「内村鑑三先生写真帳 Ⅲ より」 斎藤宗次郎編集・解説
サムネイルをクリックすると拡大写真と説明が表示されます
>> デジタルアーカイブTOP
内村家家族
『祐之美代子結婚(1924年大正十三年十一月)後』
静子(51) 祐之(28) 内村鑑三(64) 美代子(22)
孫女(正子)の写真を撮る為に母と祖母と自分と三人附添にて市中に行いた。鍛冶橋外森川写真館主人の常に変らざる熱誠を罩めたる撮影を受けて愉快であった。(先生の記より)
祖母 祖父(66才) 長孫正子 母
孫女を抱く内村先生
(森川氏苦心の作であった後日述懐す)
「家族の者を伴れて杉並村に斎藤宗次郎君の田園的ホームを訪うた 楽しき友誼の交換であった。」(先生の日記より転載す)
此の日先生は弊宅の正門を入るや否や早速独り苺畑を一周して其中から大形福羽、ドクトルモーレル、白苺等を指適して賞せられた。それより家人の供せし苺を賞味しながら歓談一時間に及んだ。(写真は(斉藤)茂夫の撮影せるもの)
三年間の独逸ミンヘンに於ける精神病学の研究を了えて首尾能く帰朝せる祐之の不在中に安産せし健全なる長女正子の天真なる顔を始めて見たる喜びと、父の留守中に生れし孫女を二年余り極度に愛育し来リ些の支障もなく無難に彼女の父の手に譲り渡されし祖父先生の慰安満足とは該写真全面に漲るを認めて快感を覚える。
祐之札幌赴任前 岡田八郎17 父祐之31 母美代子25 祖父内村先生67 長女正子2 岡田花枝20 祖母静子夫人54
先生は第六回札幌伝道(第十二回目の札幌行)として静子と共に上野を発(三陸地方伝道に赴く斎藤宗次郎は尻内駅まで同乗)車し、途上函館にて教友数名の歓迎を受け根崎海岸に半日を費し二十七日午前八時札幌に着き多数教友の歓迎を受けた。孫女正子の笑顔に旅の疲を忘れた。直ちに祐之の新居に安着した。写真は其後撮りしもの。(日記の一節)(今回は九月十五日まで滞留福音伝道の為に活動さる)。
「午前十時より大阪中之島公会の三階に京阪神『聖書之研究』読者会が開かれた。来会者百人余り、遠くは淡路、美作より来りし者もあった。塚本先ず「基督教道徳」に就いて講し、次に自分は「聖書の中心」に就いて話した。来会者は全注意を以て聴いて呉れた。十二時一先ず閉会、写真を撮り、昼食を共にし、直ちに感話祈祷会に移り語る者祈る者相次いで間断なく四時充実せる会合を終った。
閉会後教友二人に案内され自動車で市中を見物した。ホテルに帰り友人四人と夕食を共にし、八時四十分発の夜行にて帰途に就いた。疲れし身は寝台車に大なる安息を得た。」(先生の日記より)
森川写真館にて撮影(68才)
大島正健 内村鑑三 68歳 伊藤一隆
信仰五十年記念日に際し、同信の友宮部金吾に次の祝電を発した。(平安あれ五十年間君と共に信仰の道を歩みしことを神に感謝す)
後、青山墓地に至り五人集合し、ハリス墓に訪ずる前暫時控所に休憩す。
新渡戸稲造 大島正健 内村鑑三 伊藤一隆 広井勇
午前十一時、東京在住の同時の受洗者、新渡戸稲造、広井勇と自分と三人、之に加うるに我等の兄分なる伊藤一隆、大嶋正健の両君を加え総て五人雨を冒して青山墓地に会し(次頁につづく)
伊藤一隆 大島正健 新渡戸稲造 広井勇 内村鑑三
撮影の期日、所不明
札幌に於ける内村祐之医学士の新居の玄関に長孫女正子の手を取って立たるゝ内村老先生(68歳)
初春 鑑三
赤ん坊の命名式を行った。北海道の名木カツラに因み桂(ケイ)子と命名した。詩篇第百二十七篇を朗読し、彼女の為に祝福を祈った。後に家族一同五人に親戚の者二人を合せて豊平館に感謝の昼食を共にした。館は今より五十年前、自分が札幌農学校在学中に成ったものである。其古い建築物に於て我が孫の出生祝賀の筵を催すことが出来たとは不思議の因縁である実に「エホバ家を建て給うにあらずば建つる者の勤労は空し視よ子等はエホバの予え給う嗣業にして、胎の実はその報いの賜物なり」である。自分の生涯の末期がこんなに成ろうとは夢にも思わなかった。(先生の日記より)
1928年(昭和三年)八月頃
次孫女桂子さんを抱いて大自然界(庭園)の中を散歩せらるる内村先生(68)。
内村鑑三 宮部金吾 南鷹次郎
於札幌
「九月十五日(土)夜九時四十分多くの友人に送られて札幌を離れた。十六日(日)、火山湾の南岸にて夜が明けた。 駒ヶ嶽の麓より眺めたる湾の鏡面は美しくあった。朝七時函館に着き、湯の川時任家の客と成った。 午後二時より商工会議所の議事堂に於て講演会を開いた。五十銭の聴料を払いて来り聴く者が百三十人あった。 自分は「繁栄の基礎」並に「宗教の利用に就いて」と題し一度に二回の講演を為した。 函館に於て未だ曽つて斯んな気持の好い演説を為したことはない。閉会後、 今は函館市会議長たる旧開拓使時代の同僚松下熊槌君に自動車にて案内され、市内を見物した。 勘察加より帰来りし漁業汽船の荷揚げする状況を示され、我が心が躍った。 北海道産業の発達に関する自分の青年時代の理想の実現を見たからである。 夜に入り旧い同窓の一人寺尾熊三君を君の湯の川の家に訪い旧古を語り祈祷を共にして帰った。 充実せる一日であった。」(先生の日記より転載す)
1929年(昭和四年)九月十五日(日)
朝早く山形県小国伝道組の帰途訪問があり、朝飯を終えて家族を合せて総て五人、共に聖日を守った。田舎伝道の必要と楽しさを語り合うた。
愈々明日山荘引上げと決した。大体に於て善き休養であった。(内村先生の日記より)
星野温泉は、先生が大正十一年八月以来夏期幾度か休養せられし所であるが、今回は最後の事となった。 当時私は柏木なる内村邸の留守番を仰せ付って日夜緊張してその重任を守って居った。
適ゝ、先生の目下御苦心中の一つの問題が解決の曙光現われ来ったので、一刻も早く先生に報ぜんと、 九月六日独り星野山荘に先生御夫妻を訪ねて具さにその要旨を伝えた。先生の喜悦満足は一と通りでなかった。 早速私は廊下につながる別館(明治の初年グラント将軍来朝の節、その宿泊所として仙台に新築せる洋館を譲り受けしもの) に導かれ大方卓に先生と対坐した。
先生は世界地図を繙きロマ法王のバチカンの現状を歎かれ、又柏木の集会の実状に心をいためられた。 次に窓外に視線を転じ、緑の森と秋草の美とを賞し、野鳥の歌と小川の水音に耳を傾けて自然界の荘厳と調和とに 私の鋭敏なる注意を促された。時将に正午。
勝手口より伝わり来る静子夫人の声に応じ、パンの昼食を共にするを許された。
時の迫るに及んで私は辞し去った。時に沓掛駅頭まで徒歩態々見送られし先生の懇ろなる好意を感謝しつゝ 上野行列車に乗り午後一時先生に別れを告げて帰途につき、碓永トンネルは祈の間に過ぎた。(斎藤二荊野人記)
其夜九時より有志者の涙ながらの祈祷会
翌二十九日石河光哉氏一名の助手によってデスマスク成るや午後二時出門帝国大学医学部にて解剖に附し四時帰る。 午後五時納棺 夜八時棺前に祈祷会を開く。
左右に並列せるは遺族親戚友人会員が会葬者に謝意を表せんとするところ。
午後一般会葬者の告別 午後三時半出棺 午後七時半大葬斎(堀の内)
講堂に於て内村聖書研究会解散(石原兵永氏司会) 同日午後三時雑司谷墓地に埋骨式を行う。
市内雑司ヶ谷より内村家の墓を多磨霊園に移す。
To be Inscribed upon my Tomb.
I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.
内村鑑三(47才)
1907年(明治40年)8月上旬
海保宅にて撮影
市川春松 森本慶三 長谷川松七 松井延太郎 浅見仙作
斉藤新次郎 浅野猶三郎 山岸壬五 海保竹松 中田信蔵 佐藤喜平治 木村充
長谷川松七妻 小田代れん 内村鑑三先生 青木義雄 斉藤多祈 斎藤宗次郎
東京柏木 内村先生
葬儀の節 内庭に於て写す
蒲地信 森本慶三 海保竹松 田中龍夫
藤沢音吉 浅野猶三郎 畔上賢造 斎藤宗次郎 井口喜源治 小山英助
(11頁遡ってデス・マスクの次に入るべきもの)
>> デジタルアーカイブTOP
画像の無断複製はお断りします。著作権に関するお問い合わせは、国際基督教大学図書館までお知らせ下さい
Copyright (C) International Christian University Library. All rights reserved.