テゥ・クエン
BUI TU QUYEN
テゥ・クエン
BUI TU QUYEN
Profile & Message
2012年4月~2016年3月 英語プログラムの交換留学生として来日し、日本に住みながらハノイ貿易大学を卒業。その後、1年間日本語を学び、横浜市立大学大学院でサービス・マーケティングを専攻。ロータリー米山記念奨学金を受給。
2016年4月 建材を扱う上場日系B2B企業に営業職として入社。
2017年11月 中堅日系B2B企業に転職し、5か国に展開する子会社の財務管理を担当。
2020年6月 人員削減の対象となることを知らされ、転職の方向性を模索し始める。
2020年9月 東京の外資系B2B企業に総合経理職として転職し、その後、北アジア地域の経理責任者およびアジア太平洋地域のファイナンシャルコントロール補佐へ昇進。
2024年5月 別の外資系B2C企業にて経理部長補佐として入社し、日本市場全体を担当。
2024年11月 幼い子どもの育児と、遠方勤務となった夫との生活を立て直すため、一時的に離職。
2025年4月~現在 現在の外資系B2C企業に入社し、日本市場における売上管理を担当。
「日本で長く暮らしていても、最初から道を示してくれる人がいたわけではありません。だからこそ、自分の目で見て、自分で考え、自分なりに次の一歩を探すことが当たり前になりました。
誰かがすべてを用意してくれるわけではないと、私は実感しています。本当に欲しいものは、自分で探しにいかなければならない。そうして自分から動き出したとき、少しずつ道が開けていくのだと思います。」
「日本での14年間、私には最初から道を示してくれる先輩がいませんでした。だからこそ、自分で観察し、自分で情報を集め、多くの人とは少し違う角度から物事を見ることを学びました。きっとそうしてきたことが、少しずつ今の自分につながっているのだと思います。
そして、これはいつも自分自身にも言い聞かせていることですが、仕事や子育て、家族のことなど、さまざまな悩みの中で日々模索している女性たちにも伝えたいと思っています。自分にはまだ力が足りないと感じるときでも、まずはやってみればいい。やってみなければ、自分にできるかどうかは分かりません。たった一度でも思い切って挑戦してみれば、自分が思っていたよりも力があったのだと気づけることがあると思います。
自分が本当に望んでいることは、自分から探しに行かなければならない。そうして自分で動き始めたとき、少しずつ道が開けていくのだと思います。」
交換留学の1年を経て、日本に残ると決める
私は2012年4月、ハノイ貿易大学の1年間の交換留学生として日本に来ました。当初は、学生生活の最後の時期を迎える前に、少しでも多くのことを経験し、学ぶための機会だと考えていました。期間の決まった滞在という感覚でしたが、日本での生活を重ねるうちに、もっとこの国のことを知りたい、そしてこの先に自分の道がどのように広がっていくのかを試してみたいと思うようになりました。
ちょうどその年、ハノイ貿易大学では卒業要件が変更され、卒業論文を提出すれば卒業資格を得られる制度になっていました。教授の前での口頭試問も不要となったため、私は日本で交換留学を続けながら卒業論文を提出し、そのまま卒業に必要な条件を満たすことができました。その結果、1年間の交換留学終了後もベトナムには帰国せず、大学の別科でさらに1年間日本語を学び、そのまま大学院進学の準備を進めることにしました。
2014年4月から2016年3月まで、私は横浜市立大学大学院でサービス・マーケティングを専攻しました。この時期は、単に学位を取るために学ぶだけでなく、日本社会の仕組みや企業の人材観、そしてプレッシャーとチャンスが共存する環境の中で、どのように自分の居場所を見つけていくのかを、自分なりに考え始めた時期でもありました。卒業が近づいた頃、私は2社から内定をもらいました。1社はアルバイト先の企業、もう1社は建材を扱う会社の営業職でした。最終的に私は、自分の力を試してみたいという思いから、建材関連の企業に入社し、2016年4月に社会人としての一歩を踏み出しました。
2014年4月から2016年3月まで、私は横浜市立大学大学院でサービス・マーケティングを専攻し、サービス分野における顧客行動について専門的に研究しました。指導教員が非常に厳格な方だったこともあり、研究のために多くの本を読み、さまざまなビジネスモデルについて深く学ぶ時間を重ねました。この時期に積み重ねた知識は、その後のキャリアにおいてとても大きな土台になったと感じています。
また、大学院の2年間では、先生からの勧めもあり、ニューヨークでの1週間のフィールドワークや、スロベニアで開催された学会への参加といった貴重な機会にも恵まれました。こうした経験を通じて、多文化的な視点が広がり、仕事においても物事を多角的に捉える考え方が身についたように思います。
修士課程1年目は、成績に基づく授業料50%減免の奨学金しか受けていなかったため、生活費や学費を補うために、自分からさまざまなアルバイトにも取り組みました。その中でも特に印象に残っているのが、日本の大手総合企業グループの研修センターで、接客サービスの指導に関わる仕事です。この仕事を通して、店舗運営やオペレーションの仕組みをより具体的に理解できただけでなく、大学院で学んでいた消費者行動に関する知識を、実際の現場で活かす機会にもなりました。そしてこの経験がきっかけとなり、卒業後にはそのグループの本社から内定をいただくことになりました。
修士2年目の夏には、2つの内定をいただいていました。ひとつは、アルバイト先の本社でベトナム市場の展開に関わる仕事。もうひとつは、建設資材レンタル会社で海外営業を担当するポジションでした。最終的には、自分自身を試してみたいという気持ちと、母と同じ業界の仕事に挑戦してみたいという思いもあって、建設資材関連の会社を選び、2016年4月から正式に働き始めました。
建設現場の真夏の昼休みに見つけた次の道
入社当初、私はここで仕事を学び、現場に触れながら、日本企業の働き方を理解していこうと考えていました。実際、この仕事を通して多くの経験を積むことができましたが、続けていくうちに、自分はこの道に本当の意味では合っていないのかもしれないと感じるようになりました。
その理由のひとつは、仕事の性質上、お酒の席が多く、男性中心の環境での付き合いが多かったこと、そして想像していた以上に技術寄りの仕事だったことです。私は決して苦労を避けたいタイプでも、プレッシャーに弱いわけでもありません。ただ、このままこの方向に進み続けたら、数年後にはベトナムに戻ることになるかもしれない、日本で長くキャリアを築くのは難しいかもしれないと感じるようになりました。
そこで、より自分に合った方向を探すため、これまで以上に周囲をよく見るようになりました。会社はどう回っているのか、各部署はどうつながっているのか、誰が会社全体を見渡しているのか。もともと貿易大学でビジネスを学んでいたこともあり、社内のやり取りから、会社全体の流れを比較的つかみやすかったのです。そうした中で、私は財務管理、特に海外子会社の管理に関わる仕事に強い関心を持っていることに気づきました。
そのポジションであれば、営業部門の短期的な目標だけではなく、会社全体の状況を把握でき、経営陣とも関わりながら、企業の長期的な方向性を理解することができます。営業を続ける道もありましたが、それはもはや、自分が本当に進みたい道ではありませんでした。
入社した当初から、言語の壁や専門知識の不足による苦労はある程度覚悟していました。けれど実際に直面したのは、単に「大変」という一言では片づけられない、自分の想像をはるかに超える総合的な試練でした。
まず大きかったのは、日本語の壁です。JLPTのどのレベルであっても、大阪で飛び交う関西弁や仙台の東北弁でのやり取りに備えることはできませんでした。当時の私はまだN2レベルで、現場で交わされる生きた言葉についていくだけでも精一杯でした。
次に苦労したのは専門知識です。そもそも建設資材や設備に関する用語は、ベトナム語でも十分に理解していたわけではありませんでした。それが日本語になると、すべてが驚くほど細かく、正確に定義されていて、ベトナム語には存在しない概念さえ少なくありませんでした。
職場環境そのものも、また別の意味で大きな試練でした。当時、本社にいる外国籍社員は片手で数えられるほどしかおらず、女性社員の多くは事務や技術系の部署に所属していました。私のように営業職に就いている女性は、全社でもほんの5人ほどだったと思います。しかもこの業界は、部署内の懇親会、部署を越えた付き合い、さらには国内外の取引先との会食まで、とにかく多くの“飲みの場”と切り離せない世界でもありました。
そんな環境の中で、私はよくベトナムで長年建設業に携わってきた母のことを思い浮かべていました。母の存在は、自分が踏ん張り続けるためのひとつの支えでもありました。けれどその一方で、「これは本当に自分が進みたい道なのだろうか」「この仕事を長く続けていきたいと思っているのだろうか」「この分野で本当に強みを持てるようになりたいのだろうか」といった問いも、少しずつ自分の中ではっきりしていきました。
そんなふうに悩みながら過ごしていた頃、私は本社で受けた集合研修のことを思い出すことがよくありました。中でも、経営企画室に関する内容にはいつも強く惹かれていました。さらに、子会社の内部営業レポートに偶然触れる機会があったことで、会社がどのように動き、どう意思決定をしているのかを、これまでとは違う、もっと広く体系的な視点で見ることができるようになりました。
また、経営陣との会議に同席する機会も何度かありました。もちろん、その場で自分から意見を言えるわけではありませんでしたが、ただ聞き、ただ観察するだけでも、知識が少しずつ自然に自分の中へ染み込んでいくような感覚がありました。
そして、ある夏の昼休み、先輩に同行して建設現場を回り、図面の仕上げや設備計画の検討をしていたときのことです。ふと、頭の中で何かがつながったように感じました。現場で耳に入ってくる会話。ときにはほんの断片的な言葉にすぎなかったとしても、そこに表れていた業界の現実的なニーズや今後の方向性は、それまで経営層の会議で聞いてきた話とはまったく違っていたのです。
そのとき私は、二つの視点の間にある大きな隔たりに気づきました。ひとつは、何百、何千という現場を俯瞰しながら全体の方向性を考える立場。もうひとつは、ひとつひとつの現場に深く入り込み、それぞれの案件を具体的に担っていく立場です。そして、その二つの世界のあいだで、私は初めてはっきりと自分に問いかけました。自分はこれからどこに立ちたいのか、本当に進むべき道はどこにあるのか、と。
自分を成長させるために続けた独学
まだ営業として働いていた頃から、私は次の方向へ進むための準備を少しずつ始めていました。会社から求められたわけではなく、自分の意思で簿記の勉強を始めたのです。。元々は、専門用語を理解し、お客様とのやり取りを円滑にすることが目的でしたが、学びを続けるうちに、将来より自分に合った仕事へ移るための土台になるのではないかと考えるようになりました。
当時は、一日のわずかな空き時間もできるだけ勉強に充てていました。会社には1時間早く出社して机に向かい、昼休みも食事と同僚との会話を30分ほどにとどめ、残りの時間は教材を開いていました。外から見れば小さな積み重ねかもしれませんが、私にとっては、今いる場所から少しずつ自分を引き上げていくための、最も現実的な方法でした。
私には、先に道を示してくれる先輩はいませんでした。そのため、働き始めた頃から、自分で状況を観察し、情報を集め、それらをつなぎ合わせて考える習慣が自然と身についていきました。今何が起きているのか、自分はどの方向に進めるのか、そのために何を準備すべきか。そうした問いを自分の中で繰り返していたのです。管理系の仕事に移りたいと考え始めた頃には、簿記3級を取得していました。決して大きな資格ではありませんが、自分が確かに次の方向へ踏み出していることを示す、最初の節目となりました。
転職を考え始めた頃、私が持っていたのは簿記3級の資格だけで、簿記2級はまだ勉強中でした。学生時代に身につけたわずかな英語力と、それまでに積み重ねてきた知識や経験を頼りにしながら、私は少しずつ新しい方向へと舵を切り始めました。
コロナ禍と、外資系への転機
当時私が働いていた会社は、飲食店向けのソフトウェア事業を行っていました。コロナの影響で飲食業界全体が大きな打撃を受け、それに伴い会社も人員削減を行うことになりました。私はその対象者の一人で、ちょうど産休・育休を終え、職場復帰を控えていた時期でもありました。
当時は、足元がぐらつくような感覚がずっとありました。子どもが生まれてからは、仕事を選ぶ基準が、「好きかどうか」だけではなくなっていました。次の仕事にはある程度の安定と、それなりに整った制度が必要でした。そうでなければ、働きながら子どもをきちんと育てていくことは難しいと感じていたからです。当初は日系企業を中心に転職活動を進めていましたが、次第に行き詰まりを感じるようになりました。不採用が続くこともあれば、条件が合わないこともありました。たとえば、通勤に片道1時間半かかるにもかかわらず、勤務時間は8時間に限られているような求人もありました。そうして1か月半ほど探し続けるうちに、先が見えなくなりかけたこともありました。
その頃の私は、外資系企業が自分に合う選択肢だとは考えていませんでした。英語の特別な資格があるわけでもなく、完全に国際的な環境に飛び込めるほど自信があったわけでもありません。以前の仕事でも英語は使っていましたが、実際には英語と日本語が混ざったような形で、仕事を回すには足りても、十分に安心できるレベルだとは言えませんでした。
それでも、最初からその可能性を自分で閉ざしてしまえば、できるかどうかを試す機会すら持てないのではないかと考えるようになりました。そこから意識を切り替え、外資系企業への転職活動を始めました。人材紹介サービスをいくつも利用し、複数のリクルーターとやり取りをしながら、外資系に特化した転職サイトも活用して面接に臨んでいきました。
新しい環境で、もう一度スタートする
そのときの転職活動では、簿記2級、JLPT N1(出産前に受験)、新卒時に取得したTOEIC845点、そして日本で積み重ねた4年間の実務経験をもとに、仕事を探していました。 とはいえ、面接は決して簡単なものではありませんでした。それでも最終的には2社から内定をいただくことができました。私が入社を決めた会社は、英語力に加え、一定の会計知識があり、業務にキャッチアップできる人材を求めていました。私にとってそれは、決して完璧ではないものの、新しいスタートを切るには十分にマッチした環境だったと思います。
2020年9月、私は外資系企業にJunior Accountantとして入社しました。当時はまだ子どもが小さかったこともあり、最初から大きな責任を抱えすぎないよう、あえて最も基礎的なポジションから始めることを自分で選びました。その頃は、とにかく仕事と育児を両立できる、安定した場所を見つけたいという気持ちが強かったのです。
しかし、仕事は自分が思い描いていたようには落ち着きませんでした。同僚が退職し、社内でもさまざまな変化が続いたため、私は9か月にわたって2人分の業務を担いながら、複数のプロジェクトを同時に進めることになりました。会社はそうした私の貢献をきちんと評価してくれて、2021年6月には中間管理職に昇進し、1人の部下を持つ立場となりました。さらに2022年4月には経理責任者となり、日本・韓国市場全体を担当するようになりました。そして2023年12月からは、日本・韓国だけでなく、アジア太平洋部門に所属するファイナンシャルコントロール補佐として、地域内15社以上の子会社に関わる税務および内部統制を担当するようになりました。担当範囲は広がり、業務もより専門性の高いものへと変化していきました。外資系企業で働く中で強く感じたのは、昇進が年功ではなく、成果で判断されるということです。私はその点にとても魅力を感じていました。また、この環境では自分の意見を比較的率直に伝えることができ、上司からのフィードバックも明確なため、物事が進むのが早く、状況も理解しやすいと感じていました。日本人は自分の意見をはっきり言うことや、プロセスを変えることをためらう場合が少なくありません。しかし私は、もっと良いやり方があると思ったら、まずは声をあげてみればいいと思っています。正しいかどうかは後から分かることでも、その時点で本気で仕事に向き合っているからこそ出てくる意見だと思うからです。
仕事に追いつくために学び続ける
3社目の外資系企業では、英語を使う場面が非常に多くありました。会議も多く、直属の上司は外国人で日本にはいなかったため、短期間でリスニング力とスピーキング力の両方を引き上げる必要がありました。
そこで私は、ベトナムにいる知人に依頼し、5回ほど個別にコーチングを受けました。自分の強みや弱みを整理し、話すときにどのような点に意識を向ければ英語への不安を乗り越えられるのかを、一緒に言語化していったのです。それに加えて、とにかくたくさん聞く練習もしました。イヤホンをつけてYouTubeを流し、再生速度を1.5倍にして、会話のスピードに耳を慣らすようにしていました。
こうした取り組みを、入社後最初の2か月間ほど、集中的に続けました。続けるうちに気付いたのは、自分が本当に怖れていたのは英語そのものではなく、「自分はまだ十分ではないのではないか」という感覚だったということです。その不安を一度乗り越え、仕事のリズムに少しずつ慣れていくと、状況はだんだん安定していきました。実際には、仕事の内容と課題の所在をしっかり理解できていれば、英語はそれを伝えるための手段に過ぎないのだと思います。
仕事と家族のあいだで
以前の会社も、決して悪い環境ではありませんでした。しかしある時期から、日本にいながらほとんど英語だけで仕事をし、リモートで働いている状態に対して、自分の中で少し違和感を覚えるようになりました。せっかく日本で暮らしているのに、その意味が以前ほど自分の中で感じられなくなっていたのです。そこで2024年5月、私は別の外資系企業に転職し、日本市場に完全にフォーカスした会計・税務の仕事を担当することになりました。
しかし、その会社に入ってからわずか半年ほど経った2024年11月、再び大きな転機が訪れます。幼い子どもは体調を崩しがちで、夫もコロナ禍の収束に伴い、遠方へのオフィスへの出社勤務に戻ることになりました。一方で、私自身の仕事も引き続き責任が重く、プレッシャーの大きい状況が続いていました。フルタイムの仕事を続けながら、子どもの体調不良が繰り返される日々に向き合う中で、私は一度立ち止まり、生活全体を立て直す必要があると感じるようになりました。
そこで私は退職を決意し、家族との時間を大切にしながら、これからの道を改めて見つめ直すことにしました。ベトナムにも帰国して家族と過ごし、現地の暮らしのリズムに身を置く時間も持ちました。それは、自分にとって本当に必要なものは何かを、静かに問い直す時間でもありました。そして2025年4月、私は日本に戻り、それまで勤めてきた会社よりも約3倍の規模を持つ外資系B2C企業に入社しました。ただ今回は、以前のように全てを抱え込もうとはしませんでした。その代わり、日本市場における売上管理という一つの領域に集中することを選びました。この仕事は、大学院で学んだ顧客行動研究の土台から、日系企業と外資系企業の両方で積み重ねてきた実務経験まで、それまで自分が培ってきたすべてがつながっていると感じられる仕事でした。
何度か転職を重ねる中で、私は「前に進むこと」の意味を少しずつ考えるようになりました。それは、必ずしも多くを手に入れることでも、より大きな責任を背負うことでもありません。
ある時期には、大きなポジションよりも、その時の自分の暮らしに合ったポジションのほうがずっと大切なのだと思います。
キャリアを続けるための投資
仕事に復帰しながら生活とのバランスを保つために、私は市のサポートサービスと民間のベビーシッターの両方を利用して、子どもの送迎や早めのお迎え、自宅での見守りなどをお願いし、日々の負担を分散させていったのです。日本ではこうしたサービスは決して安くないため、利用をためらう人も多いと思います。それでも私は、この出費によって仕事のリズムを維持でき、キャリアのチャンスをつなぎ、心身に少し余裕を持てるのであれば、それは単なる「支出」ではなく「投資」だと考えるようになりました。
時期によっては、こうしたサポートに毎月10万円近くかかっていました。ベビーシッターだけでも1時間2,000〜3,000円ほどで、ほぼ毎日、1日2〜3時間利用していました。市のサービスと民間のサービスを、その時の自分のスケジュールに合わせて組み合わせて使っていたのです。最初の半年ほどはほとんど自費で負担していましたが、その後は会社からも補助が出るようになりました。行政の制度と会社のサポートを合わせることで、最終的な自己負担は月3〜4万円ほどまで抑えられるようになりました。
とはいえ、最初は不安でいっぱいでした。こうした形で生活を組み立てて、子どもがしっかりと休めるのか、無理なく受け入れてくれるのか、そして自分自身が仕事と家庭の両方の責任を担っていけるのか、正直なところ確信は持てていませんでした。
それでも最後は、日本での暮らしの中で自分に言い聞かせてきた考えに立ち戻りました。まずはやってみよう、と。やってみなければ、自分にどんな選択肢があるのかさえ分からないままだと思ったのです。
ありがたかったのは、実際に始めてみると、物事が思っていたよりも少しずつ落ち着いていったことです。仕事に集中できる時間が増え、結果が出ればきちんと評価にもつながり、そこから少しずつ流れが良くなっていきました。さらに、市のサポートサービスを利用したことで、近所に住む日本人の方々と知り合う機会も増え、思いがけず温かいご近所さんたちとのつながりもたくさんできました。
メッセージ
日本で暮らしていると、自分でいくつもの決断をしなければならない場面があります。自分の意思で選ぶ決断もあれば、思いがけない出来事や、自分ではどうにもできない事情によって迫られる決断もあります。
そうした経験を重ねる中で、私は、変えられないことに対して受け身でいたり、ただ嘆いたりするよりも、まずはその状況を受け止め、その中で自分にできる最善の方法を探すことのほうが大切なのだと感じるようになりました。もちろん、それは決して簡単なことではありません。実際、とても疲れた時期もあれば、頭の中が混乱してしまうこともありましたし、強い不安に押しつぶされそうになったことも何度もあります。それでも進み続けるうちに、本気で出口を探そうとしたときにこそ、道は少しずつ開けていくのだと感じるようになりました。
自分が本当に望んでいるものは、自分から探しに行かなければならない。そうして動き始めたとき、物事は少しずつ動き始めるのだと思います。
この14年間、日本での暮らしの中で、最初から道を示してくれる人がいたわけではありませんでした。だからこそ私は、自分で観察し、情報を集め、時には周囲とは少し違う角度から物事を見ることを学びました。その積み重ねが、少しずつ今の自分につながってきたのだと思います。
そしてこれは、自分自身にも、そして仕事や子育て、家族のことなど、様々な悩みの中で毎日模索している女性たちにも伝えたいことですが、自分にはまだ力が足りないと感じる時でも、まずはやってみればいいと思います。やってみなければ、自分にできるかどうかは分かりません。たった一度でも思い切って踏み出してみれば、自分が思っていた以上に力があったのだと気づけることが、きっとあるはずです。
東京、 2026/4