新しいこの国のかたち―下り坂をそろそろと下る―

講師:平田オリザ


ー講座概要ー




ー講座内容ー

【アートと冒険】

私は劇作家をやる前には冒険家をやっておりまして、関野さんはあこがれの方です。兵庫県豊岡市の植村直巳冒険館のリニューアル計画委員会で関野さんにお目にかかりました。

アートと冒険は似たところがあって、新しいことをやろうとするととてつもなく準備期間がかかるんです。初めてやることは人々の無理解にさらされ、やってみないと価値がわからない。冒険にもセンスのいい冒険と悪い冒険があります。やったことの伝え方も大事です。芸大の学生には「新しさと目新しさは違う」と言います。新しいものはやがて主流になっていくものです。

【表現したいことは山ほどある】

私のやっている現代演劇もわかりにくいと言われますが、なぜ現代芸術がわからないのか。私たちは近代を前提に生きているからだと思います。近代芸術は表現者がいて、テーマがあって、これを世界や人間に投影して、鑑賞者が受け取る。テーマをうまく伝えるのがいい表現者であって、うまく受け取るのがいい受け取り手という考え方です。一番わかりやすい例は日本の国語の授業ですね。

演劇はかつては大事なメディアで、ニュース番組やファッションショーやプロパガンダの役割を果たしていました。今はメディアが多様化してそういう役割はなくなってしまった。では、なぜ表現するかと聞かれると、「伝えたいことは何もないけど表現したいことは山ほどある」と答えます。

「世界は実はいびつなものなんだよ」ということを芸術家は常に扱っています。たとえば、悲惨な事件が起きると「これでも人間か」とジャーナリストは書く。芸術家は「これでも人間だ」「これこそ人間だ」と書く。鑑賞者が主体的にこの世界観に向き合ってもらいたいというのが現代芸術です。

【都市の観客が求めるもの】

演劇はもともと祝祭性の強いものと言われてきました。農耕生活の単調さなどを発散させるのが祭りの原理です。しかし、今私たちはほとんど都市生活で、情報過多からくるストレスを抱えています。わかりやすいのはブランド信仰です。バッグを選ぶときに、自分の身体性を考えずに情報で選んでしまう。こういう都市のストレスの中で、芸術家が描いたある種の明確明晰な世界観に触れることによって、自分の人生を見つめなおすような時間を現代アートに求めているんじゃないか。

【障がい者アート】

最近障がい者アートが注目されています。なぜ感動させるかというと、色づかいに特徴のある人が多いんですね。障がい者アートの画家たちは色を統合する機能が損傷しているのではないかと考えられています。原始の私たちが見ていた色だから感動するのではないか。

【人口減少問題の本質は?】

スキー人口が減っています。統計学者や観光学者は「若者人口が減ったからスキー人口が減った」と言いますが、劇作家は逆に「スキー人口が減ったから若者人口が減った」と考えます。出会いの場が減っているということです。

地方の人口減少の本質は、偶然の出会いの場が少ないこと。コミュニケーションの不足。ぼくは大学で「地方は雇用がないから帰らない」という学生に会ったことがありません。学生たちは「田舎はつまらないから帰らない」と言います。東京の方が可能性があると思っている。

面白いまちを作れば人は来ます。いちばん成功しているのが小豆島で、毎年100人以上のIターン者が来ています。理由は雇用が安定していること、関西に近くて便利なこともありますが、最初のきっかけはアートです。Iターン者のほとんどが瀬戸内国際芸術祭を経験してから定住しています。

【身体的文化資本(センス)を育てる】

もうひとつは教育です。私が20年ぐらい小中学校でやっているコミュニケーション教育は、ここ数年各段に要請が多くなりました。アクティブラーニング(参加型・体験型の授業)がすごく増えています。

2020年度の大学入試改革で、二次試験では潜在的な学習能力を問うような試験をしなさいと文科省は言っています。ぼくは四国学院大学でそのお手伝いをしていますが、求められているのは1~2年の受験勉強では追いつかない、小さいころから積み重ねることで得られる能力。いちばん危惧しているのは地域間格差が起こることです。わかりやすい例でいうと、日本中に演劇が習える高校は50ありますが、6割が東京と神奈川に集中しています。教える人材がそこに集中しているからです。

こういうのを「身体的文化資本」「センス」といいます。身体的文化資本はだいたい20歳までに形成されます。味覚は12歳ごろまでです。これらは本物に接し続けることでしか育たないと考えられています。理屈ではなく、本物だけを見続けると偽物が見分けられるようになる。これがセンスです。

そうだとすれば、演劇やダンスや音楽などの生のパフォーマンスは東京の子が圧倒的に有利じゃないですか。そしてこの文化資本の格差が進学や就職に直結する時代になってしまったということです。ここに気付いた自治体は、教育と文化にお金を投資してIターン者を増やしつつあります。小豆島、豊岡市、「写真首都」を名乗る北海道東川町などです。

【文化の自己決定能力と芸術の役割】

富良野はラベンダー畑が有名で『北の国から』でブームになりました。面白いのは、私が富良野の小中学校で授業をすると、母親も父親も見学に来ます。それは「農業こそがクリエイティブ産業だ」と非常に強く成功体験から思っているからです。隣町の美瑛は景観を保つために高速道路の延伸を拒んでいます。要するに自分たちの文化・誇りは何か、そこにどんな付加価値を加えればよそからも人か来てくれるかを自分の力で判断できないと、あっけなく東京資本やグローバル資本に収奪されてしまう。これを「文化の自己決定能力」と呼んでいます。

それはどこからくるか。どれだけ本物に触れているかです。東京一極集中は経済ではなくて文化の問題になります。自然は、だれかがそこに価値があると発見しなければいけない。アーティストの仕事はそこに色や形や名前を与えることです。たとえば、津軽半島に「風のまち蟹田」というのがあります。津軽半島はどこでも風が吹いていますが、太宰治が『津軽』にそう書いているんです。なんとなくかっこいいですよね。それが文学者の役割です。

みなさんが無意識に生活している中のものに色や形や音を与えて、もう一度世界を発見してもらうのが芸術の役割です。そうであるならば、現代芸術にはまだ多少の社会的な役割があると思います。

対談 「新しいこの星のかたち」

平田オリザ × 関野吉晴

関野「豊岡市がコウノトリを復活させましたね。あれも大変でしたよね。田んぼを無農薬にして。」

平田「今もどんどん広がっています。それから一回コンクリートで固めたのを壊して土手に直したりしています。フナやカエルの通れる水路を作るということをずっとやってきました。」

関野「コウノトリは飛んでいるのかっこいいから一度見るとまた行きたくなりますよね。でも私たちが玉川上水でやっているのはそうではなく、むしろ嫌われているフン虫です。どうでもいいと思われているけど、彼らがいないとフンだらけになっちゃう。人間社会でも本当に必要な人たちが差別されたりします。ぼくは大学入った時に初めて玉川上水を見ましたが、命の営みを初めて知ったのは高槻さんや新里さんなどの研究者と一緒に歩いてから。玉川上水が違って見えました。そして小さな生き物たちがいかに大切かということがわかってきました。私は文化の多様性も種の多様性も大切だと思います。命の基本は微生物だと思っているんですね。数も多いし多分総重量もいちばん多い。そしてミジンコやフン虫などの小さな生き物が私たちを支えていて、それらに思いを馳せることによって私たちの暮らしも変わってくるのではないかと思います。平田さんは自然についてあまり書かれていませんけど、どういう思いで星とか命を見ていますか。」

平田「作品では実はずいぶん扱っていて、山際壽一先生と親しいので霊長類研究者の話を何本か書き、寄生虫学者を主人公にした作品も書いています。寄生虫学者はほんとにおもしろくて、寄生虫中心に世界を見ているんですね。およそあらゆる生き物は弱肉強食の食物連鎖の中で他の生物の生命を奪って生きているが、寄生虫だけはそれをしないから寄生虫こそが素晴らしいという主張で、全く私は受け入れられないんですけど。(笑)ほんとにピュアな人が多くて、目黒寄生虫館はすばらしい民間の博物館で懇意にしていただいていて。ただ、演劇は人間を描くのが仕事なので、自然を描くということはめったにないんですね。自然科学の研究者を通した世界を描くことはしてきたつもりなんですけど。」

関野「寄生虫は不思議ですね。多分人類との歴史がいちばんあって、バクテリア、ウイルスはまだつき合いが短いですね。」

平田「寄生虫学者は悪さをするとは決して言わないですね。悪いのは人間だと。ほとんどの寄生虫は宿主を殺さないです。ただ、グルメブームで食べてはいけないものを生で食べたりして寄生虫が入ってしまうから、人間が悪いというのが寄生虫学者の主張ですね。かつては共に暮らしていた関係で、ほとんどの日本人は回虫を飼っていたわけですから、そのことによって多分身体のバランスが取れていた。一部の寄生虫学者が言っているのは、回虫がいなくなったから花粉症が出たという説です。」

関野「アトピーはそうですよね。ぼくらの世代でも銭湯行ったらお尻から回虫が出てくることがよくあった。自分を攻撃するものがなくなったので、自分を攻撃するようになってアトピーや喘息が出てきた。アトピーの子はリンパ球が多いのでがんになりにくいという小児科医もいたようです。」

平田「ぼくは自分のアトピーの子に回虫を飲ませて、アトピーは治ったけど離婚されちゃったという話を書いたことがあります。自然という概念自体が近代で生まれた概念ですね。そこをどうとらえるかお伺いしたいです。」

関野「ぼくは辺鄙なところに行くことが多かったんですけれども、そうするとやっぱり自然が神様に見えてくるんです。一神教の神様や聖人君主ではなくて、ヒンドゥ教とか日本の八百万の神みたいに、いたずらもするし悪さもするし、懲らしめたりいいこともしてくれるいろんな神様がいて、それが自然じゃないかとぼくは思っています。なおかつコントロールできないということですね。たとえば台風の進路を変えることは未だにできないし、地震もそうです。我々にできることが何かって言ったら、知ることですね。起こったらどうしたらいいか。予防はできる。」

平田「あの~不条理ですね、自然というのは。そこにはいちばん関心があって。東日本大震災があった2年後に高校演劇の大会の審査員をやって、その年は不条理演劇がすごく多かったんです。カフカを題材にしたり、震災を題材にしたり、国籍の問題を扱ったり。それは要するに津波っていうのが、生きている人と亡くなった人を区別するものが何もない、努力した人が生き残ったわけではないということです。しかも神戸みたいに家族がいっぺんに圧死したわけではなくて、昼間に起こった、しかも津波で亡くなったということで生き別れてしまったとか、家族の中で生き残ってしまった人がたくさんいて、その生き残ってしまった人に生き残った理由がないというのはとてもつらいことなんですね。とくに福島の場合は弔うことさえできなかったですね、立ち入り禁止で。ぼくはずっとそういう作品をここ数年書いてきたんですけど、弔えなかったことに対する補償を何もしていないんですよ。災害があると、私たちはいかに人間の生には根拠がないかを強く感じると思うんですね。それが私たちにとって芸術の源なんです。人間っていうのはそもそも根拠なく生きているんだよっていうことなんですね。そのことはぼくも自然から感じることはあると思っています。」

関野「伊沢紘生さんて金華山のサルを研究をしている人は、サルを見ていると赤ちゃんが死んでも持ったままで、そのうち置き忘れてしまう、死んだということの意味がわからないというんです。それがわかるのが人であり、それがあるから生きる意味を考えるようになった、それがアートと結びつくわけですね。」


(構成:足達千恵子 写真:棚橋早苗)



ー講師紹介ー

平田オリザ

劇作家、演出家、東京藝術大学特任教授、大阪大学客員教授。「芸術立国論」「新しい広場をつくる-市民芸術概論綱要」など著書多数。ワークショップで多くの子供たちに、教室で演劇を創る体験をさせている。


この講座は2016年8月20日(土) にルネこだいら中ホールで開催されました。