしょう、種子から芽生えた幼植物)の数を調べたところ、タメフン場のほうが動物が散布する植物の実生が多いことがわかりました。これはタヌキが種子散布という役割を担っていることを示唆します。


私たちは動物ですから、植物を食物として見る、つまり自分たちが植物を利用していると思いがちです。しかしそれは勝手な思い込みで、実は果実がおいしいのは、植物が自分たちの子孫である種子を運んでもらうために、果肉を提供して、食べさせているのです。つまり動物は利用しているつもりですが、実は利用しているのは植物のほうなのです。

タヌキからみれば「利用する」果実だが、植物からすれば「利用するタヌキ」に見える。



<玉川上水とタヌキ>

江戸時代の玉川上水の土地利用を詳細に調べた資料があります。これによるとこのあたりは畑と森林の面積がほぼ半々だったそうです。ところが今では林はごく小面積しかありません。ということはタヌキはしだいに住処を失ってきたはずです。タヌキだけでなく、さまざまな動物が住処を失い、細く残された玉川上水に住み場所を求めるようになってきたものと想像されます。

このことを考えると、これから先、玉川上水の緑が失われれば、タヌキがいなくなることはありえることと考えなければなりません。現に玉川上水に道路をつける計画が進んでおり、玉川上水の緑が分断されつつあります。


<日本人とタヌキ>

最後に、タヌキという動物と日本人の関係について話したいと思います。タヌキは私たちになじみの深い動物で、昔話にもよく登場します。「かちかち山」はよく知られた昔話のひとつですが、実はおそろしい話です。これは室町時代くらいの古い話と考えられています。あるとき、タヌキが畑を荒らすので、起こったおじいさんが捕まえて、おばあさんに「こいつを狸汁にしろ」と命じます。ところがタヌキはうまいこと言っておばあさんをだまし、逆におばあさんを殺して汁にします。これを食べさせられたおじいさんはこのことを知って仇をうつことにします。それでウサギに相談し、ウサギは仇をうつことにします。お金をもうけようとタヌキにマキをとりにいこうと誘い、マキを背負ったタヌキの火打ち石で火をつけようとします。おかしな音に気づいたタヌキが「なんの音だ?」と聞くと、ウサギは「ここはかちかち山で、かちかち鳥がないてるんだ」とごまかし、そのあと本当にマキに火をつけてタヌキに火傷をおわします。その上、痛みに苦しむタヌキに「火傷にはこの薬がよい」といって唐辛子をすりこんで、さらに痛みを与えて苦しませます。そして、別の日にまた金儲けをしに漁に出かけようと誘い、自分は気の舟にのり、タヌキを泥の舟にのせて、溺れさせ殺してしまうという話です。実におそろしい、むごい話です。このことから室町時代にはタヌキは人々に憎まれていたことがわかります。


もうひとつよく知られた話に「分福茶釜」があります。これは江戸時代の群馬県の話で、貧しい若者がタヌキを捕まえたのですが、かわいそうになって逃がしてやります。タヌキは命の恩人になんとか恩返しをしたいと、「茶釜になりますから売ってください」と申し出ます。ある寺にお茶にこった和尚さんがおり、高く買ってくれました。ところが和尚さんがお湯をわかそうとすると、タヌキは熱さに耐えかねてタヌキにもどってしまいます。ところが体の一部は残ったままのおかしな姿になりました。そこでタヌキは私を見世物に使ってくださいといい、これが受けて若者は大金持ちになり、恩返しができましたという話です。つまり、江戸時代にはタヌキは化かす動物になったが、化け方が不十分で、たとえば娘に化けても尻尾を残すなど、どこかドジな愛すべき動物というイメージを持たれるようになります。


そして現在、タヌキは「ポンタ」、「ポン吉」と呼ばれ、無邪気でお人好しの少年というイメージをもたれるようになっています。


私がおもしろいと思うのは、タヌキ自身は変わっていないのに、イメージは時代とおもに変遷してきたということです。これは日本人自身が変化したということです。農民は作物を荒らす動物を憎みます。しかし太めで愛嬌のある姿から、どこかドジな動物というイメージが加わり、平和で豊かな時代になると、まったくの罪のないかわいいキャラクターになったといえます。


タヌキが化けるときに「ドロン」と巻物に呪文をとなえるとされますが、私は首相官邸にドローンが飛ばされながら、1週間ほど見つからなかったと報じられたとき、なんだかあれはタヌキが「ドローン」と化けて、犯人は日本中で大注目の話題になると思ったのに、だれも気にもしなかったということが、タヌキの尻尾みたいで、おかしさを感じました。


というわけで、タヌキは日本人そのものを投影する鏡のような存在なのかもしれません。そうであれば、玉川上水にタヌキがすんでいるということの意味はますます大きいように思われます。同時に、だからこそ、玉川上水にタヌキがいなくなるというようなことはしないようにしないといけないとも思います。


玉川上水の「ポケット」である津田塾大学にタヌキがいることが確認されました。津田塾大学の中庭はなかなかすてきで、学生さんがくつろぐ場になっていますが、私は彼女たちの心のなかに「このキャンパスにタヌキがいる」と思うことは大きな意味があるように思います。日本中が都市のようになった現代、私たちは自分たちの生活空間は人間だけがいればよいものだと思い込み、ほかの動物に思いを馳せることがなくなっています。しかしそれは傲慢なことであると同時に、寂しいことでもあり、また本来の人間の生きる感覚とは大きく違うものであると思います。私は玉川上水でタヌキを調べることに、日本人と野生動物のかかわりという大きな意義を見出そうと思います。


(絵と文・高槻成紀)



ー講師紹介ー



この講座は2016年4月18日(月)に武蔵野美術大学12号館201号教室で開催されました。