箕島の歴史

箕島の由来

箕島は、かつて「三島村」と表記されていた。

「三島村」の「三島」とは、三つの島から名付けられた。

「丸島」「小山」「亀島(上の山)」が、その三つの島である。

丸島遠景

小山遠景

江戸時代の新田開発までは、

早島丘陵は「吉備の穴海」に浮かぶ島であり、

箕島の人々も漁労によって

生計を立てていたであろうと想像される。

<かつての箕島付近 想像図>

江戸時代の新田開発

~国境争い、汗入水道~

江戸時代になり、日本全国で新田開発が活発に行われる。

早島丘陵付近も、

足守川の堆積作用によって「吉備の穴海」は次第に浅くなり、

干潟の海を埋め立てての新田開発が進んでいく。

1626年 木屋新田

1628年 大福古新田、米倉新田、泉田新田

1631年 大福新田

1637年 万倍新田

1651年 当新田

1670年 平田新田、辰巳新田

1732年 丸島新田

1823年 興除新田

※ 箕島の新田開発は、丸島新田の他に、東新田・西新田・浜前新田・門前新田などがあるようだが、その開発年は定かではない。

<箕島の新田>

「妹尾・箕島のむかしをたずねて第2輯」から作図

国境争い

早島丘陵南側の海は干潟で、新田開発に都合がよい。

また、妹尾の漁民の漁場、早島・箕島のい草栽培の肥料

(葭草)確保の場としても重要な場所であった。

その干潟をめぐって、

備中国(箕島側)、備前国(備前藩=岡山藩)とが

自分の領地であると主張し、

解決に約100年間を要する大問題となった。


結局、この干潟は、

幕府直轄で開発をすべき土地とされる。

幕府は、備前藩に興除の新田開発をするように命じ、

興除村を備前藩に編入するかわりに替え地を求めた。


※池田家文庫絵図に国境争いの絵図があります。

http://www.lib.okayama-u.ac.jp/edc/pdf/2005_06_10.pdf

汗入水道(用水)

上述の興除新田の用水を確保するために、

新たに掘られた水路である。

1821年に工事が始められ、3年間の期日を要し、

1824年に完成した。


汗入の岩盤は固く、難工事だったようだ。

当時は、岩を火熱し崩しつつ掘るという工法だったようだが、

勾配が不十分で計画通り水が通らず、

「栗坂の次郎狐にだまされて、汗入掘っても水はコンコン」

と皮肉られる有様であったそうだ。


※ 汗入水道のその後

明治時代になり、興除新田の南に

干拓で有名な藤田村の干拓が始まる。

用水のさらなる確保が必要となり、

汗入水道の堀直し工事が行われた。


地域デジタルコンテンツに、

明治時代の汗入用水の掘り直しの写真があります。

金比羅往来

金比羅往来とは、

香川県の金比羅宮に参詣する街道のことである。

江戸時代に、船乗りや漁民だけでなく、商工業者から農民に至るまで

海上守護・災害除去の神として崇拝された。

金比羅往来は、岡山城下から大供、野田、米倉、妹尾、早島、

茶屋町、藤戸を経て、下津井まで続く。

この金比羅往来が、箕島にも通っている。


赤松や呑海寺で若干それるが、

箕島小学校の前の道路(県道倉敷・妹尾線)が

金比羅往来であった。

多くの旅人が行き交った様子を想像していただきたい。


※ 県道倉敷・妹尾線は、昔は「土手」とよばれていた。

豊臣秀吉の五大老の一人である宇喜多秀家が、

早島・帯江を干拓するために築かせた

潮止め堤防「宇喜多土手」に続く道である。

参考文献

「妹尾町の歴史」妹尾町の歴史編纂委員会 昭和45年

「妹尾・箕島のむかしをたずねて第1輯」妹尾を語る会運営委員会 平成8年

「妹尾・箕島のむかしをたずねて第2輯」妹尾を語る会運営委員会 平成12年

「備中湛井十二箇郷用水史」藤井駿・加藤耕作著 昭和51年

「岡山県歴史の道調査報告書第六集」岡山県教育委員会 平成5年

文責 犬飼建介