協力隊の鈴木です。
2024年11月の活動報告になります。
秋から冬へと移り変わる時期になり、雪囲い作業があちこちで始まりました。雪国ならではの景色ですね。
晴れ間の見える日も少なくなり、雪をもたらす雲が常にこちらを伺っているような状態になってきました。
山々の頂上付近は雪化粧となり、遠くを眺める度に冬を感じる今日この頃です。
先月は雪が降らないで欲しいと願いを込めた一文を記載しましたが、見事に外れてしまいました。
1日だけにとどまっていますが、雪寄せを必要とする日があったので、祈りが足りなかったのかもしれません。
ジュネス栗駒スキー場の方々には本当に申し訳ありませんが、今後も祈りを捧げる予定です。
どうか少しだけ降る程度にしてください。
さて、今月のトピックスは下記3件になります。
東成瀬村アーカイブズ・ギャラリーが終了、古文書で学ぶ仙北道、年中行事「刈り上げの節句」などが行われました。
県公文書館での連携展が終わり、展示企画については一段落がつきました。今後は主に古文書などの解読作業が主となる予定ですが、「身で読む」姿勢に注目をしていきたいと思います。学問のように追求していくことも勿論いいのですが、当事者の気持ちに寄り添いながら感情的に読むことで、この村で起きた出来事や筆者の思いを捉えやすくなるという県公文書館の畑中先生からの言葉であり、大きなヒントになる予感がしたので今月の記事タイトルとさせていただきました。
秋田県公文書館と東成瀬村教育委員会による連携展『東成瀬村アーカイブズ・ギャラリー』が8月より開催され、前期展と後期展を経て、今月4日で無事終了となりました。
前期展の開催日数は29日で入場者数は1,749名、後期展の開催日数は34日で入場者数は1,805名となり、合計3,554名の方々に来館していただくことができました。
昨年のふる里館での連携展から始まり、舞台を秋田市に移しての企画展示となり、本当に多くの方々に東成瀬村の歴史について知ってもらえたと思います。中でも一貫して感じた事は、特別興味が無くなんとなく見に来て「勉強になった」と言ってくださるお客様がたくさんいらっしゃったことです。ほんのわずかなきっかけさえあれば、村の古文書や絵図に興味を持って頂けることと、活動を継続する大切さを学んだ日々でした。
来年度について、既存の古文書解読と新たな資料の発見に向けて行動していく予定です。ちいさな村に眠っている古くて新しい記憶達を呼び起こすべく、あらゆる面で働きかけていこうと思います。
村が誇る歴史の道「仙北道」について、絵図や古文書を通して学んでみたいという要望があり実現した講演会に参加させていただきました。
講師は県公文書館の畑中先生をお招きし、30人程の参加者の皆様と貴重なお話を聞くことができました。
参加者の皆様のほとんどが仙北道を歩き続けているメンバーで、熱量のある意見交換が見られました。
講演内容について、秋田県文化財調査報告第163集 歴史の道調査報告20『手倉街道』という秋田県教育委員会がまとめた報告書から仙北道についての説明から始まり、寛永~天保までに描かれた街道の絵図と共に当時の姿を想像し、最後は「なぜ仙北道は使われなくなったのか?」という疑問に対して、その答えとなるべく貴重な史料が県公文書館で発見され、そちらを参加者全員で読み進めるという構成でした。
ここで、前述した貴重な史料について、「秋田縣史料」と「帝国日本郵便電信路線図」というもので、それぞれについて簡単に紹介したいと思います。
■秋田縣史料について
・明治7年(1874)編纂、明治4年から16年かけて県の施策や人事等が詳しく記述された歴史稿本。
・原本は国立公文書館が所蔵、県公文書館では複製本を所蔵(今回は原本を写した写真データが資料として提供)
・郵便制度について記述された頁より、※雄勝郡横掘村から水沢県管轄の※陸前国栗原郡鬼首村にかけて書簡の往復ができるように道路工事の計画が立てられる。
※現在の秋田県湯沢市南部にある横堀地域から現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首にあたります。
・道路工事の提案をしたのは横堀村の村長で、鬼首村の副村長へ「道路ができれば利便性が上がり、良いことだらけになる」と相談を持ちかける。
・物資の運搬等なら※「嵐江通」(おろせどおり)、東京から郵便脚夫(郵便配達)が通るなら鬼首通がいいのではないかという結論が出る。
※仙北道の別称。川などが流れているため舟などでの運搬に向いていたとされます。
・しかし、国家予算のみでの工事は難しい。
・資金不足は周辺地域でなんとかして集めるので郵便用道路工事の着手を願う。
・文明開化の為には道路が必要だ!道路が通ることで民度も上がる!と訴え、もしも予算がつかない場合は独自に工事を行うつもりだと宣言。
・内務省(当時は大久保利通が担当)より、要求された予算以上は出せないので自費で開拓せよと返答があり、郵便用道路工事が行われた。
以上が大まかな内容になり、この郵便用道路が作られたことでそれまで生活道路として使用されてきた「仙北道」が徐々に廃れていき、最終的には廃道になったという流れになります。
■帝国日本郵便電信路線図について
・明治26年(1893)に作成された地図
・主要地名と距離が記載され、赤線は電線線路、黒線は郵便用線路を表している。
秋田県公文書館 デジタルアーカイブURL:https://da.apl.pref.akita.jp/koubun/item/00010005/ref-C-1654
「湯岱」から「鬼首」までの郵便用線路が描かれ、手倉から水沢へ通じる「仙北道」は無くなっていることから、やはり明治時代から徐々に使われなくなってきたことが読み取れます。
上記2つの資料からわかるように、郵便制度の発達が廃道への決め手となったのではないかと考察でき、何千年という時を経て、現代では「歴史の道」として蘇ったわけです。
古い出来事から新しい発見が生まれる、まさに温故知新を体現する講演会で本当に勉強になりました。現地踏査のみでは知り得なかった仙北道の歴史を垣間見ることができ、新たな引き出しが増えたと思います。村に隣接する岩手県や宮城県でも古道と呼ばれる道はたくさん存在していて、仙北道と関わりがあるのかもしれない道は実はいくつかあります。今後は自ら踏査に出向くなど、もっと積極的に追いかけてみたいので冬が明けてからが楽しみです。
村では『年中行事』と呼ばれる定まった日に決まったことをする習慣があり、農耕主体の生活では最も身近なものでした。しかし、現在では農業従事者の減少と核家族化などが進み、簡略化あるいはその行事自体が忘れ去られているのが現状です。このような伝統を後世に伝えるため、村内の小学校と連携し『ふるさと東成瀬の伝統行事を体験しよう』というテーマで活動を行っています。その一つが今回行われた『刈り上げの節句』になります。
刈り上げの節句は旧暦9月29日に行っていたもので、田畑での収穫に感謝するお祭りになります。
昨年度に引き続き今年も小学生の皆さんと一緒に体験をさせていただきました。
収穫したものを入れたり運んだりする『箕(み)』と呼ばれる農具の真ん中に、穂がついた稲束を横向きに置き、その後ろに稲刈り鎌と草刈り鎌を並べ、稲束の前には中央に三角形にした半紙を敷き、丸い二つ重ねの餅とお酒の入ったお銚子、水を入れたコップを載せます。そして、その右側に厚めに輪切りした大根に立てたロウソクを置き、左側に菊の花を飾ります。また、箕の脇には鍬も置きます。(大根をロウソク立てにすることで食材への感謝を表し、菊の花を飾る季節になると、それまで咲いていた花たちが枯れて季節の移り変わりを意味していると考えられています)
お供え物の準備が出来たら、全員で二礼二拍手一礼。その後は直会となり、昔語りを聞いた後は皆でついたお餅をきな粉とあんこで美味しく頂きました。
友信さんの説明が終わると、お待ちかねの餅つきタイム。
まもなく91歳になられる友信さんが自ら餅をついて始まり、それに負けじと生徒たちも勢いよく餅をついていました。
私も1年ぶりにつかせていただきましたが、体が覚えていたのか自然に腰を落とした姿勢でつけた気がきました...!
今年は私もお餅づくりに挑戦しました。素早くお餅の形をつくり、きな粉とあんこをまぶす作業が意外と大変でした。
突き立てのお餅をみんなで頂きました。のどに詰まらせないようにゆっくり食べる姿がとても可愛らしかったですね!
今月のトピックスでも紹介した東成瀬村アーカイブズ・ギャラリーですが、個人的イチ推しの資料『寛永年間の検地帳』についてお話したいと思います。
検地帳とは、検地の結果を村単位で取りまとめた帳簿のことで、表紙や巻末に検地が行われた村名や実施日と担当役人などが記されます。内部には検地の結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記されます。
こちらは江戸時代初期の手倉河原村(現在の東成瀬村手倉地域)の検地帳になり、渋柿でコーティングされた和紙(柿には防水、防腐、抗菌作用を持つタンニンが含まれています)に包まれて保存されており、とても大事に扱われていたことが窺えます。県公文書館の畑中先生も感動するくらい貴重なもので、よくぞここまで残ってくれていたと思えるほどの資料でした。