明治政府は政府発足後、修史事業を開始します。
1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。
しかし1877年(明治10年)に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。
またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。
とWikipediaにあります。
この過程で阿波藩も明治政府、あるいは明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
これが、「阿波国風土記編輯御用掛」です。
「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」には
明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。
この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。
とあります。
この「阿波国風土記編輯御用掛」とは?
昭和8年12月、阿波国国府町の後藤尚豊翁手記の記録が子孫である後藤捷一氏の書簡として残っているという記載が「阿波郷土会報」の文書を集めた「ふるさと阿波」に「阿波国書誌解説」としてありました。
その手記の内容は「風土記編纂掛名面」。
上記「阿波国風土記編輯御用掛」メンバーの一覧です。
以下自分のブログに書いた文章を記載します。
土記編輯御用掛 長久館出仕 松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤 士族五人御扶持
常三島 渡辺 圓
同 八木 正典
御弓町 郡 一郎平
佐古 椎宮下神職 生島 瑞穂
南分右同惣而士族御用取扱 板野郡坂東村神職 永井 五十槻
郷学所ヘ出ルニ付除ク 阿波郡尾開村士族 四宮 哲夫
同郡香美村神職 浦上 美澤
美馬郡上野村神職 二宮 香取
三好郡盡間村神職 近藤 忠直
麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
名西郡諏訪村神職 多田 義高
明治四年末七月二十三日 名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
勝浦郡小松島浦 八木 佳七
那賀郡吉井村 服部 友三郎
同郡大京原村 高石 延吉
海部郡郡奥浦 桂 弥平
同郡牟岐浦神職 榊 枝直
従事セヌウチニ転 同郡同浦神職 阿部 三豊
ジタラシキニ付除ク
徳島 小杉 榲郎
名東 新居 正氏ヲ脱セルカ
とありました。小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。
先に小杉榲邨氏の名が見えないと書いたのは間違いです。
そして名面の説明です。
松浦 宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」
渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿
生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。
永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)
四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四
浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四
近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。
久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七
多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。
後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六
八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇
服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)
高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)
桂 弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)
後藤 麻之丈氏については、国府町早渕の人で、後藤家文書にも出てきます。
庄屋を勤め、後藤家文書内では「麻之丞」(出てこない「丞」の水の部分が口の漢字)
となっています。
後藤捷一氏がその子孫です。
名西郡諏訪村神職 多田義高氏についてはきちんと調べてはいませんが、現在の石井町
浦庄近辺の神社、日吉神社、王子神社、斎神社の神主が多田姓の方なので前記の神社の
神職であった方だろうと思われます。
同様に「浦上美澤氏」も現在の市場町、天満神社、若宮神社、八幡神社、住吉神社
八坂神社、建布都神社等の神職が浦上姓の方です。
震えが来ませんか。
大麻比古神社神主の方までいます。先に自分で書いといて何なんですけど
ほんとに藩を上げての一大プロジェクトだった訳ですね。
で、麻植郡川田村神主早雲兵部所藏。
というわけです。
徳島県民で多少なりとも県史をかじった方なら、これがどんなに凄いメンバーか判っていただけると思います。
そして、指揮を採ったのが、かの「小杉榲邨」。
「阿波国風土記編輯御用掛」は明治五年の廃藩とともに廃止されましたが、編纂の過程で
多田直清「村邑見聞言上記」、後藤尚豊「阿波国名東郡郷名略考」、久富憲明「麻植郡風土記」などの資料が残されました。
で、今回「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」の注釈より、この「阿波国風土記編輯御用掛」が編纂した「阿波国風土記」が筑波大学附属図書館に所蔵されていることが判り、コピーを請求いたしました。
筑波大学附属図書館の解説は下記の通りです。
阿波國風土記
アワ ノ クニ フドキ
久富憲明撰
[製作地不明] [製作者不明]
形態 5冊 ; 24.0×16.6cm
別書名 阿波國風土記編輯雜纂 (へんしゅうざっさん)
注記 稀覯本につき記述対象資料毎に書誌作成
写本
不分巻5冊 (1帙入)
冊次は小口書より
巻頭の書名下に「巻之1」とあり
[5]の16丁ウラに 「右置文麻植郡川田村神主早雲兵部所藏」
「天保十年三月木内茂臣が写せし本をもて校合」
「天保十年四年四月八日野口とし長」 等の朱墨による書き入れあり
挿絵あり
墨書と朱墨の書き入れあり
見せ消ち, 胡粉, 紙片の貼付による修正あり
付箋あり, [5]に紙片(25.0×16.6cm)の挟み込みあり
印記: 「光輔」, 「風土記編集掛」
保存状態: 虫損あり, [5]の後表紙なし
後から判ったのですが、やはり一部では存在が知られていて「阿波国続風土記」と呼ばれてもいたようなので、以降「阿波国続風土記(あわのくにしょくふどき)」と記していきます。
内容は上記解説にあるように「阿波國風土記編輯雜纂 」。
中止された、阿波藩庁版、「阿波国風土記」の「原稿」です。
第一巻は久富憲明の署名で始まり、ほとんど校了前の状態が伺えますが、二巻目以降は全くの「雜纂」状態です。
平成22年7月第一巻を上梓させていただきます。
先人の残せし至宝、堪能していただきたいと思います。
そして内容について知りたい!!!
ぜひ解読にご協力ください。