研究概要
タンパク質では、構造変化という化学反応をともなって、機能が生み出されます。タンパク質分子にはスイッチとして働く部位と、機能を生み出すために働く部位があります。外部からの刺激のセンサーとなるスイッチ部位において局所的だった構造変化は、部位間で連動しながら、時間が経つにつれてタンパク質分子全体へと広がります。
タンパク質の構造変化は、ピコ秒(1兆分の1秒)から秒の時間スケール、化学結合長の変化が起こるオングストローム(1億分の1センチメートル)以下のミクロな空間から分子全体を含む空間スケールまで幅広く広がります。連動して起こる構造変化を変化の途中でとらえることができれば、タンパク質が機能を生み出すメカニズムを明らかにすることができます。このためには、原子レベルの空間分解能、および反応が追跡できる時間分解能が必要です。分子構造変化を観るために、現在、X線結晶構造解析や電子顕微鏡によりタンパク質分子中にある原子の位置座標を明らかにする方法が広く用いられています。これに対して、わたしたちは、分光法によりタンパク質の分子構造を明らかにする研究を行っています。
振動分光法は、化学結合によって結びついた原子核間でおこる結合長や結合角の変化にともなう分子の振動遷移をスペクトルを通して観測します。分子中にある原子核間の化学結合を「ばね」と考えると、ばねで起こる単振動の周期(振動数)は、おもりの質量とばね定数で決まります。つまり、振動の形や化学結合の次数、および原子量によって、原子核間でおこる振動数は変化します。このため、分子内の特定の結合における原子核は、特定の振動数(固有振動数)で振動運動します。N原子分子には3N-6(直線分子では3N-5)個の基準振動があるため、振動分光法をもちいて得られたスペクトルには、多くの分子構造の情報が含まれています。
ラマン分光法は、振動分光法の一つです。分子に振動数ν0の光を入射すると、固有振動数νで振動する分子と相互作用が起こり、入射光の振動数からνだけずれた(ν0 ± ν)
非常に微弱な散乱光が発生します。これがラマン散乱です。
タンパク質の分子構造決定にラマン分光法をもちいる理由は、共鳴ラマン効果を利用することができるからです。共鳴ラマン効果は、分子が持つ電子状態の準位間のエネルギーにラマン散乱の励起光のエネルギーを近づけることで起こります。このとき、散乱光強度は1万から100万倍程度に増大します。強度増大した散乱光の発生は、スペクトルの高感度計測を可能にします。さらに、タンパク質のような巨大な分子においても、励起光のエネルギーに共鳴する電子状態をもつ特定の原子団の散乱光のみが強度増大するため、部位選択的なスペクトル観測が行えます。すなわち、ラマン散乱の励起光の波長をうまく選ぶことで、タンパク質中の別々の部位を区別して観測し、機能のカギとなる構造変化を探ることができます。
機能を生み出すタンパク質の構造変化のプロセスを追うためには、反応開始のタイミングからある時間経過した後の、過渡的に現れる状態を観測する必要があります。質の良いスペクトルを得るためには、信号強度が必要です。複数の分子から信号を得ることができれば、測定時間を短縮することができます。
しかし、このとき反応開始のタイミングが揃っていないと、異なる状態の分子のスペクトルを得ることになり、データがぼやけて解析が困難です。一方で、タイミングが揃っていると、反応開始からの経過時間に応じた状態の分子だけが存在し、反応ステップごとの分子のスペクトルを区別して得ることができます。
観たいプロセスよりも短い応答時間の光を分子に照射し、分子が反応するタイミングを揃えて、もう一つの光で分光計測する方法が、時間分解分光法です。時間分解分光法では、短パルス光をもちいることで高速な初期反応を追跡できるとともに、機能が現れる遅い時間領域まで、幅広い時間スケールのダイナミクス観測が可能です。わたしたちは、時間分解共鳴ラマンスペクトルを計測することで、タンパク質の構造ダイナミクスを観ています。
研究内容
ロドプシンは、タンパク質分子中にあるレチナール発色団が光吸収し異性化が起こることで機能します。たとえば、微生物の細胞膜上ではイオン輸送・光センサー・酵素として働き、動物では視覚応答に関与します。このタンパク質群は、タンパク質構造が互いに似ているにもかかわらず、異なる機能を示すことが知られています。また、クリプトクロムと光回復酵素は、よく似たタンパク質構造を持ち、共通するフラビン発色団が同様の光誘起電子移動反応をするにもかかわらず、前者は概日リズム、後者はDNA修復という異なる機能を表します。このように、共通構造を持つ光受容タンパク質において、発色団とタンパク質間の連動した構造ダイナミクスと機能との相関を調べ、これらの分子機構を明らかにします。
光受容タンパク質は機能のスイッチングに光化学反応を利用するため、時間分解分光法をもちいたダイナミクス計測を行うことができる。しかし、ほとんどのタンパク質は光を利用しないスイッチングを行うため、時間分解分光法の利点を活かしたダイナミクス計測が困難です。そこで、タンパク質反応のスイッチングに光反応による小分子の構造変化を利用して、高速なタンパク質立体構造形成をスイッチングに用いて時間分解分光計測を行い、そのダイナミクスを明らかにします。
これまでにヘムタンパク質が優れた光熱エネルギー変換分子ヒーターであることを明らかにしてきました。それは、ヘムが光を吸収すると高速な無輻射過程により、入力した光エネルギーをほぼ損失なく熱エネルギーに変換するため、これを熱源にタンパク質分子周辺を加熱することを見出したためです。次のステップとして、物理化学研究と生命科学研究の橋渡しとなる研究を目指し、生きた細胞中でヘムタンパク質と温度感受性タンパク質をカップリングさせ、光スイッチングによる熱シグナル制御により細胞操作する技術を開発します。