長い略歴

第一節 学生の頃(1975-1997)

1 広島に生まれる

1975年広島市三篠生まれ。横川駅の近くに住んでいましたが、記憶はありません。その後、吉島に引っ越して、小学生になるとき廿日市市に引っ越しました。広島カープに洗脳されて育ったため、身体に赤い血が流れています。

写真は実家の庭です。郊外で樹木が多いのですが、剪定の大変さを見ながら育ったので、私は住居に庭がほしいと思わなくなった。昔は大きなユーカリがあって、とても気に入っていたけれど、ある年の台風で倒れてしまった。

阿品台西小学校に通っていました。ひたすら鬼ごっこをしたり、コロコロコミックを読んでいました。ビックリマンチョコが大ブームでした。いまもヘッドロココ等のシールを大事にもっています。

2 広島で育って上京

広島城北中学・高校に進学しました。平和な男子校です。今はどうか知りませんが、最寄りの「芸備線 戸坂駅」は無人駅でした。週刊少年ジャンプを読みながら、片道80分を通っていました。

私はこの学校での「日直日誌」が、文章を書く楽しさを知るきっかけになったので、人生には何がどう影響するか分かりません。なお、EDI代表の今井誠君は、中高での同級生です。

94年に高校を卒業し、早稲田大学商学部に進学しました。上京して、新宿区中井で一人暮らし。入学すると毎日のように合コンがあって東京ってすごい早稲田に入ってよかったと心の底から思いました。

3 Studio Lifeの役者になる

大学生のときは、大学とは全く関係ない劇団スタジオライフにオーディション入団し、ひたすら演劇をしていました。両親は嫌がっていましたが、両親が私をよく観劇に連れて行ったのが原因なので、仕方ありません。

97年の「トーマの心臓」(萩尾望都 原作)に、主人公ユーリの母親役で出演しました。蜷川オフィスがあったベニサンピットが会場で、写真はその楽屋。この劇団は役者は全員男性で、女役も男が演じるのですが、内部は全く耽美ではなく、荒くれた男子校のようでした。

演劇の経験は、その後、私が人前で話す技術の土台となりました。また、それ以上に「お客様あっての自分」という意識が叩きこまれたのは一生の財産になりました。

4 経済学に転向した

大学4年生のとき「演劇では食えない」とようやく気付きました。ちょっと遅い。そこで私なりに必死の転向で、大学院への進学を目指すことにしました。経済学を選んだのは、商学部の成績が悪かったからと、体系性があって独学に向いている気がしたからです。

大学生の4年間はやりたいことを全部やりました。ドラマの世界でもこんなに面白くはできないだろうと思う、本当に素晴らしい日々でした。

写真は98年3月、早稲田の卒業式。いまも早稲田大学には深い愛着があります。

第二節 修行時代(1998-2010)

5 意外と上手くいく

98年に神戸大学大学院に進学しました。『環境と社会経済システム』で感銘を受けた鷲田豊明先生に師事するためです。なお私は名前に「豊」がある人を無条件で信用する癖がありますが、これまでそれで失敗したことはありません。

00年に提出した修士論文がフィールドトップ学術誌に掲載されることになり、研究者としての人生が拓けました。論文はこれ

写真はその論文で兼松フェローシップを受賞したとき。同賞は翌年も別の論文で受賞しました。

この頃は「加算無限次元空間で、次元の置換に不偏な、連続な二項関係」を研究していました。世代間公平を念頭に、無限期間モデルで社会厚生尺度の存在を問う、数理的な問題です。

当時は Kelly, General Topologyが座右の書でした。もう一人の師匠である入谷純先生とBourbaki, Theory of Setsも読みました。ブルバキは本当に勉強になった。

この頃アロー『組織の限界』の復刻版が岩波書店から出版されました。私はこの本に life changing な影響を受けたと思います。その後同書が、ちくま学芸文庫に収められるとき、解説文を依頼されたのは嬉しかったです。

6 ロチェスターで月800ドルの極貧生活

01年9月から、05年3月まで、米国ロチェスター大学経済学博士課程に留学しました。

写真は楽しそうですが、これは渡米直後で「まあ俺どうにかなるっしょ」みたいな気分のときだからです。この後、地獄のコアコースが始まり、想像を絶するスパルタ環境に突入。あまりに過酷なのと、周りが優秀すぎて、歩きながら涙がツーと溢れたことがあります。

学費は全額免除でしたが、最初は大学から生活費の支給を受けられませんでした。日本からの奨学金で、月800ドルで生活していました。そこから家賃などを引くと毎日使えるのは8ドル。3箱で1.5ドルの格安パスタを主食にしていました。ダンボールのような味だった。

その後、同大学の研究所のフェローに応募して、採用してもらい、生活できるようになりました。綱渡りでした。

20代の私は self-made man になるんだという思いが非常に強く、この点はアメリカの価値観と相性が良かったです。ハードワークを尊ぶ文化は好きです。

7 結婚して博士とって就職

学中に、神戸大で知り合ったいまの妻と結婚しました。遠距離結婚です。当時私は所持金が300円くらいで、式はあげてないし、指輪も渡せませんでした。見かねた祖母が指輪を買ってくれました。

ロチェスターではWilliam Thomson教授に師事。「精神と時の部屋」「大リーグ養成ギプス」のような訓練を受けました。

例えば金曜の夕方に研究室に呼ばれて、論文を渡され「月曜日に俺に完璧に説明せよ」というような。彼が編集長を務めていた学術誌の、審査の手伝いです。ひどい無茶振りですが、無理矢理やっていくうち、できるようになりました。これは私ではなくThomson先生が偉い。

当時はメカニズムデザインの実用が、強烈な新潮流として現れたばかりでした。自分もその方向で行こうと思うようになりました。

課程の3年目が終わる頃には博論をほぼ書き終え、同期では最短(3年7カ月で最終試問)で学位をとりました。おそらく今でも同課程の21世紀での最短記録だと思います。博論は全章がそれなりの学術誌に載りました。

05年3月に帰国して、公募で決まった横市大の准教授に05年4月に着任。その後、横国大が移籍のオファーをくれました。

8 物書きキャリアを開始、仕事と育児の過労で倒れる

06年に横国大の准教授になりました。公共経済学やミクロ経済学の授業を担当し、09年にはベストティーチャー賞をもらっています。

自分の学問を普及させたいとの思いは強く、本を書き始めました。物書きとしてのキャリアのスタートです。

まずはミネルヴァ書房から『メカニズムデザイン』、続けて『マーケットデザイン入門』を公刊しました。後者の分野は当初誰にも知られておらず、全く売れませんでした。その後時代が変わり、いまも増刷を重ねています。

プライベートでは子どもが続けて生まれました。妻の産後の調子が思わしくなく、けっこう長い間シングルファザー的に育児をしました。

10年には過労で一度倒れました。回復に時間を要しましたが、あまりに大変で、この時期の記憶がろくにありません。

私は10年に、研究者を育成しやすい大学に移ろうと慶應の公募に出願し、採用が決まりました。過労の一因がこの転職活動だったことは覚えています。この辺りの時期までが「私の修業時代」(Apprenticeship)です。

第三節 活動の多角化(2011-2017)

9 慶應に移籍した

11年に慶応の准教授になりました。その後いくつかの大学から移籍の誘いをもらいましたが、愛塾心が強すぎるため、お受けしていません。

ゼミの一期生からは研究者を2人輩出できました(岡本実哲 明治学院大准教授、河田陽向 駒沢大専任講師)。

14年には教授に昇格しました。嬉しかったです。このとき38歳で、当時の教授では最年少でした。

写真は慶應に移籍直後に研究室から撮ったもの。東京タワーが真ん前に見えていました。その後タワーマンションが建ち、見えなくなりました。

オークションの理論や実験の研究をしながら、本の執筆を増やしていきました。13年に『マーケットデザイン』『社会的選択理論への招待』を公刊。

14年には『準線形環境におけるメカニズムデザイン』『メカニズムデザインと意思決定のフロンティア』を公刊しました。

10 『多数決を疑う』を公刊した。高校国語の教科書に採用される

15年に『多数決を疑う』(岩波新書)を公刊しました。当時私は代表作、つまり誰に対しても「自分は人生でこれをやった」と堂々と言える作品を切望していました。

尊敬する友人の井手英策が次々と優れた著書を公刊する姿を見て、そう思うようになった面があると思います。岩波書店は井手さんからの紹介で縁をもちました。

この本は広く読まれ、高校現代文の教科書に所収されました(大修館)。教科書内での位置付けは「政治」で、丸山眞男と並んで載って嬉しかった。

また、この本は京大・筑駒高校・警視庁をはじめ数十の試験で用いられました。

この本に限らず、それまでの著書がわりと読まれるようになり、企業からの相談を受け始めました。

11 本を続けて公刊。アジアで翻訳されるように

16年には『決め方の経済学』を公刊しました。選挙だけでなく、ビジネスや生活での集団的決定を扱った点が、この本の新しさだったと思います。私のなかではスマッシュヒット作。

17年には『ミクロ経済学入門の入門』、そして井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科』を有斐閣から公刊しました。私はさておき、凄いメンバーだと思います。

この頃から著書がよく翻訳され、現在は延べ9件翻訳されています。それを通じて韓国の新聞にインタビューが載ったときは嬉しかった。

多作のコツは線形の生産関数になることです。私の場合、商用水準だと1時間で800字書けます。多い分量ではないですが、この数字が固いことが大事です。100時間を投入すると80000字書けて一冊の本になる。あとは100時間と予備期間を確保するだけ。

12 活動の幅が拡大した

『多数決を疑う』以降、各種メディアに出る機会が増えました。

17年にはNHK・Eテレ「オイコノミア」の準レギュラーを務めました。企画会議で台本の原案を作る所から参加し、経済学の使い方・伝え方の大変な勉強になりました。この経験は現在のコンサルテーション事業の土台になっています。

18年には出演した番組の副読本『NHK 欲望の経済史 日本戦後編』を公刊しました。私は少なくともこの年までは毎年、大晦日も元旦も、延々と論文か本を書いていました。

18-19年には読売新聞、20-21年には朝日新聞の書評委員を拝命しました。現役の経済学者で二大紙の書評委員を経験したのは、おそらく私だけではと思います。

第四節 経済学のビジネス実装を事業化。実業へ(2018-現在)

13 ビジネス実装を続けるうちに、EDIを創業

18年から中高の同級生、今井誠君と「経済学のビジネス実装」を始めました。不動産オークションや、専門職レーティングがその端緒です。20年の『メカニズムデザインで勝つ』はこの時期の活動をまとめたものです。

20年に今井誠、坂井豊貴、星野崇宏、安田洋祐の4人で(五十音順)、株式会社エコノミクスデザイン(Economics Design Inc)を創業しました。この創業は、私の人生のなかでも有数の大きな出来事です。

私たちは従前から各自が「経済学のビジネス実装」に関わっており、その流れが来ることを確信していました。創業当初から色々と仕事をいただけたのは、PMFがよかったのだと思います。

22年の『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています』ではこの会社の活動の一部を紹介しています。

14 暗号資産・ブロックチェーンを活動の軸の一つに

野口悠紀雄さんとNHK「欲望の経済史」で対談したとき、彼が熱っぽくビットコインについて語ってくれました。それをきっかけに暗号資産に関心をもち、19年に『暗号資産vs国家』を上梓しました。以後、暗号資産やブロックチェーン関連の方と交流することが増えました。

そして黎明期のAstar Network(日本発L1チェーン)やGaudiy(国内トップweb3企業)と関わるようになり、いまに至ります。ときどきエンジェル投資にも参加します。大型web3プロジェクトONGAESHIにはコアメンバーとして事業に注力しています。

15 プルデンシャル生命保険に参画する。未来へ

22年には個人として、プルデンシャル生命保険の社外取締役を拝命しました。新しいチャレンジです。プルデンシャル生命は実力主義で、ビジョンが強く、風通しがよい会社です。写真はクリスマスの時期の本社タワー前。

自分が関わる全ての人と会社とプロジェクトを成功させることが、私が満たすべき最低条件です。

私は常時、新しいチャレンジを求めています。面白そうな事や人には喜んで時間を使います。