『都立第五福竜丸展示館ニュース』443(2024年9月)
広島、長崎、福島といった地には、核によって失われた人々の冥福を祈る無数の慰霊碑が建っている。しかし、同じように犠牲となった動植物を悼む慰霊碑は、驚くほど少ない。
哲学者ジュディス・バトラーは、「その死が悲しまれない命は、存在する価値のない命である」と述べた。核によって失われた動植物の命をどう捉え、どのように追悼していくのか。それは、生き残った人々の命の価値を問うことと、深く結びついている。
広島・長崎では、原爆によって枯死したと思われていた樹木から芽が出てきたことが、人々に生きる希望と勇気を与えた。しかし、再生の象徴となった動植物は、多くの人々を切り捨て、原爆の責任を不問とした「復興」を正当化する役割も果たした。さらに、それは核戦争や原発事故を生き延びることは可能であるという考えを補強する材料ともなった。チョルノービリ(チェルノブイリ)原発周辺の立入禁止区域で野生動物が繁殖しているという報道も、同様に解釈されてきた。
核戦争・原子力災害の被害者は、人間だけでなく、他の生き物もまた、核によって深く傷つけられたことを知っている。彼らにとって、動植物の死を悼むことは、単に過去の出来事を記憶するだけでなく、現状に対する批判と、未来への警鐘を鳴らす行為でもある。福島で被曝した牛と共に暮らしている吉沢正巳は、寿命をまっとうするまで彼らを生かし続けることで、被曝によって経済価値を失ったあらゆる命の切り捨てに抗い、事故の責任を問い続けようとしている。
人間以外の慰霊は、人間とその社会のあり方を考える上で、重要である。核の犠牲となった動植物を悼むことは、人間がもたらした核の未来を問う一歩となるだろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』442(2024年7月)
第五福竜丸被災から七十年目を迎えた今年春、アメリカの主要二紙に、マーシャル諸島とアメリカ本土の核実験被害者への補償を求める寄稿がそれぞれ掲載された。元ワシントン・ポスト紙記者ウォルター・ピンカスとニューヨーク・タイムズ紙記者W・J・ハニガンによるコラムは、一九八〇年代に開始された補償が今年相次いで失効することに警鐘を鳴らした。昨年一〇月、アメリカとマーシャル諸島共和国は経済援助の延長で合意したが、交渉にあたったアメリカ政府高官は、それが核補償のために使われることはないと明言した。一方、アメリカ本土を対象とする放射線被曝補償法は今年六月に期限切れを迎え、同法を延長して適用範囲を拡大する法案は、下院で採決に至らなかった。
注目すべきは、二つのコラムが共に被害者の貢献と犠牲を強調していることである。ピンカスは、マーシャル諸島民に対して「失われた楽園の負債を返済すべき」であると訴え、ハニガンも、アメリカ本土の被害者たちが「米国を世界唯一の超大国へと成長させる上で重要な役割を果たした」と述べた。もちろん、彼らは核兵器を支持しているわけではない。半世紀前にアメリカの医療団に同行してロンゲラップ島を訪れたピンカスは、「この旅で学んだこと、目にしたことが、核兵器の危険性を人々に喚起し続ける決意につながった」と述べた。ハニガンも、「世界的な軍拡競争の一翼を担う核兵器開発計画に資金を提供する一方で、核兵器開発の犠牲者の治療を拒否するのは二枚舌」であるという被害者の気持ちを代弁しているに過ぎない。しかし、国家補償を実現するために被害者の貢献と犠牲を称えることは、核兵器を正当化する論理につながりかねない。
二〇二一年に発効した核兵器禁止条約は、締約国に対して核兵器の被害者に対する支援を求めている。これは、あくまで核兵器廃絶という目的に沿ったものである。核兵器の被害者支援が核兵器を正当化することがないよう、注意する必要がある。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』441(2024年3月)
第五福竜丸の水爆被災から七〇年を迎えるにあたり、その語られ方について考えてみたい。従来、事件の経過と影響は日本とアメリカを中心に語られてきたが、近年ではグローバルな文脈にも注目が集まっている。第五福竜丸展示館の展示内容もこの動向を反映し、マーシャル諸島をはじめとする世界各地の核実験場の被害の実相、そして第五福竜丸事件を契機として戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言の解説を加えている。
しかし、第五福竜丸事件が植民地支配からの脱却を目指すアジア・アフリカなどの新興国における平和思想に与えた影響については、まだ十分に明らかにされていない。事件直後の一九五四年四月、インドのネルー首相は水爆実験の即時停止を訴え、米ソ間の核実験禁止交渉が始まるきっかけとなった。翌五五年四月にバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で演説したインドネシア首相スカルノも第五福竜丸事件に言及し、「私たちが口にする食物、私たちが飲む水、私たちが呼吸する空気でさえ、何千キロも離れた場所から発生した毒物によって汚染される可能性」を指摘した。一九五七年末から五八年初頭にかけてカイロで開かれた第一回アジア・アフリカ諸国民人民連帯会議に久保山すずが日本の母親代表として参加し、核兵器廃絶と核戦争阻止を訴えた事実は、あまり知られていない。
現在、アメリカでは、これまで白人男性のエリートに独占されてきた歴史叙述を階級、人種、ジェンダーなどの「インターセクショナリティ」(交差性)の立場から批判的に再検討する動きが広まっている。日本でも、第五福竜丸被災をグローバル・サウスとジェンダーの立場から見直すことで、その語り方を「脱植民地」化する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』440(2023年11月)
先日、ジョージワシントン大学で「核倫理」と題するシンポジウムが開かれた。スタンフォード大学のスコット・セーガン教授と有力シンクタンク「核脅威イニシアティブ」総裁のジョアン・ロールフィング氏が参加したこのイベントは、一九八〇年代に提唱された核抑止を正当化する倫理を批判的に再検討し、冷戦後最大の核危機に直面する現代にふさわしい新たな倫理を模索することを目的とするものであった。
その中で議論になったのが、「核倫理」の主体は誰か、という問いであった。登壇者やフロアからは、核政策の決定や実施に関わる人々、国際法曹界、メディア、そして私たち一人ひとりの自覚と行動の大切さを指摘する声が相次いで上がったが、驚くことに行政府の長であり米軍の最高司令官でもある大統領の倫理的責任を追及する人は誰一人いなかった。普段あれほど憲法の大切さを説くアメリカ人が憲法上定められた大統領の権限に触れなかったことはコミカルだったが、トランプ前大統領の数々の無責任な言動によって大統領への信頼が地に墜ちていることも改めて思い知らされた。しかし問題はより深刻である。もし大統領の倫理的責任を問えないのであれば、いったい誰がその責任を果たせるのか。かつて哲学者ハンナ・アーレントがホロコーストの実行犯であったアドルフ・アイヒマンについて述べたように、核兵器に携わる人々の倫理観の欠如、つまり「悪の陳腐さ」という恐ろしい事態を招いているのではないか。
ウクライナ戦争が膠着し、イスラエルとパレスチナの紛争が激化している今、アメリカとロシア、中国の対立はますますエスカレートし、核抑止強化の名目で新たな核軍備競争が起きている。大国間の核戦争の脅威に晒される全世界の人々に対してそもそも誰が倫理的責任を負うことが可能なのか。新たな核倫理を構想するためには、その内容を論理的に考えるだけでなく、倫理的主体の不可能性を問うことから始めなくてはならない。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』437(2023年9月)
奥山修平代表理事が巻頭のコラムでも触れているように、核実験による放射性物質が新たな地質時代区分である「人新世」を特徴づける指標の一つとして近年脚光を浴びている。しかし、それはあくまで地質を定義するのに役立つためであって、核実験による地球環境への影響自体はさほど深刻ではないとされてきた。確かに、核兵器の開発は化石燃料の消費やオゾン層破壊とは異なり、「大加速」と呼ばれる二〇世紀中頃以降の地球環境の加速度的変化をもたらした主な原因ではない。だが、人新世を地質的のみならず歴史的にも理解するためには、「これまで起きたこと」だけでなく、「起こり得た可能性」にも目を向ける必要がある。
というのも、核戦争の脅威とその常態化こそが核時代の特徴であるからである。ラッセル・アインシュタイン宣言が述べたように、第五福竜丸の水爆被災は核実験による放射能汚染の被害のみならず核戦争によって地球環境そのものが破壊されかねないことを明らかにした。つまり、核戦争による地球環境の破局的変化の可能性ーー「大破局」ーーが「大加速」と並行するパラレル・ワールドとして常に存在してきたのである。そして、可能性としての「大破局」は核抑止を正当化し核軍備競争を誘発することで地球規模の放射能汚染をもたらし、現実としての「大加速」に寄与する歴史的役割を果たしてきたのである。
「大加速」と「大破局」の人新世を生きる私たちは、今こそ二つの間の悪循環を断ち切らなければならない。そのためには、世界各国の政府に対して「あらゆる紛争問題の解決のために平和的な手段を見いだす」よう訴えたラッセル・アインシュタイン宣言の精神を改めて想起する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』436(2023年7月)
今年の夏は、現代の国際情勢を規定する二つの条約の節目を迎える。ひとつは一九五三年七月二七日に結ばれた朝鮮戦争休戦条約、もうひとつは一九六三年八月五日に結ばれた部分的核実験禁止条約である。ウクライナ戦争が膠着状態に陥り、核軍縮枠組が崩壊しつつある現在、これらの条約は私たちに多くの示唆を与えている。
一九五〇年に勃発した朝鮮戦争が三八度線付近で膠着状態となり、捕虜の扱いをめぐって休戦交渉が長引く中、アメリカは核戦力の強化、軍事同盟の拡大、そして諜報員による秘密工作によってソ連の「封じ込め」を図った。しかし、朝鮮戦争の真の原因である脱植民地化と帝国秩序再編の波が世界各地に押し寄せると、米ソ対立は一九六二年のキューバ・ミサイル危機をはじめとする数々の核戦争の危機を引き起こした。この極度の緊張状態は、朝鮮戦争休戦からちょうど十年後にアメリカ・イギリス・ソ連が大気圏内核実験禁止で合意したことでようやく解消に向かった。その主な要因は中国の台頭と第三世界における核拡散の危険であったが、核実験による地球規模の放射能汚染に抗議し、核軍縮を求めた市民社会が果たした役割も大きかった。
もちろん、朝鮮戦争とウクライナ戦争はその原因や大国の介入手段、勢力均衡といった点で大きく異なる。しかし、ソ連崩壊後の旧ソ連圏における「脱植民地化」と冷戦後の帝国秩序再編がウクライナ戦争を引き起こしたとするならば、アメリカとロシアが力による「封じ込め」とその打破のためにそれぞれ核戦力を強化し、世界各地で核危機を惹起する可能性は否定できない。来たる十年が新たな核危機の十年となるかどうかは、中国の動きと核拡散の行方のみならず、核兵器禁止条約の履行に向けて市民社会が果たす役割にもかかっている。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』435(2023年5月)
今日、国際原子力機関(IAEA)はイランの核査察、福島原発事故、戦場となったウクライナの原子炉の安全確保など、あらゆる核危機の現場で活躍している。しかし一九五六年の設立当初はわずかな予算と小さな事務局、曖昧な権限しか与えられず、世界の核秩序でこれほど重要な役割を果たすことになるとは誰も予想しなかった。最近、IAEAの歴史を紐解いたエリザベス・ローリッヒ著『平和のための査察団』(原題:Inspectors for Peace)を書評する機会を最近得たが、その主題は「原子力の平和利用推進」と「核兵器の拡散防止」という矛盾したIAEAの使命である。ローリッヒによると、この矛盾こそがIAEAの成功の原動力となったという。事実、IAEAは「核の番人」ではなく原子力分野の「国際開発機関」として発足した。一九六八年の核不拡散条約でIAEAの保障措置権限が大幅に強化された後も、IAEAは引き続き各国の自主的な申告に依存し、また加盟国に核技術を提供することで、核不拡散レジームを超大国の核占有体制以上のものとすることに成功したとローリッヒは指摘している。
この画期的な本を書評して気になったのが、IAEAのもう一つの矛盾である原子力平和利用の推進と安全についてほとんど触れられていないことである。確かにローリッヒが指摘するように、 原子力安全は加盟各国の管轄であると考えられていたため、IAEAが国際基準を決めることは困難であった。しかし、相次ぐ原発事故により原子力平和利用の安全性がますます重要になる中、この分野でIAEAが指導力を発揮できていないことは、原子力平和利用推進のために設立されたIAEA、そしてそれを中心とする核不拡散レジームの行方に暗影を投じることになろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』434(2023年3月)
今年、米科学誌『原子力科学者会報』は人類滅亡までの時間を象徴的に示す「終末時計」の針をコロナ禍直前の二〇二〇年の一〇〇秒から一九四七年の創刊以来最短となる九〇秒まで進めた。その理由として挙げられたのは、ロシアのウクライナ侵略による核戦争の脅威のみならず、ロシアによる原発攻撃、新型コロナ対策の遅れ、気候危機、そしてサイバー空間における偽情報の広がりといった深刻な問題であった。先日、この時計を発表した公開討論会に参加する機会を得たが、その中で印象的だったのが、登壇した有識者の間でこれらの課題を解決する道筋をめぐって見解が割れたことであった。感染症とサイバーセキュリティの研究者は市民社会における自由で開かれた対話と相互理解の重要性を説いたが、核専門家は科学者共同体の連帯再強化を提唱し、現在停止している米ロ間の軍縮・軍備管理協力の実務レベルでの早期再開に強い期待を示した。
「終末時計」の針を戻すための条件をめぐる有識者の見解の相違は、核問題とその他の人類の存亡に関わる問題における彼らの立場の本質的な違いを示している。感染症、気候危機、サイバーといった国家と社会にまたがる問題では、専門家は市民との不断の対話と公共空間における説明責任を求められてきた。一方、国家安全保障に直結し機密情報を扱う核問題では、専門家は政府の統制下に置かれ、主に政府との関係においてその役割を果たしてきた。歴史を紐解いても、原子力の国際管理を市民に広く訴えるために第二次世界大戦終結直後に結成された原子科学者運動は冷戦の激化と政府の圧力によって次第に変質し、東西科学者が非公式な交流を通じて共に核廃絶に向けた様々な構想を討議し、その実現に向けて関係国に働きかけるようになった。このような国境を越えた科学者の連帯と政府との協働は、冷戦中に核軍縮・軍備管理を進める上で重要な役割を果たした。しかし、それはまた科学者が市民社会に対する関心を失う結果も招いた。
ロシアのウクライナ侵略から一年を迎え、核戦争の脅威のみに注目して「終末時計」の警告を考えがちである。しかし、人類を脅かす課題が山積みとなっている今こそ、その解決の土台となる望ましい市民社会のあり方、そしてそれを実現するために科学者がどのような役割を果たすことができるのか、改めて考える必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』433(2023年1月)
ジョージタウン大学で私が教えているアメリカ外交史のテーマの一つは、建国から第二次世界大戦参戦までの約一七〇年間、アメリカは常に内向きで世界の平和と繁栄のための責任を果たさなかったという「孤立主義」である。この通説は、「アメリカ第一」を掲げたドナルド・トランプの登場によって一躍脚光を浴びたが、実際にはアメリカは建国以来大国間の紛争の局外に立つことによって世界中で介入を繰り返し、領土と権益を拡大してきた。
この「戦略的中立」の要となったのが、中立でありながら紛争当事国に武器や資金を提供することで安全保障上の脅威を防ぐ「民主主義の兵器庫」政策である。一九四一年に成立した「武器貸与法」に関してフランクリン・ルーズベルト大統領が宣言したこの政策は、日米開戦を待たずして枢軸国と戦うあらゆる友好国を軍事的に支援する姿勢を鮮明にした。このような形式上の「中立」を通じた軍事介入は、アメリカの対ウクライナ政策と驚くほど軌を一にしている。ロシアのウクライナ侵攻を民主主義と権威主義の戦いとして位置付けているバイデン政権は、同盟国でないウクライナに対して巨額の支援を続けている。一方、紛争に当事国として参戦しないことで、戦火が欧州に飛び火し、北大西洋同盟に亀裂が入ることを防ごうとしている。皮肉にも、「孤立主義の再来」と騒がれたトランプではなく、「国際主義の復活」を掲げたバイデンこそが第二次世界大戦前の安全保障戦略に回帰しているのである。
二一世紀に再浮上したアメリカの「民主主義の兵器庫」政策は、東アジアにも影を落としている。民主主義国である台湾をめぐる米中間の緊張が高まる中、アメリカがウクライナと同様に「中立」の立場から台湾への軍事支援を加速させる可能性が強まっている。日本もこのようなアメリカの安全保障戦略の大転換を注視する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』432(2022年11月)
ウクライナでの戦争でロシア軍の劣勢が伝えられる中、プーチン大統領とロシア政府高官は核兵器の使用も辞さないと再三警告している。これに対し、アメリカのバイデン政権はロシアが実際に核兵器を使用する兆候は見られないとしつつも、挑発を深刻に受け止める姿勢を示している。一〇月六日、バイデン大統領は全面核戦争の可能性が一九六二年のキューバ危機並に高まっていると述べたが、この発言を機に、今年六〇周年を迎えたキューバ危機の「教訓」をめぐって議論が巻き起こっている。
これまでアメリカでは、ケネディ大統領とその側近が核戦争の危機にも動じずに冷静かつ毅然とした対応をしたことで、ソ連がミサイル撤収を余儀なくされたという見解が主流であった。しかし、キューバ危機時にケネディが召集した関係閣僚会議の様子を録音したテープ等を精査した最近の研究により、側近の多くが一貫してキューバの空爆や侵攻を唱えていたこと、またケネディ自身も武力行使に傾いていたことがわかっている。さらには、アメリカによるキューバの海上封鎖に遭遇したソ連の潜水艦が核魚雷を発射しようとしたこと、そしてアメリカがキューバに侵攻した場合、ソ連が同島に配備された戦術核を直ちに使う予定であったことも明らかになった。アメリカの歴史家マーティン・シャーウィンが近著で述べたように、キューバ危機が無事収束した真の理由とは、ケネディの冷静な判断やアメリカの核の抑止力ではなく、「単に運が良かった」にすぎなかったのである。
ロシアによる核の恫喝に対して、バイデン政権が冷静に対応していることは高く評価できる。しかし、それだけでは核戦争を防ぐことはできない。今こそ非核保有国が主導して新たな核軍縮枠組みの構築を急ぐべきであろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』431(2022年9月)
今年八月八日に行われたトランプ前大統領宅の家宅捜索をきっかけにアメリカでは政治的緊張が高まっているが、その中で特に論争を呼んでいるのが、捜索対象となった機密文書の中に核兵器関連の文書が含まれていたという報道である。その詳細は不明であるが、捜査関係者が核機密の存在とその安全保障上の重大なリスクを報道機関に仄めかすことで、バイデン政権が家宅捜索を政治利用しているというトランプと彼の支持者からの批判の火消しに奔走しているのは明らかである。
核に関する情報を国家機密に指定することで賛否両論ある政策論争を避けたり倫理的に問題のある行為を隠蔽したりすることは、今に始まったことではない。歴史研究者のアレックス・ウェラーステインはアメリカにおける核機密の歴史を紐解いた近著の中で、そのような制度はマンハッタン計画を主導した科学者による自主規制に由来していること、そして科学技術と民主主義が政府による核機密の悪用・濫用によって阻害されることを彼らが早くから懸念していたことが紹介されている。事実、マンハッタン計画の一環としてプルトニウムの人体実験が行われていたことは地方紙記者がそれを突き止めた一九九四年まで秘密にされていた。また、今回の家宅捜索にも見られるように、機密指定のみならず機密解除や報道機関への意図的な漏洩を通じて核に関する情報をコントロールすることで、政府関係者がアメリカの安全保障政策を絶えず正当化しようとしてきた。
核機密の問題は、日米核密約や昨年の規制庁による原発テロ対策文書紛失事件にも見られるように、アメリカのみならず日本の科学技術と民主主義にも暗い影を落としてきた。そもそも機密にしなければならないような技術を社会が本当に必要としているのか、改めて考える必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』430(2022年7月)
広島と長崎への原爆投下は「人類の悲劇」と呼ばれるが、それはまた人類による環境破壊の極みでもあった。アメリカによる原爆被害調査が軍事的に重要な物的、人的被害のみを対象としたのに対し、同時期に行われた日本側の調査が気象や動植物などへの影響を幅広く調べていたことはあまり知られていない。その当初の動機とは、原爆を好機として敗戦後に停滞していた基礎研究を進め、その知見を品種改良や人工降雨などに役立てようというものであった。また、七〇年は草木も生えぬと言われた爆心地付近で見つかった雑草や樹木は、原爆を生き抜いた人々の希望の象徴として全国に広く紹介された。このように自然の生命力を賞賛しつつそれを思う通りに統御しようとする自然観は、被爆地と日本全体の復興を支える物質的・精神的基盤となったものの、同時に原爆被害を矮小化することにもつながった。その一方、原爆による環境破壊は核戦争の真の恐ろしさを知らしめる重要な役割も果たした。家屋のみならず電信柱、橋、線路の枕木といった主要な近代インフラの大部分が木造であった広島と長崎はいわば人工の「森」であったが、被爆後に発生した大火災とそれにより生じた大量の煤煙に関する知見はアメリカの宇宙物理学者カール・セーガンらが一九八三年に提唱した「核の冬」理論の精緻化に貢献した。
『沈黙の春』を著したアメリカの生物学者で作家のレイチェル・カーソンは、広島への原爆投下によって人類の影響が及ばない自然はもはや存在しないことを悟ったと回想した。世界各地で核戦争の危機が高まる中で原爆忌を迎える今年、核兵器が人類のみならずあらゆる生命の脅威であることについて改めて認識することが肝要であろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』429(2022年5月)
ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、ロシアはウクライナを支援する西側諸国に対して核による威嚇を強めている。プーチン大統領は二月末にロシアの核戦力に特別警戒を命じ、死活的な利益が脅された場合は核兵器の先制使用も辞さないと明言した。また、ロシア軍は日本海を含む各地で核弾頭搭載可能なミサイルの発射実験を繰り返している。さらに、メドベージェフ前大統領はバルト海周辺への核配備を示唆し、NATO加盟を検討しているスウェーデンとフィンランドを牽制した。
ウクライナ危機の引き金となった冷戦後のNATOの東方拡大がロシアの核依存を深める結果を招くことは、当初から多くのアメリカ政府元高官らによって指摘されていた。その一人であるデイヴィス元駐ポーランド大使は一九九五年に発表した論考の中で、軍事的・経済的に劣勢で通常戦力の拡充が困難なロシアが核ミサイルへの依存を深めて米ロ核軍縮枠組みから離脱する可能性を警告し、軍事同盟であるNATOの代わりにEUの東方拡大を提案した。しかし、核不拡散をより重視していた当時のクリントン政権は、一九九四年までにカザフスタン、ベラルーシ、ウクライナが自国内に配備されていた旧ソ連の核戦力をロシアに引き渡すことに合意すると、NATO拡大に舵をきった。
皮肉にも米ロ核軍縮枠組みから最初に離脱したのはアメリカであったが、一九九九年以降続いている西側同盟の拡大によってその枠組みの根底がすでに崩壊していたことは、ロシアによるウクライナ侵略と核恫喝によって明白となった。NATOのみならずEUも軍事同盟化が進む現在、冷戦終結時に構想された核戦力・通常戦力の相互査察と軍縮を柱とした汎ヨーロッパ安全保障体制の確立に向けて新たな一歩を踏み出す必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』428(2022年3月)
ロシア軍によるウクライナ侵攻の懸念が高まる中、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンがソ連崩壊後に各国に配備されていた核兵器を自発的に放棄したことの是非をめぐって論争が起きている。一九九四年に合意されたブタペスト覚書によると、アメリカ、イギリス、ロシアの核兵器保有三カ国は、核不拡散条約の順守と引き換えにこれらの国の主権を尊重し武力行使や威嚇を行わないことを約束した。この枠組は二〇一四年にロシアがクリミア半島を併合し、今年二月に親ロシア派地域の独立を承認したことで事実上崩壊したが、ウクライナが核兵器を放棄しなければこのような事態は防げたという声がウクライナのみならず日本からも上がっている。
核兵器さえあればロシアの侵略を抑止できたという「現実主義」の主張は、核兵器のためにむしろ様々な危険が生じた歴史的現実を無視した空論である。一九六二年、キューバがソ連の核配備を受け入れた際、アメリカは最後まで全面核戦争のリスクを冒しても核ミサイル基地を攻撃し破壊することを検討していた。また、ソ連の核ミサイルはキューバをめぐる緊張を激化させ、偶発核戦争の危機を招いたことが近年の研究で判明している。アメリカがキューバにおける核配備を認めなかったように、ロシアも隣国ウクライナの核保有をあくまで認めず、むしろ緊張が高まっていたであろう。
歴史に即した現実的な対策とは、ブタペスト覚書を普遍化して国際社会が一致してウクライナを支持しつつ緊張の緩和を図ることである。越境するヒト、モノ、カネ、情報が最終的に冷戦終結とソ連解体をもたらしたように、今こそロシアの変革を促すような長期的戦略が必要であろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』427(2022年1月)
最近の報道によると、ロシアはウクライナ国境付近に大軍を集結させており、緊張が高まっている。一二月七日、アメリカのバイデン大統領はロシアのプーチン大統領と緊急会談し、ロシアがウクライナを侵攻した場合、経済制裁やウクライナへの軍事支援を行うと警告した。これに対し、プーチン大統領は北大西洋条約機構(NATO)が東方拡大を中止し、ロシアに脅威となる地域への部隊や兵器を配備しないよう求めたとされる。
NATO拡大をめぐる米ロ間の対立は、冷戦終結後に一極体制の永続を目指したアメリカの世界戦略の当然の帰結である。一九九二年、当時のブッシュ(父)政権下で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツら新保守主義者によって起案された国防政策指針の草案では、西側同盟の強化と拡大によりアメリカに匹敵する新たな大国の登場を未然に防ぐ構想が示された。ロシアを排除した欧州秩序の構築を目指すこの方針に対して当初はアメリカ政府内からも異論が相次ぎ、一九九四年にはNATOとロシアの間の信頼熟成を目指す「平和のためのパートナーシップ」協定が締結された。しかし、バルカン情勢をめぐって西側とロシアが対立し、またロシアの政治・経済危機が深刻化すると、クリントン政権はロシアの強硬な反対を押し切り、旧東欧諸国と旧ソ連諸国のNATO加盟を認める方針に転換したのであった。
現在のウクライナ危機をもたらしたアメリカの同盟拡大戦略は、日本の安全保障にも深刻な影響を及ぼしている。冷戦終結後、日米両政府は日米同盟を堅持し、それを共通の価値観に立脚し、アジア太平洋の平和と安定に貢献する「公共財」として再定義した。ロシアと同じく西側同盟から排除された中国は日米同盟の再強化に懸念を示しており、日米両国が提唱する「インド太平洋」構想を「対中包囲網」とみなして強く反発している。今こそ、西側同盟拡大による「安全保障のジレンマ」を克服する新たな安全保障構想が求められていると言えよう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』426(2021年11月)
九月一六日、アメリカ、イギリス、オーストラリアは新たな防衛協力枠組みの発足を発表し、その一環としてアメリカがオーストラリアに原子力潜水艦技術を供与する方針を示した。この声明は、海洋進出を強める中国を念頭に太平洋地域での西側諸国の団結を高めることを目的としていたが、オーストラリアとの通常潜水艦建造契約を破棄されたフランスの猛反発を呼び、却って西側諸国の結束にヒビが入る結果となった。
アメリカが西側同盟の強化の切り札として原子力潜水艦を活用しようとしたのは今回が初めてではない。米ソ冷戦中の一九五八年、アメリカはイギリスと相互防衛協定を結び、軍事機密であった原子力潜水艦技術の供与に踏み切った。これは、前年にソ連がスプートニクの打ち上げに成功し、アメリカの同盟国に対する「核の傘」の信頼性が揺らぐ中、アイゼンハワー政権は原潜技術を通じてイギリス海軍の近代化と大西洋同盟の一層の統合を図ろうとしたためであった。当時、フランスも同様の協定を求めていたが、アメリカ連邦議会はフランスの核技術の未熟さと機密漏洩防止対策の不備を理由に拒否し、自主開発を余儀なくされた。このようにフランスはアメリカの原潜政策に何度も翻弄されてきたのであった。
原子力軍艦の問題は、日本にとっても他人事ではない。一九六〇年代、アメリカの原子力潜水艦と原子力空母エンタープライズの寄港をめぐって激しい反対運動が巻き起こったが、当時の日本政府は動力としての原子力利用は「核兵器」ではないとして、のちの非核三原則から除外した。中国の海洋進出とアメリカの包囲網の構築が激しさを増す中、日本が遠くない将来に原潜技術の導入・開発に踏み切る可能性も否定できないだろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』425(2021年9月)
八月十五日、アフガニスタンの反政府武装勢力タリバンは米軍全面撤退直前に首都カブールを制圧し、二十年に及ぶ同国における戦争が事実上終結した。その際に話題になったのが、アメリカ大使館の屋上から職員を乗せた米軍ヘリが飛び去る一枚の写真であった。一九七五年に南ベトナムのサイゴンが陥落した際に起きた同様の救出劇を彷彿とさせるこの映像は、アメリカがベトナム戦争と同じくアフガン戦争でも再び「敗北」したことを示すものとしてインターネットや多くのメディアで連日報道された。
特筆すべきは、ベトナム戦争とアフガン戦争を同一視するこのような見方は、アメリカ国内においては軍事介入の反省と自制を促すどころかむしろそれを正当化する方向に働いていることである。というのも、多くのアメリカ人は南ベトナムの腐敗と統治不全が原因でベトナム戦争に敗北したのであって、アメリカが軍事介入した大義そのものは正しかったと考えているからである。事実、アメリカに協力したアフガン人を「民主主義と人権のためにアメリカと共に戦った」人々として救出を求める声が高まっているが、これはアメリカの戦争目的を美化する歴史修正主義を助長している。また、性急な米軍撤退によってアメリカが指導力を失い、同盟国の信頼を裏切ったとするバイデン政権への批判は、際限のない軍事介入を招いてきた「アメリカ覇権論」や「同盟の信頼性」といった考え方を再強化している。
米軍のアフガン撤退と親米政権の崩壊によってアメリカ衰退論が国内外で盛んに唱えられているが、ベトナム戦争終結後からわずか数年後、レーガン大統領が「ベトナム・シンドローム」を克服して偉大なアメリカを取り戻すことを公約し、世界各地に軍事介入を繰り返したことを忘れてはならない。アフガン戦争終結後もアメリカが再び同じ道を歩むのか、注視する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』424(2021年7月)
今年一月に発足したバイデン政権は、さっそく新戦略兵器削減条約(新START)を五年間更新することでロシア側と合意した。トランプ前政権との違いを鮮明にしたこの決定は、アメリカ国内でも広く歓迎されている。しかし、米ロ間の核軍縮枠組を揺るがしている中距離核戦力(INF)問題がますます混迷を深めていることはあまり知られていない。昨年十月、ロシアはINF全廃条約失効後の緊張緩和を目的として、米ロ双方が欧州に地上発射型巡航ミサイルを新たに展開しないこと、そして同地域に配備されているアメリカのミサイル防衛システムとロシアの巡航ミサイルの相互検証を呼びかけた。だが、バイデン政権はこの提案を無視し、当面は戦略兵器に限って核軍縮枠組を維持する方針を打ち出している。
ヨーロッパにおける核問題は、一九七〇年代にソ連の新型INF配備をめぐって起きた「ユーロミサイル危機」を想起させる。その原因の一つは、皮肉にも米ソ間の戦略兵器制限交渉の進展であった。当初ソ連は欧州の核戦力も交渉に含めることを求めたが、北大西洋条約機構(NATO)の分断を恐れたアメリカはソ連側の要求を斥けた。そのため、米ソ両国はそれぞれ欧州の核戦力の近代化を一方的に進めることで戦略均衡下でも同地域における相互核抑止、そして同盟国に対する「核の傘」を維持しようとした。この危機は一九八七年に締結されたINF全廃条約によって収束したものの、米ソ間の緊張を激化させ、偶発核戦争の危険を飛躍的に高めた。
もちろん、現在の欧州の戦略状況は冷戦期と大きく異なっている。NATOの主要国であるフランスやドイツはアメリカと協調してウクライナ危機に関連してロシアに制裁を課す一方、ミンスク和平合意やイラン核合意を通じて紛争の平和的解決を独自に模索している。一方、問題の焦点はロシアと国境を接する旧東欧のNATO加盟諸国に移っている。かつてNATOは反核世論の盛り上がりによりINF配備とその制限交渉を同時に進める「二重決定」を行ったが、同様の動きが欧州市民の間から起こるのか、注視する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』422(2021年3月)
今年一月六日に起きたトランプ大統領支持者によるアメリカ連邦議会議事堂襲撃事件は、全米に二〇〇一年の同時多発テロに匹敵する衝撃を与えた。それは米英戦争以来約二〇〇年ぶりの出来事であったばかりでなく、公正な選挙に基づく平和的な権力移行という民主主義の原則を根本から揺るがしたためであった。ブッシュ元大統領は声明の中でそれを(政情が不安定な中南米の小国の比喩である)「バナナ共和国」で起きることがあっても民主主義超大国であるアメリカではあるまじき暴挙であるとして強く非難した。
だが、そもそもアメリカの民主主義の現実は今もその理念と程遠いと言わざるを得ない。満一八歳以上であれば自動的に投票できる日本と異なり、アメリカでは有権者が自ら登録する必要があり、州によっては投票の際に身分証明書の提示を求められる。また、昨年は多くの州はコロナ禍のために郵便等による不在者投票に必要な基準を大幅に緩和したが、共和党の一部は民主党の大票田である都市部での投票率を下げるために数々の投票妨害を行った。テキサスでは州政府が不正防止を理由に郵便投票の投函所を各郡一箇所に限定したため、ある有権者は期日前投票のために車で片道四時間以上も走ったという。
ブッシュ元大統領の声明は、民主主義をめぐるアメリカの逆説を改めて露呈している。ちょうど一九六〇年代に高揚した公民権運動が自由主義陣営の盟主という冷戦期アメリカの神話を打ち砕いたように、今回の議事堂襲撃事件は民主化を掲げて軍事介入を繰り返した冷戦後アメリカの神話の終焉を告げた。「一・六」後のアメリカがどのような民主主義神話を新たに創造し、それがどのように対外政策に反映されるのか、今後注視する必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』421(2021年1月)
コロナ禍が続くアメリカでは多くの大学でオンラインの授業が行われているが、教材として大いに活用されているのがドキュメンタリー映画である。その中で最近友人に特に勧められたのが二〇一二年に日本で上映され大きな反響を呼んだ「放射線を浴びたX年後」とその続編であった。ご存じの方も多いと思うが、南海放送・伊東英朗ディレクターが制作したこの映画はアメリカの核実験によって第五福竜丸以外にも数多くのマグロ漁船が被ばくした事実を丹念に掘り起こした力作である。
タイトルにもあるように、「放射線を浴びたX年後」は放射能汚染による長期的な健康被害を告発している。しかし、このような時間・空間を超えて広がる被害は、その規模と複雑さゆえに正確に把握することが難しい。というのも、放射能のように一度に大量に浴びれば明らかに危険なものでも、それが地理的に拡散し環境中に長く残る場合、その実態と影響を正確に把握することが困難となるからである。このような「規模の逆説」は、放射能汚染に限らず気候変動や生態系の変化といった人為的に引き起こされた大規模かつ複雑な環境問題に共通する特徴である。アメリカの英文学者ロブ・ニクソンはそのような危害を「スロー・バイオレンス」と呼び、それが過激な暴力と同じく深刻な被害をもたらすこと、しかしその被害が現れるまで長い時間がかかり、その場合でも因果関係の特定が困難であるため、通常は「暴力」として社会的に認知されないことを指摘している。そのため、スロー・バイオレンスはそれに深い利害関係を有する権力、そして過激な暴力にばかり注目するマスコミによって無視され、放置され、時には隠蔽されるのである。
早逝した高知のマグロ漁船乗組員の遺族に寄り添い、「真実」を求めて奔走する彼らの姿を克明に記録した「放射線を浴びたX年後」は、スロー・バイオレンスに立ち向かう困難を克服するひとつの先進的な試みと言えよう。現在、アメリカでの核実験被害に焦点を当て、アメリカでの上映と対話を目指した第三弾の制作が行われていると聞く。アメリカで核の歴史を学ぶものとして、このような有意義な取り組みが実現されることを待望している。
Why did the United States choose the Pacific to conduct nuclear tests? And why did so many Japanese fishing boats operate in the waters near the test site?
The beginning of the Cold War shortly after World War II gave rise to the dual use of the Central Pacific Ocean. On the one hand, the United States sped up its nuclear weapons program in anticipation of war with the Soviet Union and, after 1949 when the Soviets tested their first atomic bomb, to stay ahead in the nuclear arms race with the Cold War enemy. This nuclear strategy led U.S. officials to view the Central Pacific as a “dustbin” capable of absorbing and diluting the debris of tested weapons to minimize disruptions to the test program.
The Central Pacific, however, is anything but a lifeless void. It is a biologically rich and diverse world, which not only sustains the life and livelihood of indigenous peoples but also nurtures countless numbers of aquatic organisms living beneath the waves. The Central Pacific’s potential as productive fishing grounds caught Washington’s attention as it was struggling to rebuild war-torn Japan as a U.S. ally to contain the spread of communism. Fisheries were key to such efforts. Seafood was important not only to alleviate food shortages in Japan but as one of the nation’s few promising products for export. But Japan’s Asian neighbors all violently opposed the return of Japanese fisheries to the waters near their shores, even seizing fishing boats and their crew operating in the disputed areas. The U.S. occupation authorities in Japan therefore took steps to redirect the Japanese fisheries away from the Asian waters toward the Central Pacific, a trend which accelerated after Japan regained sovereignty in 1952, including unrestricted access to high seas.
Did the US and Japanese authorities ignore or hide the truth about the dangers of fallout to the Japanese seamen?
From the beginning of the U.S. test program in the Pacific, some U.S. officials and scientists were aware of a potential conflict between testing and fishing. Their concerns were heightened in 1952 when the United States conducted the Ivy Mike test, the first full-scale test of a thermonuclear device. The record-shattering 10-Mt explosion blew up an enormous amount of radioactive dust and gases, but little of it was found in the area at and near the test site. Worried about the fate of the remaining debris, the U.S. Atomic Energy Commission decided to expand its fallout studies to include tuna in the region. The planned research had barely taken off when a nuclear test series began in 1954, causing widespread radioactive contamination which affected many Japanese boats, seamen, and catches.
The lack of information about the extent of contamination in the Pacific, in turn, led to a fateful decision mentioned in the documentary: 100 counts per minute used by the Japanese government as a standard to judge the fitness of tuna for consumption following the Lucky Dragon incident. It must be noted that this value by no means represented a threshold of safety. Used by the U.S. Food and Drug Administration (FDA) to screen tuna imports from Japan after the incident, the 100 counts standard was meant to simply identify any fish with radioactivity in excess of the natural levels. The Japanese authorities adopted this stringent standard at the request of U.S. officials for the sake of uniformity between the two countries. As it turned out, tuna contained small but detectable amounts of artificial radioactivity in it. The application of the 100 counts standard therefore inadvertently turned the presence of fallout products in tuna into an event of “contamination,” which fueled the consumer scare in Japan and triggered a political crisis that rocked the U.S.-Japan security alliance.
Why did the Japanese government stop the radiological inspection of fishing boats, seamen, and tuna at the end of 1954?
The Japanese government terminated the radiological inspection on the basis of the concept of permissible dose. This key concept in radiation protection acknowledges the possibility of damage by radiation at any dose, but it deems exposures up to a certain level as “permissible,” so long as the probability of harm is sufficiently low and fully justifiable in exchange for expected gains. As it turned out, the scientific advisers for the Japanese government strongly disagreed over whether or not the idea of permissible dose was applicable to the fallout situation at all. Some argued that it was impermissible to allow for any exposures at all because fallout would affect millions of people without benefit or consent and also was statistically expected to result in some casualties in such a large population. Others, however, supported the introduction of the permissible dose to contain the fear of radiation which was seen as injurious to the Japanese economy, its security ties with the United States, and peaceful uses of atomic energy. Eventually, the latter group successfully outmaneuvered its critics by introducing the permissible dose from the “back door,” terminating the inspection of tuna altogether based on a report that the amounts of a highly carcinogenic fallout product called strontium-90 found in tuna were well below the permissible levels.
To prevent another fallout scare, Tokyo worked closely with Washington and formally incorporated the permissible dose into its radiological guidelines ahead of the 1956 U.S. Pacific test series. Citing that the permissible dose was calculated on the basis of lifetime exposures, the Japanese authorities refused to conduct any inspections of food and drink, insisting that contamination was highly unlikely to sustain above the permissible levels for a sufficiently long period. The absence of data specific to the vessels has made it impossible to accurately determine how much radiation the Japanese seamen might have received as a result of the US nuclear tests in the years after 1954.
『都立第五福竜丸展示館ニュース』420(2020年11月)
このコラムが読者の皆さんに届く頃には、一一月三日に投票が行われるアメリカ大統領選挙戦が佳境を迎えていると思われる。前回の大統領選では民主党のクリントン氏がトランプ氏に「核のボタン」を渡すなと痛烈に批判したが、今回はトランプ政権が核軍縮条約から相次いで離脱しているのにも関わらず、核をめぐる政策論争はほとんど深まっていない。民主党のバイデン前副大統領は新戦略兵器削減条約(新START)を延長し、敵の核攻撃を受けない限り核兵器を使用しない「先制不使用」政策を検討することを公約に掲げている。しかし、トランプ大統領は核軍縮について選挙運動中これまでほとんど触れていない。
アメリカで核軍縮が選挙の大きな争点となったのは、レーガン大統領が再選を目指した一九八四年が最後である。当時、米ソ核軍備競争と欧州における中距離核戦力配備の凍結を目指す「核凍結」運動が全米各地で高揚しており、民主党の各主要候補は揃って「核凍結」への支持を表明した。これに対し、レーガンは弾道ミサイル防衛を柱とする「戦略防衛構想」を打ち出して世論の支持回復を狙った。結局大差で再選されたレーガンは、まもなくソ連のゴルバチョフ書記長と共に核軍縮に向かって舵を切った。しかし、それはあくまで指導者による政策の変更であり、選挙という民主主義の正式な手続きを経たものではなかった。
権威主義国家による核武装の危険が叫ばれて久しいが、核軍縮問題をめぐる選挙の無力さは民主主義国家も「核なき世界」を実現する上で大きな障害となっていることを示している。しかし、民主主義によって生じる問題を解決する最良の方法は、民主主義以外にない。私たち一人一人が今こそ有権者たる自覚を新たにして、選挙を通じて「核なき世界」を実現するよう一層努力すべきであろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』419(2020年9月)
原爆投下七五周年を迎えた八月、アメリカでも多くの特集が組まれた。その中で特に反響を呼んだのが、スタンフォード大教授で私の元同僚のスコット・セーガンらが米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」に寄稿した「なぜ広島原爆投下は今日では違法なのか」と題する論考であった。その中でセーガンらは、一九七七年に作成されたジュネーヴ諸条約第一追加議定書が無差別攻撃の禁止、軍事攻撃による文民被害の比例性、そして文民被害を最小限にする予防の三原則を定めており、広島・長崎が「軍事基地」であるとして原爆投下を正当化した当時の見解は今日では通用しないことを指摘した。アメリカ政府は同議定書を批准していないが、拘束力のある慣習国際法として認めており、二〇一三年にオバマ政権は議定書の遵守義務が核兵器にも適用されると明言した。意外に思われるかもしれないが、トランプ政権も二〇一八年に策定された核戦略指針の中でこの解釈を継承している。
しかし、セーガンらが述べるように、戦時国際法が核使用を実際に防ぐことができるかどうか大きな疑問が残る。二〇一七年にアメリカで行われた調査によると、イランとの戦争が起きた場合、アメリカ兵の犠牲を最小限にするためには核使用も止むを得ないという意見が六割にも達したという。そのためセーガンらは、アメリカ政府が万が一復讐の念に駆られた世論の圧力によって核使用に踏み切ろうとする場合には、軍の高官が大統領に対して戦時国際法を遵守すべく強く主張するよう提言している。
日本では戦時国際法の強化は戦争放棄と戦力不保持を定めた平和憲法との関係もあるため議論が深まっていない。しかし核使用の違法化を進める有力な手段の一つとして検討に値するのではないか。
Between the Lines with Tom Switzer, Australian Broadcasting Corporation - Radio Australia (August 6, 2020)
From an Australian perspective, Japan was seen as an aggressor in the war and perpetrator of war crimes and also as victim because of the utter destruction wrought by the nuclear bombs. How is the war remembered in Japan now? Is there also a sense of these two roles – of aggressor and victim?
Many in Japan still consider themselves as victims, thinking that Japanese were misled by their government into a disastrous war of conquest. In this view, Hiroshima stands as a telling symbol of Japanese victimhood. But today this victim narrative faces two competing accounts. One is to recognize Japan’s acts of wartime aggression, including civilian massacres, forced labor, and sexual violence. If we see Hiroshima from this perspective, it takes on a whole different meaning, not as a national tragedy but rather as an international event that killed not only Japanese citizens but also many colonial subjects and Allied POWs who were present in the city at the time of the bombing. The other interpretation that has also gained force in Japan is to see the wartime conduct of Japan as an act of self-defense. This revisionist narrative recast Hiroshima as the ultimate proof of Western aggression. Which interpretation of Japan’s roles during the war will gain the upper hand in the future will depend on how civil society around the world comes together and develops a shared understanding of the legacies of colonialism and war in the Asia-Pacific region.
There are around 150,000 atomic bomb survivors still living in Japan… their role in education and public life has played an important part in shaping Japan’s post war pacifism. As that generation dies out, is the role of pacifism in Japanese politics diminishing?
I don’t think the passing of the atomic bomb survivors will diminish the strength of pacifism in the short term. The collective memory of Hiroshima and Nagasaki in Japan has been fairly robust and taken deep roots in popular culture. A good example is a Japanese animated wartime drama film released in 2016, called In This Corner of the World. This fictional account of the wartime life in Hiroshima was a smash hit in the box office. The atomic bomb survivors are also active in passing down lessons from the world’s first nuclear war to the next generation. The cities of Hiroshima and Nagasaki are training many volunteers as storytellers who share the testimonies of aging victims, and the second-generation survivors are spearheading the efforts for peace and justice.
Japan has had the technology and capability to build nuclear weapons since the 1970s…it has been protected by the so-called US “nuclear umbrella”. Could you see Japan developing its own nuclear weapons in the future?
Personally I don’t think it is likely that Japan will go nuclear in the near future. What I can see is the possibility that Japan might join the United States in its increasingly militarized efforts to confront nuclear-armed China and North Korea. Just recently, the Japanese government has publicly stated that it is actively considering the option of developing offensive capabilities to launch a preemptive strike at an enemy’s missile base as a necessary deterrent. This not only signals a potential major change in Japan’s defense policy, but also is likely to escalate the tension to a dangerous point.
IHAP (International History And Politics) Newsletter, American Political Science Association, 6.1 (Summer 2020): 4-5
There are two different scripts for the Japanese word “Hiroshima.” One is kanji, the adopted Chinese characters, which mean a bustling city of over one million people in western Japan with the tragic past as the first city ever to be devastated by a nuclear weapon. But the other writing system, katakana, is a curious choice, because this phonetic script is typically used to transliterate foreign words. The use of katakana has a fascinating history. In 1948, a local Christian minister named Kiyoshi Tanimoto reportedly coined a phrase, “No More Hiroshima’s,” in his public warning against repeating the tragedy anywhere in the world. The slogan was originally written in the English alphabet for the foreign audience, but its growing popularity overseas soon led Japanese intellectuals and peace activists to reclaim the phrase and transcribe the city’s name in katakana to signal its universal symbolism. The story of Hiroshima in katakana illustrates a dialectic of the historical event and the global imaginary which has engendered many and diverse meanings of Hiroshima ever since the fateful day of August 6, 1945.
Last time the commemoration of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki reached a major milestone in 1995, Hiroshima stood primarily as a historical event that happened in a specific time and place; that is, “Hiroshima” in kanji. The timing explains this important, but conceptually narrow framing. The 50th anniversary came shortly after the end of the Cold War, which not only renewed scholarly interest in the origins of the superpower hostility, but also intensified the “memory wars” over the legacy of colonialism and violence in the Asia-Pacific region. Against this backdrop, historians clashed over the role of the atomic bomb in ending World War II. The competing narratives of the Hiroshima bombing also burst into the public domain when fiery controversy broke out over the Enola Gay exhibition at the U.S. National Air and Space Museum. Emotions ran high, and disagreements went deep, but both sides of the controversy shared the same steadfast focus on the decision to drop the atomic bombs and its immediate context as seen exclusively from Washington, Tokyo, and Moscow.
This year, which marks the 75th anniversary of the atomic bombings, a different kind of scholarship is emerging, which explores the global and long-term implications of the world’s first nuclear war – “Hiroshima” in katakana. Earlier this year, I had the privilege of joining a roundtable hosted by the Wilson Center to discuss a co-edited volume entitled The Age of Hiroshima. With contributions from historians, political scientists, and sociologists who study various parts of the world, this collaborative work reexamines Hiroshima as an epoch-making global phenomenon that has radically re-shaped international relations over the last several decades. Each chapter sheds light on a different aspect of the nuclear revolution, but the volume collectively demonstrates that we cannot understand the meanings of Hiroshima without considering the fact that it was the United States that dropped the bomb. As the only country to ever use a nuclear weapon in war, it ascended to primacy in the postwar international order; political elites and citizens around the world invariably learned “lessons” from Hiroshima that reflected a country’s precarious position vis-a-vis the United States. The Soviet Union saw the atomic bombing as an intimidation and spared no effort to achieve nuclear parity with the United States. In contrast, Japan and West Germany opted to live under the U.S. nuclear umbrella while erasing their past as wartime aggressors who ultimately brought about the atomic tragedy. In the meantime, developing countries in the Global South viewed Hiroshima through the lens of neocolonialism, launching their own nuclear programs in a bid for more perfect sovereignty in the nuclear age.
This emerging scholarship of global Hiroshima is a refreshing effort to historicize the nuclear revolution in the context of global power hierarchy after World War II. Thus, Hiroshima catalyzed the creation of nuclear apartheid that has reflected and perpetuated the privileged positions of a handful states in the international system. While the nuclear-armed countries have consistently failed to keep their end of the nonproliferation bargain, the United States globally, and Israel regionally, have repeatedly used or threatened to use military force to unilaterally disarm their enemies suspected to harbor nuclear ambitions, often with disastrous outcomes for the belligerents and the international community. As we now stand at the crossroads in the U.S.-led postwar world order, it is essential to take stock of the bloody legacies of global Hiroshima and revisit historical Hiroshima – the lived experience of a nuclear holocaust – to chart a new path to a more peaceful and equitable world.
The 75th anniversary of the atomic bombings, however, raises a pressing question about the future status of historical Hiroshima. Today, less than 150,000 atomic bomb survivors live in Japan and fewer around the world remain. As The Age of Hiroshima editors Michael Gordin and John Ikenberry have observed, the meanings of Hiroshima multiply and diversify as the mushroom cloud fades into the past. But what will “Hiroshima” signify after all the survivors are gone? The eventual passing of the living witnesses of the world’s first nuclear war is especially disturbing as the Hiroshima discourse is now facing many competing narratives of victimhood. Today, right-wing populism and historical revisionism are sweeping many parts of the world, and the nuclear taboo, while still robust, has come under a new challenge, as shown in a recent reversal in U.S. nuclear weapons policy. How can we make sure that there will be no more Hiroshima’s after Hiroshima ceases to be a lived experience and becomes a hallowed sign?
The key to learning lessons from Hiroshima beyond the lifetime of the atomic bomb survivors may lie in its enduring material traces. Beginning in 1945, the five nuclear weapons states tested hundreds of nuclear weapons in the atmosphere, scattering a massive amount of radioactivity all over the world. My newly published book, Political Fallout, tells a story of this human-driven, truly global environmental crisis to rethink the Cold War in the context of the Anthropocene – an unofficial unit of geological time in which humans have become a major force of planetary changes. Today, the material legacy of the nuclear revolution has moved back into the limelight, as a group of geologists has recently proposed to designate fallout in Earth’s crust as a standard reference to classify the geological strata of the Anthropocene. This compelling evidence of the accelerating planetary crisis, both nuclear and non-nuclear, serves as a powerful reminder about humanity’s self-inflicted plight – and its responsibility for better stewardship of Spaceship Earth.
『都立第五福竜丸展示館ニュース』418(2020年7月)
アメリカの大学が夏休みとなるこの季節は、私にとって研究に打ち込める大切な時間となっている。しかし、今年は秋学期の準備に今から連日追われている。というのも、アメリカでは新型コロナの感染拡大が続いているにもかかわらず、他の多くの大学と同様に私の勤務校でも対面とオンラインの授業を同時に行う「ハイブリット」形式で授業を再開することが早々に決まったためである。教室内での徹底した感染防止対策はもちろん、対面授業に参加する各学生に寮の個室を与え、それでも足りない場合は近くのホテルを丸ごと借りきることまで計画している。
巨額の費用と労力をかけてまでアメリカの大学が対面授業の再開にこだわるのには、アメリカ特有の事情がある。高等教育に対する政府の補助金が急減しているアメリカでは、各大学が将来社会で活躍し多額の寄付が期待できる優秀な学生に多額の奨学金を与える一方、州外からの学生と留学生に高額な授業料を課している。また、アメリカの学生の多くはキャンパス内の寮に住むため、そこから得られる収入は大学の経営を支える最も重要な収入源の一つとなっている。さらに、アメリカでは日本と違い就職に年齢は関係ないため、いつでも授業料を払わずに留年することが可能である。つまり、オンラインの授業だけでは経営危機に直面せざるを得ない。そのため、アメリカの大学では新型コロナの感染リスクと経営リスクを天秤にかける深刻な事態となっている。
日本でも新型コロナの影響で多くの大学と学生が経済的に困窮していると聞く。しかし、アメリカのように生存と学習の間の「最適解」を選ばされるようなことがあってはならない。そのためにも、公的な支援の充実と共に、コロナ時代の学習のあり方を模索する現場に学生や市民の声をより反映させることが必要ではないか。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』417(2020年5月)
約1年前のコラムでも書いたが、私は毎年春学期に「第三次世界大戦の歴史」という講義を担当している。その目的は第三次世界大戦を予測することではなく、その予測の80年にも及ぶ長い歴史を考察することで未来観からアメリカ史を再検討することである。最もよく知られているシナリオは核戦争であるが、授業では他の数多くの予測も検討している。その中で特に関心を集めているのが感染症である。つい数ヶ月前までトランプ政権の反イラン政策が「第三次世界大戦」を招くと警告していたアメリカの主流メディアは、今では新型コロナウィルスの世界的大流行を人類とウィルスとの間の「第三次世界大戦」と呼ぶようになっている。日本でも、安倍首相が最近になって同様の見方を示したと報道されている。
感染症との闘いを「第三次世界大戦」になぞらえる発想は今に始まったことではない。そもそも、感染症の世界的な制圧を目指すようになった契機は、第二次世界大戦であった。動員や戦場での感染症の危険に直面したアメリカは、DDTや抗マラリア薬の大量使用によって感染症を抑制することに成功した。技術で感染症を制御する自信を深めたアメリカは、冷戦期に発展途上国での感染症の制圧を主導する一方、生物兵器の開発を進めることで、両面からソ連を封じめようとした。この野心的な試みは、生物兵器の拡散、HIVの登場、そして生物テロによって挫折したものの、感染症を安全保障と関連づける考え方は今もアメリカの感染症政策に深く根を下ろしている。このような発想は対策を強力に進める上で一見有利に思われるが、透明性と説明責任の欠如、政府による市民的自由の不当な制限、そして国際的協力の阻害を招く恐れがある。今こそ、「第三次世界大戦」の例えに頼らない新たな感染症対策の概念を生み出すことが必要である。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』416(2020年3月)
原爆投下から七五周年を迎える今年一月、私は『ヒロシマの時代』と題する国際共同研究報告書の出版を記念するシンポジウムで討論者を務めた。五〇周年の際、アメリカの退役軍人らの反発によって「エノラ・ゲイ」特別展が中止に追い込まれたことを覚えている読者も多いと思う。この論争に象徴されるように、当時の学術研究の関心は第二次世界大戦の終結における原爆投下の役割に限定されていた。今回の研究はこの反省を踏まえ、広島の原爆投下を世界史上の「核革命」の起点と捉え直し、各国の政府や市民がこれまでどのように「ヒロシマ」を解釈してきたのかを包括的に検討している。
報告書が明らかにしたのは、各国は原爆を投下したアメリカとの関係の中で常に「ヒロシマ」を解釈してきた事実である。ソ連はそれを「政治的脅迫」として受け止め、核軍備競争に邁進した。アメリカの同盟国となった日本と西ドイツは、「ヒロシマ」を通じて自国を第二次世界大戦と冷戦の「犠牲者」として表象することで加害者としての側面を消去しようとした。中国、インド、ブラジルなどの第三世界諸国は、「ヒロシマ」を帝国主義の象徴として強く非難しつつも、核大国を頂点とする戦後国際秩序の中で真の独立を達成するため、原子力開発に相次いで乗り出した。つまり、「ヒロシマ」をグローバルに理解するためには、アメリカの戦後覇権と今後の行方を展望することが不可欠である。
『ヒロシマの時代』が五〇周年の学術研究の限界を乗り越えて「ヒロシマ」の世界史的意義を検討したことは、高い評価に値する。しかし、七五周年を迎えて被爆者数が大幅に減少する中、抽象化された「ヒロシマ」と体験された「広島」との乖離が今後急速に進むであろう。「広島」なき「ヒロシマ」から誤った教訓を引き出さないためにも、被爆体験の次世代への継承は重要となっている。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』415(2020年1月)
ウクライナ疑惑の内部告発があった昨年9月以来、アメリカ政府はトランプ大統領の弾劾訴追をめぐって大混乱に陥っている。政局の緊迫は核問題にも深刻な影響を及ぼしている。ホワイトハウスの機能不全により非核化を目指す米朝交渉は決裂の危機に瀕している。またロシアによる選挙介入問題のために来年に更新期限を迎える新戦略兵器削減条約の先行きも一層不透明となっている。
大統領の政治的危機が核危機を誘発したのは、トランプが初めてではない。その先例となったのがニクソンである。ベトナム戦争の早期終結を焦ったニクソンが核戦争も辞さない「狂人」を装ったことはよく知られている。しかし、1974年、その2年前に起きた民主党本部侵入事件(ウォーターゲート事件)に関連して議会の弾劾調査が大詰めを迎えると、ニクソンの側近たちは精神的に追い込まれた大統領が本当に狂人になるのではないかと危惧した。事実、ニクソンは連邦議員らに対し、「私はいつでも執務室に行って電話をかけることができるし、それから25分以内に何百万もの死者が出るだろう」と言ったという。これに愕然とした議員の一人から通報を受けたシュレシンジャー国防長官は軍司令官に対し、万一大統領が核攻撃命令を下した場合には直ちに国防長官もしくはキッシンジャー国務長官に確認するよう命じたと証言している。
核による威嚇が戦争を防止するためには、威嚇する側とされる側の双方の理性と自制が前提である。しかし、ニクソンの例が示すように、政治的危機に陥った指導者が常に理性的に行動するとは限らない。また、たとえ指導者自身が理性を保っているとしても、暴発を懸念する側近たちが独走して却って危機を招く可能性もある。トランプ弾劾をめぐる現在の政治的混乱は、核抑止論の本質的な欠陥を示しているといえよう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』414(2019年11月)
現在、アメリカは冷戦期に成立した核軍備管理・軍縮体制から全面的に離脱する手続きを急速に進めている。今年8月にトランプ政権は中距離核戦力全廃条約(INF条約)を正式に廃棄したが、報道によると領空開放(相互空中査察)条約からの離脱、包括的核実験禁止条約の署名取り消し、さらには新戦略兵器削減条約(新START条約)の延長拒否も検討しているという。
このようなトランプ政権の一連の動きは単独主義の典型としてよく語られるが、アメリカがそもそも単独主義の立場から核軍備管理・軍縮体制に参加したことはあまり知られていない。ニクソン期の戦略兵器制限交渉(SALT)を再検討したジョン・マウナーによると、政権内には核軍備管理に対する二つの異なる考え方があった。一つは協調主義的な「ケンブリッジ・アプローチ」で、軍備管理を通じて相互核抑止を安定化させようとする考え方であった。もう一つは単独主義的な「フィラデルフィア・アプローチ」で、軍備管理を通じてソ連の核開発を抑制し、アメリカの核優位を維持しようとする考え方であった。ニクソン政権が大陸間弾道ミサイルとそれを迎撃するシステムを制限することでソ連と合意したのは、それが協調主義のみならず単独主義にとっても有利であったためである。つまり、アメリカがこれまで締結した核軍備管理・軍縮条約はあくまで自国の核優位を確保する手段の一つに過ぎず、トランプ政権の方針転換もそのような考えに沿ったものであると言えよう。
しかし、現在の核軍備管理・軍縮体制はアメリカの単独主義のみに根ざしているわけではない。その基本となる構想、そしてそれを求める機運の高まりは、国連を足がかりとした多くの非核中小国によるものであった。今こそこれらの国々が団結し、トランプ政権の動きに歯止めをかけることが重要である。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』413(2019年9月)
「核問題」とは何か。アメリカの歴史社会学者ガブリエル・ヘクトが述べるように、社会的に何が「核問題」として扱われるかは必ずしも明確でない。それを端的に示すのが、アメリカ原子力艦の寄港問題である。1964年、原子力潜水艦「シードラゴン」が初めて日本を訪問すると、これらの艦船の寄港の是非を巡り国内で激しい論争が起きた。原子力艦の寄港を常態化することで安保条約の運用を阻害していた日本の「核アレルギー」を軽減しようとした日米両政府は、原子力艦を通常艦と同様に扱うことを主張した。一方、革新勢力は、原子炉事故と放射能汚染、そして核兵器搭載の可能性を指摘し、原子力艦を「核問題」と見なして寄港に強く反対した。
ここで重要なことは、原子力艦の寄港問題が秘密主義の問題に直結していたことである。日本政府はアメリカが核兵器を「持ち込む」際に必ず安保条約に定められた事前協議を行うこと、そして原子力利用は「民主、自主、公開」の「原子力三原則」に則って行われることを繰り返し言明していた。しかし、アメリカ政府は核兵器の所在と原子力艦の安全性に関する情報開示を一貫して拒否していた。そのため、日本政府はアメリカ側への全幅の信頼を公言することで、自らの核兵器・原子力政策の矛盾を覆い隠した。つまり、日米両政府の秘密主義によって原子力艦の寄港が次第に「核問題」として扱われなくなったのである。
秘密主義が原子力艦の寄港の定着に大きな役割を果たしたことは、現在の「核問題」を考える上でも重要なヒントを与えてくれる。核兵器廃絶と原発問題を解決する鍵は、徹底した情報公開にあるかもしれない。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』412(2019年7月)
第五福竜丸と同様に核時代に翻弄されたもう一つの船として挙げられるのが、原子力船「むつ」である。今から45年前の1974年9月1日、青森県の大湊を母港とする「むつ」は北太平洋上での試験航行中に微量の放射能漏れを起こし、ホタテの養殖が盛んであった陸奥湾の漁民の帰港反対により約1ヶ月半余り「漂流」を余儀なくされた。日本の原子力平和利用史の転機となったこの事件は、戦後「海洋国」として再建を目指した日本の二つの異なる海洋観の衝突でもあった。
原子力船にとって、海は工業化のためにヒトとモノを運ぶ「高速道路」であった。1958年にジュネーブで開かれた第二回原子力平和利用会議に参加した日本政府代表団は二種類の原子力船構想を発表したが、それは中東から石油を運ぶ潜水艦と南米に向かう移民船であった。最終的に「むつ」は海洋観測船として建造が決まったが、原子力船の経済性、安全性、そして環境性能は常に造船・海運業振興の観点から評価された。
一方、漁民にとって、海は生命を育む「ゆりかご」であった。陸奥湾のホタテ養殖は大都市に食料を安定かつ大量に供給することで地方の振興を図ることを目的とし、その生産・流通過程は多額の資本と高度な技術を必要とした。しかし、養殖業は海洋環境の変化と大都市の消費動向に敏感であり、また漁民同士の協働・連帯を必要とした。つまり、放射能汚染と「風評被害」を理由として結束した陸奥湾漁民の帰港反対運動は、反核感情のみならず、養殖業固有の事情も強く反映していたのである。
原子力利用が海と漁民に与える影響は、福島原発事故でも明らかになった。海の日を迎えるにあたり、改めて海から日本の核時代を考えることが必要ではないか。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』411(2019年4月)
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が昨年10月に公表した報告書によると、早くも2030年までに世界の気温が産業革命前に比べて1.5度上昇し、深刻な影響をもたらすと予測されている。このため、「クリーンエネルギー」として原子力発電を見直す声がアメリカで急速に高まっている。原子力産業はもちろん、これまで原発に批判的だったアメリカの科学者団体「憂慮する科学者同盟」も温暖化防止のために一定の条件で原発を支持する声明を発表した。この動きに対し、原発の経済性、安全性、放射性廃棄物などをめぐって新たな論争が起きている。その中で見落とされがちなのが、原子力利用に固有の問題である核拡散の危険である。
ここで私が指摘したいのは、いわゆる核保有国の増加や核テロリズムといった問題ではない。もちろんこれらは深刻であるが、その可能性を過大評価すべきではない。歴史的に見ると、核拡散の真の脅威とは核保有国が核開発疑惑国に対して単独軍事行動を起こす危険である。よく知られていているように、アメリカは核不拡散を名目としてイラク戦争を起こし、現在まで続く中東の悲劇をもたらした。しかし、それは軍事力による反拡散政策の唯一の例ではない。1964年に中国が核武装した際、ジョンソン政権は核施設を攻撃する計画を立案した。1994年に北朝鮮が核不拡散条約からの脱退を表明した際、クリントン政権は武力行使による核武装解除の可能性を真剣に検討した。イスラエルも1981年にイラク、そして2007年にシリアの核施設を空爆している。
今後、原子力利用は中東、アフリカ、南アジア、東南アジアといった紛争多発地域で拡大すると予測されており、西側と対立するロシアと中国が原発輸出を加速させている。核保有国が軍事力で核の独占を維持する「核隔離政策」が続く限り、温暖化防止のために原子力利用を推進することは国際紛争を激化させ世界に悲劇をもたらすであろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』410(2019年3月)
現在私は地球環境史の観点から部分的核実験停止条約の成立を再検討する単著の出版に向けて準備を進めている。部分核停条約とは、1963年8月にアメリカ、イギリス、ソ連との間で締結された、大気圏内、宇宙空間、水中の核実験を禁止した条約である。一般に軍備管理条約として知られるこの条約が、実は「放射性物質による人類の環境の汚染を終止させる」ことを目的とした史上初の地球環境条約の一つでもあったことはあまり知られていない。なぜ冷戦中に核大国が地球規模の放射能汚染の事実を認めて条約を締結したのか。この問いに答えるため、私は米英ソ三国における安全保障国家と科学者集団の関係に注目し、各専門家委員会がどのように放射能汚染に関する知見を評価し、それがどのように政策決定過程に影響を与えたのかを実証的に考察している。
その中で特に重要なのが、技術革新の役割である。部分核禁条約を技術的に可能としたのは地下核実験の開始であったが、これは核実験停止に強硬に反対していたアメリカの科学者エドワード・テラーの尽力によるものであった。反共主義者として知られるテラーはアメリカのソ連に対する核優位の重要性を力説し、放射能汚染による健康影響を強く否定していた。しかし、専門家委員会の検討を経て次第に汚染に関する科学的不確実性や社会・倫理的側面に対する見解が変容すると、テラーは地下核実験技術の開発に邁進し、汚染の技術的解決策を提示することで包括核禁条約交渉を妨害しようとした。つまり、部分核禁条約の成立には放射線被曝の危険を認めようとしない科学者が一定の役割を果たしたのである。
もちろん、部分核禁条約は地下核実験の続行を可能とし、新たな健康・環境被害をもたらした。しかし、地球温暖化や核軍縮等の地球規模の問題を理解するためには、賛成論者のみならず否定論者が果たす意外な役割にも注目する必要があろう。
“Environmental Historians Debate: Can Nuclear Power Solve Climate Change?” a collective series hosted by the Network in Canadian History & Environment, the Climate History Network, and ActiveHistory.ca (March 2019)
Nuclear power is back, riding on the growing fears of a catastrophic climate change that lurks around the corner. The looming climate crisis has rekindled heated debate over the advantages and disadvantages of nuclear power. However, advocates and opponents alike tend to overlook or downplay a unique risk that sets atomic energy apart from all other energy sources: proliferation of nuclear weapons.
Course: History 099, “World War III: A History”
Recommendation: Do Androids Dream of Electric Sheep? by Philip K. Dick (Del Rey, 1968)
We usually don’t read this classic science fiction novel as a source of environmental history. But what if we reverse the conventional wisdom of learning history and say that we should study the future to understand the past? The novel, published at the height of anxiety in Cold War America, explores the existential question of what it means to be human against the backdrop of an imagined landscape and life in the wake of a global nuclear war. Set in a post-apocalyptic world blanketed with radioactive poisons that slowly brought all forms of life left on the planet to extinction, it offers a fascinating glimpse into a wide range of issues that gripped the United States in the midst of the 1960s “Civil War,” to borrow from Maurice Isserman and Michael Kazin, including consumer capitalism, warfare, outer space, racism, gender, the urban crisis, environmental degradation, and alienation in modern society.
『都立第五福竜丸展示館ニュース』409(2018年12月)
アメリカにおける原爆展は、スミソニアン博物館が1995年に企画した広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」の展示が有名である。しかし、それよりも約40年ほど前に同様の動きがあったことはあまり知られていない。先日アイゼンハワー大統領図書館で私が偶然見つけたメモによると、1959年頃、オレゴン州選出の民主党議員で核実験停止を提唱していたチャールズ・ポーター下院議員がアメリカ原子力委員会に対し、広島と長崎に投下された原爆の模型と写真を展示のために公開するよう繰り返し要請していた。この案件を検討したある省庁間会議は、それが海外に悪影響を及ぼすとの見解で一致したという。当初、原爆模型は安全保障上の理由で秘匿されていたが、ポーターがその公開を重ねて求めると、当時の原子力委員長は大統領特権を盾に抵抗しようとした。しかし、1960年12月、原爆投下一五周年を機に関連資料の開示を求める要望が相次ぐと、アメリカ政府はついに原爆模型の写真を公開したのである。
ともすると文書に残された「コトバ」のみで核の歴史を再構成しようとしがちな私のような研究者にとって、原爆模型をめぐる論争は核問題を考える上で視聴覚資料や遺品、証言が重要であることを改めて示している。原爆投下や核抑止を肯定する立場は常に抽象的な「コトバ」で語られ、原水爆被害の実相を伝える資料を「感情的」であるとして議論の場から排除してきた。しかし、被爆資料はエンパシー、つまり相手に自分を重ね合わせ、時空間を超えてその現実を分かち合うことを通じて原水爆の非人道性を本質的に理解することを可能にする。核兵器禁止条約の採択後も核保有国とその同盟国が核兵器を「必要悪」として擁護する中、「第五福竜丸」を始めとして世界的にも貴重な水爆被害の資料を多数保有する第五福竜丸展示館が果たす役割はますます重要となっている。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』408(2018年7月)
史上初の米朝首脳会談が6月12日に行われたが、その約二ヶ月前の4月20日、北朝鮮はミサイル実験の中止と核実験場の閉鎖を宣言し、5月24日には国際記者団を招いて坑道の爆破作業を行った。アメリカ政府とメディアはこの動きを単なるジェスチャーとして冷淡に受け止めたが、北朝鮮が少なくとも非核化交渉の間は核開発を凍結する強い意思を示したことは注目に値する。
核実験の自発的中止を核問題を打開する糸口にしたのは北朝鮮が初めてではない。1985年7月、アメリカのレーガン大統領との初の会談を控えていたソ連のゴルバチョフ書記長は同年末まで核実験を停止すると宣言した。その四ヶ月後に開かれたジュネーブ・サミットでは核軍縮に関する具体的な合意に至ることはなかったが、この会談を通じて両首脳が個人的な信頼関係を築いたことはその後の核軍縮条約の締結、そして冷戦の終結に大きな役割を果たした。
ここで重要なことは、レーガンはゴルバチョフと共に方法は違うものの「核なき世界」を目指したのに対し、トランプ大統領は北朝鮮に対して一方的な核放棄を求めている点である。本来、核不拡散条約は非保有国が核開発を自制する条件として保有国の核軍縮を義務づけている。しかし、今回の米朝交渉では両国とも北朝鮮の「体制の保証」を核放棄の見返りとすることで基本的に一致している。これは、アメリカの核保有を認めてそれに依存することで安全保障を達成しようとしている日本政府の論理と同質である。
アメリカの歴史家シェイン・マードックは核不拡散体制の成立を論じた研究の中でそれを「核のアパルトヘイト(人種隔離制度)」と呼んだが、核不拡散体制はこれまで保有国と非保有国との間の構造的不平等を維持・強化する役割を果たしてきた。朝鮮半島の非核化が望ましいのは言うまでもないが、それをどのように核保有国を含めた核軍縮につなげていくのか考える必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』407(2018年5月)
近年、「第三次世界大戦」が迫っているとの憶測がアメリカのメディアやネットを賑わせている。その多くはトランプ大統領の挑発的な一連の言動に触発されたものだが、大国間の全面戦争の可能性はオバマ政権期から真剣に論じられてきた。また、そのような戦争は正規軍の武力衝突以外に、テロ、サイバー、人工知能、遺伝子操作、そして偶発的核戦争といった様々な形態があり得ることが指摘されている。このような未来の世界戦争に対する関心の急激な高まりは果たして何を意味しているのであろうか。この問いに答えるため、私は現在「歴史としての第三次世界大戦」と題する授業を通じて「第三次世界大戦」という概念の成立と展開を学生と共に考察している。
アメリカの政府文書、言論、小説、映画、そしてゲームが描く「第三次世界大戦」のシナリオは多種多様であるが、その大部分が仮想敵による先制攻撃を想定している。これは弾道ミサイル等の戦略兵器の特性、そして奇襲により始まった第二次世界大戦の教訓に基づくものであるが、その根底には敵は常に無邪気で平和的なアメリカの隙を窺っているという観念がある。そのため、アメリカ政府のみならず多くの作家も考えうるあらゆる最悪の事態を近未来の戦争に投影することで、同時代的には不必要なまでの圧倒的な軍事態勢の構築を「抑止力」として社会的に正当化してきた。つまり、「第三次世界大戦」とは、科学的方法論や想像力を通じて未来を軍事利用する動きに他ならない。
かの有名なラッセル・アインシュタイン宣言は、水爆戦争の最悪の結果を警告することで、東西両陣営に対してあらゆる紛争を平和的に解決することを呼びかけた。「核なき世界」を実現する鍵は、現在の政治ではなくむしろ未来の構想力の中にあるのではないか。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』406(2018年3月)
2月2日、アメリカのトランプ政権は核戦略指針「核態勢見直し」を公表し、中国、ロシア、北朝鮮等に対抗して新たな核兵器の開発を進め、また通常兵器による攻撃に対して核兵器で反撃する可能性を打ち出した。しかし、このオバマ前政権の方針の大転換はアメリカ国内ではほとんど注目されていない。むしろ話題となっているのは、最近続発している銃乱射事件である。アメリカでは四人以上を巻き込む銃乱射事件は昨年だけで346件起きており、銃撃による死亡者数は一万五千人以上に達した。アメリカで銃規制が進まない理由として銃業界の政治的圧力がよく挙げられているが、そもそもアメリカの銃に対する考え方は日本と全く異なる。そしてそれはアメリカが核兵器に固執する文化的背景を理解する上で重要と思われる。
日本では民間人による銃の保有は原則禁止されており、ショットガンとエアライフルのみが厳しい審査を経て許可されている。一方、アメリカではあらゆる火器の所有が原則認められており、ピストルはもちろん、マシンガンや迫撃砲、そして戦車さえも審査を通れば所有できる。これは、民間人の武装が他国のみならず自国政府や他の市民から自らの生命、財産、自由を守る自衛手段として憲法で認められていることによる。本来、この思想は平時におけるアメリカ政府の軍備に一定の歯止めをかける役割を果たしていた。しかし、それは次第に国内外の「敵」に対する備えとして民間人と連邦政府の双方が武装を強化することを正当化する論理に転化した。
トランプ大統領は核戦略指針の発表に際して、全ての核保有国が核軍備を放棄しない限りアメリカは核保有を続けると述べたが、これは犯罪者が銃を入手できる可能性がある限り銃規制を行うべきでないというアメリカ国内での議論と軌を一にする。このようなアメリカ人の銃に対する「常識」が核なき世界の実現を阻んでいる要因の一つではないか。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』405(2018年1月)
以前コラムでも紹介したが、私はジョージタウン大学外交学院で担当している大学一年生の授業で、広島・長崎の原爆投下に関する討論を毎年末に行っている。今回特に印象深かったのは、学生たちが朝鮮人被爆者に対して強い関心を示したことであった。被爆者のおよそ一〇人に一人を占めるとも言われる朝鮮人被爆者の存在は日本でもあまり知られていない。この事実に衝撃を受けたある学生は、彼らの犠牲によってアメリカの原爆投下が敵国に対する正当な武力行使ではなく「無差別大量虐殺」であったことがより明確になったと発言した。この学生はさらに、アメリカが日露戦争後に米朝修好通商条約(1882年)に基づく朝鮮からの仲介要請を再三無視して日本の韓国保護国化を秘密裏に承認したこと、そして現在も朝鮮人被爆者に対する謝罪と補償を拒否し続けていることを指摘し、アメリカは彼らの犠牲に対して「何重もの責任を負っている」と述べた 。
オバマ大統領の広島訪問を一つの契機として、原爆が日本人のみならず多くの外国人の命も奪ったことは国内外で次第に知られるようになってきた。北朝鮮の核開発を巡って朝鮮半島の緊張が高まる中、この歴史的事実の重みは一層増している。グローバル化が進む現在、韓国にはおよそ200万人、日本には240万人、そして中国には最低60万人の在留外国人が住んでいるとされる。つまり、もし朝鮮半島で核戦争が起きると、その甚大な被害は当事国の国民のみならず東アジアに住んでいる世界各国の人びとに直接及ぶのである。アメリカと北朝鮮が互いに軍事的挑発をエスカレートさせる中、今こそ日本人のみならず朝鮮人を含む多くの外国人被爆者の犠牲を改めて思い起こす必要があろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』404(2017年11月)
10月6日、核兵器禁止条約の成立に貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞した。アメリカではこれまで条約に対する関心が薄かったが、 ICANの受賞は主要メディアが一斉に大きく報道した。しかし、それは核廃絶に向けた条約の意義を積極的に評価するというよりも、むしろ北朝鮮の核開発とイランの核合意に関して強硬姿勢を続けるトランプ大統領に対する国際社会の批判として位置付けるものであった。これに対して一部の 保守系評論家は強く反発し 、平和賞は核抑止を担うアメリカの原子力潜水艦乗組員やミサイル防衛システム開発者に授与すべきであるとさえ主張した。だが、これは裏返せばアメリカ人の多くがICANの受賞を好意的に評価している証拠といえよう。
核問題関連で平和賞を受賞したアメリカ人といえばオバマ大統領(2009年)が有名だが、市民社会の中からも受賞者・団体がいる。ノーベル化学賞受賞者であったライナス・ポーリング(1962年)は核実験禁止条約を求める科学者の署名運動を主導し、また「核戦争防止国際医師会議」(IPPNW)(1985年)は核兵器の人体と環境に対する影響に警鐘を鳴らした。両者に共通することは、「鉄のカーテン」を超えてソ連と東側諸国の科学者と草の根の交流を深めたことである。これは、イギリスのバートランド・ラッセルやジョセフ・ロートブラットらが主導して成立したパグウォッシュ会議(1995年)にも共通する特徴である。つまり、核問題の解決に向けた取り組みは、異なる体制間の緊張緩和に向けた努力と表裏一体であった。
ICANはこれまで核兵器の人道的影響に焦点を当て、有志国連合と市民社会の圧力を通じて核廃絶の実現に尽力してきた。このような取組みに対して平和賞が授与されたことは大変喜ばしいが、その一方で核問題をめぐるアメリカとロシア、北朝鮮、イランの間の対立は一層激しくなっている。各国の市民がどのように体制の相違を超えて交流を深め、核軍縮と緊張緩和を図ることができるかが今後の課題といえよう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』403(2017年9月)
7月7日、核兵器禁止条約が122カ国の賛成で採択された。この歴史的な出来事は日本のメディアでは大きく取り上げられたようだが、残念ながらアメリカではほとんど知られていない。事実、主要メディアの大部分は条約採択の事実を評論抜きで短く伝えただけであった。その無関心ぶりは、著名な核問題研究者がある雑誌の評論の中でそれこそがニュースだ、と述べるほどであった。
アメリカ国内の核禁条約に対する無関心さの最大の理由は、もちろん北朝鮮危機である。条約採択直前の7月4日、北朝鮮が米本土まで届く長距離ミサイルの発射に成功したと発表すると、トランプ大統領はミサイル開発を阻止するためには軍事的手段に訴えることも辞さないことを明言した。幸いなことに、最新の世論調査によるとアメリカ国民の大部分は外交による平和的解決を求めており、主要メディアも核戦争が双方に甚大な被害をもたらすことを繰り返し警告している。
しかし問題なのは、その批判の矛先が核兵器そのものの危険性ではなく、トランプ個人の資質のみに向けられていることである。昨年の大統領選挙戦で対立候補であったヒラリー・クリントンはトランプに「核のボタン」を渡すな、と述べたが、これは裏返すと指導者が理性的で冷静でさえあれば核兵器によって平和が保たれることを意味する。つまり、皮肉にもトランプのみならず彼を批判する側も核抑止という神話を強化する役割を果たしているのである。
被爆者をはじめとする核の被害者の苦痛を前文に明記した核兵器禁止条約は、その苦痛を通じて国家間の平和を目指すという核抑止論と根本に相容れない。条約が成立した今、どのように核抑止論を克服するかが今後の課題と言えよう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』402(2017年7月)
6月15日、核兵器を法的に禁止する条約の締結を目指す交渉の最終会合が国連で始まった。しかし、アメリカでは政府のみならず主要メディアもこれに一切触れることはなかった。すでにオバマ政権期から条約交渉の不参加を宣言していたことを考えると、この無関心ぶりは驚くにあたらない。昨年10月27日、国連総会第一委員会で条約交渉の開始を求める決議が票決に付された際、米代表はその「実効性」と「国際安全保障環境」を理由として反対を表明し、法的措置ではなく「検証可能な」核軍縮を進めると述べた。これにより、アメリカの核の傘の下にある日本や西欧諸国らもボイコットを表明した。2009年に核なき世界に向けた決意を表明したオバマが核兵器禁止条約実現の最大の障壁として立ちはだかったことに戸惑いを覚えた読者も多いと思う。
オバマ政権に限らず、米国はこれまで一貫して核兵器の法的禁止に反対してきた。1946年、ソ連が核兵器禁止条約を初めて提案した際、米国は強制査察を伴う原子力の国際管理を優先させることを主張した。その裏でソ連が原爆開発を急いでいたことはよく知られているが、禁止と査察の優先順位をめぐる米ソ対立によって核兵器廃絶の道すじが失われたことは歴史の悲劇といえよう。
しかし、米国は必ずしも常に大量破壊兵器の法的禁止に反対してきたわけではない。 1925年、生物・化学兵器の戦時使用を禁止したジュネーブ議定書が締結されたが、それを最初に提唱したのは米国であった。査察によって自国の主権が制限されることを嫌い、法的禁止による自主規制を推進したのである。事実、検証措置を備えた化学兵器条約が締結されたのはその約70年後の1993年であった。
なぜ米国が核兵器の法的禁止だけ反対してきているのか。それを理解するためには、米国の核政策と生物・化学兵器政策を比較検討し、核兵器を特別視する「核の例外主義」の起源と展開を探ることが必要であろう。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』401(2017年5月)
トランプ米大統領は暴言や失言が多いことで有名だが、その理由の一つとして挙げられているのが歴史に対する無知である。トランプは毎年2月に行われる「黒人の歴史を学ぶ月間」を記念する談話の中で、1895年に没した著名な奴隷制廃止論者がまだ生きているかのように話して失笑を買った。しかし、中には笑うに笑えない噂もある。報道によると、トランプはロシアのプーチン大統領との電話会談中に米ロ新戦略兵器削減条約が議題になった際、側近にその条約とは何かと尋ねたという。
アメリカには歴史がないとよく言われるが、多くのアメリカ人は歴史に強い関心がある。それは特に政治エリートの間で顕著である。連邦政府の主要な機関には歴史を調査し記録する専門の部局が必ずあり、歴代大統領も「歴史の教訓」を常に意識してきた。例えば、ケネディは歴史学者アーサー・シュレジンジャーを補佐官に任命して常に助言を求めた。もちろん、歴史から誤った「教訓」を学んだために失敗した例も多いが、それはむしろアメリカにおける歴史学の重要性を裏づけていると言える。
トランプ政権に象徴されるように、アメリカでも歴史の軽視が近年進んでいる。だが、それは政治エリートのみの責任ではない。歴史学者ジョー・グルディとデイビッド・アーミテイジは共著『歴史学宣言』の中で、歴史学のタコツボ化によって政治エリートは経済学に助言を求めるようになったと指摘した。事実、核政策の分野でも数理モデルの応用が急速に進む一方、歴史学は等閑視されている。
広島の原爆死没者慰霊碑の石碑には「安らかに眠って下さい/過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。核軍縮の行方が不透明な今こそ、長期的・地球的な視野に立って過去の過ちから学ぶような核の歴史学が必要ではないか。
『都立第五福竜丸展示館ニュース』400(2017年3月)
昨年5月27日、バラク・オバマが現職の米国大統領として初めて公式に広島を訪問した。当時、アメリカでは国論を二分する大統領選が行われていたが、主要政党とメディアはこの訪問を好意的に評価した。しかし、それは主に日米和解の証として捉えられ、原爆投下に対する謝罪の必要性が正面から論じられることは皆無であった。今回のオバマの広島訪問の「成功」は、むしろ原爆投下に関するアメリカの「神話」、すなわち原爆が終戦をもたらし、現在の日米友好につながったとの通説を一層強化したと言えよう。
では、将来のアメリカ外交を担う若者は原爆投下をめぐる歴史と記憶をどのように考えているのか。昨秋、私は大学一年生向けのゼミでオバマの広島訪問をとりあげたが、驚いたことに多くの学生は謝罪問題を原爆投下の必要性や人道的影響といった従来の論点だけでなく、加害者としての歴史を否定する現在の世界的な潮流の一環として論じていた。ある学生は、日米両国が負の遺産を常に直視し謝罪し続けない限り、加害と犠牲の上に成りたっている自国を盲目的に肯定する思想が若者の間で台頭する危険を指摘した。
事実、アメリカでも先住民征服と奴隷制の過去と現在まで続く構造的暴力の存在を忘却し、自国を無条件に礼賛する歴史修正主義が高まっている。アメリカの多様性の象徴として登場したオバマ大統領が原爆投下に対する謝罪を避けることで国民統合を図ったとすれば、それは誠に皮肉だと言えよう。
また、負の遺産を否定し忘却しようとする動きが国内外で強まる中、その遺産をどのように展示し継承するかは、第五福竜丸展示館をはじめとする各資料館に共通する課題であろう。
The Bulletin of the Atomic Scientists (September 4, 2012)
On July 5, an independent investigative commission established by the Japanese Diet issued its final report on the accident at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Station. Hailed as the definitive word on the subject thus far, the report points to what it calls the “fundamental causes” of the disaster, all of them cultural.
『朝日新聞』2012年2月11日
昨年末、内閣府が設置した有識者会議が、低い放射線量を長期間浴びた影響についての報告書をとりまとめた。1カ月という短期間で、リスク管理という困難な課題に取り組んだ関係者の苦労がしのばれる。
だが、低線量被曝(ひばく)のリスク管理は、有識者に判断を一任すべき純粋な科学上の問題ではない。私たち一人ひとりが危険の度合いを主体的に判断し、受け入れるかどうか決めるという、社会的な合意形成が不可欠だ。
私たちは過去の事例から学ぶことができる。1954年3月、米国の水爆実験により、日本のマグロ漁船第五福竜丸が大量の放射性降下物で被曝した。日本の消費者は「放射能マグロ」の恐怖におびえ、玄米や野菜からはセシウムやストロンチウムが次々と検出された。核実験反対の世論が沸騰する中、米国政府は放射能汚染による健康被害は小さいと主張。国連に設置された科学委員会に、この問題の調査を委託した。
だが、低線量被曝による健康被害を正確に測ることは困難で、調査結果の妥当性をめぐって激しい論争が起きた。人々は一層の不安感を抱くようになった。
核実験による放射能汚染被害が小さいという米国政府の主張は「核軍備による安全保障上の利益や、自然放射線やX線検査、自動車の運転や喫煙などに伴う日常的なリスクと比較すれば」という、相対的なものであった。
現実には核軍備の是非をめぐって世論は割れていた。それに、核実験による汚染リスクは、個人には避けようもなければ健康被害に対する補償も存在しないという点で、日常に潜む危険とはまったく性格が異なるものだ。
このため、放射能汚染を相対的に評価する前提そのものが次第に疑問視され始めた。58年8月、国連科学委員会は核実験による放射能汚染は許容する必要のないリスクであると答申し、米国政府の主張は説得力を失った。
私たちの社会には多様な価値観があり、どれほどの被曝線量が許容できるか、という問いに一律な答えを求めるのはそもそも不可能だ。リスクを管理する側が、許容できる線量を一方的に決めたとしても、危険にさらされている人々がそれを受け入れなければ意味がない。逆に不信を招き、リスク管理をさらに困難にするだろう。
今後の課題は、現場への地道な定期訪問や、インターネットなどのソーシャルメディアの活用を通じて、危険にさらされている人々の声に耳を傾け、対話を重ねて原子力利用のリスクに関して社会的な合意点を探ることだと考える。