年度末最後の日,人事異動となるお二人が挨拶に来てくださった.一人はとても長い間,もう一人は短い間でしたが,お世話になりましたということだったが,どちらもお世話になったのはこちらの方である.両人とも私にはできないきめ細かい配慮で仕事のできる方で,組織の要であり,個人的にも大いに助けられ,むしろ,これからもよろしくお願いしますとお伝えした.
この一年は色々あった.家族3人がそれぞれ一人暮らしとなり,皆が人生の中でそうそう経験することのないような試練を受けた.互いに行き来はあるものの,離れて暮らしていると頼り切ることはできない.それでも,自分のことは自分で決めたいし,それを尊重しあえる関係をありがたく思う.
昨年夏の入院後,不義理が嵩んでいる.連絡すべきことができていないどころか,返信できていない電子メールが貯まるばかり.ようやく,返信するかと気持ちが高まってきたときに,そのうちの一人の古い友人からメールが届く.
大学の教養部時代のクラスメートで麻雀仲間であった.数物系の学科に進学する者が多い中,ひとり薬学部を選び,今は薬科大学の教授である.北大で学会があるときなどに立ち寄ってくれたりして数年に一度は会っているだろうか.前回のこのブログの記事を見て連絡をくれたとのこと.これを読んでもらったら話は早い.手短に不義理を詫びる返信をした.持つべきものは友である.
3月の半ば,個人的に記憶に残る日となった夜に,ある卒業生から札幌に来ているので今晩飲みませんか?と連絡が.当日に連絡してくるのがいかにも呑兵衛だが,それに乗っかる自分も同じくである.
彼は私がアドバイザーを担当したが,別の研究室に配属され,大学院で自分の講義を履修するでもなく研究上も無関係.しかし,学生と教員の混じった飲み会を企画してくれたり,こちらも,新入生歓迎会での食べ物の調達や会の仕切りをお願いしたりと,何かと世話になった.そして,行きつけの飲み屋でバイトを始め,飲み友になるのが必然と思える.
大学を出るときに連絡すると ,もう先に始めているということで店に向かう.2年ぶりぐらいか,しかし,全く変わっておらず,元気そうである.何も言わずともビールが運ばれてくるのだが,店員もまた応物の学生ではないか!たまたまヘルプに入ったとのこと.ほんとに奇遇である.
就職後にあったことを一通り聞き,結婚して父親になることを喜んでいたのが印象的であった.大学院を中退して,平均的な応物の学生の歩むルートからは外れているのかもしれないけれども,地に足をつけて道を切り開いていいて,何より,幸せそうであったのは嬉しい限りである.
何年か振りに応物の卒業祝賀会に出てみた.少し出遅れ証書の授与は終わり宴会が始まっていた.多くの学生がスーツにネクタイだったのは意外であった.卒業・修了した学生たちの顔を見て,頭をフル回転させ関連する記憶を呼び戻し話しかける.個人的に話をしたこともない人間から急に声を掛けられて驚くかと思いきや,皆さん笑顔で応えてくれた.丸一年講義と演習で話を聴いていれば顔馴染になるわな.
別れの寂しさもあるが,出会いのときでもある.新年度に生まれる新たな関係性を楽しみにしつつ,これまでに積み重なった不義理をひとつずつ解消していきたい.
久しぶりに高熱を出した.コロナワクチン接種以来か.連休をダラダラ過ごす.この夏から患っている腕の痺れを感じなくなり,これはもしや良くなるのでは?とうっすら期待するも,体調の回復とともに痺れも戻ってきた.
仕事は放棄し,タイムシフト録画の中から,ひたすら,映画やドキュメンタリーを流し続ける.しばらく前に観た鬱病と闘う山口一郎のドキュメントが近況を加えBSで再放送され,その直後に,主題歌を担当するアニメのプロモーション番組が地上波で始まり,公共放送の視聴率向上への取り組みを見た気がした.
サカナクションといえば私の中ではひとりの研究指導した学生と結びついている.カラオケでの彼の素晴らしい歌声は,皆を盛り上げ,いい気分にさせてくれた.
国内学会3回に国際会議1回と大きな進捗をもたらした.モンペリエで過ごした一週間は忘れられない.研究を頑張ってくれたことは間違いない.しかし,それが彼にとって良かったのかどうか,今でも考えてしまう.
7月の前半,期末試験を残すのみとなる学期最後の授業を終えた日の夜に酔っ払って帰宅途中に転倒.その場は打ち身ぐらいで大したことはないと床につくも,翌朝,両腕の激痛に耐えきれず,色々あった末に,救急車で搬送されそのまま入院.前夜の転倒があったことで,X線・CT・MRIと撮影すると,骨折はないものの,脊柱管狭窄ありとの診断.脊髄損傷でしょうと首を固定して点滴による薬剤注入しながら安静するのみ.
この痛みをどう伝えるか,私の経験では,痛風発作と帯状疱疹における痛みと酷似している.どちらも針で刺されたときのような局所的な神経痛なんだけれども,それが常時続いて何かが触れたときの痛みがこの上ない.不思議なことに,両腕の肘から指先までに限定されていて,腕にさえ触れなければ何とかやり過ごせたが,痛みは絶え間なく続くし,腕を使う作業は耐え難い激痛.
心から絶望し,この状態が解消しないなら安楽死を選ぶ可能性まで考えた.幸い,入院2日目に劇的に痛みを抑制するクスリが見つかり,飲み薬も効いたので点滴も外れた.首は固定しているものの,自由に動けるようになって,これなら生きていけると安堵した,
治療と入院生活についてはまた別の機会があれば語るとして,なんとか痛みのコントロールができるようになり11日間で退院.結局,頚椎症性脊髄症という持病がまた一つ増えたことになる.骨棘が脊柱管を圧迫し,狭窄して髄液がほとんどない部分では,脊髄に直接力が作用する状態にあり,転倒などの衝撃は回避すべきであると警告を受ける.すぐ近くに消化器系に繋がる神経があり,そちらの障害にも注意するようにとのこと.
症状が改善しない,悪化するなどしたら,手術を検討すると言われるも,いくつかの術式の説明を受けて,丁重にお断りした.今思えば,父親と全く同じではないか.労災であったが,彼は左半身麻痺から始まってよりひどい状況であった.
最初の労災指定病院はやる気がなく,というより,治療法がないんだから仕方なくか,リハビリして,よくわからん薬を出すのみ.一年ぐらいは,いいと聞いたあらゆる民間療法を試したと思う.宗教的施術もあった.結果は言わずもがな.30代半ばの若さで,それこそ,絶望したに違いない.
色々あって,手術したのは10年後.脊髄を圧迫している第3頚椎を削った.事前に術後2ヶ月は首をベッドに完全固定して退院は3ヶ月後と説明を受け,そんなこと可能なのかとの疑念は1ヶ月後に現実となった.
首の固定と身体に繋がるあらゆるラインを抜き去りベッドから消えたと病院から連絡が.私が17歳のとき家の電話は黒電話であった.何時かは覚えていないけども,病院の消灯時間は過ぎていた.病院まで自転車で5分ほどで着いたか,その時には,病院の別のフロアを徘徊しているところを確保されていた.
明らかにメンタルが崩壊していた.思い出せば,その数日前から言動が少しおかしかった.現実なのかフィクションなのか,昔の話なのか現在の不安なのか,さっぱりわからなかった,支離滅裂な中から,何かを見出そうと一晩中話を聞いたが,何もわからず.
思えば私が生まれる前の父のことについて,父子家庭で暮らす中で,本人からきちんと話を聞いたことは一度もないし,当時は,興味もなかった.思い出すエピソードとすり合わせながら,父の頭の中を再現していく作業は,どうしてそのようにしようと考えたのか記憶にないけども必死ではあった.
このまま変わらなかったらどうしようと大変不安だったけども,医師が言う通り,眠りについて長い睡眠の後に目覚めたときには正気に戻っていて,徘徊してから興奮が冷めて眠る前のことは全く覚えていなかったが,ベッドを抜け出すまでのことは覚えていたのが興味深かった.
話を大きく戻して,そんな記憶もあって自分自身は手術は断り,ひと月後に再検査するということで退院.同僚の人々は私の長期離脱を難なくカバー,皆が皆,病状に気を遣ってくれて,有り難かった.替わりの効かないものは何とか処理して,あとは私個人として何としてもキャンセルしたくない予定が3つあった.
1つ目は退院1週間後にオタワでの国際会議が控えていた.あのモンペリエ以来の海外出張である.あのときも,準備はギリギリであった.かなり議論を詰めたことで,発表のポスター作成が遅れ,サカナクションを歌うオトコは羽田でトランジットする際に街のkinkosでポスター印刷したのであった.
今回は準備万端であったはずが,まさかの入院で,十分な打ち合わせができず危ぶまれたが,なんとか大学で印刷ができた.医者には許可を得たものの,長時間のフライトに首が耐えられるのか少しは迷った.
しかし,これでまた何かが起きても自業自得,ここで無理になったら一生行けないと思い決行した.ここまでの事態は想定外であったものの,羽田からの国際線へのフライトに東京で2泊の余裕があったので,そこで判断しても良いと考えたのである.
フライトと現地ホテルでは妻が同行するし,会場では学生や知り合いがいるという安心感はあった.行きのフライトはプレミアムエコノミーにアップグレードされるという幸運もあり難なくクリア.早朝にホテルについてチェックインまでどう過ごすかが問題だったが,あっさり部屋に通してくれて助かった.
学生の発表は素晴らしかった.困っていそうだったらヘルプしようと遠目から眺めていたが,ほぼ常時聞きに来る人がいてきちんと説明していた,通じていたかどうかはわからないけども,あの様子なら十分意味があっただろう.ただ,会議を通しで参加した印象では,モンペリエでは多くの関連発表があり中心的課題であったのに対して,今回のテーマは同じ物質に関心を持つ研究者が少なかったのは残念であった.
会議2日目,昼休みに会場を出ようとすると,昔世話になった先生に10年ぶりぐらいでお会いした.プレナリートークをされるということで全く把握していなかった.二人でランチをして近況をお聞きした.
ノーベル賞を取る確率が有意にある数少ない日本人物理学者のひとりであり,いつか受賞されることを信じている.新たな知見をいくつかくださったがその話はまた別の機会にするとして,ここで述べておくべきは,この私のブログの読者であったことをまた話してくださったことであろう.学生からノーベル賞受賞者までが読むことを想定しなければいけない,というのがネットに文章を発信するのに必要な覚悟である.
収穫もあったが,オタワ滞在中は痛みに悩まされた.退院後,クスリを減らして,東京移動時には服用せずとも耐えられるかというレベルまで到達したと思ったらリバウンドである.クスリでなんとか凌ぐも,会場の冷房のキツさで痛みが倍増.会議場に繋がるショッピングモールで防寒着を探し求めた.
せっかくだから本場のARC'TERYXでと店に入るも下調べなしに即決できる価格ではなかった.UNIQLOが大繁盛していて驚きだが,それは回避して,ZARAでも見つからず,H&Mで良さげな一着を購入.アプリ入れたら10%と言われるも No thank you.と会計を済まし退店,その後は,Tシャツ短パンの参加者もいる中,それを着込んで寒さと痛みに耐え抜き,海外出張を何とか乗り切った..
どうしても実現したかった2つ目の予定は研究室卒業生とビアガで飲む約束であった.半年前にとある会合で飲んだばかりであったが,今年の夏は札幌に行きますと連絡があり,入院前にスケジュールがおさえてあった.
彼は私が初めて指導した大学院生2人のうちのひとりである.そして,博士課程進学を希望し研究を精力的にこなしていた.M1になってすぐに長野で国際会議があり,そこでも発表準備が整ったのは前日であったが,立派な発表であった.
そのテーマは研究のウォーミングアップとして捉えていて,それをさっさと論文にまとめて次のテーマに移るという心積もりでいたら,心変わりして就職したいと言い出した.人生の選択は自分自身で決めるべしというのがポリシーなので,それを受け入れた.
それなら論文書くよりも新たな研究に取り組むほうがよかろうと方針転換したが,就活はあっという間に決めて,新たなテーマでもしっかり結果を出し卒業.就職後も飲み仲間として繋がっている.そもそも,学生時代からで,在学中に少なくとも100回は一緒に飲んだと思う.このブログにも登場したはずで箱根の温泉に集まった仲間の一人である.
そんなオトコから誘われたら行かないわけにはいかない.オタワに同行した学生にも声をかけて,大通ビアガのドイツ村に集合.夏季休暇で3泊4日の札幌旅行とのこと.念の為,入院話を最初にするも,大丈夫ですかぁ?と言われただけで,いつものように飲み続けビアガですっかり出来上がる.
出ますかと立ち上がり大通駅に向かうと,2次会行きますか,昔行った店に連絡してみますと.さすが,札幌の店をよく把握している.自分はほぼ眠っていたような気がするが,半導体業界に長く務めるオトコとこれからそこに加わるオトコで語り合ったことだろう.
そして,その翌日からの二泊三日の函館旅行がどうしても実行したい3つ目の予定である.函館には私に物怖じせず発言できる心強い卒業生で北海道の代表的インフラ企業に勤めるオトコが居る.そして,ベイスターズと北海道をこの上なく愛する卒業生が,毎年夏に札幌に戻ってきて3人で集まるのが恒例行事となりつつある.
昨年はRISING SUN ROCK に参加し,大通ビアガで4社のブースを順に巡り全てでサーバーを飲むというバカな飲み方をする仲間である.函館のオトコがそろそろ転勤になりそうということで,自分は彼と函館で会うのは3回目なのだが,今回は3人で集まることになった.
前日のビールの余韻を感じながら,丘珠からプロペラ機に乗ると40分.空港に車で迎えに来てくれていて,前日から前乗りしていたベイスターズのユニフォームのオトコが手を振っていた.
函館駅近くのホテルまで送ってもらい,チェックインして,昼飲みできる店を見つけて1次会スタート.一応,入院したことは説明して,やはり,大丈夫ですか?と心配されるも,前日と同様に,いつもの飲み会に戻る.次は大門横丁,最後は,本町でカラオケまで行きタクシーでホテルに帰った.
翌日は,湯の川温泉のホテルを予約してくれて,チェックインまでは函館観光.熱帯植物園,ラッキーピエロ,修道院,函館山,と一通り巡り,イオンで買い物してチェックイン.山の日のせいかお盆休みなのか,ほぼ満室のようで,食事も温泉も人で溢れていた.
二日目でも話は尽きず,酔っ払っていつの間にか眠るという幸せなひとときであった.翌朝目覚めて温泉に浸かり,朝ビールと行きたかったが,車だったので自分が運転する訳では無いけども遠慮した.
何とか3つの予定を完遂して安堵.痛みが強くなるかもと不安であったが,クスリなしでも過ごせるようになった.函館から札幌に戻って数日後に退院後の状態確認がありMRI撮影.脊髄に深刻なダメージがある場合は画像から判断できるとのことで,見つからなかったのは喜ぶべきなんだろうけども,痺れと若干の痛みがある現実を受け入れるしかないのか.父の感じた絶望とは比較にならないだろうけども,いつか手術することも想定しておけばいいかなと受けとめられたのは,父のおかげかもしれない.
自分でやるしかない仕事をなんとか片付けた後に,4月の人間ドックの大腸内視鏡検査で発覚して予約していた,大腸腺腫の内視鏡切除手術を東京で受ける.今時は大きなモニターを観ながらの手術で,見にくい角度ではあったが全ての手順を確認できて安心ではある.
クリップ5つで止めることになり,2センチの腺腫切除の傷は大きく,最初は2週間安静で飛行機もダメと警告を受けるも,これまで合計30個ものポリープ切除を経験した身としては,もう慣れたもので,出血がなければ1週間でいいでしょ?と医師に訴え認めてもらう.禁酒は10日というので,それには従ってみた.
この夏は入院もありトータルで1ヶ月ほどアルコール抜きの生活を経験して,それでも禁断症状が出ることもなく,飲まなくても大丈夫なんだというのは自分でも意外であった.それでも,制限されなくなると,飲んだ方が楽しい.というか,最近は一人で飲むのがフツーで,余分なことを考えなくなるのが良い.
それも,コロナ騒ぎ以来,飲み会を控えていたからだが,この緊急入院した騒ぎに乗じて,同僚との飲み会を立て続けに企画して,皆さんの近況を聞けたのは良かった.しかし,絶望を感じる話題も少なくなかった.
ある先生が私の指導する学生がどれぐらい研究に時間を割いているかと聞いてきた.コアタイムも要求してないし,監視しているわけでもないけれども,毎週の報告会の様子から,週に30時間以上はかけていると思うと答える.
そうだよね,と納得するのかとおもいきや,彼の研究室の学生とのやりとりを聞き,驚愕した.時間をかければ必ずより良い成果が出るということではないけれども,その人の能力に応じて,基礎的な訓練の時間は必要だし,こうすれば何らかの結果は出ると見込める研究こそ一定の時間をかけないと結果に到達しないものだと思うが,どうしてそれで研究成果が出ると思えるんだろうというレベルの話であった.
ずいぶん昔の内容だが,以下のリンクの内容は,理論物理の研究には今でも有効だと思う.
セミナーの準備のしかたについて
https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~yasuyuki/sem.htm
しかしながら,そんな調子で進めていれば,現実には,研究は先の見えない状態での作業が続き,学会発表や論文執筆,学位論文の執筆に発表準備と,大きなプレッシャーがかかる.下記のリンクの内容は,目新しいものはないけども,実際に有り得る話だと思う.
「親を失うより深刻」博士課程はメンタル崩壊を引き起こしやすいと判明
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/164755#google_vignette
それをどう乗り越えたかを教員が語るのは,生存バイアスにしか聞こえないかもしれない.しかし,現実にメンタル不調に陥る学生がいるのは確かである.この文章の最初に述べたサカナクションのオトコもそのひとりであった.
プレッシャーに弱かったのは確かだろう.実際は,物理学会の3回の発表のうち2回は私が代理で講演した.結果はきちんと自分で出したのにである.メンタル不調の経験があればわかると思うが,頭痛や吐き気などの身体的症状も出てきて,体調が悪くなり身体が動かなくなる.そうなると回復を待つしかない.
こちらにできることは限られる.それでも,函館で一緒だった2人は同時期に過ごした研究室仲間で,4人で頻繁に飲みにもカラオケにも行く仲だったので,彼らにもコンタクトを取ってもらった.私自身が,彼が引きこもったアパートを訪問して,乱れてしまった部屋の片付けを一緒にしたことも有る.同じ研究室の先生に話をしてもらったり,工学部の何でも相談室にも通ってもらった.
研究室のあらゆるチャネルからの連絡に応答がないときに頼るのは実家である.お父さんが出てきて,任せてくださいとすぐに対応してくれて,卒論と修論のどちらの佳境でもお世話になった.私から見れば,良い家庭に恵まれて育って,羨ましく思うほどであったが,それは親目線になっているからで,本人がどう受け止めているかはまた別の話だろう.
最終的には修士論文を提出しプレゼンもこなして合格.修了式にはご両親がいらっしゃって,お父さんが一升瓶を抱えて私のところに来てくださった.後に同僚と一緒に飲み,これまでの人生で最も美味と感じた一品で,どこで買えるのか彼に聞きたいと思っているが,それが実現できるのはいつだろうか.卒業して一度遊びに来てくれたが,その後,コロナ禍があり,連絡はしているものの返信はもらえていない.何とか自分の人生をハンドルしていると信じていいる.
山口一郎の様子をテレビで観て,昔を思い出し,彼らはどうしているのだろうと思いを巡らしたその翌日,LINEメッセージで「涙が止まりません」と送られてきた.ベイスターズ日本一である.現役時代の三浦監督に魅せられて横浜ファンとなったオトコにとって21年間は長かっただろうが,ずっと応援してきてよかったというのは心の底から湧き出た言葉に違いない.
交流戦があれば必ず札幌ドームに観戦に行ったものだ.彼は全試合いくとして,私は他の学生と一試合付きあう程度であるが,球場で飲むビールは最高である.ベイスターズが勝った記憶はあまりない.一番の思い出は,大谷の弾丸ライナーによるホームランである.そういえば,ビアガで飲んだオトコも横浜ファンであった.多村を応援していると言っていたような.
そんなことがあって,彼らの思い出と自分の近況を文章化しようと思い立つも,なかなか文章にならない.いつのまにか3週間も経っている.文章構成力の衰えは,文章を書かなくなったせいかもしれないし,単なる老化によるものという気もする.それとも,自分こそメンタル不調か.ここ数年気にしていた原因不明の尋常性白斑の悩みは吹き飛び,脊柱管狭窄による症状をどうコントロールしていくかが大きな懸案事項であるけれども,それを乗り越えていくためにも,できることから手を付けていき,前向きに生きたいとは思う.
そしてこの週末,一昨年博士を取って,現在は横浜にある企業の研究所に勤める卒業生が札幌に来るということで飲み会を開催.横浜ではあちこちベイスターズ日本一の余韻が残っているらしい,現役学生2人教員2人とで5人の宴会を店の予約まで彼自らが行い,それなりのコースを堪能できたのはいいとして,支払いはどうするかなと思っていたら,学生の分は私が払います!とオトコマエの対応.学生2人が帰ってしまった2次会でもこちらがごちそうになってしまう.学生時代と変わらずパワフルで,社会人らしく話題を振って会話を回していた.
彼との最初の思い出は,応物に配属されてすぐの熱力学を私が担当していて,毎回授業が終わるとツカツカと教壇までやってきて質問しにきたことである.自分はこういうことをやりたいんだと熱く語っていたのが印象的である.学部生の間は,お勉強しているだけだと自分が研究にどう貢献できるかを知るのは難しく,彼もその例外ではなかった.10年近く経って,当初の思いとは異なる方向に進んでいるけれども,着実に力をつけて,自分自身で研究テーマを設定し,独力で論文を出せるまでに成長した.学位を取得したと言っても,そこまで出来る者はそうそうは居ない.
横浜といえば,また別の通信系の会社に勤める卒業生が関内だったか桜木町だったかに住んでいたことがあり,よく飲みに連れて行ってもらった.今は京都に居て5月に出張した際に会った話をここに記そうとしたのを思い出した.
毎年,新たな若者が研究室に配属されてきて,彼らの考え方に接することができるのは大学教員の特権であろう.本当にありがたいと思う.接し方は昔とは随分変わった.最近は,来るものは拒まず去るものは追わず,と孟子の教えに従っている.指導教員ではあるが,むしろ,今回のように,自分のほうが助けられることも少なくない.
札幌単身生活も10年となった.65歳まであと10年は働くとしても,身体のあちこちにガタが来て,自分に一体何ができるのか,このまま札幌にいるのがいいのか,どこかに飛び出して行くべきなのか,日々思い悩む.
ここはやはり,気の置けない仲間と集まることを大切にするべきなんだろう.来月には,名古屋でOBたちと集まる会が恒例となり3年目である.関東にも人が増えてきたので,Greenroomのフェスか横浜スタジアムで野球観戦後に中華街で焼売にビールを堪能する会を誰かが企画してくれることを楽しみにして,頑張るとしようか.
GW直前に久しぶりに大腸内視鏡検査を受ける.東京で受けている人間ドックのオプションとして申し込んだ.本当はその病院で受けた昔の検査で経過観察となっていたはずなので保険診療で受けたかったが,この程度では無理ですと断られた.大量の腫瘍を切除してから何年経ったかも忘れてしまったけども,50歳の誕生日を目前に大腸を原発とした癌で亡くなった友人のことが強く思い出され,検診を受けることに.
結果は経過観察となったいた腫瘍が大きくなり ,切除対象となりますんで本院で切ってください,とそっけなく言われる.だから最初から病院でとお願いしたつもりと言っても後の祭り.また食事制限をして下剤を飲むしかないのか・・・.その検査もあり,GW前半の連休前後の平日を休暇として,久しぶりに東京で家族とゆっくり過ごせたんで良しとよう.
ROM専用のXのタイムラインに
年収XXXX万円でもXX1人しかXXXになれない
XX教師がXX生徒の後ろからXXXXまでXをXX「悪ふざけのつもりだった」
XXXXさん,XXXXX軍がXX地区をボンボンXXするためにXXXX送るもんだから,XXXXXXさんのところへXXXXが来なくなってる模様
XXXXさんXX発表「XXXXやXXXXX行為・・・XXXとXXXを守り続けることは極めて難しく」
とつぶやきが並んだ.このサイトの情報更新が必要なのに放置しているのを承知の上で,これは自分の中で言語化しておいたほうがいいのでは?という気にさせられたが,その余裕はなく,記録のみしておく.10年以上の時を経て再会した研究室OBとの飲み会で酔っ払って大学に戻り寝落ちした後のひととき.土産に頂いた日本酒を飲むのは我慢して帰宅しよう.
先週末,自分の卒業論文以来ずっとお世話になっている先生の退職祝賀会が東京であり懐かしい面々と再会した.その中で,この「うつろいゆく思考」を読んでましたという話になり,想定外の読者が多く,恥ずかしくもあるが,自己開示の目的は達成されていると思う.
研究室配属を考える学生たちに参考となる情報を提供できればと始めたつもりが,自分の抱えた個人的問題をどう解決するかについて悩んだ過程の記録が中心になってしまい,それが収束したのと,とある事情があって,更新が滞ってしまった.
ひとり大学近くのイタリアンパブのカウンターで飲んでいると,英語の文献を読んでいたのが珍しかったらしく,隣の客から話しかけられ,Japaneseですか?と尋ねられるのはもう慣れたが,北大に来て20年と答える羽目になる.
すっかり歳をとってしまった.学生から見たら自分にとってのあの先生より高齢なのか!と思うと暗澹たる気持ちとなるが,それを受け入れるしかない.
3年生向けに1年間講義を受け持っているので,その様子から,自分の学問に対する向き合い方は伝わっていると期待するし,来る者は拒まず去る者は追わずという態度で接していて,それで成り立っていると,自分の中では,思っている.
しかし,事前情報はたくさんあったほうがいいだろうし, それでミスマッチもより防げるだろう.大変なことも公開してそれでも来るというなら受け入れますよという態度であったが,今どきはそれでは敬遠されるかもしれない.
これまでは,独自にサーバーを立てて公開していたが,SSLの認証が必須となり,そちらの更新は諦め,工学部のサーバーの研究室公式ページに転送設定していた.ところが,Googleはトップページが不可視となったページも検索であぶり出してくれるので,過去の記事が見たければどうぞそちらへ.年に何回か更新できればいいのだが・・・.