協力隊の鈴木です。
2025年10月の活動報告になります。
記録的な暑さだった夏が遠い記憶になるくらい、村に秋冬シーズンがやってきました。
秋を象徴する稲穂の輝きは私達の食卓で輝くために一旦姿を消し、かわりに赤く染まった美しい木々達が村を彩ってくれています。
そんな美しい風景が広がる村ですが、ここ最近は熊たちによるニュースで溢れかえっていますね。とても悲しい事件も起きてしまい、警戒ばかりの1ヶ月でもありました。本来であれば森の中で冬眠に向けて準備をしている段階だと思いますが、町まで下りてくるには訳があるということを知らなければいけませんし、そういった森づくりをしてきたのは間違いなく人間だということも念頭に置く必要があると私は思っています。ひとまずは被害に遭わないための行動を徹底して過ごしていきましょう。
さて、今月のトピックスは下記5件になります。
ふる里館周辺の清掃作業、歴史探訪教室、バレーボール大会、仙北道踏査活動、古文書教室や産業祭が開かれました。
10月はありがたいことに行事が続く月になり、今年も様々な秋を楽しむことができました。
食欲の秋、スポーツの秋、そして古文書の秋を過ごしている自分に出会えたことが一番の収穫かもしれません。
東成瀬村は「日本で最も美しい村」連合に加盟しており、今月はビューティフルデーと称された、村内の清掃や文化を継承していく活動が行われました。
この日はふる里館職員全員で敷地周辺の清掃作業を行いました。
秋冬になると落ち葉などが堆積して汚れがちになってしまうので、スコップやジョレンを使って掻き出し、ネコ車を使って運搬していきます。
仙人像手前の階段付近も綺麗にしていきます。普段はなかなか掃除ができていない場所だったため、雑草などを丁寧に抜いていきます。
駐車場入口付近も綺麗にしていきます。この日は秋晴れで屋外活動にはぴったりの日でしたので、作業も捗りました。
最後は仙人像前を全員で清掃作業しました。台座部分の岩に生えた苔や雑草も綺麗にしたい所でしたが、ウルシなどが生えていたため断念しました。30年以上の年月が経つと仙人像もなかなかに年季が入り、汚れも目立ってきています。仙人様も天然のシャワーのみではさっぱりしていないと思うので、大掃除をしなければいけませんね...。
生涯学習教室「歴史探訪教室」が開かれ、今回は秋田県美郷町「坂本東嶽邸・千屋断層」「美郷町歴史民俗資料館」「秋田県立農業科学館」を訪れました。
まず始めに、美郷町の指定史跡「坂本東嶽邸」と国の天然記念物「千屋断層」の両方を見学してきました。
千屋断層学習館にて、大きな断層の原因となった「陸羽地震」についてのお話や、被災前後の坂本東嶽邸の写真などを見ることができました。写真はプレートが移動するメカニズムについての説明を受けている最中になります。
明治29年(1896)8月31日夕方5時過ぎ、秋田・岩手の県境である真昼山地付近を震源とするマグニチュードM7.2の地震が発生し、多数の死傷者や家屋の全・半壊、田畑の損壊などの甚大な被害を被りました。また、この地震は逆断層(地盤が水平方向に圧縮される力によって地層に亀裂が入り、ずれができる断層のこと)による直下型地震とされ、地表に断層岸(断層面が地表に現れたもの)が観察されました。後にこの地震断層は「千屋断層」と呼ばれることになりますが、昭和57年(1982)、東京大学地震研究所を中心に中小森の水田にてトレンチ調査(地面に溝を掘って行う調査)が行われ、逆断層であることや陸羽地震の約3,500年前の断層も存在することが分かっています。
そして、平成7年(1995)2月千屋字中小森Mトレンチおよび赤倉川の河岸断層路頭が国の天然記念物の指定を受け、現在にいたっています。
学習館の壁面には震災前後の東嶽邸の写真や国内の地震研究や映像資料がたくさん展示されていました。
陸羽地震によって壊れてしまった建物の写真も展示されていて、現在のような耐震構造があるわけなく、無惨な姿になっている様子が鮮明に写されていました。
上写真下部に注目していただくと、「29 雄勝郡東成瀬村田子内家屋倒壊」の文字と倒壊した家屋の写真があります。
田子内のどのあたりかは不明ですが、立派なかやぶき屋根の家が間違いなく存在していたことと、地震被害の大きさを感じられる貴重な資料でした。
写真1枚目では小森地区ZトレンチS面の断面がまるごと保存されているものになり、水平に堆積しているはずの地層が地震によって曲がっていることが確認できます。
ちなみにこちらの学習館裏手や周辺で実際の断層岸を見ることができますが、風化などにより確認しづらい状態になっているのが惜しいところでした。
千屋断層学習館のすぐ隣にあるのが「坂本東嶽邸」になります。
ここで坂本東嶽について簡単にご説明しておきます。
坂本理一郎(東嶽)は文久元年(1861)千屋村小森に父 藤兵衛、母 しげの長男として生まれました。幼い頃から素養があり、儒学や和漢などを学び、向上心に燃えた理一郎は12歳で上京し根元通明先生(仙北刈和野生まれ、儒学・漢学者で秋田県人初の博士号取得、後の東京帝国大学教授となる)などからの教えを受けます。※理一郎の号となる「東嶽」は根元通明先生の号「羽嶽」にあやかったと伝えられているそうです。
一旦帰郷し、地元で教職に就いたあと、先進的な政治経済を学ぶべく再び上京し慶應義塾に入学しますが、そこで生涯の友・良き政友となる犬養毅と出会い二人は日本と秋田を変えていくことになります。
その後、明治23年(1890)29歳の時に秋田県議会議員、明治27年(1894)には衆議院議員に選出されましたが、優れた政治的人材が都会に集中し地方農村が立ち遅れていくさまを憂い、代議士を辞して秋田に帰ってくることになります。
帰郷後は村づくりに心身を捧げ、田園都市計画(中央にあった台地=どの地区にも属さない原野を公園とし、公園下に役場や学校などの公共施設を配置して村の心臓部をつくりました)を実行し、各地区へ向けて6本の直線道路を放射状に配置し、その両側に松・杉を植栽し並木道をつくりました。この並木道は現在も美郷町で大切に手入れがされており、現在も中心部などはほぼそのまま受け継がれています。
村づくりは人づくりの理念を掲げた理一郎ですが、晩年に体調を崩し一切の公職を辞して静岡県で静養していましたが、大正6年(1917)4月、57歳という若さで帰らぬ人となりました。
しかし、理一郎の教えを受けた若き青年たちの手によって、村づくりは着実に進められ現在の美郷町まで続いています。地域の人々はそんな理一郎を敬愛の念を込めて「東嶽翁(とうがくおう)」と呼び、理一郎の遺した心は「東嶽精神」として今なお地域住民の心に息づいています。
こちらは邸宅母屋の写真になります。玄関から見える広々とした部屋はどれも丁寧なつくりこみで素晴らしかったです。床の間の部材には重くて硬い黒檀(コクタン:英明エボニー、カキノキ科カキノキ属に分類される常緑種で、南アジアからアフリカ大陸にかけて分布、成長スピードが遅く、木材としての密度が非常に高いため虫食いや内部腐食に強い性質を持っている)がふんだんに使われており、大地主としての風格を感じさせます。
客間から見える美しい庭に見とれる参加者達です。東嶽邸を訪れた当時の人々も同じような気持ちで眺めていたのでしょうか。
昔の生活道具達も展示されていました。状態も良く、大切に扱われてきたことがよく分かります。
母屋から離れ座敷へ移動します。
座敷内の襖や障子などの建具にはそれぞれ異なる物が使用されており、随所にこだわりが感じられる空間になっていました。
離れ二階の廊下からの写真になります。
くれ縁越しからわずかに紅葉が見えましたが、見頃に訪れたらきっと最高の景色が待っていることでしょう。
表面が波打つ昔ガラスから覗く外の風景になります。
現代ではなかなか見られなくなった作りであり、割れたりヒビが入ると再現不可になるとのことでした。
東嶽邸には2階建ての立派な内蔵もありました。
内蔵1階には坂本家ゆかりの品々が展示されていました。
中でも写真2枚目について、東嶽邸ではかつて、つがいの丹頂鶴が飼育されていたとのことで、当時の貴重な写真を見ることができます。
内蔵2階での写真になります。
内蔵の特徴である大きな柱や梁を見学することができ、壁沿いには坂本家の由来や7代坂本理一郎の功績について写真を交えて紹介されています。
丹頂鶴が飼育されていた邸内の庭を「松風鶴唳亭」(しょうふうかくれいてい)と呼んでいたそうです。
それにしても一個人が鶴を飼育する世界観...今では特別天然記念物に指定されているため個人飼育は禁止されているので、時を重ねるごとに貴重度が増す歴史かもしれません。
2階最奥には家紋が施された藍染め品などが展示されていました。
ちなみに内蔵2階へあがる階段は当時のつくりのままのため、急角度かつ段の大きさがバラバラのため注意が必要です。
最後に邸園と茶室周辺を見学しました。
当日は小雨が降っていましたが、それもまた風情を感じる時間であり、雨が落ちる池に泳ぐ錦鯉達は日本の原風景を映し出しているようでした。
茶室では地元の小学生達がお茶の作法を学んでいる最中で、これまた邸園にぴったりの風景でした。
ちなみに母屋、離れ、茶室は個人/団体で使用可能(有料)なので、興味のある方は是非とも見学してみてはいかがでしょうか。
続いての目的地は「美郷町歴史民俗資料館」になります。
平成25年(2013)3月に閉校した旧千畑南小学校の校舎を活用し、平成27年(2015)10月に開館した資料館で、原始から現代までの郷土の歴史と民俗等に関する資料を展示・収蔵し、地域を拓いてきた先人の知恵やまちの歴史を学ぶことができます。
地元のボランティアガイドの方の案内のもと、さっそく正面玄関では巨大な鍾馗様(しょうきさま):人形道祖神が出迎えてくれます。我が東成瀬村でも鹿島様(かしまさま)の石碑が各地にあるように、秋田県では県内各地で人形道祖神を祀る民俗文化が残っており、疫病や厄災からの集落の守護神として大切に扱われています。
1階のわら細工展示室を見学している場面になります。
こちらで展示・所蔵している約600点のうちわら細工384点、製作用具37点が「美郷町のわら細工及び製作用具」として県指定有形民俗文化財に指定されています。思っている数倍の量のわら細工が展示されているので、ガイドの方からの説明を全て聞こうとすると3時間は越える見込みとのことです。
時間の都合上、ほんの少しだけ早めに案内をしてもらいましたが、それでも気になるものがたくさんありました。
わら布団にわら枕もあり、寝心地は意外にもよかったです。
わら打ち石とよこづちが展示されていました。岩井川神社の別当として最初の仕事になったしめ縄づくりの時に使ったあの道具達との再会が、はやくも美郷町で実現しました。
実際に自分が使ったことのある道具が出てくると、使い方のイメージが容易に出来るので展示品を見る面白さが倍増しますね。
履き物コーナーでの写真になります。
雪深い東北の地では雪ふみなどが必須であり、深雪をどうやって沈まずに歩けるか、先人達の試行錯誤が感じ取られる内容となっていました。
また、草履は今でも観光名所などで販売されていたりしますが、同じ草履でもトイレや庭に行くときに使う庭草履や七五三用に青や赤の緒がついた七五三草履など様々な種類があります。中でも「舟匠(ふなしょう)わらじ」という大仙市北楢岡での呼び方のものがあり、舟引き人夫たちが主に履いていた草履については村人達のセンサーが反応し、「初めて聞いた」「作り方が知りたい」との質問が矢継ぎ早に出ましたが、ガイドさんも詳しくは分からないと言うものも展示されていました。歴史と伝統を受け継いでいく上で課題になってくるのが、モノ自体は残っているが使う目的や名称、起源が不明になっているケースはとても多いと思います。口承なども繰り返していくと曖昧になってくるので、どこかで正確な記録作業などが必要になってくるんだなと改めて思いました。
1枚目は個人的に気になった猫用わら細工になります。古代エジプト文明の時代から人間と共存をしている猫ですが、わら細工の時代でもしっかり家族の一員としてよろしくやっていました。やっぱりどの時代でも猫が狭いところで寝ている姿は眼福だったのかもしません。
2枚目はわらでつくられた船です。もはやわらで何でも作れるじゃん、と思ってしまうほど精巧に作られていて圧倒されました。
しめ縄なども展示されていました。このあたりは現代でも神社などで見ることができますね。
わら細工展示室の次は収蔵室へ向かい、県指定有形民俗文化財の「材木橇(ざいもくぞり)」の説明を受けました。
材木橇は山から川などへ材木を運ぶための道具で、特に冬場では雪や氷上を滑らせて利用されていたそうです。
ちなみに写真中央のガイドさんの後ろにある駕籠(かご)はご遺体を運ぶための葬儀屋専用の駕籠になります。現在では霊柩車という法律に則った方法で運ばれますが、人力から機械への移り変わりを勉強することができました。
当時の生活様式を模したコーナーもありました。
囲炉裏の周りに敷かれたわら座布団ですが、これがまた座り心地がいいんです。
2階は民俗展示室がメインとなり、生活用品や冠婚葬祭、農業関係などの道具達が展示されていました。
中でも上写真にあるのは捕鯨についてのコーナーで、雪深い内陸の人々は出稼ぎで南極海捕鯨に従事しており、ここ美郷町からも働きに出ていたそうです。鯨の牙やヒゲ、漁を行っている場面の写真など貴重な品々が展示されています。
多くの染め物も展示されていました。
和菓子を作るときに使用される木型なども展示されていました。
「百箪笥(ひゃくだんす)」あるいは「百目箪笥(ひゃくめだんす)」と呼ばれる医者や薬屋が使った薬剤を入れるための引き出しが沢山ある箪笥が展示されていました。国民的アニメ映画の湯屋にて薬湯用の薬剤を調合している人の部屋で出てきそうな箪笥でしたね。
歴史展示室も見学させていただきました。
美郷町から出土した遺物などを通して、原始から中世までの歴史が紹介されていました。
主に旧石器~縄文時代の遺物や、千畑地区から出土した払田柵の木などが展示されていました。
古文書や絵図もたくさん展示されており、古文書を毎日読んでいるとこういった展示物が気になってしょうがない体になってしまいましたね。
最後は佐々木毅氏記念室を見学させていただきました。
佐々木毅氏は美郷町出身の政治学者で元東京大学総長で、記念室には写真にもありますようにたくさんの著書や蔵書(3,800冊以上)に加え、愛用されていた机や東京大学総長時代のガウン、論文の原稿、各種審議会委員の総理大臣発令の辞令と審議会資料など、貴重な品々が展示されていました。
最終目的地の「秋田県立農業科学館」での写真になります。
秋田県の農業の過去・現在・未来について、科学の目を通して楽しく学びながら、明日の豊かな生活を追求するために必要な英知と感性を養うことができる学習の場として設置されました。
私達が訪問した時期には「オータムフラワーフェスタ」と「土器に生ける秋の草花展」の2つの企画展が開催されており、彩り豊かなお花達が出迎えてくれました。
「土器に生ける秋の草花展」では縄文土器を鉢に見立て、様々な種類の生け花が展示されていました。
実は土器に生け花というアイディアを生み出し人はふる里館館長の櫻田先生とのことで、この記事を読んだ人だけの秘密にしておきます。
村に移住すると自然環境への興味関心が強制的に湧いてくるのですが、草木やお花の名前を覚えることにいまだに苦戦しています。とりあえず綺麗だなと思う所でどうしても止まってしまうので、この壁を乗り越えた先に知識の定着が待っているのでしょう。
第1展示室では江戸時代から昭和30年代までの秋田県農業の変遷と、昭和30年頃の稲作機械化以前の農山村の姿について学ぶことができます。
また、第2展示室では身近なテーマをもとにした農業と科学、食や農、県内農業の新しい情報などを楽しく考え学ぶことができます。
締めくくりは花壇広場にてダリアなどの草花の観賞でした。
なんだか自然観察教室のようになってしまいましたが、秋晴れの気持ちのいい天気だったため思わず外に見に行ってしまいましたね。
ダリア以外にもバラなども咲いており、色彩豊かなお花達がたくさんで幸せな気持ちになれました。
数年前まで花々への興味関心はほぼ無かった私ですが、年齢を重ねたせいなのか道端で見つけた時や民家のお花を見たときに思わず写真を撮ってしまうついこの頃です。せっかくなら、この美しいと感じる感性を大事に生きていきたいなと思います。
今年もバレーボール大会が開かれ、4チーム総当たりでスポーツを楽しみました。
スポーツの秋がやってきました。
村では10月になると様々なスポーツ大会が行われ、野球やバスケットボール、卓球などで盛り上がります。
今回は自分がプレーしている姿の写真を撮っていただきましたので、少しだけ載せてみました。
中高生から団塊バブル世代まで、幅広い世代が集まり同じスポーツで結束し喜怒哀楽を共にできたことが何より嬉しかったです。
ありがたいことに週1~2回のペースでバレーボールを楽しむことができています。
地域の皆さんと大好きなバレーボールが出来る環境に感謝しながら、これからも楽しんでいきたいと思います!
秋の仙北道踏査活動が行われました。
豊ヶ沢林道終点(姥懷) ~ 柏峠 ~ 姥懷 までの行程となり、紅葉の山道を歩きました。
山の神様へのご挨拶は必ず行います。これはもう教科書に載せてもいいくらいです。
熊について、人里では頻繁に目撃されるなら山にはいないだろう、そんな油断は絶対にできないので皆さんしっかりと対策グッツを忍ばせて歩きました。※こまめに爆竹、ロケット花火などで音を出しながら移動しました。
8月の緑溢れる木々の姿はなく、かわりに赤や黄色に色づいた木々が待っていました。
何度来ても、何度見ても飽きることがないのが仙北道です。
当日は午後から雨の予報だったため、活動中はなんとか曇りで終えることができました。
丈の倉からの景色になります。
前回の霧に覆われた場所と同じですが、今回はしっかりと眺めることができました。
新たな試みとして、丈の倉から柏峠までの稜線沿いのある地点で旗を振り、岩手県側にある胆沢橋からその姿を写真に収めるというミッションがありました。写真は橋の上で待機している予定の人を双眼鏡で確認している場面になります。
橋の姿は肉眼で確認できますが、人影は双眼鏡でもわずかに見えるくらいで大変でした。
目印にした白いタオル旗を振っている場面になります。
今回のミッションですが、残念ながら橋側でこちらの存在を確認することができず失敗に終わってしまいました。
しかし、すぐに再チャレンジすると思いますので成功した写真を載せるまでしばらくお待ち下さい。
落葉で覆われたV字の道はまさに古道を感じる瞬間でもあります。
上を見上げると常に巨大な木々達がそびえたち、私達を優しく包んでくれています。
キノコや山菜ばかりに目が行きがちになるかもしれませんが、個人的にはこうした風景が好きですね。
無事に下山し、参加者の皆さんと昼食会が開かれました。
あつあつで具だくさんな芋の子汁と甘酒とビール(もちろんノンアルコール)で優勝です。
今シーズンの仙北道踏査活動はこれにて終了となりました。来年はどんな姿を見せてくれるのか?そして岩手県側まで通しで歩く事ができるのか?仙北道の今後にこうご期待下さい!
生涯学習教室「古文書教室」が今月もふる里館にて開かれました。
講師はいつも大変お世話になっている県公文書館の畑中康博先生で、午前中は県公文書館所蔵「屋形様義厚公御入部記録 十三」を読み解き、午後は上級編と題して現在解読作業を続けている村の古文書を一緒に読み解いていくという内容でした。
「屋形様義厚公御入部記録 十三」は要約すると久保田藩代10代藩主の佐竹義厚公が参勤交代のため江戸から秋田へ帰る道中、各地での挨拶回りを第14巻にあたって記録した文書であり、13巻目で秋田入りの記録が出てきます。
家臣の大山家藩主 大山亀治という人物がよく出てきますが、亀治はなんと少年で、幼いが故に決まり事の多くが変更されているという但し書きが随所に出てくる所がポイントになります。
※久保田城での自己紹介が免除、藩主を国境付近まで迎えに行くことが免除など
また、参勤交代では単純な江戸から自領への移動だけではなく、道中の寺社で安全祈願や寄付などの挨拶回りを行いながら移動していることが読み取れる所もポイントになります。このあたりは歴史の教科書だけでは知ることの出来ない古文書ならではの事実かもしれません。
比較的読みやすいくずしで書かれていたため、なんとか読むことができました。それでもスラスラ読めるまでには至ってないので、まだまだ修行が必要です。
上級編での資料は現在解読を進めている菅原家文書の中から今回は①「温泉の温度」と②「荷物運び」がテーマになった古文書が取り上げられ、畑中先生と一緒に読み解いていきました。
※午後の部は翌日に控えていた産業祭の準備のため、残念ながら不参加になってしまいました!
要約すると、以下のようになります。
①「温泉の温度」
・温泉の温度が雨や日照りによってぬるくなったりあつくなったりを繰り返している
・そのせいで湯治客が減っている
・温度を均一に保つために温泉を囲うように小屋を建てた
・それでも温度は安定しない
・役人にお願いして詳しく見てもらいたい→視察を延期してもらえないか
②「荷物運び」
・山で硫黄がとれた→桧山台村~手倉川原村~増田村のルートで荷物運びを行っていた
・硫黄の荷物運びで得た収入は今でいう副業にあたる
・どこかの村間で荷物運びが滞ってしまった場合、荷物を届ける決まった宿へ連絡を行うこと(各村の肝煎が連絡する)
・個人で勝手に荷物を運ぼうとしないこと
今回も面白そうな内容のお話だったみたいで、不参加が悔やまれます。
温泉の温度に対して敏感なのは何百年も前から変わっていない事実だったことがうかがえます。
産業祭の準備風景の写真になります。
今年も各生涯学習教室での作品達が勢揃いしました。
折り紙教室は特に気合いが入っていた印象ですね。
産業祭前日では出品された農林産物の品評会が行われていました。
こちらは産業祭当日の様子になります。
最終イベントである農林産物の即売会が行われ、お目当ての品々を見つけてダッシュで確保しにいく方々で溢れていました。
産業祭で展示された作品の一部はふる里館入口にて展示してあります。
来年3月いっぱいまでの展示を予定しています。
今年度の上掵遺跡発掘実習パネルです。(館長作)
個人的には今年のベストオブサマーな2週間でしたので、見る度に記憶が鮮明に起こされていきますね。
来年も会えるのか、未来は誰にも分かりませんがまた彼彼女らと汗を流せる日が来たらいいなと思っています。
例のおばあちゃんは麺類が大好きなので、外食に誘われた際はラーメン屋さんをオススメします。
家では緑色のよく分からない中華麺を食べますが、付属のスープに必ず文句をつけるのが愛おしいです。
「なーんかしょっぱいのよねぇ」
その割にお店ではチャーシュー麺を完食するあたりが健康の秘訣かもしれません。
最後に一言、こたつ布団は厚手のほうが温かいです。
これはガチです。