豊かな人間関係を築くために
プレイバック・シアターが教えてくれたこと
2013年3月24日
NPO法人 プレイバク・シアターらしんばん
実践リーダープロジェクト 第5期
山村 深佳(みかっちぃ)
私は人間関係を上手に築くことが出来ずにいました。
自分に自信がなく、自分の思っていることを話す事が出来ませんでした。
また、他人に対しても、この人は自分を騙そうとしているのではないかと変に勘ぐって疑っていて、人を信じることが出来ずにいました。
人間関係の中で、いつか裏切られるのではないかという恐怖感が常に心のどこかにありました。
最近では、図書館にこんな苦情がくるそうです。
本のページをめくる音がうるさい、本を棚に戻す音がうるさいと。
それらは図書館での自然な音で、防ぎようがないことです。
人と人とのつながりが薄れてきた今の社会では、相手が何を思っているか分からず不安が募ることで、少しのことでイライラし、なんで出来ないのか?と自分の考えを押し付けてしまっているのかもしれません。
人間関係が自分の思うようにうまくいかず、生きにくさを感じているのは、私だけではないのではないでしょうか?
しかし、プレイバック・シアターの中にはあたたかい人間関係がありました。
とても居心地がよく、あたたかい場所でした。
ワークショップでは、今日初めて会った人なのに、まるで昔からの友人のような不思議な感覚になることさえありました。
プレイバック・シアターは、私に人と自分を信じること、そして、生きる力を教えてくれました。
そして、私に豊かな人間関係を築くうえで大切なことを教えてくれました。
私が体験した、プレイバック・シアターが教えてくれたものとはいったいどのようなものだったのでしょうか?
「語り合う」「感覚的」「治癒」の3つの観点から考えていきたいと思います。
私は7年前にプレイバック・シアターと出会いました。
その時の私は人と「語り合う」ことが出来ませんでした。もちろん、友達と天気のことや授業のことなどの話は出来ましたが、自分の好きなこと、思っていることなどは話すことが出来ず、本当の人間関係を築くことが出来ませんでした。自分が言った事を相手がどう受け取るか不安で、思っていることや考えていることはあったのに、怖くて口に出す事が出来ませんでした。
私にとって人と「語り合う」ことは、楽しいことではなく乗り切ることでした。
そんな時、大学のグループアプローチ論という授業でプレイバック・シアターと出会いました。
その時は、まだ恥ずかしさの方が上でワークショップの中で人と「語り合う」ことが出来ませんでした。
授業では、7人前後のグループに分かれて、目を合わせたり、握手をしたり、ゲームで遊んだり、大学生だというのに、まるで子供がするようなことばかりしていました。そんなことは、しばらく体験したことがなかったので、尻込みしてしまいました。同じ受講生の中には照れ隠しのためか、受けを狙った行動しかしない人もいました。
そして、何か一つワークが終わると、必ず同じグループの人と感想を語り合いました。なんだかみんな気まずくて、感想と言われても何も言葉が出てこず、照れ笑いをして、他の話題を話して終わってしまうこともありました。
でも、そのくすぐったいような恥ずかしさの中に、今までの関係性とは違う、「語り合う」ことでうまれる何かを感じました。それは、授業が終わってからでも、一緒に体験した人と廊下で偶然すれ違うと、お互い笑顔で挨拶してしまうような不思議な感覚です。くすぐったいけれど心地よい。今までに体験したことがない感覚でした。
その授業がきっかけで、同じ大学の相談室主催で定期的に行われていたプレイバック・シアターのワークショップに参加するようになりました。
プレイバック・シアターは、みんなで語り合い、みんなで分かち合う場です。そして、みんながみんな、居たいように居ていい肯定の場でした。
集まった参加者は、まずは挨拶から始まり、ストレッチやゲームを通して体と心をほぐしていきます。そして、参加者は自分のストーリーを語ります。さらに、その語られたストーリーをみんなで即興で演じます。ストーリーは、授業に遅刻したなどの普段の日常の何気ないストーリーから、親族が亡くなったという大切なストーリーまで、様々なものが語られ、それぞれをみんなで分かち合いました。
自分のことを人前で話すのは、とても恥ずかしく冷や汗をかく程でしたが、その場の全員に共有して分かってもらえると、なんだか自然と笑顔になってしまう程、嬉しく思いました。また、私は人生の中でこれ程までに集中した事があるかと思う程、真剣に人の話を聴きました。そして、自分が表現したことに対して、語ってくれた人に「まさに、こんな感じだった!」と言ってもらえると心の奥底から感動が涌き上がってきました。
そして、自分が感じた気持ちを素直に表現して演じてみました。
その場では、なんで?という否定の言葉はどこにもありませんでした。素直な自分を受け入れてもらえた。私は私のままでいいのかな?そんな思いを、参加する度に少しずつ、本当に少しずつ、積み重ねていきました。プレイバック・シアターの中では、語り合い分かち合う、ただそれだけのことをみんながみんなそれぞれにしました。
私はこうした体験の中で、人と「語り合う」ことの楽しさや分かち合うことの大切さを実感し、自分の考えていることや思っていることなどを少しずつ表現することが出来るようになってきました。
あるテレビでマンションの騒音対策のことを放映していました。
そのマンションには、下の階に老夫婦が、上の階に夫婦と兄弟の4人家族が住んでいました。
老夫婦は、上の階の兄弟の足音などの騒音に悩まされていました。その解決策は、音を小さくするために防音材を敷くのでもなく、静かに生活させるために子供達に制限させるのでもなく、その兄弟が老夫婦の部屋に遊びに行くことでした。
遊びに行くことで交流が生まれ、足音が成長の喜びとなり、騒音と感じなくなったのです。
騒音自体の大きさは何も変わっていません。でも、関係をもつことで、足音が元気に遊んでいる音となり、成長の喜びと感じるようになったのです。
お互いがお互いのことを「語り合う」。たったそれだけのことで、解決出来たのです。
お互い「語り合う」ことがなければ、それぞれがそれぞれの世界で別々に生活しているだけで、相手のストーリーを聴く機会はありません。なぜ?どうして?という思いを相手に伝える事も出来なければ、また、相手の抱えてる事情も知らないままです。それなのに、足音がうるさいという状況だけを受け取り、結果的に騒音となってしまうのではないでしょう。
しかし、お互いに「語り合う」ことで、老夫婦は兄弟のストーリーを、兄弟は老夫婦のストーリーをそれぞれ分かち合い共有することが出来ました。「語り合う」ことで相手のストーリーが分かると、心の交流がうまれ、相手のことを知ることができ、分かり合えたのではないでしょうか?今では、老夫婦は兄弟が遊びに来るのを楽しみにしながら、好きなお菓子を用意して待っているそうです。
人と人が関係性を築く上で「語り合う」ことは大切なことなのではないでしょうか?
少し前までは、それぞれの地域で若い人からお年寄りまで、みんなで集まって地域のことから、何気ない日常のことなど、様々なことを「語り合う」場。そんなみんなで語り合い分かち合う場が、たくさんありました。今では、そんな大切な場所が少しずつなくなりつつあります。
今の若い人達は面倒に思っているかもしれません。学業やバイトに追われる忙しい日常の中で、同年代の友達と気兼ねなく遊ぶのならまだしも、年上の人や子供がいる場は気を遣わなければならないし、ご年配の人の長い話に付き合わなければならなくて、とても面倒なことです。私もそう思っていました。けれど、そういった地域コミュニティの場は、人が「語り合う」場として必要なものなのではないでしょうか?
プレイバック・シアターの特徴として、誰でも分かち合えるという事があります。
私が知っている範囲でも下は小学生から上は80代の方までと幅広い年齢層の方が同じように語り合い分かち合う体験をしています。また、年齢だけでなく、性別、職業も様々な方が同じ場に集い「語り合う」ことが出来ます。そういった普段あまり関わりをもつことがない人のストーリーを聴くというのは、大切なことなのではないでしょうか。
先ほど、例にあげたマンションの騒音対策でも、核家族化が進んでいる今の社会では、兄弟はご年配の方と交流すること自体が少なかったかもしれません。けれど、お互いに「語り合う」ことで、お互いの世界を知ることができ、相手に対しての考え方が変わったり、自分の世界が広がったのではないでしょうか?これは想像ですが、兄弟がもつご年配の方へのイメージが、すぐに怒るし、話が長くて面倒くさい人から、お菓子をくれて、いろんなことを教えてくれる物知りな人と変わったかもしれません。そんな風にいろんな人と「語り合う」というのは人間関係の中で大切なことなのではないでしょうか?
私もプレイバック・シアターの中で、私が人生の中で経験したことがないたくさんのストーリーをたくさんの人と語り合い分かち合いました。その経験は、きっと私が同じような境遇、状況になった時に、私の人生を助けてくれる力を与えてくれると信じています。そして、それは私自身の自信にもつながっているのだと思います。
プレイバック・シアターの中でいろんな人と語り合い分かち合った経験は、私に人を区切るものさしのようなものをなくさせてしまいました。私は人と関わる時、子供はこういうものでこう扱う、先輩や上司はこういうものでこう扱う、などとなんとなくどこかで心の仮面を切り替えて、その人に合わせて接し方を変えていました。けれど、人間関係を築く上でその区切りは必要なのでしょうか?子供であっても大人であっても上司であっても、人は人です。同じく自分も人です。
プレイバック・シアターの中では、普段自分が着ている役割を脱いで人と「語り合う」ことが出来ます。普段はお母さんや奥さんという役割の中で生活しているかもしれませんが、プレイバック・シアターの中ではただの人になります。もちろん、性別も関係ありません。
でも、みんながみんな人になることで、プレイバック・シアターの中では、本当の人と人との心の語り合いが出来るのではないでしょうか?そして、そのことは人が関係性を築く上で大切なことなのではないでしょうか?
最近は、自分は自分、他人は他人と、一歩線を引いたような関係が多くあるように思います。
何を言われるか分からないから、口出ししない。何を考えているのか分からない。理解出来ない。そんな風に、よく分からないから避けているように思えます。でも、お互いが語り合い、分かち合うことが出来れば、そこから繋がりがうまれてくるのではないでしょうか。
わざわざ自分にとって誰にも話した事がない重要なことを無理をして「語り合う」必要はありません。「語り合う」ことは、ほんの些細なことでいいのです。普段の何気ない日常にあったこと、ちょっと困っていること何でもいいのです。楽しい話を聴いてもらえるともっと楽しく、苦しい話は聴いてもらえると少し楽になったりしないでしょうか?
自分のストーリーを聴いてもらう、そして、相手のストーリーを聴く。語り合い、分かち合うというのは、当たり前のことのようですが、とても大切なことなのだと思います。
プレイバック・シアターは「語り合う」という当たり前の普段の行動の大切さを教えてくれました。
プレイバック・シアターの他に交流分析の公開講座に参加したことがあります。その体験から、プレイバック・シアターとの違いが見えてきました。
交流分析は精神科医エリック・バーンによって提唱された一つの心理学理論です。人の行動は、P(Parent、親)、A(Adult、成人)、C(Child、子供)という3つのパターンから成立するという理論で、このモデルはどのように人々が行動し表現するかということについての理解を安易にしています。複雑で多様化している人間関係を図式化し、分かりやすく解説してくれるものです。講義もあり、勉強すれば資格も取ることが出来ます。コミュニケーションの基礎となるものを勉強して習得することが出来るのです。
プレイバック・シアターは講義によって学ぶというものではありません。それどころか、体験した人は皆、言葉に表せないと言います。何だかよく分からないけれど、心があったかくなったような気がする。とても文章や図式では説明出来るようなはっきりとした体験ではなく、なんとなくそんな気がする、というものなのです。
それは、プレイバック・シアターが「感覚的」だからだと思います。心は目に見えるものではありません。人の気持ちというものは複雑なもので一言で説明するのは、とても難しいものだと思います。しかし、プレイバック・シアターでは、「まさにその通り!」と言ってしまうくらい人の気持ちを表現することがあります。それは、「感覚的」だからこそ、目に見えない心を表現出来るのではないでしょうか。
同じプレイバック・シアターの実践者からこんな話を聞いた事があります。
その方は、赤ちゃんをもつ母親が、赤ちゃんと一緒に参加出来るワークショップを開催しています。その中で、楽しいストーリーの時はおとなしい赤ちゃん達が、悲しい、苦しいストーリーだとみんな泣き出すというのです。また、母親が演技の中で苦しんでいると、普段はそんな事をしないのに母親を助けようとしたことがあったそうです。
それは、プレイバック・シアターが「感覚的」な表現のため、まだ、しゃべる事が出来ない赤ちゃんであっても感じるもの、伝わるものがあったのだと思います。むしろ、「感覚的」なものは、大人になった私達よりも乳幼児の方が優れているのかもしれません。
また、ろうあ者や手話講習を受けている人達に、プレイバック・シアターのパフォーマンスを行ったことがあります。
ろうあの方に話が分かるよう通訳での工夫は必要でしたが、それ意外はいつもと同じように行いました。普段、ろうあの方達が語ることのない気持ちの「感覚的」な部分、その部分をろうあの方も健常者の方も同じように体験し分かち合うことが出来ました。私は、ろうあ者とは手話が出来なければ会話が出来ないと思っていました。けれど、プレイバック・シアターはその壁を越えて、その場に居る私達全員に心の交流を体験させてくれました。
プレイバック・シアターは目に見えない「感覚的」なものを表現するため、赤ちゃんやろうあ者にも伝わったのではないでしょうか。
気持ちとはとても複雑で同じような気持ちに見えても微妙なニュアンスの違いがあったりします。思っていること、感じていることを、「感覚的」なものまで細かく正確に伝えるのは難しいのではないでしょうか。そんな複雑な気持ちを、私達は普段使っている言葉で表現しきれているのでしょうか?
先ほども書いたろうあ者とのパフォーマンスで、ある手話通訳の方が、自分の体験したことを語ってくれました。
ろうあの方を連れて病院に行き、頭がどのように痛むのか、ズキズキなのか、ガンガンなのか、医者に聞かれたのですが、ズキズキがどんな痛みなのか、ガンガンがどんな痛みなのかろうあ者が分からなくて困ったという体験を話してくれました。ろうあの方は言葉と感覚を結びつける経験をしてきていないので、痛みの感覚を言葉で表現するというのが難しかったようです。
他にも楽しかった話や困った話などをしてくれました。けれど、どんな風に楽しかったのか、どんな風に困ったのか聞くと、すごく楽しかった、すごく困ったと話してくれるのですが、「感覚的」なことまで言葉(手話)で表現することが難しいようでした。
しかしそれは、私達が普段使っている言葉でも同じ事なのではないでしょうか?複雑な気持ちを「感覚的」、つまり言葉にならないような微妙なニュアンスの部分までを、私達は普段の会話の中で、相手に伝えきれているでしょうか?
もちろん、楽しいとか嬉しいとか大雑把な気持ちは分かると思います。けれど、気持ちというのは一つではないこともあります。分かりやすいのが怒りという気持ちです。
相手に対して本当に憤りを感じ、なにがなんでも許せなくて怒るということもあれば、怒りの中に寂しさや、悲しさが含まれていることもあります。人の気持ちというのは、同じような怒りでも、そこに含まれる「感覚的」なものが微妙に違っていることがあります。その「感覚的」な部分まで、言葉として相手に伝えることが出来ているでしょうか?言葉という限られたものに当てはめてしまっているのではないでしょうか。
プレイバック・シアターの手法で動く彫刻というものがあります。
それは、ストーリーより短い、ある一場面で感じた気持ちを、動きと音で表現するものです。
動く彫刻は私が好きな手法です。それは、動く彫刻が「感覚的」だからだと思います。
私が人と会話することが苦手な理由として、語彙が少ないということがあります。
自分の気持ちを表現するのにぴったりな言葉がなかなか見つからず、言葉につまり、会話につまってしまうことがあるからです。しかし、動く彫刻では「ピャー」とか「わー」とかの擬音語や擬態語、音であればなんでも表現していいのです。そのため、語彙の少ない私でも表現する事ができ、普段、言葉として表現出来ないものを表現する事が出来るので、好きなのだと思います。
動く彫刻は「感覚的」なものを表現するのに、とても優れた手法だと思います。気持ちというのは、言葉で表せない「感覚的」なとても繊細なものです。だからこそ、「感覚的」な動作や音で表現することで、表現自体に幅ができ、微妙なニュアンスまで伝わるのではないでしょうか。
プレイバック・シアターでは、語られたストーリーを演じる時に、自分の役を参加者の中から選びます。その時に、同じような経験をした人を自分の役に選ぶことがあります。
ある参加者が年が明けてすぐに祖母を亡くしたというストーリーを語ってくれました。その時に自分役に選んだのは、同じように年が明けてから祖母を亡くした人でした。演じた方は、まだ心の整理がついておらず、演技の中で本当に辛そうでした。でも、演技の中で、祖母にきちんとお別れの言葉を言えたことは、語った方も演じた方も双方にとって、自分の心と向き合い、そして、祖母と向き合う、いい機会になったのではないでしょうか?
このようなことは、プレイバック・シアターの中ではよくあることです。それは、私が今までの7年間で、数回あったという偶然のものではなく、またかと思う程、本当によくあることなのです。
お互いに話した事もない、バックグラウンドも何も知らない人なのに、なぜ同じような経験をしている人を選ぶ事が出来るのでしょうか?進行役のコンダクターが知っていて、操作している訳でもありません。コンダクターはただ、「直感で選んでください。」と言うだけです。それなのになぜか、同じような経験をした人が選ばれることがあるのです。
それは、人のもつ「感覚的」な力なのではないかと私は思います。いわゆる第六感というものなのかもしれません。私が自分の役を演じてくれる人を選ぶ時も「感覚的」にこの人かな、という曖昧な、でも確実な意思で選びます。
科学の発展している現代においても説明がつかず、証明出来ない現象はたくさんあります。プレイバック・シアターは人の「感覚的」な能力を引き出す力があるのではないでしょうか。そして、その「感覚的」な力は人は誰しもが持っているものだと、今までのプレイバック・シアターでの経験から私は思います。
心というのは、複雑で目に見えないものです。そして、私達が普段使っている言葉で表現しきれないくらい「感覚的」なものが含まれています。しかし、プレイバック・シアターでは人の気持ちを、人が本来持っている無意識の「感覚的」な部分を使って、言葉にならない微妙なニュアンスで表現することが出来るのだと思います。
人と会話をする時、言葉通りに受け取らず、その気持ちの出所を探ってみてください。すると、愚痴から寂しさが感じられたり、怒りから恥ずかしさが感じられたり、人の気持ちの「感覚的」な部分が見えてくるのではないでしょうか?そして、その事がその人の本当の気持ちであり、本当に伝えたかったことであり、分かってほしい部分なのではないでしょうか?
人との関わりの中で、相手が何を考えているか分からないというのは、とても不安になり、どうしたらいいのか迷ってまうこともあると思います。けれど、そんな時は、相手の本当の気持ち、「感覚的」な気持ちを「感覚的」に感じてみてください。
長い付き合いの人ほど、言葉数が少なくてもお互いの思っていることが分かったりしないでしょうか?それは、お互いが「感覚的」なやり取りを無意識のうちにしているからだと思います。そんな自分の「感覚的」な部分を使って、相手の「感覚的」なものを感じることが出来たら、相手に対しての受け取り方が変わってくるかもしれません。
サイコドラマはプレイバック・シアターと似ている技法です。
プレイバック・シアターの創始者ジョナサンは、サイコドラマの創始者モレノの研究所で、トレーニングを受けたことがあります。また、モレノの妻であるザーカ・モレノもプレイバック・シアターを作りあげる上で協力しています。ある意味、サイコドラマはプレイバック・シアターの元になっているものかもしれません。
しかし、サイコドラマとプレイバック・シアターはまったく違う技法です。
サイコドラマは、ジェイコブ・レヴィ・モレノによって創始された集団精神療法です。プレイバック・シアターと同じようにウォーミングアップから始まり、サイコドラマが展開し、最後はシェアリングで終わるという流れがあります。
監督と呼ばれる進行役の人が参加者の話を聴いていきます。監督は参加者の話を聴きながら、その人の抱えている問題の根源を探り、解決の糸口を見つけ、語り手にそのことを気づかせ、問題を整理し、解決の方向へ向かうように進めていきます。監督が問題を見つけ、解決まで導いていきます。
サイコドラマとプレイバック・シアターは似ていますが、サイコドラマは「治療」、プレイバック・シアターは「治癒」だと思います。「治療」とは、病気の原因となっている所を特定し、手術したり薬を使って治す医療行為です。「治癒」とは、その人自身の健康状態を向上させることです。
サイコドラマはまさに、原因を究明し、解決策を導きだす「治療」だと言えます。プレイバック・シアターは原因そのものを取り除くのではなく、その人自身の健康能力を引き上げる、まさに「治癒」だと言えます。薬で言えば、漢方薬のようなものです。
治療すれば、病気は治ります。即効性があります。けれど、プレイバック・シアターには治療効果があるとは言い切れません。抱えている問題が絶対に解決する。残念ながら、そのような効果はありません。
プレイバック・シアターは、その人自身をその問題と向き合わせてくれる力をくれたり、立ち止まっていた、見てみぬふりをしていた事から一歩踏み出す勇気。そんなものを与えてくれます。その人が本来持っている自分自身の力を引き出す。それが、プレイバック・シアターなのだと思います。問題を解決するのはその人自身です。もちろん、協力してくれる人、手助けしてくれる人は必要ですが、自分自身のことは自分で決めたり、進めていくことが重要なのだと思います。
その人は私が主催するプレイバック・シアターのワークショップに神妙な面持ちで参加されました。その方を仮にAさんとしたいと思います。30代くらいの女性の方です。Aさんは、なんだかどんよりしていて話しかけにくいオーラがありました。初めて会う方だったので、緊張していたのかもしれません。
その日のワークショップでは、一目惚れしたという恋愛話が語られました。その人があまりにも無邪気に自分の恋心を話すので、緊張していたAさんも次第に笑顔が出てきました。そんな時、次はAさんが語ることになりました。その話は、数年前に離婚したということでした。そしてまだ、その時のことが引っかかっていて、時間が止まったままだと言うのです。
私達は、聴いたまま、Aさんのストーリーを演じました。その時Aさんは、どんな反応をしたかあまりよく覚えていないくらい、反応がないように見えました。けれど、その後のメールでは、「皆さんのお陰で今まで胸の内にあった重たい物が、スーと軽くなりました。不思議な感じです。人生を楽しめそうな気がします。」とのことでした。
そしてその後は、仕事の都合が合わず、私達が主催しているワークショップには一度も参加された事がありません。けれど、半年後、いきなりAさんからメールが来ました。結婚しますと。何の前触れもなく、いきなりだったので本当に驚きました。
プレイバック・シアターで話したことが、なんらかのきっかけになったのかどうか、それは確実に言えることではありません。けれど、プレイバック・シアターでの分かち合いが、きっとAさんの前に進んでいく力になったのではないかと私は思っています。
プレイバック・シアターは、最初にも書きましたが、ただ「語り合う」だけなのです。他の人がアドバイスしたり、乗り越えるための相談をしたり、ということはしません。けれど、プレイバック・シアターで分かち合うと、なぜだか前向きに進む力を与えられます。その問題自体の解決策を得た訳ではありません。でも、なぜだか前に進んで行こうと思えるのです。そこにプレイバック・シアターの「治癒」力があるのではないかと思います。
プレイバック・シアターは治療ではありませんが、人を前向きに、そして一歩踏み出す勇気を与えてくれます。
人の心は、「語り合う」ことで、さらに「感覚的」な奥底まで分かち合えることで、滞っていた血流が流れるようになり、その人自身の心の健康状態をあげてくれるのではないでしょうか?その効果がプレイバック・シアターの「治癒」だと思います。そして、その「治癒」力は自分の中にあります。プレイバック・シアターはただそのことに気づかせてくれるのだと思います。
私は今までのプレイバック・シアターでの経験を通して、参加者が来た時よりも明るい笑顔で帰っていく姿をいつも見ています。
プレイバック・シアターは、自分自身の成長を助け、その人が本来もっている力を引き出してくれるものだと思います。人間は本来、誰であっても自分自身の中に、自分の人生を生きていけるだけの力を持っていると私は思っています。プレイバック・シアターは、ただそのことに気づかせてくれたり、向き合わせてくれたりするのではないでしょうか。
人は自分で自分の人生を生きています。他人に指図されたり、アドバイスされても自分が納得出来なければ、その道を進む事は出来ないと思います。人生では思い悩むことがたくさんあると思います。けれど、答えは必ず自分の中にあります。プレイバック・シアターはそのことに気づかせてくれるのではないでしょうか。
進行役のコンダクターは決してカウンセラーではありません。その人の向き合っている問題を解決してあげるために何もアドバイスはしません。ただただ、話を聴き、その人にみんなで寄り添います。そして、その人の気持ちをみんなで分かち合います。ただそれだけのことです。けれど、それがプレイバック・シアターです。
私はプレイバック・シアターの中で、いくつものあたたかい涙に触れました。もちろん、私自身も数えきれないほど泣きました。
けれど、プレイバック・シアターの中での涙は普段の涙とは違います。あたたかい涙なのです。悲しいのでもなく、嬉しいのでもなく、なぜだか溢れてきてしまう涙なのです。自分の本当の心の奥底に触れてもらえた、嬉しいや悲しいのもっと先を分かってもらえた。そんな時に、自分の意志でどうこうなるものではない所から、溢れ出てくる涙なのです。
それと同じように体もメンテナンスされるようです。私はプレイバック・シアターをすると肩こりが治ります。これは私がそう思うだけで医学的に証明されている訳でもなく、全ての人に当てはまる訳でもありません。私の個人的な感想です。ワークショップの中で肩こりの治療をする訳ではありません。けれど、終わる頃にはなぜだか肩が軽くなっているのです。まるで、心の血行がよくなったような、滞りがなくなったような感じです。
きっと、自分で無意識のうちに蓋をしてしまっている心の奥深い部分、語ろうと思っても言葉にならないから表現できない部分、その部分を分かち合えるから滞りがなくなり、心の血行がよくなり体も軽くなるのではないでしょうか?
プレイバック・シアターは、その人の心の滞りをなくし、血行をよくすることで、本当の自分自身と向き合えたり、その人本来の力を引き出してくれるのではないでしょうか。
そして、それこそがプレイバック・シアターが気づかせてくれる「治癒」力なのではないでしょうか?
プレイバック・シアター研究所の理事長と一緒に、提供先の病院や施設に行ったことがあります。その中で、理事長は必ずしもプレイバック・シアターを提供している訳ではありませんでした。けれど、どの場所で提供していることもプレイバック的でした。
プレイバック・シアターは、最初に書いたように挨拶から始まり、ウォーミングアップをして、ストーリーをするというものです。けれど、それをしなくても、その場はプレイバック・シアターになるのです。
さらに、私が知っている他の実践者の方々もプレイバック・シアターそのものを提供していることは少ないそうです。それは、大事なのはプレイバック精神だからです。それさえあれば、何をしてもプレイバック・シアターのように人と交流ができ、あたたかい場になります。
私が思うプレイバック精神とは、気持ちや今感じている事を大事にすること、その場に居る全員を尊重すること、否定、批判なしに全てを受け入れること。一言で言うと愛かもしれません。
人を愛すること。プレイバック・シアターが大事にしている精神は、人の根源的なものなのかもしれません。
プレイバック・シアターは決められたものを提供するものではありません。その場所、人に合わせて、提供するものを変えることが出来ます。そのため、どこであっても、誰であっても一緒に語り合い分かち合うことが出来ます。それは、プレイバック精神さえ大切にしていれば、プレイバック・シアターが出来るからです。
そして、それは日常生活でも同じ事だと私は思います。プレイバック精神、つまり愛をもって人と接する。みんながみんなその気持ちをもって人と接する事が出来れば豊かな人間関係が築けるのではないかと思っています。
人はみなそれぞれストーリーを持っています。
お互いがお互いに、ストーリーを語り合い分かち合うことで、今の希薄な人間関係にも繋がりがうまれてくるのではないかと思っています。そして、気持ちは誰もが持っているものです。
自分の気持ちを相手の気持ちを大切にしてください。
さらに、人は一人一人がかけがえのない存在です。みんな自分の中に生きる力を持っています。そのことを忘れないで下さい。
豊かな人間関係を築くためにプレイバック・シアターが教えてくれたことは、お互いに「語り合う」ことの大切さ、「感覚的」な部分を分かち合うこと、そして、自分の中にある「治癒」力=生きる力を信じることです。
私と同じように、生きにくさを感じている人へ、人と関わりあう感動をまだ知らない人へ、一人残らず届くようにプレイバック精神を広めていきたいと思います。
本論文の作成にあたり、仕事場である提供先の病院や施設等を快く見学させていただいた、プレイバック・シアター研究所の羽地朝和理事長、論文に不慣れな私に的確な助言と熱心なご指導をいただいた、藤澤朝子さん、大変厳しくも愛情あふれるご指導いただきました、太田華子さんに感謝の意を表します。
また、ろうあ者との貴重な体験をもたらしてくれた、中山千春さん、地元山梨で多くの経験を積ませていただいたぶどうの樹のスタッフと参加者の方々、私がプレイバック・シアターで関わってきた全ての方々、どの出会いもどの経験もなくして本論文は書き上げることが出来ませんでした。ありがとうございました。
そして、一緒に勉強し、支え合ってきた、実践リーダープロジェクト第5期のみんなと過ごした2年間は、私の宝物です。
最後に、私の活動への熱意を理解し、心強く支えてくれている夫である山村淳に心より感謝いたします。
「プレイバック・シアター ー癒しの劇場」 ジョー・サラ 社会産業教育研究所
「サイコドラマ ーその体験と過程」 イレーン・イラー・ゴールドマン、デルシー・シュラム・モリソン 金剛出版
「心のエコロジー」 小林雅美 鳥影社
「交流分析のすすめ ー人間関係に悩むあなたへ」 杉田峰康 日文選書
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