糸あやつり人形概説~物質と肉体、その下層性について~

講師:結城一糸


ー講座概要ー

地球永住計画では、達人たちの話を聞くことも一つのプロジェクトとして進めようとしています。過去から現在へ生きた技が伝承されてきた背景を探ります。



ー講座内容ー

江戸糸あやつり人形「結城座」は寛永12年(1635年)に初代結城孫三郎が旗揚げし、庶民の芸能として親しまれてきました。明治期になると、九代目結城孫三郎は古典の継承のほか、独特の新作舞台の創造などに意欲的に取組み、現在まで続いてきています。結城一糸は、5歳の初舞台から50年間結城座に在籍し、中心的人形遣いとして一座を率いてきました。そして海外の演劇祭にも数多く出演し、様々のコラボレーションを行ってきました。

三代目結城一糸は、2005年結城座から独立し、「糸あやつり人形一糸座」を旗揚げ。古典の継承をすると共に、前衛的な演出家達と様々な意欲的な新作舞台を創作し、海外とのコラボレーションも行っています。その結城一糸が率いる「一糸座」が小平市にあります。

【人形の歴史】

傀儡(くぐつ)という木の人形を操る芸能集団が平安時代にすでに存在していました。彼らはイラン、パキスタン、アフガニスタンあたりからシルクロード、朝鮮半島経由で日本に渡来した人々とも、ジプシーと関係があるとも言われます。

芸能集団は、はじめは河原に自由に仮設舞台を作って興行していましたが、江戸時代には歌舞伎も含めて五座にのみ常設小屋での上演の許可が与えられます。結城座はそのひとつとして、説教節の語りに糸あやつり人形を組み合わせた興行を行い人気を博しました。説教節はもともと仏法の教えを民衆にわかりやすく伝えるための語りで、三味線を伴奏とする浄瑠璃、人形浄瑠璃芝居等の芸能に発展していきます。

【九代目・十代目結城孫三郎について】

結城一糸さんの祖父は写し絵師のニ代目両川亭船遊でした。「写し絵」とはガラス板に描いた絵を箱形の幻燈機でスクリーンに投射する映像芸術で、夏の水辺の風物詩。親戚が八代目結城孫三郎だったことから人形にも興味をもち、修行して九代目結城孫三郎を襲名します。明治時代に入ると糸あやつり人形は衰退しますが、歌舞伎風のセリフをとり入れた改良人形芝居を始め、人気を博しました。そのため激動の時代を生き残ることができました。さらに長男の十代目結城孫三郎(結城雪斎)は糸あやつりの普及に努め、海外公演も行って高い評価を得、いくつもの賞を受賞しました。

【三代目結城一糸 生い立ちについて】

十代目孫三郎の三男として生まれました。子どものころは父の厳しい稽古がいやで、いつやめようかとばかり考えていたそうです。しかし、20代の初めにフランス・ナンシー国際演劇フェスティバル(1971)に参加したことが転機となります。

そこに集まった演劇人たちの熱を肌で感じ、自分ももっと真剣にやらなくてはと思い、アルトーやブレヒトに惹かれ、小劇場の人たちと共に活動するようになりました。

【人形の解説】

実際に人形の操り方を見せていただきました。

糸あやつり人形は、通常18本ほどの糸を使いますが、仕掛けが増えると糸も増え、多い時は30本ほどになるそうです。あごを突き出す糸があるのが日本の人形の特徴。男の人形には足がありますが、女形には足がなく、着物の裾の動きで表現します。農耕由来の動きが多いことも特徴です。

【イタリア・パレルモ人形演劇祭での公演映像】

最後に海外公演の映像を見せていただきました。人形は空中を飛び回れるなど自由自在に動けることが面白く、また人間とは微妙に違う人形らしい動きにも魅力を感じました。

人形遣いは人形に感情移入するのではなく、操る意識をもたなくては操ることができません。しかし、同時に人形は友であり、人形と人形遣いが交わることで互いに沁み込んでいくような感覚があるそうです。人形遣いが一方的に人形を動かすのではなく、人形をよく見ていると自然に動くタイミングが感じられるように、人形と人形遣いは互いに影響し合っているのです。

「河原を起源とする芸能は、むき出しの生を表現するもの」という一糸さんの言葉が印象的でした。

糸あやつり人形 一糸座 http://www.isshiza.com/


(構成:足達千恵子)



ー講師紹介ー

結城一糸


この講座は2016年11月14日に武蔵野美術大学 12号館303教室で開催されました。