協力隊の鈴木です。
2025年9月の活動報告になります。
暑い夏が終わってしまいました。村での最低気温が20℃を下回り、朝晩は少し寒いくらいの日々です。
しかしながら、緑色の木々達がわずかに秋らしい色を出してきたぐらいの気温は実に快適で、各地で残暑が猛威をふるっている中、山に囲まれた村ならではの特権なのかもしれません。
さて、今月のトピックスは下記5件になります。
岩井川神社 観音堂造立300年祭、仙人太鼓の演奏、歴史探訪教室、古文書教室、街歩き観光ガイド養成講座の受講・村内モデルコースのガイドなど、先月に引き続きイベントが盛りだくさんの1ヶ月でした。
岩井川神社の別当として活動していますが、300年祭の年に当たるとはさすがに予想もしていませんでした。
地域の方々が紡いできた歴史に、ほんの少しだけ自分も加わることができて本当に嬉しい限りです。
今年2025年は岩井川神社が鎮座する現在地:岩井川字荒沢5に享保10(1725)年に観音堂が造立されてから300年を迎える年になりました。観音堂は江戸時代に遠藤堰を開削した遠藤傳左衛門が「御開成就の心願」にて寛文8(1668)年10月に東西15間、南北34間の土地に新茲眼正像1体(観音菩薩は常に生きとし生けるもの全てを慈悲の眼で見てくださる=慈悲の眼)を安置し社殿を建立したのが始まりとされています。その後、享保10年に3間4面の観音堂(社殿)を現在地に建築し、そこからなんと300年が経過したということになります。
別当としては貴重な仕事になる今回の300年祭。春の祭典での反省を活かして、着々と旗を立てていきます。
300年記念専用神社幟を2枚設置しました。製作にあたって氏子さん達があちこちを回ってくれたらしく、神社に対する熱い思いが伝わりました。
これまでの写真を見て何か変わった点があるとお気づきの方はいたでしょうか。実は300年祭にあわせて建物全体(屋根は除く)に新たに木部塗装が行われました。鳥居から拝殿へ続く参道にも新たに舗装が加わり、300年に一度のお祭りに向けて神社そのものも一新されていました。以下、新しくなった岩井川神社の写真になります。
本殿・拝殿幕(神前幕)も新たに用意され、祭礼を行う場所(神域)と俗世(神社の外)を区切るために掛けられます。
さらには、参拝する際に使用される鈴緒(六角桐枠を含む)も新調され、祭礼への気持ちが高まっていきます。
300年祭では春の例祭でもお世話になった神主さんに来ていただき、ご祈祷をしていただきました。
そして拝殿前の参道にて華麗な巫女舞が奉納されました。神道における巫女舞を直接拝見したのは初めてであり、優美な舞による神秘的な空間が出来上がっていて、300年祭のクライマックスたるものでした。
御祈祷と巫女舞が無事に終わり、会場を地域の交流センター(ゆるるん)に移し、祝賀会が行われました。
氏子総代長からの挨拶から始まり、これまで岩井川神社を支えてきてくださった方々へ感謝状が贈呈されるなど、300年にふさわしい歴史の重みを感じるプログラムとなっていました。もちろん最終的には全員で食事会となり、大盛り上がりで幕を閉じました。
今回、十数年に一度の別当地区に当たり300年に一度のお祭りにも当たるなど、謎の運?を使って得られた体験でしたが、改めて岩井川地区の住人になったんだなと再確認したきっかけにもなりました。移住してきてこれまで、たくさんの村民と出会い様々なことを知り、こうして伝統ある神社の別当にまでなれたことは本当に光栄なことであり、受け入れてくれた事への感謝の気持ちしかありません。今後もどうかよろしくお願いいたします。
今月も各地で仙人太鼓の演奏がありました。
湯沢市は駒形町東福寺にて行われた「東福寺元気祭り」にて、仙人太鼓の演奏が披露されました。
本祭りは私にとって3年連続で参加している少しだけ常連のお祭りになり、雰囲気にはだいぶ慣れてきました。
披露した楽曲は「さかえ」「仙龍翔舞」「道中ばやし」でしたが、アンコールにお応えして、「阿吽」という比較的短いフレーズの曲を叩きました。元気祭りでは子供達の勢いがすごく、道中ばやしでの積極的な参加が恒例となっていて、今年もたくさんの方々と一緒に叩くことができました。小雨がぱらついて怪しい場面もありましたが、涼しくなってきた頃の屋外演奏は気持ちのいいものでした!
続いて、横手市は十文字神社にて行われた「十文字 秋のフェスティバル」での演奏風景になります。
演奏開始時間頃に雨が降りそうな天気だったため、テントを設置しての舞台になりました。
披露した楽曲は「栗駒おろし」「仙龍翔舞」「道中ばやし」で、天気も持ちこたえてくれて無事に完走することができました。道中はやしでは横手市のご当地ヒーロー「シャイニンガー」※写真に写っているのはシャイニンガーシャドウ が参加して盛り上げてくれました。
お祭り終盤となったところで雨が強まり、一気に大雨となってしまいましたが、エネルギーに溢れる素敵なお祭りでした!
夜の十文字神社になります。ライトアップされた神社を見る機会はなかなか少なく、とても神秘的な空間でした。
生涯学習教室「歴史探訪教室」が開かれ、今回は秋田県大潟村「大潟村干拓博物館」を訪れました。
秋田県公文書館と大潟村教育委員会による連携展『記録資料にみる大地創造 - 大潟村アーカイブズ・ギャラリー - 』が開催されており、個人的にもお世話になっている県公文書館の企画展は是非とも見に行かねばという気持ちも込みで向かいました。
写真より緑色のポロシャツの形が館内ガイドをして下さった石原さんという女性の方で、長野県からはるばる秋田へ移住したそうです。笑顔が素敵でお話が上手な素晴らしい方でした!
ちなみに写真右奥の団体はまさかの県公文書館からの団体で、いつも大変お世話になっている畑中先生と渡部先生が偶然にも同じ日にこの場所へ来ていたのです!まさかまさかの合流でお互いかなり驚きました...。
大潟村は元々「八郎潟」という東西約12㎞・南北約27㎞で琵琶湖に次ぐ日本第2位の広さをほこった湖でした。その八郎潟がなぜ陸地になったかは後ほどご紹介します。写真では大潟村がかつて八郎潟の湖底であったことを示す展示物になります。海面、地殻変動などにより長い年月をかけて陸地が移動し、海水の流入が塞がれ、巨大な湖になったのが始まりとされています。頭上には船を漕いでいる姿のオブジェがあり、その高さまで海だったことを示していました。
海でしか生息していない生き物の化石なども展示されており、数百万年前の八郎潟を知ることができます。
次は「潟の記憶」と題されたコーナーでの写真になります。まだ陸地が出来ていない頃の八郎潟の衛星写真になります。
ぽっかりと穴が空いているよう見えますが、当時はこの巨大な湖で漁業などを営む人が多く、偏西風などと闘いながら暮らしていたそうです。
時が進み、湖に陸地が出来上がりました。
八郎潟の干拓計画はさかのぼると明治時代から行われてきたそうです。平均水深が3mと比較的浅いことがポイントになり、最終的には国営干拓事業として昭和32(1957)年にいよいよ工事が始まります。資金面などの問題をどうにかクリアし、堤防工事や防潮水門工事を行い排水作業ができるようになると一気に湖底土が姿を現します。
ちなみに県公文書館にある昭和20年代に政府が計画した干拓地候補地一覧図という資料では、八郎潟に限らず、東京湾など水深の浅い湖や湾はすべて干拓する計画だったとのことです。
さらに時が進み、現代で撮られた衛星写真が出てきます。
田んぼや畑などの区画整理がより細かくなっているのが見て取れます。少し見づらいですが指示棒の先にある区画が役場や住宅などの集合地となり、現在でも同じ区画で保たれています。
そういえば「干拓」とは何なのか?と、疑問に思った皆様も多いかと思いますので以下に記しておきます。
海や湖に堤防を築き、水を汲み出し堤防内側の土地などを利用できるようにする工事の事を差し、逆に土砂などを盛って土地を広げるやり方は「埋立」と呼ばれています。
大潟村の大地は干拓によってできた大地であり、冒頭で述べた通り堤防を除いて全て海面下の大地です。そのため、水の循環調節を欠かすことができず、24時間休みなく排水作業が行われます。
写真にある巨大な円錐のオブジェは八郎潟から排水される水の量を表しており、最大排水量はなんと1秒間に40㎥です!排水は中央幹線排水路を経由し、南北に設けられた排水機場で行われます。また、防潮水門は調整池と呼ばれる水の水位を一定に保ち、日本海から海水の浸入を防ぐ役割を果たしています。
ちなみに小中学生などにも分かりやすく説明しているビデオ解説などのコーナーもあり、充実していました。
こちらは大潟村に入植した人々の当時の暮らしぶりを再現したコーナーになります。
独身で入植された方が多く、今で言うルームシェアをしながら暮らしていたそうです。
こちらはトラクターが土にはまり、なんとか動かそうとしている場面を再現したコーナーになります。
八郎潟の湖底土は肥沃(栄養に富んでいる)で粘土質土壌(ヘドロ)であり、干拓事業の際には堤防工事の材料として使用された砂などと合わせて利用されていたそうです。また、海水と淡水が混ざり合う汽水湖でもあったため、海底土には塩分が含まれていました。
肥沃ではあるがヘドロのため、軟弱地盤での営農を強いられた入植者の方々は土にはまった大型農機に悩まされる日々だったそうです。しかしながら、こうした先駆者の方々のおかげで現在は農道などが整備され、今に繋がっていると言う流れを説明していた時の石原さんの表情が険しくも優しく、とても印象的でした。
ガイドの石原さんは旦那様と共に第4次入植者として大潟村へ移住したそうで、試験選抜や1年間の研修を経てからようやく村の一員として住むことができます。1966(昭和42)年の1次募集では定員数が56名に対し、615名の応募があったそうで、競争倍率はなんと約11倍でした。最終的に5次募集までの平均倍率は7.2倍となり、狭き門となりました。
ちなみに入植者のほとんどが秋田県出身者ですが、北海道から沖縄まで意外にも幅広く集まったそうで、さらには試験選抜を行って村民を決めたことは現在でもあまり無い珍しいケースとなりました。
続いては秋田県公文書館との連携展についてになります。
今回の大潟村アーカイブズ・ギャラリーは会場を大潟村干拓博物館と秋田県公文書館の2箇所に分けて開催されており、通常展示がされていない貴重な資料ばかりが展示されています。
展示資料を少しだけ紹介したいと思います。
明治頃に作られた八郎潟周辺の絵地図になります。当然ですが干拓事業を行う前なので湖として描かれており、改めてその大きさを感じることができます。まわりに細かく書かれている文章は村名と面積?などで、よくよく見ると現在でも残っている地名がたくさんありましたので男鹿や南秋田郡出身の方は要チェックな資料かもしれません。
続いては「大潟村」という村の名称を決めるに当たって、一般公募を行った際の投票結果のデータになります。
県内外から1,612通、714種類の名称候補が集まり、得票数第1位に輝いたのが「八郎村」でした。
え?大潟村じゃないの?と思いましたよね。もちろん私も同じです。
「八郎村」を含めた14候補にしぼり選考会議が開かれ再投票の結果、「大潟村」となったとのことです。ちなみに近くに「八郎潟町」があったので、八郎村はかぶり気味になるので微妙か...と納得できました。
こういった資料は公文書館ならではなので、かなり貴重だと思います。
一般公募の段階では「大潟村」は第13位でした。単純な多数決で決まっていたら現在の名称は付けられなかったという歴史を知ることができる面白い資料でした。
畑中先生らによる連携展説明会が行われていたので、急遽飛び入りで参加することになった場面の写真です。
まったく考えてもいない合流だったので本当に驚きましたが、詳しい解説付きで資料を見ることができたので幸運でした。
つづいては「経緯度交会点」と呼ばれる東経140度と北緯40度の線が交わる日本国内唯一の陸地である場所へ向かう最中での写真になります。
大きな特製看板まで用意してくださり、熱心に話してくれました。
黄金に輝く稲穂が一面に広がる風景でした。村でも見慣れているはずですが、規模があまりにも違いすぎるためその広さは正直引くレベルです。
巨大な水路の写真になります。これらの水路を通って先程説明した排水機場まで流れていきます。
経緯度交会点に到着しました。解説ボードが立てられています。
石原さんによる説明を聞いている場面になります。この経緯度交会点は大潟村のほぼ中央に位置しているため、ちょうど真ん中に立つことができます。何度か説明しているようにもともとは湖で湖底だったこの場所を、干拓によって大地が出現し、経線と緯度が交わる点が生まれたのです。ちなみに、この地点は日本測地系:明治時代に定められた測量の基準で、東京の旧国立天文台跡地を経緯度の原点とし、2002年(平成14年)4月1日まで使用されていましたが、GPS時代の現在は世界基準の世界測地系が適用されており、世界測地系に基づく東経140度、北緯40度が交わる位置は下写真にあるモニュメントから南東方向に約430m離れています。
記念モニュメントの写真になります。(北緯40度)
東経140度側からの写真になります。
東経140度線の先にはロシアはハバロフスクやオーストラリアはキングストンがあり、北緯40度線の先にはアメリカはニューヨーク、中国は北京そしてイタリアはナポリがあります。
肉眼では到底確認することはできませんが、この先にあるんだという壮大なスケールで世界を確認することができました。
大潟村自体は何度か訪れていましたが、ガイド付きで様々な歴史を知る機会はこれまで無かったので、とても貴重な経験になりました。歴史はこちらよりも浅いかも知れませんが、農業や観光業への取り組み、ジオパーク認定を貰っていたりなど東成瀬村も後を追えるんじゃないかと思う所も多々ありました。住んでいる地域を愛する心が何よりも大切だと石原さんも畑中先生も仰っていたので、村への思い入れがより強くなった1日でした。
生涯学習教室「古文書教室」が今月もふる里館にて開かれました。
講師はいつも大変お世話になっている県公文書館の畑中康博先生で、午前中は先月から読んでいる「鼠小僧次郎吉口上書覚」の続きになり、午後は上級編と題して現在解読作業を続けている村の古文書を一緒に読み解いていくという内容でした。
「鼠小僧次郎吉口上書覚」は盗みを行った時期と場所と盗んだ金額、被害者氏名がセットになって記されており、くずしのパターンもそれほど複雑ではないので入門編にはぴったりな資料だと思います。人名部分で判別に苦戦する場面がありましたが、参加された皆さんは黙々と解読されていて学習意欲の高さを改めて感じました。
上級編での場面になります。
現在解読を進めている菅原家文書の中から今回は「嘉永三年 品々被仰渡書写」と題した古文書が取り上げられ、畑中先生と一緒に読み解いていきました。
要約すると、郡奉行(こおりぶぎょう)から下された法令を写しなさいという命令があり、それらの決まり事を書写した内容のもので、①金銀の話 ②宿場の利用料賃上げの話 ③新興宗教の話 で構成されていました。
畑中先生いわく、関東地方の地主が所有していた古文書などでよく見る内容のもので、東北の村で書写されたものは大変貴重だとのことでした。
そしてこの書写しは、猿半内(当時は田子内、滝ノ沢を含む)→手倉(当時は岩井川を含む)→椿台(同じものがあるはず?)といった流れで通達されているので、手倉以外での地区でも同じ内容の古文書が残されている可能性が高いことも分かりました。
国からの決め事をきちんと理解し、情報を共有しようとした証が感じ取れる内容のもので、現代社会と比べることで歴史は繰り返しているということがよく分かる古文書でした。
東成瀬村の歴史・地理・文化・伝承・自然などを中心に、まち歩き観光ガイドを養成する講座が今年も開催されました。昨年も開かれましたが全ての回に参加することができなかったので再びチャンスが巡ってきました。
講師は昨年に引き続き、ゆざわジオパークガイドの会より小松 雅先生と我らがふる里館館長の櫻田先生が務めました。
第1回目は小松先生による観光ガイドの基礎知識や役割などを学びました。
ガイドとは語り部+伝えるための知識や技能なくしては成立しないと仰っており、地域の歴史や文化はある種、物語のようなものでこの物語を書き記し、後世へ語ることができてようやく歴史になる、という言葉もいただきました。
そしてガイドをする際のテクニックとして以下5点の説明がありました。
安全対策と時間厳守
危険箇所の下見や雨天時の想定、終了時間を必ず守る(公共交通機関を利用して遠方から来た人への配慮など)
コースの下調べ、基礎知識
引き出し(体験談などでもOK)を多く持っておくこと
双方向の会話
カンペの棒読みばかりはつまらないので、参加者との対話や質問を募集したりして絶えずコミュニケーションを取ること
資料や小道具を活かす
写真は現地で見ることができないもの(昔の絵地図など)
その他
格好(テーマにあった服装)など、面白かったという感想が出たら記憶に残りやすい
そして最も大切だと何度も出ていたのが"「伝えたい」という心"であり、"あなた自身の感性で、自分の言葉で語る"ことが重要だと教えていただきました。
普段、ふる里館を訪れたお客様相手に館内案内などをしていますが、歴史や文化に特化した内容のため、思い返してみるとそれら以外の観光資源の話題に深く触れたコミュニケーションはとれていない傾向でした。
全知全能である必要はないけれども、この地域が好きでこの地域のことをもっと知って貰いたいという気持ちを出すことが優先、と小松先生も仰っていましたが、まさに同感で、私自身の活動理念にも通ずる所があり、とても心に残るお話でした。
小松先生のお話を熱心に聞く参加者の方々です。
第2回目は東成瀬村の歴史・文化などを学ぶと題して、櫻田館長を講師に迎えて行われました。
村の成り立ち(上掵遺跡など)から主要な観光資源(仙人伝説、田子内五社の力士像、仙北道など)まで、短い時間でしたが幅広く教わることができました。
参加者の方々からも質問がたくさん飛び、ガイド育成に向けてかなり前進した内容だったと思いました。
最終回となる第3回目は実地研修となり、実際にガイドモデルコース(田子内天神社~志茂田水神社~栄伝寺)を歩いてみました。
小松先生と櫻田館長監督の元、現地集合時の約束事や行程での危険箇所の確認、10人以上の場合は拡声器を用意するのが好ましいなどを教わりました。
ちなみに道中は伊達堰が流れているため、堰についてのエピソードは鉄板になりそうでした。(伊達堰、小貫山堰、遠藤堰など)
実地研修では櫻田館長にガイド役を担っていただき、地点ごとに説明を行っていただきました。
天神社拝殿の力士像について説明をする館長の写真になります。ちょっと久しぶりに見ましたが、本当に立派な建築様式ですね。まもなく雪囲いが施され、真下からでしか見ることができなくなるのでタイミングはベストだったかもしれません。
神社境内での石碑についてもきちんと案内をします。ちなみに説明をしているのは天神社が村社として認められるにあたっての経緯が刻まれた石碑で、文章のみならず石碑にまでなっているのは貴重です。
本殿にある力士像について説明している写真になります。旧今木神社を移転してようやく村社としての条件を満たしたので、神社は2つあるように見えるのは実は正解なんです。
志茂田水神社まで移動してきました。水神祠の献額が存在感を放っています。1年ほど前?に縁部分の木材を新調したそうで、真新しい質感に生まれ変わっていました。
村内唯一の唐破風造りの神社で、縁には脇障子が彫られており、もちろんこれらの装飾もここでしか見ることができません。水神社も雪囲いの都合上、力士像を完全な形で見ることは難しい状況です。永く残していくためにはやむを得ないこともありますね。
いよいよ観光ガイド本番の日がやってきました。
前半は村の観光物産教会会長による説明で、神社地点は私が担当することになりました。
村外は湯沢市を中心に(秋田市から参加された方もいて、大変助かりました!)11名の方々が参加してくれました。初心者ガイドでしたが、温かく受け入れて下さったおかげでなんとか回ることができたと思います。本当にありがとうございました!
会長による仙人山や祠に関する説明の場面になります。歴史をこよなく愛する会長、しっかりカンペを用意しながらもどんどん進めていく姿は頼もしかったです。
栄伝寺でのガイド場面になります。
私のガイド場面は恥ずかしいので載せません。多分、会長が持ってるかも知れませんので観光物産協会にお問い合わせ願います。
個人的な振り返りをすると、知識面についてはそれなりに色を出せと思いましたが、双方向でのコミュニケーションがちょっと足りなかったかなと思っています。伝えようとする気持ちが先走りしすぎると早口になったり、目線が固定されるなど、ガイドとしての印象が悪くなってしまうことを実地研修の時点で感じていたので、身をもって学ぶことができたとプラスに置き換えていきます。
当日の朝に決まったことで、神社の案内が終わり次第帰路につく予定を、田子内大橋まで少し遠回りをして向かうことになりました。キャラクター化した仙人像の紹介を交えながら、田子内橋が見えるポイントまで向かいます。
国登録有形文化財のコンクリートアーチ橋の田子内橋をガイドしている場面になります。
移住して間もない頃は見るもの全てが新鮮であちこち出かけていましたが、時が経つといつの間にか当たり前の存在になってしまい、近くで見ることも少なくなってしまいがちですね。
大橋からの景色は新緑から紅葉、雪など様々な自然のアクセントが加わることで生まれる素晴らしい眺めが見所です。
1年目の頃にスタッフとして参加した仙人修行の際に同じようなルートで参加者向けに案内をした経験がありましたが、そのときよりもはるかに知識や経験が増えたのでカンペに頼らず様々な角度からお話できたと思います。
今後、このような機会を頂けたなら、そのときは「とても面白かった」と言われるような案内ができるように精進していきます。
私は茄子が苦手です。食感から味まで、もうとにかく苦手なんですが、例のおばあちゃんにはどうしても伝わりません。
大量の茄子が食卓に並べられた時は失神するかと思いました。
「あれ?茄子はダメなんでしょ?」
なぜか知っていたテイで聞いてくるあたり、とても愛らしいです。
最後に一言、知らない番号からの電話には出ない方がいいです。
これはガチです。