希望の松明(たいまつ)を持ち続けるマインド

プロローグ

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右肩上がりの経済成長期には、ご利益信心が持て囃されましたが、厳しい時代には見向きされなくなります。

その理由は何でしょう?

それは「信心をすれば儲かる」と言っても、儲かる人が多くなる時代ではなくなったからでしょうね。

右肩上がりの時代には、確かに儲かる人が多かったので、そのように言っておけば、期待をして信心をして「お布施」を包む人も多かったことでしょう。景気の安定期に入り、また景気に陰りが見え始めると、求める側にも変化が出てくるのかも知れませんね。

生きていくためには、経済的な流れが必要ですし、それがないと安心して過ごせないですよね。その「生きていくための求め」は、金や財産というものではなく、それらを通じて得られる安心感につながっているように思えてならないのです。

つまり、経済的な裕福さがあるかどうかがマインドを決めるのではなく、「あればOK」「なくてもOK」な、しなやかなマインドをもてる方法があれば、安心感を持ち続けられるのではないでしょうか。

実は、そんな「しなやかなマインド」を持てる方法があるのです。

そのマインドだけ適用しても効果が期待できますが、その基礎となる土台を理解できると「真の平安」にたどりつけるのです。

その根拠は、「聖書(バイブル)」に書かれています。

聖書を、「宗教書」として受け止めている方も多いと思いますが、「信仰書(創造主との契約の書)」と考えて、このサイトを書いてみました。それは、「創造主から被造物である人に、平安を与える保証」が書かれてあると理解しているからです。

経済的な葛藤について

例えば、財産がない人はある人が羨ましいし、「あれば幸せだろう」との思い込みを持つ人もいるでしょう。

一方、財産がある人は、あるが故に苦しんでいることもあると見聞きします。

もちろん個々が生存するために、なくてはならない必要はあるのでしょうけれどね。

「人は無い物ねだり」ですよね。 世の中には「際限のない欲望」が渦巻いているように感じます。

適度な欲望は人を幸せ感に導くけれど、欲望に振り回されるほど惨めな気分に誘われるのではないでしょうか。

決して、欲望が悪いわけではないでしょうが、それに振り回される状態に課題があるわけです。

不安は気持ちの一つの状態ですが、それが膨らめば希望を打ち消す要素がでてきます。そして、失望へ誘い、やがて絶望に陥るのです。

不安要素があっても、希望を持ち続けるマインドを持つことができれば、絶望に至る道は回避できるのです。

人間は、自らの努力だけでは「絶望への道」を避けられないですし、現実を目前にすると愕然としてしまうのです。

「バベルの塔(創世記11章)」や「バブルの塔(経済的な破綻の連鎖現象)」も頓挫した時に広がる喪失感は、計り知れないダメージを伴います。そして、多くの人がそのトバッチリを受けています。

人は何かを信じて生きている。個人の確信は、それぞれの価値観なのかもしれない。

信じる対象は、宗教や神ということだけではなく、自分であったり家族であったりする場合も多いでしょう。

私はそれを信仰と呼ぶことにしています。 その軸は、「信じられる⇔信じられない」となります。

つまり、何を信じるか、或いは、信じないかは自分で決めているのですね。

もちろん、信じたい気持ちや信じたくない気持ちも関係してくるのでしょうね。信じたい対象が絶対的存在でなくても、心情的に信じたいと考えていることも多いでしょうね。

あなたは、何をどのように信じているかをハッキリと表現できますか?

その対象が宗教であるなら、何教の信者であったとしても、その教義を理解している人はどれくらいいるでしょうか?

ニュアンスの部分は個々人の感覚に委ねられていることも多いように感じるので、曖昧な範囲も多いのではないでしょうか?

組織を信じる対象とするとなると、もっと厄介になることがあります。時には、方向性がおかしくなることもあり、何らかのトラブルに巻き込まれれば、その組織が崩壊してしまうこともありますよね。

何らかのトラブルで修復ができない歪が生まれる時は、利害相反が根底にあるのでしょうけどね。

個人として、何を信じて生きていくのでしょうか? (心理的に適用できる考え方として)

自分は何者なのでしょうか?

「わたしは誰でしょう?」と鏡に問いかけても、答えは帰ってこないかもしれません。

鏡の中の自分は、自分の外見に過ぎないからです。

本質は、アナタの内面にあります。

人間であれば、誰でも、父と母が出会い、母の胎内で命を育まれ、この世に生を受けたのですよね。

一般的には、産み落とされた瞬間から「産声」を上げ、「なく」ことで親に命のサインを発信し、愛情を注がれたことでしょう。

ミルクをもらい、オムツを替えてもらい、すべてを世話になっていても、ただ生きているだけで、存在を喜んでもらっていたのです。

ハイハイをするようになり、つかまり立ちや歩行ができるようになるに連れて、周囲の目も激変していくことに戸惑った人も多いでしょうね。何でも喜んでもらえた事が、そうでは無くなるからです。叱られる事が増えたり、親の価値観や安全のための規制の影響を受けるようになるのです。


人の要素を「存在(being)」と「行為(doing)」と「持ち物(財産having)」に分けて考えてみる。

これは、「3つの真実(野口嘉則著)」の「自尊心を自分で満たす(p81~)」の項にも出てくるので興味がある方は参照していただきたい。

『行動や行為のことをDoing(ドゥーイング)という。そして、その結果得られるものをHaving(ハビング)という。子育ての例で話そう。親が期待するような行動を取ったときに、『いい子だね』と褒める。これはその子の行動、つまりDoingを評価したことになる。また、子どもがいい成績を取ったときに、その成績を褒める。これは、その子が手に入れた結果、つまりHavingを評価したことになる。

しかし、DoingもHavingも、その子自身ではない。その子の付属物じゃ。一方、その子自身のことをBeing(ビーイング)と言う。Beingとは、その子の存在そのもののことじゃ。人間はDoingやHavingばかり評価されていると、自分の存在、つまりBeingが不安になってくる。『そのままの自分ではダメだ』と思えてくるのじゃ(P84~P85より引用 原文ママ)』

「そのままの自分がすばらしい」とか「ありのままのあなたがすばらしい」の真意は?

それは「being(存在)」としての自分を受容することです。

しかし、「doing(行為・行動)」も自分から出ているために混乱が起きるのです。

つまり、「こんなことをしてしまう自分はダメだ」と考えてしまい、「doing」を変えればよいだけのことが、自分の存在を否定してしまうことになって絶望感を味わう人が多いのです。

どうすればよいのでしょうか?

まず、「こんなことをしてしまう自分」を自分で受け入れる(自己受容)することです。その習慣をつけることによって自分の「being(存在)」が落ち着いていくのです。

そこから「doing(行為・行動)」や「having(財産)」を再構築していくことができるのです。

自分で自分を「存在否定」しない習慣を身につけることです。

それが「ありのままのあなたがすばらしい」の真意です。

これを自分でするのが難しい人が多いので、カウンセラーや医療関係者の助けを借りる時期も必要があるのかもしれません。

なるべく自分でチャレンジされることをおすすめします。

長い間、続けてきた習慣を変えるのはたやすくないことですが、自分に変化を求めるなら、やりがいのあるチャレンジになるのではないでしょうか。

自分の領域を再設定する

「自分の分をわきまえているか?」と言われた経験がありますか?

理想的な考え方を披露したり、大風呂敷を広げたりしていると感じられた時に、周囲の人が口にすることが多いでしょうね。

もちろん、チャレンジできることは重要で幸せなことなのですが、自分の環境や領域を意識することが最も大切なことなのです。

定期的に「シンプルに再設定」する習慣も良いのかもしれません。

自分の範囲や人との距離感、自分が主体として取り組むテーマか、他人のサポートに回るテーマなのか?

自分が負えるモノなのだろうか?自分が負える範囲はどこまでか?

自分が悩んで解決できるテーマなのか?

自分は何者でどうなろうとしているのか?

などを紙に書きだして考えてみると新しい発見があるでしょう。

必要な物を書き直し、不必要だと感じた紙は破いて捨てるなど目に見える形で行うことで、意識付けもインパクトの強いものになるかもしれません。創意工夫を重ねて、自分自身にあった方法を発見していくのも楽しいことですよね。

自分を大切にする事の真意について

「自分を大切にする」ことは、当たり前のようで、できていない事が多いように感じます。

「大切」とは何でしょう?

先人は「LOVE(愛)」を日本語に翻訳するときに「大切」と当てはめたと聞きます。

「愛」に含まれる意味は、すべてを表現できないような深さがあるのでしょうね。

「自分を大切にする」ことは、「健全に愛する」ことだと考えています。

つまり、「驕らず・甘やかさず・叱咤激励しても存在を痛めず」です。

このように、自分の裁量の幅が大きいので、理解も苦悩も多く、葛藤に陥りやすいのかもしれません。

例えば、勉強を何時まで何ページすると決めてもなかなか達成できなかったり、健康のためにスイーツを控えると宣言しても誘惑に負けて食べてしまったり、なんて経験をしている人も多いと思います。

自己受容しつつ、自分を客観視する視点を意識し、より健全な自分になっていくために歩みを進めるということでしょうね。

「自分はオリジナルな作品として生を受けました。すべては備えられているので、無尽蔵のエネルギーを感じながら力強く生きていこう」と口に出して言ってみませんか?

その土台部分は聖書に示されている。創造主の目的は真の平安を与えるために

「存在不安」の源泉は壊された架け橋

緩やかな失望感ほど、「真綿で首を絞める」ようにきついモノはありませんよね。

自分が生きている意味がわからないと、失望し絶望感に苛まれるのです。

人は天寿を全うするために生かされるのだろうと思っても、生きている充足感が感じられる日はどれだけあるのでしょうか?

充実感の積み重ねで充足感を得て活力を得ていけるとハッピーなのかもしれません。

行為の結果から充実感を味わう習慣がついている人は、事態が悪化するとマイナスのスパイラルに陥ってしまうかもしれません。

それよりも、人は絶えず何かに怯えているのかもしれませんね。

本能的に知っているからこそ、苛まれるのでしょうか?

人はエデンの園で創造主と直接コミュニケーションができていたのですが、それが、人の側の都合でキャンセルされました。

創造主がキャンセルしたのではないのです。つまり、人が自ら「霊的な橋」を壊してしまい、創造主との霊的関係が断絶してしまったのです。

それにも関わらず、創造主は「霊的な橋渡し」の契約を人に対して示しておられるのです。

それは、あたかも父親が子にかける生命保険のようです。

「霊的な回復のための契約」

「契約者は創造主」

「支払いは受肉された御子イエス・キリスト」

「受け取りは人一人一人(個別サインが必要)」

不安の原因は「罪」と指摘されます。

そのように書かれると罪責感に苛まれ、自分では贖えないためにオロオロしてしまうのです。自己正当化したいし、責任回避もしたいのです。だれも、それを背負いたくないのです。

しかし、その保険も保証もすでに用意されているのですから、それを受け取ればいいだけの話です。

そうすると「罪の恐れ」から解放されます。

人が背負えない重荷を「御子イエス・キリスト」が背負って十字架上で贖って下さったからです。

すでに贖われたものを思い出しては悲しむのは、完済している借金を思い出して悲しんでいるのと同じようなことをしているのです。

創造主の約束

「自分はオリジナルな作品として生を受けました。すべては備えられているので、無尽蔵のエネルギーを感じながら力強く生きていこう。船主である創造主は、船長である私が安全に健全に世の荒波を航海できる保証をすでに備えていてくださる」

人の魂は永遠に生かされるが、人の肉体は有限です。肉体に生かされている人の致死率は100%なのです。

人は、肉体に生かされている間に霊的回復契約の更新が必要で、肉体に生かされている一人一人が個人的に完全な契約を受け入れるだけでOKとされています。

そうすると、魂に包まれた霊性が聖霊に満たされ、心に平安をいただけるのです。さらに、その霊性を通じて無尽蔵のエネルギーが供給されるのです。

平安を阻害するモノ(罪責感)は不安を膨らませ、恐怖を呼び起こし、恐怖感に覆われて絶望にいたり、知らず知らずのうちに、それに支配されてしまうのです。

恐怖感に支配されないことが平安を保つ秘訣です。

世の中には、不安な要因は多いですが、それらに取り憑かれない工夫ができると平安への回路ができるのです。

平安でいられる根拠は、自分では為す術のないことを目前にして途方に暮れていた人に、唯一の方法(前述:霊的回復のための契約)が備えられていたという事実です。

裁判では、無罪か有罪かを争いますが、無実かどうかは扱われません。そのように、人は無罪を勝ち取ろうと必死の努力をします。

判例では、後々になって冤罪だったということもよく聞きます。

しかし、全能の前では無罪主張には無理が生じることでしょう。それだけ「罪」の影響は深刻なのです。人はその影響下にさらされているのです。

覆われていたモノに覆い被さって下さった御子イエス・キリスト

ここまでは、創造主と記述してきましたが、三位一体の神(御父・御子・聖霊)と同一の存在です。

「霊的回復のための契約」の最重要点は、「義と愛」をどこにたてるかにかかっています。

旧契約の時代には、幕屋や神殿において、至聖所が設けられ、年に一度、大祭司が生贄の血を持って入り、契約の箱の上部に注いだと記されています。そうすると、そこに「シャカイナグローリー(神の存在)」があらわれたといいます。もし、その血が受け入れられなかったなら大祭司の命はないために、片足にロープを付け、動いている確認のために鈴をつけて隔ての幕をくぐっていったと伝え聞きます。

その形式は、新契約では「御子イエス・キリストが肉体をとって十字架上で贖う」ことになっていたのです。

旧契約では、一年に一度、至聖所に血を注ぐことになっていたのですが、新契約ではこの一回だけで完成するのです。

人の形をとって人と同じ生活環境で様々な誘惑や試練に打ち勝ってくださった唯一の正しい御方が、全人類のために全てを背負い全血を注いで贖いを完成して下さったからです。

それは、自ら契約の箱の蓋になって全血を注いで下さったようにも見えるのです。

選ばれた母マリヤはダビデの家系でした。また養父のヨセフもダビデの家系です。マリヤは処女でしたが、聖霊によって身ごもったと記されています。それは非常に重要な事で、アダムの性質を受け継がない形で、人には想像もつかない信じがたいことを通じて、契約を筋道を通して完成して下さったのです。アダムの子孫を贖うためには罪の性質を持たない人が必要だったからです。

福音の三要素

(1)キリストは私の罪のために死なれたこと

(2)墓に葬られたこと

(3)三日目によみがえられたこと

特に、政治犯として十字架刑に処せられたのですから、墓に葬られるというのは例外中の例外なのです。普通は晒し者にされて、風葬にされていたの記述があるようです。

十字架に架かられて絶命したときに、聖所と至聖所との隔ての幕が上から下に裂けたと記されています。

つまり、御子イエス・キリストの犠牲が受け入れられた証なのです。

約2000年前の過ぎ越しの祭の時に、御子イエス・キリストが十字架刑で死ぬことが唯一の贖いの方法だったのです。

その契約を受け入れるだけで無罪と認定していただける

それは、ライフジャケットを着るのと似ています。泳げなくても水面に浮いて助けを待つライフジャケットです。

そのように、キリストを着るのです。

英語の単語を覚える赤いシートをご存じないでしょうか?赤い色の透明シートをあてると赤い文字がみえなくなるので、単語を覚えながら確認ができるあれです。

そのように、一度キリストを着ると、重荷である「罪」は裁く側からは見えなくなります。

しかし、自覚が残る肉体が、繰り返し思い出し自分を苦しめ続けるのです。無罪とされた事を忘れてしまうのが人なのですね。

そして、完全ではない人間は、繰り返し過ちを繰り返す現実があるので、さらに苦しむのです。

完全でありたい良心を持てるが故の苦しみかもしれません。

それでも、完全ではない事実を受容しませんか?

そこから、平安がはじまるのです。

人と人の関係と人と神の関係を別に考える必要がある

人と人の関係においては、自分がしてしまった過ちに目をつむることではありません。

犯罪であれば、刑事罰を受け償う必要があるし、民事で賠償が必要なケースもあるでしょう。

迷惑をかけた相手がいるなら謝罪も必要なケースもあるということです。

神と人との関係においては、「無罪とする契約」は常に提示され続けています。

選択権は人にあり、受け入れるか拒否するかは各個人の自由意志に委ねられているのです。

創造主である神が無罪と定める人を、「無実ではない」と訴えても誰も有罪にすることはできないのです。

それが一番たいせつなポイントなのです

霊的な繋がりの回復によって、活性化された霊性を通じて、エネルギーの源である神(Being)との接続が回復すると豊かな供給が得られるのです。

存在の原点である魂の重さは物理的には計測不能ですが、創造主のみが評価できるのです。

「存在は一人一人高価で貴い」 それが、創造主の評価です。

自分がそう評価されていることを毎日確認しましょう。

行為や結果が思わしくなくても存在が悪と評価されることはないのですから

自分の存在に「自分は自分でOKなんだ」

そしてまわりの大切な人に「あなたはあなたでOKなんだ」

平安の原点に戻る方法を少しずつ確立していきませんか

一人でも多くの人が、平安を実感されることを願いつつ

エピローグ

ここに記したことは、エントリーに過ぎない。

主の祝福は計り知れない。

主に栄光あれ、ハレルヤ  アァメン


詳しく、創造主から人類へのラブレターである「バイブル」のヘブル的解釈に興味がある方はコチラの資料をご参照下さい。

※ご意見・ご感想はこちらのコメント欄までお願いします。返信は確約できませんが、参考にさせていただきます。

※2014年9月29日時点で書きかけです。2022年5月利便性向上。

※聖書に興味があったり、教会に行きたいと考えている方に読んでいただきたいです。

※「霊的回復のための契約」は、この文章を書くために用いた言葉です。特定の神学の概念ではありません。

※御子イエス・キリストをメシアと信じる立場で書いております。文中の創造主・神(Being)・三位一体の神・主は同一の存在を指します。

※信仰は平安と自由を獲得するために個人に与えられた権利だと考えてこの文章を書いております。ただ、いかなる団体の利益を損なわせる意志は毛頭ありません。価値観は信仰を持つ当人にありその判断は最大限尊重される必要があると考えています。宗教や組織に縛られる信仰を強要される事は自分の平安に生きる権利を放棄してしまう選択かもしれません。

(C)DaviBlackstone2012