傷だらけになって町を支え続けた姿
明治維新後も市中取締役の任にあった今西家は、個人の名誉(爵位授与)よりもあくまでも町をまもることに徹してまいりました。
惜しむらくは、(昭和ニ年)1927年北丹後地震によって、主屋西につながっていた牢屋と主屋南西の三階倉が倒壊したことでしたが、 今井町有志の方々が駆け寄って、力を合わせて建物が倒れないように丸太二本で支え補強していただいたことは、当家に対するねぎらいであり、何よりもの勲章でありました。
そして、今西家が今日まで立ち続けている真の理由は、歴代の家族、そしてこの家を支えた数多の先人たちが、370年余りもの間、一晩として欠かすことなく続けてきた「火の元への畏怖」にあります。神仏に灯明をささげ、囲炉裏の火を消し、行灯を改め、静まり返った屋敷の中で火の用心を唱える。その気の遠くなるような日々の積み重ねは、歴史の表舞台に名が残ることはありません。しかし、戦火を免れ、失火を許さず、この広大な空間を今日まで守り抜いてきたのは、名もなき人々が捧げた、祈りにも似た細心の注意でした。
建築史家の伊藤ていじ氏が(昭和三十二年)1955年に東京大学全国町屋調査で関野克、太田博太郎両教授と共に助手として初めて今井町を訪れた際の今西家の当時の様子を述懐されています。
本瓦の屋根には草が生え、隅木は折れ、瓦は破れ、雨は遠慮なく屋内へ降り込んでいた。
土間に立てば、傾いた建物を二本の柱が辛うじて支えている。
それでも私は、その姿を見て思った。
「腐っても鯛だ」と。
このような民家を、私は今まで見たことがなかった。
民家は普通、外観は地味でも内部に凝るものだ。
しかしこの家は、その逆である。
まるで道の真ん中に立ちはだかり、
行く手を塞ぐようにして町を守ろうとしている。
傷だらけになりながらも、なお踏みとどまり、
今井町を背にして立つその姿は、
民家というより、まるで天守のようであった。
それは、ただの古い家ではない。
人々の歴史を、体ごと受け止めて支え続けてきた建物であった。
世界遺産という栄誉を辞退し、守り抜いた「自治の魂」
(平成四年) 1992年の日本による世界遺産条約批准の際、今井町は中世寺内町の構造を完全に留める稀有な都市遺構として、ユネスコ・イコモス等の国際的な専門家から極めて高い評価を受け、世界遺産登録の有力候補地となり岡橋四郎橿原市長から財団法人今西家保存会前理事長に打診がありました。
当時、生活の場としての制約を懸念した今井町の住民が下した決断は、世界を驚かせるものでした。
「推薦の見送り」
それは、単なる利便性の追求ではありません。外部の評価や観光地化に依存するのではなく、自らの手で、この「生活文化」と「静寂」を次世代へ繋ぐという、今井町古来の「自治都市(Independent City)」としての精神的な現れでした。
この決断こそが、外部の評価に依存せず自らの手で「生活文化」を守り抜くという、今井町古来の自治精神の現れでもありました。
その保存運動の精神的・物理的な支柱となってきたのが、今西家住宅です。世界が認めた価値を、住民自らが「生きた住文化」として守り抜いてきたというこの稀有な歴史的プロセス自体が、今西家住宅を「民家第一号の国宝」として認定すべき、現代的な公共性と歴史的意義を裏付けています。
(昭和三十一年)1956年11月と(昭和三十二年)1957年5月の二度にわたる東京大学工学部建築学科による全国町屋調査を経て、文化財保護法により(昭和三十二年)1957年6月18日に国の重要文化財に指定され、建立年代を明確にする資料である棟札も同時に重要文化財の附つけたり 指定とされました。
※棟札によれば、「棟上 慶安参年刀庚 参月廿弐日 和州今井大工棟梁 曾我藤原朝臣四郎左衛門金兵衛」とあります。
また、今西家住宅の重要文化財指定を契機として、「点」が指定されたことで、今井町の町並み(環境)である「面」から切り離して保存することは不可能であるという認識が生まれ、町並み保存運動の起点になり、文化庁による全国の「伝統的建造物群保存地区(伝建)」制度創設の大きなきっかけとなりました。
建築史家 伊藤ていじ氏は、「民家はそこにあってこそ社会的機能を持つ。日本一の重要伝統的建造物群保存地区今井町に立ち続けている今西家住宅を国宝にすることは、民家が評価される未来ではなく、過去を讃える行為でもなく、日本人が何を美と信じて暮らし続けてきたかを、自らに問い返す行為です。」と常に語っておられました。
今西家の国宝指定は、単なる一民家の保護に留まらず、「日本の町並み保存運動の聖地・出発点」としての公共的な功績と意義があります。
司法機能の意匠(封建制度下における自治都市(在郷町)の統治空間遺構)
ーー重要文化財今西家住宅(旧今井町惣年寄筆頭居宅・行政司法拠点遺構)ーー
天正3年(1575年)、今井郷民(十市家や河合家の一族郎党など)は本願寺の顕如上人に呼応し、織田信長に対して挙兵しました。明智光秀配下の筒井順慶を相手に半年も持ちこたえましたが、本願寺が信長と和睦したことで大義を失います。
ここで津田宗及の斡旋により、信長から赦免状(今井郷惣中宛赦免状)が下されました。このとき約束された「萬事大坂同前(すべて大坂と同じ扱いとする)」という特権が、織豊政権下において強力な自治権と免税の拠り所となりました。徳川政権下において、1679年に天領に組み入れられてからも今西家は今井町の町方支配を委ねられた『惣年寄(そうとしより)筆頭』を代々務めた名家であり、本住宅は封建制下において高度な自律性を保持した自治都市の精神と支配秩序の構造を体現する最高峰の建造物であるといえます。
明治以降の近代司法遺構(旧金沢監獄や旧札幌控訴院など)は、西欧の近代法を取り入れた「国家主導の統治」を象徴するものです。
一方で、織豊政権、徳川政権の封建制度下における統治空間遺構が今西家住宅に遺る構造は、それ以前の日本が培ってきた「地域自治による紛争解決(内済・惣村自治)」の最高到達点をそのまま可視化しています。これほど明確な司法機能の意匠が民家に組み込まれ、今日まで破壊されずに残った理由は以下の3点に集約されます。
1. 「お白洲」と「式台」が示す権威の可視化
一般の町家において、これほど広大な土間(敷地の約半分)を確保し、そこに「上段框(じょうだんかまち)」や「式台(しきだい)」を設けることは許されませんでした。これは単なる生活空間ではなく、お上の代弁者(惣年寄)として公的な裁きを下すための「公の場」としての格式(都市におけるミニマムな陣屋機能)を、幕府が公式に認めていた動かぬ証拠です。
2. 「燻し牢」という実力行使のリアリティ
言葉による裁き(お白洲)だけでなく、「燻し牢(いぶしろう)」や「牢屋」という物理的な拘束・罰則の執行空間が民家の中に併設されている点は驚異的です。これは、今西家が単なる調停役(仲介者)に留まらず、町の治安を維持するための「警察権」と「刑罰権」を実効的に握っていたことを如実に物語っています。
3. 歴史の連続性がもたらした奇跡
明治維新(版籍奉還・廃藩置県)の際、江戸時代の多くの陣屋や役所、お白洲は新政府によって解体、または近代的な裁判所に建て替えられました。しかし、今西家住宅は「私有の民家」であり、同時に今井町全体が奇跡的に戦災や近代化の開発から取り残されたため、日本固有の自律的な司法空間が、そのまま現代にスライドするように保存されることとなりました。文献の文字を追うだけでは見えてこない「当時の人々がどのような空間で裁かれ、どのように自治が維持されていたのか」という肌感覚を現代に伝える、極めて雄弁な法制史の立体資料と言えます。
(元和元)1615年今井西辺において豊臣方の大野治房が郡山城を攻め落とし、法隆寺、百済寺付近に火を放ち今井郷へも押し寄せ激戦がありましたが河合権兵衛清長(今西正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残りました。
同じ自治都市堺は全焼させられてしまいました。
(元和七)1621年5月、大坂夏の陣の功績を称える為に郡山城主松平忠明が当家へ赴き饗応の宴の後、徳川家康ことづけの来国俊銘薙刀を拝領し、今井の西口を守ったことから名字を今西とすることを勧められて改名しました(姓は中原のまま)。
(延宝7年)1679年に今井町が天領になり、今西家は武士の身分を停止され町人身分になって、自治権を失効することになりますが、代々惣年寄筆頭職を幕末期まで務め、廃藩置県後も引き続き明治政府から市中取締りを命じられました。
13代当主 今西正厳逸郎氏は、政府から奨められた男爵位を辞退し、今井町への鉄道駅計画の誘致を反対して町並みの保存を選択しました。その結果、鉄道駅は現在の王寺町側に設置されました。
この決断により、近代化が遅れることになりなしたが、今井町の町並みは残ることになりました。
そして、町並集落の文化財としての認識が高まり、今井町の伝統的景観が徐々に崩れることに懸念して(昭和五十年)1975年の文化財保護法改正の際、伝統的建造物詳(保存地区)と云う呼称で文化財として取り上げることによって伝統的建造物群保存地区の制度が発足し保存対策が進められることになりましたが、住民の意見がまとまらず、(昭和五十二年)1977年から文化庁・建設省のまちなみ合同調査が始まりました。ようやく(平成五年)1993年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されるに至りました。
今井町の「重要伝統的建造物群保存地区」は、東西約600メートル、南北約310メートル、面積にして約17.4ヘクタールの規模となっており、地区内には伝統的建造物として、建築物が501件、工作物が119件、環境物件が69件あり、さらに、国指定重要文化財9件、県指定文化財3件、市指定文化財5件という、日本でも稀な文化密度を誇る地区となりました。全国で最も多い地区となっています。
(1)建立年代の明確性と真正性
本建物は(慶安三年)1650年3月22日建立であり、棟札ならびに鬼瓦銘によって建立年代が明確に裏付けられております。棟札は附(つけたり)指定を受けており、史料的真正性は極めて高いものと認められます。民家建築において建立年代が確証される例は稀であり、その史料的価値は特筆に値します。
(2)城郭的構成を備えた自治都市の中核建築
本建物は旧環濠集落の西端に位置し、西の防衛拠点として機能したと考えられます。
・北側道路に突出し丁字型の枡形を形成
・床の間付き二階座敷の北面・東面に塗籠連子窓を設置した外敵監視を想定した視認性の高い構成
・平面形式は約半分を土間が占めお白州の場として使われ、床上部分との境は鴨居・敷居が突止溝(つきどめみぞ)と一本引きになっており、板戸が入って、突止溝は他の間仕切りにも見られ、城郭建築に使われる技法
これらは単なる町家形式を超え、自治都市の防衛・行政機能を内包した特異な建築様式であります。身分制度などの規制を強化した(元和元年)1615年の武家諸法度発布から、規制が緩和される元禄年代までに二階床の間及び二階屋と式台[があったことから、この家が武家であったことの証しとなっています。
(3)本建物東南二階屋
本建物東南隅すなわち仏間南に二階屋(別間)が接続していますが、この二階屋も後補のものではなく、本建物と同期のものであることがわかりました。
この二階屋は改変がはげしかったために、(昭和三十二年)1957年の本建物指定調査の際は、一応保留という形になっていましたが、再度の調査で本建物と同期のものであり、当然追加指定ということも考えられましたが、内部改造のはげしかったことと、当主の希望などもあって指定しないことにしました。別間の構造形式は、主屋と大差はないが、各部材の大きさの比例関係である木割りの小さいことと、1階南端柱間には書院のような痕跡のあることから、南8畳間の座敷は、書院形式のものであり、後の指定も考えて当初材を使用して修復しました。
民家最古の「帳台構え」の完全遺存
本住宅の帳台構えは、横羽目板壁、引戸、戸棚付き板壁、落とし猿の鍵装置などの構造を完全な形で伝え、日本住宅史の研究において決定的資料となっている。
このため本住はしばしば「民家の法隆寺」と称されてきた。
わが国建築史において、帳台構えが当初の姿のまま保持している貴重な例であり、当家において解体修理の際に、その構造と詳細が明らかになりました。
「なんど」への出入口は、帳台構えの板戸を開け、一段上がった框(かまち)を跨いで入るのが建前となっており、帳台構えの出入口及び2段押入引戸には落とし猿(くるる)が付いており鍵がかかり防備の工夫がしてあり、今井町でこのように他の部屋にも落とし猿(くるる)が付いている住宅は他には見当たらないことからして外敵からの防御を常に意識していたことが考えられます。
左一間を堅子(たてこ)で押さえた横羽目板壁とし、一段上がった敷居に幅一間ほどの引戸、残りを戸棚つき板壁とする。土間および中の間(おうえ)からみると威厳のある一種の化粧のように意匠されています。
(天正三年)1575年、織田信長の降伏勧告を拒絶し、今井郷民が蹶起し、織田の軍勢と半年あまり戦いましたが、信長朱印状(今井郷惣中宛赦免状)が付与され、武装放棄を条件に自治権を認められました。その後ながらく今西家 今西與次兵衛、称念寺 今井兵部房が治め、惣年寄制がしかれたのは(元和七)1621年で尾崎家を新たに加え、次いで(寛永十六年)1639年に上田家を加え 、(寛永十一年)1634年には全国にさきがけて幕府から通貨発行の許可を得て、今西家が貨幣鋳造権を有し、尾崎家と共に札元となり、藩札と同価値のある紙幣「今井札(いまいさつ)」が発行され、74年間広く流通し、特に兌換性が高いと評判でした。
(延宝七年)1679年になると、天領に組み入れられ自治都市としての特別な扱いから「郷中並み」に扱われるようになり、今井氏が仏門に専念し、三惣年寄制となりました。戸数1200軒・人口4千数100人を擁する財力豊かな町場で、高度な自治を展開したので、幕府は江戸、大坂、京都、奈良と同様に、今井を町として認めました。
なお、本建物の平面形式が約半分を土間が占め裁判所として使われ、床上部分との境は鴨居・敷居が突止溝(つきどめみぞ)と一本引きになっており、板戸が入って、突止溝は他の間仕切りにも見られ、城郭建築に使われる技法が使われ、上段框(かまち)や式台(しきだい)を設けて土間側に立つ二本の柱の上にS字型の梁を置いて太い三本の太い梁を支える構造的意匠により、お白洲の場を荘厳化し、燻し牢や牢屋を備えるなど、自治権を委ねられた行政司法機能(陣屋)的性格を有する類まれな建築として設計されています。
自治都市・今井町の威容を今に伝える建物であります。
「民家」という枠組みの超越:文化財行政への新たなる類型(カテゴリー)の提案
2026年5月、我が国の文化財保護史上初めて、民家2棟の国宝指定が答申されました。「民家は国宝になり得ない」という旧来の固定観念が打破された今、私たちは文化庁ならびに文化審議会に対し、民家建築における「画竜点睛」を成す最高峰の遺構をここに提示します。
先日指定された二棟が、中世の「暮らしのルーツ」を伝える【居住空間遺構】(無人の過去)であるならば、重要文化財・今西家住宅は、近世日本の「最高峰の自治と司法」を体現する我が国唯一の【統治空間遺構】(有人の現在)です。
本遺構は、慶安3年(1650年)に武士身分の今西正盛によって「自治都市の裁判所(陣屋)」として普請されました。延宝7年(1679年)の天領化に伴い、幕藩体制の都合上、身分としては民家(町人地)へと移行しましたが、その構造は一介の農民や一般的な町人が住む住居では絶対にあり得ない、高度な行政・司法・金融機能が集約された「封建制度下における地方統治空間」そのものです。
私たちは「民家初の座」を争っているのではありません。「居住空間の国宝」が誕生した今、封建時代の高度な社会システムを今に伝える「統治空間の国宝」たる今西家を指定して初めて、我が国の建築史・法制史の空白は完全に埋まるのです。
核心セクション:統治空間を証明する「3つの絶対的機能」
1. 司法の場:近代法制史以前の「お裁き空間(行政司法府)」
織豊・徳川政権より「検断権(警察・裁判権)」を認められていた惣年寄筆頭の拠点として、本住宅は設計段階から高度な司法機能を内包しています。明治以降の近代司法遺構(旧金沢監獄正門など)は西洋法の模倣ですが、本遺構は近代法が整備される以前の我が国固有の法制史について、実際の建造物として如実に伝える唯一の存在**です。
お白洲(法廷):敷地の約半分(床面の半分)を占める広大な土間に加え、上段框や式台を施した空間設計は、領主の安易な立ち入りをも排し、民を吟味し、町の秩序を維持した厳格な「法廷」そのものです。
燻し牢と牢屋の現存:本建物の西に接続する牢屋、および罪人を拘束・尋問するための「燻し牢」や武者溜まりの配備は、民家には絶対に存在し得ない「刑罰の執行権」の動かぬ証拠です。
2. 行政の場:武家諸法度に準拠した「要塞・陣屋(城郭の櫓)」
外観および都市計画上の配置において、本住宅は今井町という環濠集落を守る「西の天守・物見櫓」として機能していました。
武家諸法度(寛永令)への準拠:普請に際し、民間向けの建築規制ではなく、武士に対する「武家諸法度」の規制を強く意識。あえて長屋門などを簡略化遵守しつつも、式台(玄関)や二階座敷(格上の謁見空間)など、本質的な構成要素は完全に武家の「陣屋」そのものです。
枡形(ますがた)と横矢の意匠:** 本町筋の道路に対して意図的に建物を突出させ、外敵の見通しを遮断する城郭特有の「枡形」を形成。さらに二階の「塗籠の連子窓」は、攻め寄せる敵を町外から見張り、横から狙い撃つ「横矢をかける」城郭建築の技法がそのまま取り入れられています。
3. 金融の場:地域通貨を発行する「今井札の札元(中央銀行)」
徳川政権下の厳しい統制がありながら、今井町は幕府の公式な許可を得て、独自の地域紙幣「今井札(銀札)」を流通させていました。今西家はその発行・回収・管理を一手に担う「札元」でした。
一介の民間組織が「通貨発行権」を握り、その管理オフィスが邸宅内にあったという事実は、現代で言えば**「民間企業の中に日本銀行が入っている」ようなものであり、封建制度下における驚異的な経済的自治権と、それを支えた行政中枢としての価値を証明しています。
4. 歴史セクション:十三代の英断と国民主権の証明
義を以て利に換えぬ精神、これぞ「民の法隆寺」
明治の近代化という混迷期、十三代当主・今西正厳逸郎は、新政府からの「男爵」の爵位贈与を辞退し、利便性と富をもたらすはずだった鉄道駅(現JR大和路線)の建設計画に真っ向から反対しました。
私利私欲、家名の繁栄、目先の経済的繁栄をすべて排し、民の力で歴史的景観を守り抜いたこの「英断」があったからこそ、現在の全国最多の文化財群を有する今井町(重要伝統的建造物群保存地区)が今日に遺されました。
幕府や行政が管理する無人の「過去の箱」とは異なり、今西家住宅は、民の覚悟と子孫の使命感によって今日まで生命を維持してきた「民家の法隆寺」です。これを私たちの意思(署名)によって国宝へと押し上げる行動そのものが、日本国憲法の保障する「国民主権」の生きた先行証明となるのです。
5.結び:当主挨拶・署名へのお願い
未来へ紡ぐ、継承者の使命 ──「承前啓後」の覚悟
460年間、絶えることなく灯り続けたあかり
私たち今西家が、永禄9年(1566年)にこの今井町の地に居を構えて以来、今日に至るまで約460年。神仏にともしびを供え感謝をささげ、ただの一夜も絶えることなく、生活の、そして祈りのあかりが灯され続けてまいりました。
激動の戦国時代、織豊・徳川政権の封建制度、明治の近代化、そして現代へ ―― 時代の荒波の中で、一世代たりとも欠かすことなく同じ血脈がこの場所で息づき、暮らし、建物に魂を吹き込み続けてきたこと。この「現役の生きた歴史」そのものが、今西家住宅の持つ唯一無二の息吹です。
文化遺産を継承していく者の使命と自覚として、私は今後も先祖及び今井町先人の遺志を引き継ぎ、建造物や工芸品、美術品のみならず、歴史的背景と共に伝統技術等を後世に伝え残すことが、この地に生きる者の使命であると自覚しております。
私たちが目指す国宝化とは、単に一族の建造物の格付けを誇るためのものではありません。今井町の魅力を一人でも多くの方々に伝えることによって、閉塞感の漂う現代社会に「精神的支柱」としての希望を感じてもらい、共に分かち合えるよう貢献すること。そして、先人たちが命懸けで残してくれた「伝統技術」と「自治都市の陣屋としての精神」を、いかにして狂いなく後世に伝え残せるかという、厳粛なる誓いです。
過去を受け継ぎ、未来をひらく ──「承前啓後(しょうぜんけいご)」の精神のもと、私たちはこれからも引き続き景観整備や町並保存の事業に協力をさせていただき、つとめてまいる所存です。
博物館のガラスケースに収まった無人の「居住空間遺構(過去)」が暮らしのルーツを伝えるものであるならば、460年間あかりを灯し続けてきた今西家住宅は、日本の市民自治の精神を今に伝える、最初の「生きた法制史国宝」にふさわしい存在です。
私たちの手で、この動かぬ日本の宝を国家の頂点へ。
皆様のご署名とご賛同の一筆を、心よりお願い申し上げます。
【今西家住宅 国宝指定嘆願文】
奈良県橿原市今井町に現存する今西家住宅は、単なる歴史的民家ではありません。
慶安三年(一六五〇年)建立。
しかし、その価値は建築年代や規模にあるのではなく、日本史上きわめて特異な「自治都市の統治空間」が、現在まで空間構造として残されている点にあります。
今井町は、中世から近世にかけて自治都市として発展し、戦国期においても独自の自治を維持した歴史を有しています。
今西家住宅は、その中心的機能を担い、
行政
司法
金融
自治運営
という複数機能を包含した空間として機能してきました。
世界には多くの城郭が残されています。
多くの宗教建築も存在します。
しかし、市民共同体による自治機能そのものを、建築空間として現在に伝える遺構は決して多くありません。
今西家住宅が伝えているのは、一家の歴史ではありません。
一地域の歴史でもありません。
それは、「共同体はいかに自らを統治し、支え、継承したのか」という、人類社会に共通する問いへの物証であります。
この建築は、決して順調に保存されてきたわけではありません。
屋根瓦には草が生え、隅木は折れ、雨は建物内部へ降り込み、傾いた建物は二本の柱により辛うじて支えられていた時代もありました。
それでも、この建築は失われませんでした。
なぜなら、建築単体が守られたのではなく、建築を必要とした共同体そのものが支え続けたからです。
長年にわたり続けられた防火活動。
地域住民による保全活動。
継続的な維持と継承。
今西家住宅は、建築そのもの以上に、「共同体による文化継承システム」
そのものを現在に伝えております。
文化遺産の価値とは、壮麗さだけではありません。
巨大さだけでもありません。
真正性(Authenticity)
継続性(Continuity)
固有性(Uniqueness)
共同体との関係性(Community Value)
これらを備えた存在こそ、人類が継承すべき文化資産であります。
今西家住宅は、民家でありながら民家を超え、統治空間でありながら行政施設ではなく、地域遺産でありながら世界史的意義を内包しています。
問われるべきは、「民家だから国宝になれるか」ではありません。
問われるべきは、「既存分類では捉えきれない価値を、いかに評価するか」であります。
今西家住宅を国宝として位置付けることは、一建築を顕彰することではありません。
それは、自治の歴史を保存すること。
共同体による文化継承を評価すること。
そして、人類社会が育んできた多様な統治文化を未来へ継承することであります。
ここに謹んでお願い申し上げます。
重要文化財「今西家住宅」を、
我が国初の民家国宝として、そして日本初の「統治空間遺構」の国宝として、正式に指定賜りますよう、伏してお願い申し上げます。
公益財団法人 十市県主今西家保存会
代表理事 今西 啓仁
奈良県橿原市今井町三丁目九番二十五号
署名:https://forms.gle/2KiN3n4HBTyr49B27
公式サイト:https://www.imanishike.or.jp/
国宝指定運動:https://sites.google.com/imanishike.or.jp/kokuhou/ホーム
【要望の趣旨】
重要伝統的建造物群保存地区・奈良県橿原市今井町に所在する(慶安3年)1650年3月22日建立の重要文化財「今西家住宅」(昭和32年6月18日指定)は、棟札および屋根棟端部の鬼瓦に刻まれた刻銘(鬼瓦銘)により建立年代が明確であり、棟札は附(つけたり)指定を受けています。
本建物は旧環濠集落の西端に位置し、「西の要」として外敵を威嚇・防禦する意図をもって城郭を思わせる構えを備えています。北側の本町筋へ意図的に突出し枡形を形成し、二階座敷の北・東両面には塗籠の連子窓を設け、町内外の動向を見張る構造となっています。
本建物の妻面には複数の屋根の稜線が見える重ね妻の棟数の多い建物で、天守に千鳥破風や唐破風を付けて外観を立派に見せる手法と同じであり、外部白漆喰塗により柱を隠し、軒下まで塗りあげ大壁構法を用い、城を思い起こさせる建築様式で、大屋根、庇(ひさし)とも本瓦葺、外壁は大壁白漆喰に仕上げられ、正面には太い格子が入っており、二階窓の格子は軒(のき)と同様に塗籠められています。梁は、細い幅の面を数多くつくって、元の丸太の形をあまり変えない「瓜むき」といわれる加工法で、井桁に組んだ太い梁の上に小屋束を立て、貫(ぬき)で連結した豪壮な小屋組や棟と直角に設けられた煙出しは、戦国時代の城郭建築の特色を残したわが国において唯一無二の特殊な民家であります。また、今西家の柱や梁を支えているのは、かつて大和・吉野で育った数百年生の栂(つが)で、本来は一般の民家には使われず、城郭建築に用いられた建材であり、現在では、これほどの質と規模を誇る栂の原生林は日本から姿を消し、同じ建造物を再現することは、不可能といわれます。今西家住宅に使われてきた適材適所の材木は、格式と強度をこの家に与え、四百年近くの重圧を支え続けてきた「木の博物館」であると考えられます。
さらに、元和元年(1615年)の武家諸法度発布以来、幕府は建築様式による身分規制を強化しましたが、今西家はその規制下にあっても「2階床の間」および「式台(お白州)」を備えていたことは、本住宅が単なる生活の場ではなく、幕府より司法・行政権を委託された「自治都市の最高執務機関」であり、元禄の緩和期に至るまで、町家における床の間の設置、特に2階への設置は厳しく制限されていた二階床の間の保持は、今西家が武家としての身分を幕府から公認されていたことの証左でもあります。
また、民家として日本最古の「帳台構え」を完全な形で残し、土間が平面の半分を占め、上段框や式台を設けてお白洲の場を意匠し、燻し牢や牢屋を備えるなど、行政司法機能(陣屋)的性格を有する建築として設計されています。自治都市・今井町の威容を今に伝える存在であり、「民家の法隆寺」とも称される極めて稀少な遺構です。
戦後、東京大学工学部建築学科による町家調査に端を発し、今西家住宅は棟札とともに国の重要文化財に推薦され、1957年(昭和32年)6月18日に指定されました。これを契機として民家建築が文化財として本格的に着目され、日本における「町並み保存運動」が始動しました。
日本一となる約500件の伝統的建造物を有する今井町から始まった町並み保存運動は、後の「伝統的建造物群保存地区(伝建)」制度創設の大きな契機となりました。住文化研究が進展し評価軸が成熟した現在こそ、国宝制度において「民家」という領域を補完する議論が必要不可欠であると考えます。
従来の国宝(寺社・城郭)は、主に権威を象徴してきました。しかし、現行の国宝制度がいまだ十分に対象としていない、伝建地区に内在する「民家」という領域にこそ、日本文化の基層が存在するのではないでしょうか。民家は広範な国民の歴史体験を内包する建築類型であり、その公共性は寺社建築以上に高いとも言えます。
民家カテゴリーに国宝が存在しない現状は、制度上の空白であり、国宝制度が網羅しきれていない領域があることを示しています。今西家住宅を国宝に指定することは、単に過去を称える行為ではありません。それは、日本人が何を美と信じ、どのような日常を営み、その営みをいかに守ってきたのかを自らに問い直す行為です。
失われゆく原風景への警鐘として、「民家の法隆寺」と称される今西家住宅を国宝に位置づけることは、文化継承に対する国民の明確な意思表示となります。
よって私たちは、我が国における「民家カテゴリー国宝指定第一号」として、今西家住宅が正当に再評価され、次世代へ確実に継承されることを強く要望いたします。
奈良県橿原市今井町は、全国最多の伝統的建造物件数を誇る「日本一の重要伝統的建造物群保存地区」です。その中核をなす重要文化財「今西家住宅」(昭和32年指定)について、以下の学術的データが証明する圧倒的な非凡性に基づき、わが国初の「民家カテゴリーでの国宝指定」を強く要望いたします。
一、370年を耐え抜いた「年代確定遺構」としての稀少性
1650年(慶安3年)の建立。現存する近世民家の中でも最古級であり、棟札や鬼瓦銘によって建立年代が完全に特定されている点は、近世建築史における「基準作」としての絶対的価値を有しています。
一、驚異的な「当初材」の残存率
昭和37年 重要文化財今西家住宅解体修理工事報告書(奈良県文化財保存事務所)によれば、主要構造部における当初材の残存率が極めて高く、将来の支障がない限り再利用し、370年以上前の木材が今なお現役で建物を支えています。
この「真正性(オーセンティシティ)」の高さは、国宝に値する質的条件を十分に満たしています。生活に合わせて鴨居や間取りを「改変」してきたのに対し、今西家は公的施設であったため建立当時の姿を驚くほど忠実に留めています。17世紀中期の建築技術をそのままパッケージしたような保存状態は、まさに「建築の教科書」です。
一、行政司法拠点としての権威を象徴する「政治的建築」としての意匠
「八棟造」と称される複雑かつ重厚な屋根構成は、単なる住居ではなく、民家でありながら「陣屋(行政・司法拠点)」としての性格を併せ持つこの空間は、自治都市の体現化建造物であり、他には代えがたい唯一無二の遺構です。 また、内部の日本最古の「帳台構え」や、行政司法を司った「お白洲」「牢屋」の遺構は、江戸幕府の封建体制化にありながら自治を認められた特例的な町の歴史を体現する唯一無二の文化遺産です。
一、保存の継続性と誠実な修復の歴史
昭和37年の抜本的修理において、当時の最高峰の保存技術が投じられたことは、本建物が長きにわたり国家的な至宝として誠実に守り継がれてきた「保存の継続性」を担保しており、未来へ語り継ぐべき模範的文化財であることを示しています。
戦後の「町並み保存運動」の原点となった今西家住宅を国宝に指定することは、日本の「住文化」を正当に再評価し、文化立国としての矜持を国内外に示すことにつながります。
一、運営の安定性 公益財団法人による永久保存体制
国宝指定において、個人の所有でなく,公益財団法人による所有であることは、法的な情報開示義務と透明性を伴い、次世代への確実な継承を約束するものです。
【要望事項】
一、文化庁による「自治都市における統治建造物」という新たな建造物類型の検討開始
一、今西家住宅を当該類型における国宝指定候補物件として位置づけるための専門家委員会の設置
一、比較研究のための全国悉皆調査の実施(類似事例が存在しないことの公式確認)
一、文化庁による国宝指定に向けた再評価および悉皆調査の実施
一、「重要文化財今西家住宅 国宝化推進委員会」の設置と、保存継承に向けた官民一体の協力体制の構築
要望書
令和 年 月 日
文部科学大臣 殿
公益財団法人十市県主今西家保存会
代表理事 今西 啓仁
重要文化財今西家住宅の「国宝」指定に関する要望
拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。平素より我が国の文化遺産の保護および継承に多大なるご尽力を賜り、衷心より敬意を表します。
さて、奈良県橿原市今井町に所在いたします重要文化財今西家住宅(昭和32年6月18日指定)につきまして、我が国における「民家カテゴリー初の国宝」としての指定を賜りたく、法曹的知見および建築史的価値に基づき、ここに強く要望いたします。
1. 建立年代の確証性と学術的真正性
本住宅は、1650年(慶安3年)3月22日の建立であることが、現存する棟札および鬼瓦に刻まれた鬼瓦銘によって歴史的事実として明確に認定されております。この棟札は、建築物と一体不可分の歴史的証拠として重要文化財の附(つけたり)指定を受けており、その真正性は学術的・法的に疑いの余地がないものとなっております。
2. 自治都市の威容を伝える「行政司法拠点」としての希少性
本遺構は、単なる居住施設に留まらず、以下の点において極めて高い公共的・歴史的価値を有しております。
・建築形式の先駆性:民家として日本最古の「帳台構え」を完全な形で保存しております。
・司法機能の意匠:敷地の約半分を占める広大な土間部に加え、上段框や式台を施したお白洲、さらには燻し牢や牢屋を備えております。明治以降の近代司法に関する遺構につきましては、旧金沢監獄正門や札幌市資料館(旧札幌控訴院庁舎)をはじめとして全国数多に残されておりますが、本遺構に関しましては、近代法が整備される以前の我が国における法制史について、文献による伝聞ではなく実際の建造物として如実に伝承するものであるからして、その希少価値が高いことは分明なるものと思料いたします。
・自治の象徴:これらは、本住宅が今井町における「行政司法府(陣屋)」として設計・機能していたことを明白に示すものであり、中世から近世へと至る自治都市の精神を具現化した「民家の法隆寺」と称されるべき唯一無二の遺構です。
3. 「日常の営み」への肯定と国宝概念の拡張
建築史家・伊藤ていじ氏が説いた通り、本住宅は「民衆の知恵が結集したデザインの原点」であります。これまでの国宝指定(寺社・城郭等)が「非日常の権威」を象徴するものであったのに対し、今西家住宅は、我が国の先祖が紡いできた「日常の営み」と、封建制下で許された「自治」の稀有な歴史を肯定する最高峰の建築物です。
急速に失われつつある日本の原風景に対し、民家建築の最高峰である今西家住宅を国宝に据えることは、「日本の住文化を守り抜く」という国家の確固たる意志表示となります。
結びに代えて
以上の通り、今西家住宅は、その歴史的経緯、建築的意匠、および司法拠点としての公共性において、国宝に指定されるべき正当な事由を備えております。我が国の文化財保護制度における「民家カテゴリー第一号の国宝」として、正当なる評価と次世代への継承がなされるよう、格別のご高配を賜りたく伏してお願い申し上げ本要望書を謹呈いたしますます。
敬具
今、この「傷だらけで立ち続けてきた自治精神の体現化建造物」に報いる時が来ています。
今西家住宅を国宝に指定することは、単に木材の組み方を保存することではありません。
この家が証明した「人と建築の深き絆」を、そして「何があっても守り抜くという日本人の精神」を、永遠の宝として歴史に刻むことです。
今井町の先人が無償で力を合わせて二本の丸太で支えた、日本の自尊心。
その深い沈黙の中に眠る、四百年の鼓動を、今こそ正当なる評価と共に未来へ。
今西家を民家初の国宝指定 要望 QRコード