かねひめ
周姫の歴史
~阿良井城と周姫の物語~
かねひめ
~阿良井城と周姫の物語~
あらいじょう
阿良井城
場所…東広島市福富町下竹仁天神
城主…児玉氏(毛利家の家臣)
阿良井氏という土着武士がいたという伝承あり
土着武士…地方に下って地方の名士となって、そこでしっかりと住人化していくこと。
標高 350m
比高 20m
画像1 城の周りには川がある。
画像2 斜面は急になっている。
画像3 広島城二の丸の様子。
画像4 阿良井城跡略図。
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周姫様について
・毛利輝元の側室、広島城二の丸に入ったため「二の丸様」と呼ばれたが、正室「南の方」に追い出された。
・名:周姫(かねひめ)
・生死:元亀3年~慶長9年(1572~1604)32歳没
・父:児玉元良
・母:有福元貞の娘(正室)または湯原春綱の娘(継室)
・子:秀就(初代長州藩主)
竹姫(吉川広正正室)
就隆(初代外山藩主)
正室…正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。 正妻・本妻ともいう。 律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた。 これに対し、正室以外を側室という。(原則として正室は1人側室は何人いてもよい)
←正室本妻たちに内緒の屋敷が見つ かった時に逃げ場所にと作った穴4つ
あるとされる。
周姫の紙芝居
①山口の長州藩初代毛利秀就様
松壽丸はどこで生まれたのでしょうか。
文禄4年10月18日に広島で誕生したと伝えられています。
しかし、本当は天正19年に山口で誕生していたのです。
その驚くべき事実が400年後の平成24年に認定されました。400年後に明るみになった広島と山口を結ぶ真実 この紙芝居は、毛利輝元&周姫(二の丸様)の物語です。
高田郡吉田の郡山城を本拠地として、戦国大名として有名な毛利元就の孫輝元様は中国地方120万石の大大名の殿さまです。ある日、隣の豊田軍を見て帰る途中に、阿良井城のある竹仁の児玉氏屋敷で休息するためお立ち寄りになられました。
ある日、庭先でくつろいでいると、毬が転がってきました。思わず拾い上げると、かわいい女の子が出てきました。毬を渡すと、娘はありがとうとお礼を言いました。
これが周姫10歳と輝元様30歳が初めての出会いで輝元様は周姫が可愛くてお気に入りになり忘れられなくなりました。
3天正12年(1584年)周姫12歳
輝元様は16歳、南の大方11歳で政略結婚して以来、戦争続きで子に恵まれず、従弟の秀元が世継ぎに決められていました。
輝元様は好きになった周姫を側室にくれと児玉氏に伝えました。
しかし、周姫の父母は「お殿様には申し訳ありませんが、周姫はトクヤマの杉元宣様と結婚する約束になっております。」と伝えました。周姫は、故郷の安芸国を離れ、周防国に嫁いでいきました。
(故郷の安芸国は、現在の広島県東広島市福富町)
(嫁ぎ先の周防国は現在の山口周南市徳山)
4天正15年(1587)周姫15歳
楽しい新婚生活が3年過ぎ、周姫のみに大変なことが起こりました。豊臣秀吉の九州攻めに従い、夫元宣は九州へ出陣していました。
輝元様は周姫を忘れられず悶々としていました。それを察した家臣の佐世氏は杉山氏に命じ久芳の局を仲間に入れて徳山に向かい、「九州の戦が長引いているので周姫に会いたいので連れてきてくれと杉様に頼まれました・・」と嘘をついて船に乗せて出発しましたが、船は西に向かわず東へ進んでいくではありませんか・・騙されたと気づいた周姫は「私は広島へ行かぬ・・」抵抗むなしく伴のものは船の中で殺され、広島へ連れていかれたのです。
5天正16年(1588)周姫16歳
周姫はとても怒り髪を切り、食事もとらず抵抗しました。「これは児玉一族のためでもありますから・・」との言葉も耳に入りません。
輝元様は吉田から広島に城を移し、二の丸を増築して周姫を住まわせることにしました。それでも「私をだました杉山をお恨み申す」と黒髪の元結を切って輝元様を拒み続けました。
輝元様は家臣の言いなりで、見せしめに実家の児玉家領地を取り上げられました。さらに悲しい話が周姫の身の上を襲います。
6 天正17年(1589)周姫17歳
周姫が拉致されたことを杉本宣は戦地で小早川隆景より知らされ、隆景は「わしも知らなかったのだ。輝元殿のことを許してくれ・・」
しかし、主君とはいえ許せないと、豊臣秀吉様に訴えて決着付けると、9人の家来を連れ船で大阪に向かったのです。風と雨のあらしで船が進めなくなり、徳山湾の船隠しで天候の回復を待っていたところ、隆景の家来が追いつき、大阪にはいくなと説得しましたが、納得せず切りあいになり、元宣一行は全員切られてしまいました。
⑦天正17年(1589) 事件の後始末
小早川隆景は戦場の武将には「杉は嵐で遭難した」と知らせ、輝元様には書状で「殿のお気持ちを聞き、妻女周姫に離婚申し渡しに行かれる途中、嵐のため遭難して元宣は相果てました…。」とうその報告をしました。
そして杉家を守るため杉助三郎への家督の許可を願いました。元宣の菩堤寺は周南市徳山の興元寺。元宣とともに死んだ9人の墓もあります。
⑧亡霊伝説その1
毛利の船が徳山の沖を通ると
毛利の船が徳山の沖を通ると必ず海が荒れるようになりました。
又、徳川藩主の毛利元次が、江戸へ行くため徳山の港を出ると船は故障したり、藩主は高熱が出て石が手当してもどうにもなりませんでした。
これは徳山の沖で殺された杉元宣様の祟りだと噂されました。
毛利氏は興元寺で祈祷をして、何とか海の祟りも収まりました。
⑨亡霊伝説その2
杉元宣の亡霊が馬に乗って駆けまわった。
又、白馬に乗った杉元宣が、夜な夜なお墓を抜け出して、興元寺の石段を駆け下り、街中を駆け回るという噂が立ちました。
その後、興元寺の門は閉ざされ、開かずの門とされました。
⑩亡霊伝説その3
能舞台に
徳山毛利家が、能舞台を建て、お披露目しました。
そして夕方になり、能舞台の後ろに・・人影が・・
⑪女の人が泣いている
女の人が泣いて座っています。
開かずの門とした興元寺の石段でしょうか・・
広島から来られた、周姫様の化身でしょうか・・
それとも、杉氏一族のなくなった女性でしょうか・・
⑫天正18年(1590) 周姫18歳
輝元様の側室・二の丸様になりました。
周姫の夫は殺され実家の領地を取り上げられ父もなくなったこと、周姫のお世話をしている雪乃から聞かされ、これ以上意地を張っているとみんなが迷惑じゃと説得され、泣きながら側室になりました。
すると輝元様は、実家の児玉家の再建を許しました。
広島の甲斐に3万石が与えられ、兄の景唯も長門国の綾木村に2千石与えられました。
⑬輝元様が小早川隆景に叱責されました
毛利家を支えている小早川隆景には輝元様はかないません。人妻を拉致するなど、人の道から外れたことを手厳しく叱られました。
輝元様は正室南の方の反対で二の丸様を城に置けなくなって、大阪屋敷などに連れて行き可愛がりました。
そして二の丸様は懐妊したのです。
しかし悲しいことに
二の丸様は財満氏に預けられ厚狭群小野に送られました。
輝元様は、「生まれた子が女ならそちに遣わす・男なら殺せ」
二の丸様の悲しく苦しい日々が再び始まりました。
天正19年(1591) 二の丸様 19歳
財満氏は二の丸様を隠し見守り、そして生まれたのは男でした。
「男なら殺せ・・」財満氏は殿の実の子を殺せず小早川隆景に相談したところ、考え深い隆景は秘密裏に育てよと言われました。
追憶・二の丸様の顕彰碑
平成26年(2014)小野に建立された時、二の丸様は正面の方向を向いてくれません。台座を動かしても正面方向を向いてくれません。
正面は萩野ある方向で、二の丸様が向くのは徳山の方向でした。徳山の興元寺には杉元宣様の墓があり謎が解けました。
慶長5年(1600) 関ケ原の合戦
輝元様は西軍の総大将として大阪城にいました。毛利秀元が出陣戦わないまま、小早川秀秋の裏切りで東軍が勝利したのです。
毛利家は、中国地方120万石から37万石に減らされ、広島から山口の萩へ移り、二の丸様の子松壽丸(まつじまる)改め秀就が認められ萩藩の初代藩主として届けられましたが、徳川の人質として江戸に送られ、輝元様は隠居しましたが実権を持って、秀元が藩主を代行しました。
二の丸様は28歳、竹姫を出産しています。その2年後の慶長7年(1602)二の丸様は30歳で、二男の就隆を出産しています。
慶長8年(1603) 二の丸様 31歳
3人の子と引き離され、萩の城にも入れてもらえない、
二の丸様は、山口糸米の覚皇寺の仮屋に移され、寂しい日々を送っていました。
身の回りの世話をしてくれていた雪乃が突然、気が狂って暴れまわって、「二の丸様は誰のお陰で輝元様の奥方になられたと思うのか~・・・」周姫を拉致した久芳の局の亡霊が乗り移ったのでしょうか・・
慶長9年(1604) 二の丸様 32歳
二の丸様は身も心も弱り病の床につかれつぶやかれました。「女は誰も(顔や姿)容姿の美しさを誇りとするものですが、一生を地味に暮らすことこそ誠の幸福です。私は少し美しかったので夫は殺され、一家一族のことを思い仕方なく側室になりましたが、正室からは嫉妬され、子供3人は手許に置けず、実に情けない人生でした。殿を南の大方様にお返しして、あの世の元宣さまにお詫びがしたい。できるなら、姫山から見える限りの地に美人が生まれないよう願っています。
周姫から二の丸様になり、32歳の若さで生涯を終えられました。
追憶・二の丸様の顕彰碑
平成26年(2014)小野に建立された時、二の丸様は正面の方向を向いてくれません。台座を動かしても正面方向を向いてくれません。
正面は萩野ある方向で、二の丸様が向くのは徳山の方向でした。徳山の興元寺には杉元宣様の墓があり謎が解けました。
終わり
毛利輝元の側室
周姫&二の丸様の物語
二の丸残照の原作者は宇部市小野の平山智昭さん
紙芝居作成は美称市東町綾木の内田喜美子さん
お二人の資料活用をご了解いただいて
東広島市の吉田泰義さんが再編集しました。
東広島市領土研究会
山城探訪会
令和3年(2021)秋
作成…令和6年度福富中学校1、2年歴史グループ