(2)バイオスフィア2
グレートジャーニーの旅を始める前、未来工学研究所の若い研究員に面会を求められたことがある。研究所は今では名称が変わっているが、火星への人類の移住 計画を推し進めているということだった。当時の科学技術庁の外郭団体だった。そのころ私は宇宙開発というものに興味がなかったのだが、ともかく、その若い 研究員の話を聞いてみることにした。
彼の説明によると、地球上の人口がこのまま増加を続ければどうなるか。早晩、食糧不足やエネルギー 不足によって膨大な人口を支えられなくなる。さらに遠い将来、少なくとも5億年後には、地球上に人類 は住めなくなる。徐々に光度を増している太陽に よって地球の温度は上昇し、金星と同じように灼熱の惑星になるという。そのときまでに人類は他の惑星に移住しなければならない。人類が移動できる距離に あって、地球に最も近い環境にあるのが火星だ、という。
人類が火星に移住するためには、火星に人類を送り込む宇宙船等の開発が必要だ。 しかしそれとともに、火星を地球と同じ条件をもった惑星に改造しなければならない。これはNASAによってテラフォーミング(地球環境化)という形で計画 されている。そのためにはどうすればよいか。NASAは3つの段階を考えている。
第1段階は火星の温暖化。火星は地球の極地と同じよう に寒い。温かくするためには火星の極地を覆っている二酸化炭素を取り除いて温暖化しなければならない。第2段階は火星に海を作ることだ。火星は気温が低い ために水分は凍っている。これを溶かすことによって海を作る。第3段階が二酸化炭素を酸素に置き換えることだ。
これらの計画を具体的に 行なうためにどんなことをしているのか。火星を酸素化するにはどうしても植物の力が必要だ。火星は寒冷で乾燥している。南極や砂漠に環境が似ている。その ためここに生息する微生物、藻類、地衣類を研究し、どの植物を火星に持っていけば、テラフォーミングの可能性が高いのかを研究している。
ここまでの話を聞いても私の琴線に触れるものはなかった。興味を失った私はなにげなく、「ところでなんで火星移住計画のために私の話を聞きに来たの?」と尋ねた。返ってきた答えは私の関心をひくものだった。
「もちろん私たちは火星の環境を変えることで、全てが解決するとは考えていません。火星を地球環境化するためには、地球そのものを知らなければならないの です。そのことはどうすれば地球環境を維持していけるかということにも通じるのです。関野さんに尋ねたかったのは、ベネズエラのヤノマミ族についてなんで す。自然の地球環境化に成功したとしても、人類のいろいろな集団が社会を形成しなければなりません。様々な人種、民族が共存していかなければならないので す。そのためには人間そのものを知らなければなりません。人間を知る一つの方法として、最もプリミティブな暮らしをし、大きな集団を作っているヤノマミ族 について知りたいのです」
なるほど、地球外のまったく新しい星に移住するということはそういうことなのか。地球の生態系と同じものを作 り、そこに人類を移すには、結局は地球そのものについて、人類そのものについて知らなければならないということだ。これをきっかけに私は地球外の惑星への 移住計画に興味を持つようになった。
グレートジャーニーの途中で、アリゾナ州にある研究施設「バイオスフィア2」を訪れた。アリゾナは アメリカ本土では最後に州になった土地だ。メキシコに近く、家々や町並みさえ見なければ、まるでメキシコだ。砂漠なのだが、背の低い潅木も多く、大きなサ ボテンもニョキニョキ立っていて、思ったよりも緑がある。その砂漠の中に「バイオスフィア2」がそびえ立っている。すさんだ、乾いた環境の中に、ガラス張 りで眩しいほどに白く美しい建物がそそり立っている。1991年に建設され、総面積1万2700平方mあるという。天井は高いところで26mあり、威風 堂々としている。超現代的な温室風ピラミッドという風情だ。
バイオスフィア1とは地球生命圏のこと、バイオスフィア2はそれと同じもの を人工的な閉鎖空間のなかで作ろうというのだ。ガラス製のドームの中は閉鎖空間になっている。そこは農業地域だけでなく、熱帯雨林、海、サバンナ、砂漠地 帯などに分けられている。各地域には、それぞれの環境に適した植物、動物、昆虫など、およそ4000種が生息している。この中に91年の9月、男4人、女 4人計8人が入り、閉鎖空間の中で自給自足の生活を始めた。それぞれが自然科学の専門家で、医学者も含まれている。しかし、精神医学者や文化人類学者など の人文系の学者はおらず、研究者同士の人間関係についての研究については興味の外におかれた。
トウール・ハイエルダール氏(ノルウェー の動物学者)のラー号では様々な人種が手を組んで航海し、その中には日本人も含まれていた。このバイオスフィアの実験も国際チームではあるが、アメリカ人 のほかにイギリス人、ベルギー人など白人のみだ。年齢も27歳から67歳までで、子供や老人は入っていない。
これほどのビッグプランな ので、国か自治体あるいは大学単位の計画かと思っていたが、実際はそれらの予算にはまったく依存しておらず、テキサスの石油王の道楽ではじまったという。 オーストラリアに2つの巨大牧場、フランスに農場、ネパールにホテル、テキサスにジャズ・バーなどを所有している実業家のエドワード・バスさんが2億ドル のポケットマネーを投じて建設されたものだという。批判は多いというものの、いかにもアメリカ的な奇想天外な道楽だ。
彼らは、食料を得 るためにほとんどの時間を農業や畜産業にあてていたという。ニワトリ、ヤギ、ブタ等の家畜が飼育され、その排泄物や人間の排泄物が稲を育てる水田に放出さ れ、土中のバクテリアが分解したのちに植物の肥料に使われた。またこの水田では熱帯魚のテラピアも飼育され、食料の一部に利用されたという。バナナ、サツ マイモは育ったが家畜の多くが死んでしまった。
中で暮らす者にとって生死を左右するほど重要な空間は農耕区だった。ほぼ50〜44mの 広さの畑と田んぼで、米、小麦、大麦、さつま芋、インゲン豆、パパイヤ、バナナ、カボチャ、トマト、イチゴ、トウモロコシ、タマネギ、ナス、ニンジン、ス イカ、ジャガイモ、さらにコーヒーやお茶が栽培されている。砂糖もサトウキビからつくられ、ミカン、パイナップル、ブドウなどの果物も栽培された。
4000種の生物のなかには、植物の花粉を媒介させるためにミツバチ、コウモリ、ハチドリが持ち込まれた。死んだ植物を分解するためのシロアリもいた。そのほか多くの昆虫が入れられ、またそれらが増えすぎないようにテントウムシが持ち込まれた。
ここではメキシコ人ガイドが案内してくれた。私は2年間にわたってこの閉鎖空間に暮らした研究者のインタビューを希望した。しかし、最初の研究者で現在も 在籍しているものは1人もいなかった。2年間の実験後、半年間という短期の実験が行なわれた。その時に参加したドイツ人研究者がインタビューに応じてくれ た。開設前からのスタッフで、電気技術者だという。バイオスフィア2に投げかけられているいくつかの批判をぶつけてみた。たとえば、ドーム内の植物の光合 成が不十分で、CO2濃度が通常の10倍以上に上昇し、逆に酸素濃度が下がりはじめたので、実験開始から3か月目に換気をしなければならなくなり、「完全 な閉鎖系」は崩れたという批判がある。事前の計算では大気は一定の比率で安定するはずであったが、土壌中の微生物の働きなどが影響して酸素が不足状態に 陥った。また日照が不足すれば、当然光合成で酸素を生産することが出来ず、不足状態は慢性的なものになった。それは周知の事実なのだが、研究者はその事実 そのものを認めようとしなかった。
閉鎖系のドームの横に3基の巨大な発電機がある。この発電機の総出力は5500kW、大量の石油を燃 やして作った電気はドームの中の冷房に使われる。夏には摂氏40度以上の気温になる砂漠の、ど真ん中に建てられた温室だ。冷房をしなければ、60〜70度 になり、とても人間の住める環境ではない。かといって現在の太陽発電の技術では賄いきれない。
ドーム内を回っているときに、メキシコ人 のガイドが「雨を降らせてみましょうか」と尋ねてきた。雨もドーム内の水蒸気が巡って自然に降るのかと思っていたが、スプリンクラーを使うのだという。も ちろん雨の強さも調節できる。海も11秒に1回の割合で波を送り込んでいる。閉鎖的な生態系の陰には、たくさんの機械があり、大量の電力を消費することに よってその生態系は維持されてきたのだ。
今やここはエコ・ツーリズムのセンターとなり、近くには立派なホテルもある。バイオスフィア2 の観光用に日本語のパンフレットもできている。視聴覚施設では、映画やパネルを利用してバイオスフィア2の意義を高々とうたい上げている。素人集団の大雑 把な計画という批判を気にしてか、1996年からコロンビア大学の専門家たちとも提携を始めた。しかし、これ以降は閉鎖系の中に人間を入れるという実験は 行なわないという。ということは当初の目的は完全に払拭されてしまったことになる。結局のところ、「地球の生態系」を売り物にしたテーマパークになってし まったわけだ。
実験の成果は、世界中から注目されたが、どう見ても成功とはいえなかった。しかし、バイオスフィア2の経験は、人工的な 閉鎖空間の中で、自然そのままの生態系を維持することがいかに難しいかを示唆した。それは地球の生態系がいかに巧みに恒常性を維持しているかの証明でもあ る。たとえばドーム内を適温に保つには大量の電力を必要とすることなどから、地球上の温度管理がいかにうまくいっているかが証明された。
この実験が素人集団による研究であって、科学ではないという批判もあった。4000種の生物を人間とともに閉鎖空間に入れたが、それぞれの相互関係は追跡 のしようがない。どの生物が消え、どの生物が生き残ったかというリストがあったとしても学問的にはなんの意味もないというのだ。
地球上には多種多様な生物が生息する。熱帯雨林だけでも3000万種の生物が住んでいるという。これらは水、空気、太陽の光を利用し、お互いに依存しあいながら、40億年かけて地球全体で生命を維持してきた。
バイオスフィア2の熱帯雨林の木はすぐに枯れてしまったが、これはバイオスフィア2の中に風がなかったため、木が自らを支えようと幹を強くすることを怠る ようになったためだという。このように生態系は様々な複雑な要素が微妙なバランスを保って維持されているのである。現代の科学をもって同じようなミニ地球 を作ろうとしても、とても作れるものではないということが、バイオスフィア2の実験によってよくわかったのである。この実験にかかった莫大な予算をもっと 有効に使えばという意見もあるかもしれないが、地球を壊す下手な開発をされるよりは良かったのではないかと私は思う。
すこし蒸し暑いバイオスフィア2の建物から出たとき、さわやかな風が吹き、汗がさっとひいた。風の心地よさを思い知らされた。
(グレートジャーニー全記録「寄り道編」関野吉晴2004.毎日新聞社)