武蔵野台地と玉川上水の変容

講師:小泉 武栄


ー講座概要ー

1.武蔵野の景観変遷

2.玉川上水の自然と歴史

3.玉川上水はなぜ生き物の宝庫なのか-地生態学の視点から-



ー講座内容ー

1.武蔵野の景観変遷

人類の歴史をさかのぼり「400年前に、今講座を開いている武蔵美の場所には人が住んでいなかった。それは『なぜか』」という問いから始まり、自然地理と人間の生活との関係から謎を解いていきます。

話は約8000年前の縄文時代にまでさかのぼり、縄文時代前期から江戸時代初期まで武蔵野はススキ草原だったのだそうです。その頃は「火入れ」をして草原を維持していました。それは「なぜか」というと、シカやイノシシなどの狩りの獲物を増やすためだったそうです。

そこを江戸時代初期に植林し雑木林にしました。それは「なぜか」。江戸の拡大で大量の物資が必要になったので、米、野菜を作ったが、燃料が足りないため、植林したのだそうです。飲み水も不足したので、玉川上水も作りました。水が流れるようになると新田開発も進み、田畑の風害を防ぐための植林もしたため、しだいに雑木林が増えたそうです。

明治時代以降は、物資の流通が盛んになり、玉川上水は運搬に利用されたが汚染が進み、なんと2年で停止に。代わりに、鉄道がたくさん敷かれました。

石灰岩を運ぶ、青梅線・五日市線(後に木材や薪炭も)、砂利を運ぶ、是政線・下河原線・多摩川支線.など、生糸と絹織物を運ぶ、八高線・横浜線、農産物や木材を運ぶ、西武線。

1923年の関東大震災を機に、住宅が移転してきます。それに伴い、郊外電車(中央線 井の頭線 京王線 小田急線など)が発達、鉄道沿線にニュータウン計画がされました。田園都市、学園都市も計画されました。

第二次大戦前、多摩地域は兵器・飛行機・エンジン・計器などの軍需工場がたくさん作られ、軍都になりました。「中島飛行機」などは有名です。軍の施設もたくさんできました。そして1944年の空襲で軍需産業は壊滅。軍事施設の跡地は、富士重工、日産自動車、大学、研究所などに変わりました。

そして戦後、復興し、東京の拡大に伴い次第に都市化・郊外化が進んでいきました。


2.玉川上水の自然と歴史

玉川上水というと、「江戸時代初期に玉川兄弟がつくった」までで知識はストップしてしまい、それ以外はあまり知られていないのが現状です。


江戸時代初期の上水は、小石川上水をはじめ、川やため池、地下水、湧き水などを利用していました。しかし家光の時代 参勤交代の始まりにより江戸の人口が急増し、水が足りなくなり、玉川上水をつくって水不足に対応しました。

そこから野火止上水などの分水ができ、武蔵野の新田開発が進みました。1737年には小金井に桜が植えられました。

明治初期、舟で人や物資を運んだが、汚染がひどくなり、通船は廃止。しかし、ゴミ、牛馬犬猫の糞尿、物洗い場、家庭排水の流入などによる汚染はやまず、コレラの流行が拍車をかけ、明治23年には水道条例が公布され、東京府が水道の建設を始めました。水道は次第に普及、1934年 山口貯水池が完成、1936年 村山貯水池が完成、1957年 小河内貯水池が完成。1965年 淀橋浄水場の廃止。その機能は東村山浄水場に移ります。

その後、羽村で取り入れた水は小平監視所から山口貯水池へ。小平監視所から下流には玉川上水の水が流されなくなり、何年も空堀になります。その後、下水処理水を流すようになり、現在に至ります。.江戸時代は豊富だった水量ですが、現在は少ない状態です。


玉川上水の現在の姿は、両岸に雑木林が続き、緑の回廊となっています。雑木林が山から続いていることから、動物の通路にもなっています。

玉川上水の「壁面の崩落がひどい」という課題に取り組むため、検討委員会が作られ、小泉先生も委員の一人として研究・検討にあたられました。

壁面の崩落は、北向き壁面がなだらか、南向きの壁面は垂直です。「なぜこうなるのか」「このまま進むとどうなるか」「将来、どの程度危険性があるのか」「北向きと南向きの崖でどんな地形形成プロセスが起こっているか」を研究、検討されました。


3.玉川上水はなぜ生き物の宝庫なのか-地生態学の視点から-

まず、先生のご専門である「地生態学」とはなにか、について「植生や植物の分布を、地形・地質、自然史などから広く考察する分野(geoecology)」と説明されました。どんな学問なのかを具体的に説明するため、「ツシマヤマネコをどうしたら絶滅から免れさせることができるか」を地生態学の観点から研究した事例をご紹介くださいました。

話は玉川上水にもどり、上流の羽村の取水口から下流へと水辺の様子を観察すると、福生付近の玉川上水は「護岸されており浅い」のに対し、小平監視所より下流は「深く、峡谷状になり、土の壁」です。この「石垣等で固められた浅い水路から、10mを超える深い水路に変化する」のは「なぜか」。

武蔵野台地は基本的に多摩川のつくった扇状地で、「立川面(3万年前の形成)」「武蔵野面(10万年前の形成)(武蔵野Ⅱ面は7万年前の形成)」「下末吉面(13万年前の海成段丘)」と、何段にも分かれるのだそうです。そのため、小平監視所を境に、関東ローム層の薄い立川面から厚い武蔵野面に変化し、ローム層を突き破ると水が礫層に漏れてしまうので、立川面では水路を深く掘れませんでした。そのため必然的に浅い水路となり、その後、石垣護岸になったのだそうです。水路に沿って樹木が生育し、緑の回廊にはなっているが、生物多様性は小さいとのこと。一方、小平監視所より下流では、水路は深くなり、両側に関東ローム層の高い壁ができたのだとそうです。


明治初期に小平監視所より下流では、玉川上水のすぐ脇に「新堀用水」がつくられました。新堀用水を流れる水は、羽村から流れる本当の玉川上水の水です。

2つの水路の間は、土壌が水を含みよく湿り、冷たい水で土壌が冷やされれ、暑いときは土壌水分が蒸発して気化熱を奪い、涼しくなるという「クールアイランド」化しているとのこと。その結果、このあたりでは見られないような、春植物(カタクリ、イチリンソウ、ニリンソウ、キクザキイチゲ、キツネノカミソリなど)が生育を始めたのだそうです。山の植物(トチノキ、クマシデ、イロハモミジ、イヌザクラ、ムラサキシキブ、タマアジサイなどの樹木、チゴユリ、ホウチャクソウ、センニンソウなどの草本)も生育します。いずれも乾燥した草原には生育しない植物です。このため小平市付近の植物の多様性は高くなり、東京近郊の緑としてはきわめて価値が高いと言えるのだそうです。もちろんそれに伴い、蝶や鳥類の多様性も高くなります(ゼフィルス類、アオスジアゲハ、ジャコウアゲハ、タテハチョウなど、アカゲラ、アオバズク、カルガモ、ゴイサギ、コサギ、アオサギなど)。玉川上水は生き物の宝庫なのです。その後、小泉先生の希望するお考えを述べられ、お話しは終了しました。


その後は会場からたくさんの質問が出され、小泉先生にお答えいただきました。


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それは「なぜか」と常に問い、それを解いていく形で講義は進みますから参加者は興味津々。私もノートをとりまくりました。今まで知りたくてもなかなかわからなかったことに溢れた内容でした。自然環境と社会の変化、人の生活の変化など、すべてが関係して変化してきた過程がよくわかりました。また、地生態学から観察・検討をするおもしろさとすばらしさに気付かされました。

小泉 武栄先生、素晴らしいお話しをありがとうございました。

(構成・棚橋早苗)



ー講師紹介ー

小泉 武栄(たけえい)

理学博士。東京学芸大学名誉教授。自然地理学、地生態学が専門。


この講座は2016年4月13日に武蔵野美術大学12号館201号教室で開催されました。