「内村鑑三先生写真帳 Ⅱ より」 斎藤宗次郎編集・解説
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千葉東金に於いて聖書之
研究読者会来会者
内村鑑三先生御夫妻
京都に於て撮影(56歳)
京都に於ける内村先生の
聖書講演会 出席者写真
京都に於ける内村静子
京都に於ける写真
内村先生57 夫人44
再臨運動時代の先生
御殿場東山荘に於ける
団欒会の日の附近散歩
東山荘集会の日近郊を独り
散歩する内村鑑三先生(57歳)
東山荘に於ける団欒会
札幌郊外豊平川畔の
内村先生(七月五日)
58歳
宮部氏後園の桜ン坊
内村先生と宮部博士
旭川教友 七月九日朝
北見教友の一団
岡山県会議事堂に於ける
聖書講演会
大手町講演の会場
(東京丸の内大手町所在、
大日本私立衛生会)
兵庫県西宮に於ける
聖書講演会
箱根強羅に於て長尾半平氏主催に成る平信徒修養会を開く
内村先生夫妻
先生の背後は刀禰氏
1921年(大正十年)五月一日
内村恩師の還暦の祝日
内村鑑三
京都便利堂(新町通り竹屋町下る)に客たりし時(62歳)
信州沓掛星の『聖書之研究』読者会
63歳
軽井沢、林中に於て簡易生活を送りし頃の内村鑑三(63才)
柏木聖書研究会
内村鑑三(64才)
内村鑑三(64歳)
講堂の門側に立てる内村先生(64才)
同前
群馬県利根郡清水越の
麓湯檜曽
於市内青山会館
聖書之研究第三百号
記念感謝会
1925年(大正十四年)
六月二十五日、二十六日
旧城内の齋藤宗次郎の苺畑
多年宿望を果されし
内村鑑三先生
65歳
札幌内村会
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柏木今井館聖書講堂集会
1914年(大正三年)頃と推定 [内村鑑三先生54歳] 2 柴田●次 3 石川 7 坂田祐 8 森田甫
Kanzo Uchimura and his Writings.内村鑑三と彼の著作
に於て半身を己が著者に支える内村鑑三
『聖書之研究』読者会(於兵庫県明石海浜)
当日の祝福豊かなる集会の模様は一読者の詠ぜる左の詩句によって察せらる。
午前
滴翠松牆従碧空 白沙蔽地美園中 深嵩講演心恍惚 窓裡会衆遊聖宮
午後
衆心墮落是時流 攻国紛争未識休 天下状形如濫水 那蘇独出救人舟
夜会
夕陽没浪播州洋 円月懸松夜気清 俗輩相逢談現世 信徒三十仰天郷
千葉東金に於いて聖書之研究読者会来会者
千葉東金に於いて聖書之研究読者会来会者
富助一 土屋禎 秋葉菊太郎 椎名理一 海保隆治 成島忠周 金関進 柴田豊造 花澤正二 作田貞雄 今関三郎 今関實 寺尾俊平 高山要吉 板倉真市 子安大助 岩佐春治 杉田●比古 赤谷治三郎 古川恭輔 唐笠儉 飯高熈 畔上賢造 田中謙治小高章三 中西忠志 海保竹松 斎藤宗次郎 森田甫 根本益次郎 石川誠 高井傳一 細田新蔵 押鐘伊勢治 橋本くま 海保いく 畔上むつ 石川鐵雄 藤井武 内村先生(56) 牧野友蔵 柴田●次 海保敏郎 坂田祐 澤野鉄郎
内村鑑三先生御夫妻
(56才 43才)
京都に於て撮影(56歳)
京都に於ける内村先生の聖書講演会 出席者写真
演会 出席者写真
京都に於ける内村静子
京都に於ける写真 内村先生57 夫人44
京都に於ける写真
内村先生57 夫人44
再臨運動時代の先生
1918年(大正七年)二月 於大阪 中田重治 内村鑑三 木村清松
1918年(大正七年)五月 於京都 松岡帰之 内村鑑三 青木庄蔵
御殿場東山荘に於ける団欒会の日の附近散歩
1917年(大正六年)八月十八日 内村先生と日向都城教会牧師園部氏
東山荘集会の日近郊を独り散歩する内村鑑三先生(57歳)
東山荘に於ける団欒会
東山荘に於ける団欒会 内村鑑三先生(57歳) 内村祐之 坂田祐 蒲池信 青木義雄 内村先生 池田福司 沖田信蔵 江原万里
札幌郊外豊平川畔の内村先生(七月五日)
六月二十六日東京発七月二十五日帰京 第三回札幌伝道後久しぶりの札幌伝道で第四回目である。今回は令息祐之と京都の便利堂中村彌左衛門随伴、遂に旭川北見野毛牛登別大沼公園を訪問せらるることとなった。
札幌滞在沖の或る時 独、豊平湖畔を親しく四十年前の農学校時代を感慨深く偲ばる。
58歳
内村鑑三先生は熱き祈祷の下に準備を整え、将に壇上より聖書の真理を講ぜんとするに先だちての撮影(58歳)
宮部氏後園の桜ン坊
内村先生が新鮮なる桜桃を枝上より手ずから摘み採りて試食賞味せらるるは寔に稀らしき事実である。自然と人生との美わしき調和の光景と観ぜられる。
内村先生と宮部博士
内村鑑三先生と宮部金吾先生 其関係たるや深く強し。多年不変、純新緊密、之を「竹馬の友」「刎頸の交」と称するも及ばず真に比倫を絶したる恩寵の摂理に基因するものと信ずる外はない。
『参考』
両先生の懐旧快談を側にて傾聴すれば高音哄笑四辺を歴するので所謂”横隔膜以下の笑いとは是れならんと感ぜられた。(明治三十五年九月六日第二回札幌伝道に同伴を許されし余か宮部家に一泊せし時の事。斎藤生)
旭川教友 七月九日朝
北見教友の一団
石原氏宅にて撮影(右より二番目祐之氏)
野付牛(北見市)には宜教師ピアソン氏夫妻居住伝道す。内村先生一行三人は一夜此家に客となる。
夜半の祈
北斗七星高し北見の空夜半独 屋外に出て家郷の平康を祈る ピアソン氏宅にて 鑑三
登別行の列車 世界最大の汽車
1918年(大正七年)七月十六日 登別行列車
登別温泉其二 大地獄を覗く
駒ヶ嶽の麓 大沼公園 其一
1918年(大正七年)七月十九日午前 大沼公園より駒ヶ嶽遠望の先生と令息
旅館の前庭に於て撮影
内村先生は一ヶ月近き長期に亘る北海道伝道を果された後のことであるから感謝満足の凱旋たるは勿論のことであるが、心身の御疲労の程と察するに余りあることである。此際帰京の途中聊かの気がね遠慮もなき静かな所に休養の時間を供するは肝要のことと考え、私共は敬愛の心を籠めて、先生か平素主の愛を以て同情し居らるる池田政代盲老婦の開業し居る禁酒主義の旅館(水沢駅前)に御一泊を乞い、夕の祈祷会、食事、入浴、按摩等私共の出来得る限りの優遇を以て先生を喜ばしてあげた。写真は翌日旅館の前庭に於て撮影せるもの。
池田彦一 斎藤忠兵工 池田貞子 小田代れん 斎藤仁志 斎藤多祈子 菊池チセ 池田竹代 斎藤宗次郎 照井真臣乳 内村先生 池田政代 池田松枝
岡山県会議事堂に於ける聖書講演会
森本敬三 矢内原忠雄 同夫人 三谷隆正 松本郷一 神田夫人 上岡貞二郎 木村孝三郎 土居脩治 松岡帰之 青木庄蔵 内村鑑三 中田重治 本間俊平 神田繁太郎
大手町講演の会場(東京丸の内大手町所在、大日本私立衛生会)
大日本私立衛生会(東京丸の内大手町)
内村鑑三先生が聖書講演会場を神田美土代町基督教青年会館より当衛生会館に移せしは1919年(大正八年)六月一日の日曜集会(七百名出席)よりで(大正十二年)震災焼失前まで四ヶ年余継続した。先生の畢生の偉業たる羅馬書講演は此期間中のことであった。此大講演は古賀貞周氏の好意により大正十三年九月に「羅馬書の研究」と題して世に公表することとなった。
兵庫県西宮に於ける聖書講演会
兵庫県西宮に於ける聖書講演会 内村先生60歳
箱根強羅に於て長尾半平氏主催に成る平信徒修養会を開く
箱根強羅に於て長尾半平氏主催に成る平信徒修養会を開く
講師 内村鑑三(黒色の上着にて中央に立てる) 渡辺善太 森戸辰男(長尾氏の右) 主催 長尾半平(向かって内村の右) 会員 百十余名 会計 松野菊太郎 集会後会員自由に芦ノ湖大涌谷方面に散歩す。
内村先生夫妻 先生の背後は刀禰氏
日本橋三越百貨店撮影部に 於て係員刀禰穂吉氏の請いに応じて撮影せられし
内村先生夫妻。先生の背後は刀禰氏
1921年(大正十年)五月一日
結婚の際に恩恵を受けた人々が内村恩師の還暦の祝日に謝意祝意を表せんため各自子供を伴い集った時の写真
内村鑑三
京都便利堂(新町通り竹屋町下る)に客たりし時(62歳)
京都便利堂(新町通り竹屋町下る)に客たりし時(62歳)
自1893年(明治二十六年)秋 至1896年(明治二十九年)夏 京都上京区下立売通り小川西入居住(饑餓との苦闘時代)33才~36
信州沓掛星の『聖書之研究』読者会
八月二十六日(土)
午後二時 読者会
馬可伝六章三十一節の大意 内村先生
休養の秘訳はイエスと偕に在る事を説がる
夜、感話祈祷会 二十名
八月二十七日(日)
礼拝講演会 五十余名
馬可伝十章四十五節 内村先生
基督教が世界を従服せし原理
午後感話祈祷会(斎藤司会)
63歳
軽井沢、林中に於て簡易生活を送りし頃の内村鑑三(63才)
軽井沢、林中に於て簡易生活を送りし頃の内村鑑三(63才)
柏木聖書研究会
内村鑑三(64才)
内村鑑三(64才)
内村鑑三(64歳) 長野県小渚市於図書館
講堂の門側に立てる内村先生(64才)
註、門柱は信州福島上松の松島縫治郎氏の寄贈せる木曽檜
同前
群馬県利根郡清水越の麓湯檜曽
少しく山に親まんとて、或る若き友に伴はれて群馬県利根郡清水越の麓湯檜曽を指して出発した。渋川より沼田まで、利根川の両岸を縫うて汽車の走る所は爽快であった。沼田より目的地までの乗合自動車は決して快いものではなかった。
湯檜曽は明治二十一年余が新潟なる旧北越学館仮教頭として招かれて赴任する当時一泊した所である。今は昔の跡なく、只豊富なる藻泉の至る所に湧出するのみである。山は深く、風は涼しく、遠路を冒して来る甲斐のある所である。
於市内青山会館
来会者三千五百名と話せらる
内村鑑三先生は東京神学社校長高倉徳太郎先生と高壇を共にし「日本国と基督教」と題し講演された。
随分骨が折れたが若い人等の大衆に向かって語ることとて気持が好かった。多分東京に斯んな大衆が共にキリストの聖名を讃美した事はあるまいと先生は言われた。
聖書之研究第三百号記念感謝会
聖書之研究第三百号記念感謝会
感謝会
七月十二日(日)午後三時より講堂に於て開かる、遠近より来する者二百名以上(岩手、新潟、兵庫、栃木、茨城、千葉、長野)初号よりの読者は二十名以上あった。
讃美歌、聖書朗読祈祷の後内村先生は『頌栄の辞』と題し研究誌に加わりし神の恩恵の数々を列挙さる次に大嶋先生の述懐来会者数名の感話があった六時一と先ず閉会
有志懇話会
七時より開かれ、感話交々続き、研究誌に由て死せし人々の美わしき実状談に接しては一同厳肅の感に打たれた。九時愛惜の間に閉会。
慰労晩餐会
翌十三日内村先生に対する慰労の為に塚本畔上両先生並に教友有志の発起せる晩餐会は上野精養軒に於て盛大に開かれた。 下図はそれである。
1925年(大正十四年)六月二十五日、二十六日
内村先生の日記より転載
一夜を東北本線の汽車中に過し二十五日正午函館着直ちに湯の川通時任邸に至った、一同の大歓迎を受けた。午後五時家次男幸次対三浦浩子の結婚式を司った。出席者五十名を越えず、名家の結婚式としては至って質素なるものであった大に我意に叶い非常に嬉しかった。約翰伝二章カナの結婚式に於て主が水を変えて葡萄酒となし給いし其意義に就て語った。即ち普通の物を化して甘き意味あるものと成し給うと。
時任家は旧開拓使時代よりの名家であり、之に福音入り子女十一人尽く信仰を以て成長せしを思い、北海道に関係深き自分としてはその為に祝福を祈らざるを得ずと思ひ、今回態々遠路此地に来つた次第である。
よく二十六日は函館に於ける楽しき一日であった。朝新郎新婦とともに自動車を駆りて時任家経営の上磯牧場に行いた。風景を眺めて後、藁屋に横臥を許さん雲雀を聞きつ午睡を貪つた。五時遺愛女学校の夕の礼拝式に臨み一場の講和を為して帰つた。夜十一時一同に送られて帰途に就いた。波静かなる船中の眠は安くあつた。
旧城内の齋藤宗次郎の苺畑
六月二十七日午前六時十五分青森を発し七時間の暑き汽車旅行にて陸中花巻に着き、その地の教友の大歓迎を受けた。明治四十四年以来の初ての花巻訪問である、土地の変化と発展に驚いた。然しそれよりも驚いたのは旧き教友の信仰の変わらない事であった。我等は旧城内の斎藤宗次郎の苺畑に於て細かなる感謝祈祷会を開いた。(次面につづく)
多年宿望を果されし内村鑑三先生
多年宿望を果されし内村鑑三先生
(つづき)終って畑より直に摘取りし赤い甘い大粒の苺の豊かなる饗応に与かった。花巻に止まりし三時間は一刻千金であった。午後五時発の汽車にて帰途に就いた。三人は水澤まで、一人は一関まで送って呉れた。それより急行列車に乗換え再び客車を旅館として安き眼に就いた、一日を花巻に費して非常に嬉しかった。
来て見れば昔しながらの花巻や嘗き苺に友の真心(先生の日記より)
65歳
神の予定し給いし時満ちて内村鑑三は日本国に生る、直ちに聖霊の導きに従いて苦難試煉の荒野に長い間身?心霊の鍛錬に過ごし、進んで聖書全篇の啓示に浴してキリストの福音の真髄に徹し、順次之を世に公表して65齢に達した。茲に身長を越ゆる浩瀚の己が著書を積み重ねてその側に立ち、全幅と一貫せる十字架の真義を仰ぎて感謝讃嘆に堪えざる先生の厳かなる姿容を熟視して、余と亦その祝意歓喜の一端を分与せらるる好感を懐かしめらる。
先生の愛願い終始し来りし、本帖編集者 野人斎藤二荊八十七●
札幌内村会
札幌市ユーゴー亭にて撮影 札幌内村会
1919年(大正八年)五月十七日内村鑑三は謝恩奨学金を母校なる札幌農学校に献金。
之に墓いて逐年奨学金を受けし者八人其内一人死亡現在札幌に住する者六人、孰れも農学部卒業又は在学の優等生である。 自分の提供せし少額の奨学金を受けて呉れた事は此上なき名誉であった。一同先ず撮影し次いで夕食を共に卓上談話に快楽を貪った。 茲に「札幌内村会」を設くることに議決した。将来会員結合して活勧せんことを約した。
顧問 宮部金吾 特別会員 内村祐之 普通会員 今田清二 田沢十● 小野定雄 小山一郎、 沢田英吉、 島倉●次郎、 石塚●明 照井陸奥生、 此後会員に加わりしは 兼好依一 榊原正 本間憲一、矢島武、長沢武、 日比●元、伊藤信夫、斎藤元一、谷口正太郎、下村得治 伊藤正夫、 船山二郎、冨田光政、坂井弘 以上 以上昭和二十年調査 以後中止となる
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