1 研究目的
(1)研究の背景・目的
知床半島は北半球における季節海氷到達の最南端である。知床は2005年に世界自然遺産に登録されたが、それは「季節海氷による影響を受けた生態系の顕著な見本である」ことが高く評価されたことによる。しかしながら、オホーツク海では海氷減少傾向が著しく、ユネスコ世界遺産委員会は2019年の決議においてそれを懸念し、気候変動に対する適応管理戦略の策定を強く求めている。国内においても2018年12月に気候変動適応法が施行され、地域社会と連携した早急な研究開発が必要とされている。
本研究は、知床をはじめとする北海道オホーツク海沿岸(以下、知床海域)における海氷および海洋変動を予測し、温暖化による海洋生態系への影響を評価するものである。知床海域では海氷融解に伴って植物プランクトンが大規模なブルームを起こし、それを起点として豊かな水産資源形成がなされるとともに、シャチなど鯨類も来遊する高度な生物多様性を示す。また、アザラシは出産や休憩の上陸場として海氷を利用しており、当海域から海氷が消失すれば海洋生態系への影響が甚大であろうことが予想される。しかしながら海氷変動は海域差が大きく、例えばオホーツク海全域では海氷がほとんど消失した2015年においても流氷は知床まで到達していた。オホーツク海北部を源流とする‐1.5℃以下の冷たい東樺太沿岸流が海氷融解を抑制し、海氷南下を促した可能性が高い。全球を対象とした気候モデルではこのような海域スケールの現象は再現できず、また気候モデル間における予測にばらつきが大きいため「知床海域から海氷が無くなるのか?水産資源や海洋生態系への影響はどうか?」という地域社会にとって切実な問いに、確度の高い予測を持って答えることができない状況にある。
以上より本研究の目的は、①知床海域温暖化予測モデルとモニタリング網の構築によりオホーツク沿岸の海氷・海洋変動を予測し「海氷消失可能性およびその気候条件」を導出すること、②海氷融解による植物プランクトン大規模ブルームを起点とする海洋生態系・生物多様性に対する影響評価を行うことである。さらに、これらを遺産管理および地域社会の気候適応戦略策定に活用することを目標とする。
(2)研究の概要
本課題では第1に、高解像度の海氷・海洋モデルを用いて、気候モデル群による予測を(モデル間のばらつきを評価しつつ)ダウンスケールすることにより、「知床海域の温暖化シナリオ」「海氷消失条件(気温、風速等)」を導出する。知床海域の海氷変動と大規模気候システムを結びつけるためには、過去の多氷年、少氷年をもたらした大気循環場の解析を基礎に「多数の気候モデル群による予測の中からターゲットとなる海氷変動と紐づけた少数の代表的な大規模温暖化パターンを抽出する」という、ストーリーライン手法を用いる。気候モデル群として、第6期気候モデル相互比較プロジェクト(CMIP6)とその高解像度版であるHighResMIPを使用する。第2に、海氷域において海洋データが欠落している海氷融解直後に詳細観測を行うとともに、海氷下も維持される漁具等に水温塩分計を設置し、海洋環境の長期モニタリングを開始する。これらの観測を個別に実施されている冬季観測(海氷下の係留系、砕氷巡視船「そうや」、紋別オホーツクタワーなどによる観測)と合わせて解析し、また定期船舶観測等と組み合わせることにより、冬季を含む海洋環境モニタリング網の構築を進める。さらに、これら長期データの解析により、気候変動に対する海氷・海洋の応答を明らかにする。第3に、海氷が消失した場合の生物生産・海洋生物多様性への影響評価を行う。そのため知床沖を観測対象域とし、冬季から海氷融解期も含め、季節を通じた栄養物質・低次生物生産の時系列モニタリング観測を行う。これは船舶観測に加え、通年データを取得する係留系セジメントトラップ観測の解析を含めて実施する。この時系列観測で得られたデータを解析することで、栄養物質環境の季節変動と微細藻類(アイスアルジーと海水中の植物プランクトン)動態、動物プランクトン動態の関係を解明し、最終的に海氷および海氷融解が物質循環と生物生産に与える影響を定量的に明らかにする。さらに、多様な海洋生物からなる生物群集の環境変動に対する鍵種の選定とその応答を解析することにより、知床海域の温暖化に対する群集構成と食物網構造の変化を予測する。海氷を出産などの上陸場として利用するアザラシ類等海棲哺乳類への影響も、温暖化シナリオに基づき評価する。
(3)環境政策等への貢献、環境産業等への活用
【重点課題⑬と⑧】知床では遺産登録に際し世界遺産委員会の求めに応じて資源管理計画を策定し、「海洋生態系の保全」と「持続的な水産資源利用」の両立による遺産管理を進めてきた。中でも海氷は重要な遺産価値である。また、知床をはじめとするオホーツク地域では、流氷の到来と豊かな海洋生態系、高度な生物多様性を基盤に、水産業はもとより、流氷観光・ホエールウォッチングなどの観光業も盛んである。したがって、「温暖化に伴って海氷は消えるのか」という問いは地域社会にとって切実であり、海氷変動予測は知床世界遺産のみならず、オホーツク地域産業の温暖化適応戦略に直接貢献するものである。
【行政ニーズ(2-2)】気候変動適応法に基づき、北海道は2020年3月に「北海道気候変動適応計画」を策定した。同計画は将来予測される影響として海氷減少を取り上げており、本研究の海氷変動予測はその内容と合致する。同時に、モニタリングによる科学的知見の蓄積も不可欠である。しかしながら、氷海観測の困難さのため、温暖化の影響が甚大とされる冬季海洋データおよび生態系データは、極めて少ないのが現状である。本申請には知床世界遺産地域科学委員会および同ワーキンググループの委員(三寺、山村、三谷、美坂)が加わっており、モニタリング網充実を進めるとともに、研究成果を知床の遺産管理計画や地域産業の温暖化適応戦略策定へと繋げることにより、社会実装を目指す。
(4)研究の独創性・新規性
・ 全球を対象とした気候モデルによる温暖化実験は沿岸スケールの現象を対象としておらず、これまで知床海域スケールの温暖化予測はなされたことがない。さらに、利用できる温暖化実験が限られる場合、気候モデルバイアスの懸念があり、単なるダウンスケーリングでは予測の不確実性を適切に評価できないとの危惧がある。本課題では、多数の気候モデル群を用いて「温暖化に対する代表的な応答パターン」を抽出するとともにモデル間のばらつきを評価し、それを高解像の海氷海洋シミュレーションと結び付ける。この手法に基づく海氷予測では、気候モデル群全体を用いた不確実性評価が可能となり、気候変動への適応戦略策定などに際し、地域社会とのより円滑なコミュニケーションが期待される。
・ 知床海域は季節海氷の到来に加え、アムール川の水を含む東樺太沿岸流、日本海から流れ込む宗谷暖流との合流域であり、オホーツク海北部から沈み込む中層水(水深300~500m)も合流するという、いわば海氷・海流の集水域である。これらの海流は海氷消長を司るとともに、硝酸・リン等の栄養塩や鉄分など栄養物質を運んでおり、知床をはじめとする北海道オホーツク沿岸域の豊かさの源泉である。この複雑な海氷-海流系・栄養物質環境を背景に、知床海域では海氷融解直後に大規模な植物プランクトンブルームが起こる。しかしながら、冬季を含む季節を通じての海洋環境データ、海洋化学生態系データが極めて少ないのが現状であり、海氷消失に対する海洋生態系への影響評価には情報が不足している。したがって、海氷・海流、物質循環、低次生態系、生物群集の連関に焦点を当てた海域調査およびモニタリングが不可欠である。温暖化が顕在化しつつある現在、遺産価値である海氷を中心に気候力学、海洋海氷物理学、生物地球化学、海洋生物学、海洋生態学の研究者が結集することが、今こそ求められていると信ずる。