21世紀初頭、東京工業大学は国際化を推進すべく、JICAプロジェクトAUN SEED-Netに積極的に参加してきた。このJICAプロジェクトに深くかかわってきた三木千壽教授が、2006年、教育担当の理事副学長となった。当時の東工大のトップの運営体制は、学長の下に、たった2名の理事副学長、すなわち教育担当副学長と研究担当副学長がおかれ、それぞれの副学長の下に、1名ずつの理事副学長総括補佐という役職が置かれ、これで采井を行っていた。私は、三木副学長の総括補佐に任命され、教育・国際関連業務にあたっていた。
2007年4月、エジプトからE-JUST設立準備委員会のメンバーが東工大を訪問した。これは、三木副学長がE-JUST設立プロジェクトの日本側の重要メンバーであったからで、私はこの時、役職柄、初めてエジプト人教授と察し、東工大を紹介する役割を担った。この時にはまだ、将来これほど深くE-JUSTに関わるとは思ってもみなかった。その後、JICAとエジプトの間で、様々なやり取りがあったと聞くが、この間の事情は、岡野貴誠著「科学技術大学をエジプトに」に詳しい。
2009年には、E-JUST設立プロジェクトのアウトラインが少しずつ明確になってきており、東工大も参加する方向で検討されるようになった。私は三木副学長から「エジプトに行ってみない?」と誘われた。AUN-SEED-Netにも携わってきていた私としては、新しい相手であるアラブ、エジプトに多少なりとも興味がそそられ、エジプト行きを受諾した。この時、東工大定年が間近に迫っていた理学系の市村貞次郎教授も誘って、東工大から3名が渡航することとなった。2009年4月のことである。
我々は、アレキサンドリア大学構内で、エジプトサイドの教員と初めて顔を合わせ、将来の構想について協議した。これには東工大のほか、九大、早稲田大、京大も参加していた。なにより驚いたのは、ボルグ・エルアラブのキャンパス予定地である。広大な砂漠の真ん中に、E-JUSTの名称が入った大きな看板と2本の枯れかかったナツメヤシが立っていただけであった。「こんなところに本当に大学ができるの?」というのが、初めてこの用地を見た者の偽らざる感想であった。しかしながら、今考えてみると、壮大な夢のような話に関われるということは、困難さより好奇心が勝っていたように思う。
こうして、E-JUSTプロジェクトに関わるようになった私は、東工大としてこの大学を造るのに積極的に協力していこうと決心した。東工大は二つの専攻に協力することになったが、私が協力するのは「エネルギー資源・環境工学専攻」である。学内的には、化学工学専攻と土木工学専攻に協力を依頼するとともに、特任教員の選考、客員教員の依頼を行うなど協力体制を構築した。さらに実施する協力課題の詳細を詰め、JICAとの契約に至った。こうして、2010年のE-JUSTソフトオープニングの当初より、「エネルギー資源・環境工学専攻」が開講することができた。開講と同時に、東工大定年を迎えた市村禎次郎教授が学類長アドバイザーとして、市村研究室の松下慶寿助教がJICA専門家として派遣されることになったのは、心強い限りであった。
私の役割は、専攻幹事としてエネルギ資源・環境工学の専攻運営に協力することであった。特任教員は、年間4か月のE-JUST 滞在が義務付けられ、日常の教育研究実施のサポート業務にあたった。その他客員教員は、年に1~2度E-JUSTを訪問し鋭意指導に当たった。当時すでに、ポリコムが使えるようになってきていたのは好都合であり、月に1度の専攻会議をリモートで開催することができた。
当初は、日本人から見るとありえない驚くようなことばかりで、まだ教員がきちんと決まっていない内に学生の採用が決まってしまうなど、我々は心配しても、綱渡りでもなんとかなって結果オーライとなる。始めて修士が修了する半年前頃になって、修了要件や修了日程が全く決まっていないことに気づいて、慌てて東工大のものを取り寄せ、これをもとに急遽作成したことなども思い出される。ソフトオープニングに代表されるエジプトのなし崩し的文化にも徐々に慣れていった。その後、エジプトの状況がいろいろと見えてくるにつれて、不具合も生じてきた。当初、エネルギー資源・環境工学を設置したのは、エネルギー由来の環境問題が全世界的に課題となっていたからであった。しかしながら、エジプトの環境問題は、CO2どころではなく水資源問題が最も大きな課題であった。この点についてSCU(最高大学評議会)からの指摘もあって、二つの専攻、エネルギー資源工学専攻と環境工学専攻に分割をした。我々はこの2専攻引き続き面倒を見ていくもとになった。
2009年初めてのエジプト訪問
2009年メインキャンパス用地にて
2010年秋、E-JUSTに初めての大学院生が入学した。私が専攻幹事として担当するエネルギー・環境工学専攻には博士課程学生4名が入学した。その中のサメー君は、それまでエネルギー材料関係を学んできており、E-JUSTでもそれに関連する研究を行いたいとの希望であった。当時、当該専攻にはそのような専門の教員は存在しなかった。当時、どうやって学生をリクルートしてきたのかわからないが、専攻に学生が希望する専門の教員がいないなどとは考えられないことである。エジプト特有のソフトオープニング、見切り発車に慣れない日本人にはたいへんな驚きであった。
そのころ材料工学専攻の教員には、モネム教授(現在はBASの所属教員)がいたので何とかならないかと相談をもちかけた。とにかく学生が入学してしまったので、なんとかしなくてはならず、かなりのネゴシエーション、紆余曲折を経て、なんとか、所属はエネルギー・環境専攻のままで、指導教員をモネム教授とすることで落着することができた。研究は、モネム教授の専門分野に近い「大容量ストレージの電極材料、とりわけ酸化マンガンを使った新しい電極材料の開発」に決定した。
2011年のいつであったか定かではないが、当時の研究担当副学長のエルシャルカウイ教授がやってきて、エジプト高等教育省の博士課程奨学金に、6か月間日本で研究するための旅費、滞在費や研究消耗品費を含む奨学金を付加することに成功したので協力して欲しいと、嬉々として言ってきた。我々日本側教員には寝耳に水の話であった。このシステムが、今後継続して、ほぼ全員が日本の大学で6か月(その後6~9か月に改正)学ぶことになるとは知る由もない。しかし、せっかく奨学金がついたので、有効に使おうということで、暫定的な日本派遣のルールを作って、学生を受け入れる日本側の教員を探すことから始まった。
サメー君の研究も順調に進んできたので、日本の大学の行き先を考えなくてはならなくなった。当時、カーボンナノチューブが世に出始め、その合成法に関する研究が流行していた。東工大の私の研究室では、非平衡COプラズマを使ってカーボンナノファイバーやカーボンナノウォールなどのグラーフェンの低温合成に成功していた。これらは、グラーフェンとグラファイトの混合物であるが、パラメータを変えることにより様々な形のものが低温で合成できることが売りであった。私は、モネム教授に、このグラーフェンを電極材料の酸化マンガン表面に成長させれば、電気特性が向上するのではないか、と提案し、モネム教授も、それは面白いと同意した。こうして、サメー君は、6か月間、東工大の鈴木研で研究することになった。
最初のE-JUSTの学生を東工大で受け入れるに際しては、そう簡単ではなかった。高等教育省からの授業料や研究費の流れなど、駐日エジプト大使館の科学アタッシェと随分と交渉した。受け入れたサメー君は大変優秀で、カーボンナノウォールが着いた酸化マグネシウム電極は、予想以上に良い電気化学特性を示し、彼の研究はとんとん拍子に進んだ。この電気化学的測定をするためには、E-JUSTで使っていたJICA供与の装置が必要であったので、約300万円をはたいて測定装置を購入して彼に使わせた。サメー君は、この装置に習熟しており、鈴木研の学生にも使い方を伝授してくれたおかげで、その後の鈴木研の研究においてこの装置は様々な電気化学的特性を測定するたいへんに役立ち、他の研究においても多くの成果を上げるのにも役立った。
サメー君自身の研究は大いに進捗し、もう少しいればもっと良い成果が得られそうだということで、彼の滞在期間を9か月まで伸ばすことにした。しかし、この間の授業料等はエジプト側からは支給されず、苦労して工面した。最終的に、サメー君はこの間の研究成果を使って、帰国後も含めて5報の論文を書いた。当然、私もモネム教授も共著者である。その後、サメー君は学位を取得し母校(ファイユーム大学)に帰って教職について活躍している。モネム教授はこの共同研究を機に、グラーフェン研究を新しい研究テーマとして、E-JUSTにグラーフェン研究のセンター・オブ・エクセレンスを立ち上げ、高額の研究補助金を得て、いまやエジプトにおけるグラーフェン研究の第一人者になっている。1プラス1が、2にも3にもなった共同研究の成功例であった。
モネム教授と私
サメー君 と東工大鈴木研メンバー
2014年7月にゴハリー学長が2代目学長に就任し、同年9月に私が第一副学長に就任した。この時期は、アラブの春に端を発したエジプトの国内騒動が収束し、新たにシーシー大統領が就任した時期であり、E-JUSTも新学長の下、E-JUSTを造り上げる気概に燃えていたように思う。そんな中、私とゴハリー学長が企画した最初の大きな対外的イベントは、E-JUST創立5周年を記念するE-JUST主催の国際会議の開催であった。2008年にE-JUST設立記念式典にあわせて国際会議が開催されたので、今回は第2回である。開催時期は2015年5月、第11回の理事会(BOT)につなげて開催することが合意され、私が会議開催のセクレタリージェネラルを務めることになった。
E-JUSTにはまだ会場となるような施設がなかったので、会場はアレキサンドリア図書館の施設を借り受けることになった。この大きな図書館には、様々な参加者数に応じて使える様々な会議場や会議室などの施設がある。会議に使用するいくつかの会議場などに加えてBOT用の会議室、理事控室用のVIPルームなどを予約した。
当初、5月19日に理事会、20日と21日を記念国際会議と計画していた。しかしながら、私のエジプトでの経験から、ほとんどの場合、会議の冒頭にセットされた大臣などの大物のアドレスは予定通り始まらず、その後のスケジュールがめちゃくちゃになってしまうことが危惧された。そこで、大物のスピーチなどを、5月19日の理事会終了後、オープニングセッションとして1時間半程度でやってしまうことを考えた。つまり、会議を3日間の予定として、5月19日夕刻から始めることにしたのである。
こうして準備が整い、5月19日の前日には、BOT出席者を交えた晩餐会が開催された。席上、BOTメンバーであるアレキサンドリア図書館長のセルゲルディン氏から、突然「アレキサンドリア図書館でBOTを開催するのなら、私の館長室でやろう。」という発言があり、皆唖然としたが、有無を言わせず会場が変更になってしまった。VIPルームなどのBOT用の会場準備がすべてパーとなった。しかしながら、前日の変更にもかかわらず、会場準備からお茶のサービスまで館長室職員はそれなりに対応し、まさに終わりよければのエジプトスタイルの典型であった。館長室はたいへんに広く、館長の座席から正面全面ガラス張りの壁面を通して地中海が見え、カイトベイの史跡が望める素晴らしい部屋であった。
こうして、BOTを無事に終了して、夕刻から国際会議のオープニングセッションがスタートした。ウェルカムアドレスの学長、セラゲルディン館長、香川日本大使、アブルナガ理事長がBOTメンバーなので遅れようもない。高等教育大臣が遅れてくることを危惧したが、何とか間に合った。セッションは、BOTメンバーの元早稲田大学総長の白井先生の講演「日本における高等教育の展望」で初日を締めくくった。最後に、私から会場に、「明日は9時から開始するので、くれぐれも遅れないように・・・」としつこいくらいに周知徹底を促すアナウンスをした。
時間厳守は日ごろから口を酸っぱくして喚起していたおかげで、2日目の会議は9時に開始することができた。セッション1はプレナリーセッションで、JICA 小寺理事の講演に始まり、アドリーSTDFディレクター、イギリス・カーディフ大学のロツフィ教授、アブオラビアラブ大学連盟事務総長、インブガJKUAT学長の講演と続いた。その後、セッション2「中東、アフリカにおける高等教育の推進」、セッション3「JICAプロジェクト、JSTプロジェクトに関するシンポジウム」と続き2日目を修了。3日目は、E-JUSTの5年間の研究成果を中心とする講演を2つの会場に分けてパラレルセッションで行った。
こうして、なんとか第2回の国際会議を成功裏に終えることができた。しかしながら、異なる文化の中での交渉事や、教員や職員との共同作業など、それまでにない経験をすることができたが、予想以上の苦労を伴ったことは筆舌に尽くしがたい。ただ、プレナリーに招待した、イギリス・カーディフ大学のロツフィ教授、アブオラビアラブ大学連盟事務総長らと知己を得たことは、E-JUSTの国際化にも、私自身にも大いに役立つこととなった。
その後、2020年が近づくころ、10周年記念の国際会議の企画を考しなくてはと内心思っていたが、5周年の国際会議の苦労を思い出すと、なかなか自分からは言い出せないでいた。そうこうするうちに、コロナ禍が押し寄せ、10周年記念国際会議どころではなくなってしまった。こればかりはコロナのおかげで苦労を回避することができ、今となってはホッとしたというのが本心である。
国際会議オープニングアドレス
国際会議集合写真
アレキ図書館 幻のBOT会場
E-JUSTの国際化の大きな柱の一つに、アラブ・アフリカ各国からの留学生を獲得することを掲げていた。特にアフリカからの留学生の採用には奨学金が不可欠である。2015年初頭からJICA、エジプト政府の奨学金提供を上申したが時間がかかり、これらが実現する前に、エジプトの大手企業ファルコ社が、3名の修士のための奨学金を申し出てくれた。2016年春学期入学を目指して、さっそくファルコ奨学金の応募を開始したところ、9か国32名の応募があり、ニーズが極めて高いことが良く分かった。
また、この時期にJICAの奨学金(修士、博士)が決定したが、募集して選考するのは2016年春学期入学に間に合わないため、JICAが長年支援してきたジョモ・ケニヤッタ農工大学(JKUAT)に優秀な学生の推薦を依頼して進めることになった。こうして、最初の留学生、ファルコ奨学金3名、JICA奨学金2名が選考されたが、実際には、ファルコ奨学生2名、JICA奨学生2名が、2016年春学期に入学した。これに続いて、エジプト計画省の奨学金も決定され、毎年合計10数名の奨学金枠を獲得することができた。これらにより、合計38名がE-JUST大学院を修了し、アフリカ各国に帰国してネットワークの基礎となっている。
次の秋学期の奨学金の募集に当たって、当初は5月末を締め切りとして試験を行い、合格者を決定した。しかしながら、エジプト政府には、学部卒の資格審査、セキュリティ・チェック、そしてVISAの発給に大変な時間がかかるため、秋学期の入学になんとか間に合った学生は約半数しかなく、残りは次の春学期入学に延期せざるを得ないという大問題が発覚した。これを解消するために、応募締め切りを前倒しにしてきたが、最終的に2月中旬の締め切りとせざるを得なかった。これでもなお秋学期に間に合わない場合があり、その都度、様々な手づるを通して手続きの加速を訴えてきた。
2019年8月TICAD7(7th Tokyo International Conference on African Development)が日本で開催され、日本とエジプト、両国が負担するTICAD7奨学金が承認された。この奨学金はE-JUSTの理工系修士課程に入学するアフリカの優秀な学生に与えるもので、3年間で150名分という大変な数であった。E-JUSTが毎年50名の優秀な学生を採用することは、それまでとは比較できないほどの宣伝を行う必要があり、様々なキャンペーンを行うこととなった。
最初に行ったのは、アフリカ各国の駐エジプト大使館を訪問して、奨学金応募への協力を求めることであった。我々は、最初にカメルーン大使館を訪問したが、幸運なことにカメルーン大使がアフリカ各国の大使が集まる会議の議長であった。大使は、近々、アフリカ各国のすべての大使が集まる会議が開催されるので、そこで説明すれば効率的だと言って、説明の機会を与えてくれた。20分間の説明時間を与えられたが、多くの質問があり、結局40分間にわたっての説明となった。次に直接、各国の大学を訪問しキャンペーンを行った。訪問国は、ケニヤ、ウガンダ、ガーナ、エチオピアである。また、E-JUSTキャンパスにおいて、各国大使、大使館員を招いて、アフリカデイを開催し、キャンパスを見てもらったり、在学中のアフリカ留学生との交流を図るなどした。
これらの努力が実り、2020年秋学期入学への応募学生は24か国420名がウェブ上で応募を試みてくれた。この頃、世界中にコロナ禍が始まり、感染が急速に広がりつつあった。エジプト政府は、感染症阻止のため3月19日にカイロ空港閉鎖を宣言した。私は何とかエジプト航空の日本行の最終便に乗ることができて帰国した。しかし、その3日後に発熱しコロナ感染が確認され、即刻入院させられた。症状は中等症で酸素吸入を行い1週間程度で熱も下がり酸素吸入も必要なくなった。しかし、この頃の退院基準はPCR検査が2回続けて陰性になることであった。結局、3日に一度のPCR検査で7回目と8回目が陰性となってやっと退院することができた。実に37日間の入院であった。
この入院中に、E-JUSTから、各専攻が行った入試結果がインターネットで送られてきた。結果は各専攻がおこなったリモートでのインタビュー・口頭試問の結果であり、専攻での合否を判断し、合格者に優先度をつけた報告データである。私の役割は、各専攻のデータを見て、各専攻に公平になるよう、また、なるべく多くの国からの合格者を採用することを考慮して、奨学金の合格者案を作成することである。入院中のベッドでこの作業を行わざるを得なかったが、幸いこの作業は、PCR検査の合間の暇つぶしに大いに役立った。最終的に、教授会において、第一バッチTICAD奨学生45名の採用が承認された。しかしながら、コロナ禍のために辞退する学生、実際に来れない学生があり、2020年秋入学者は27名となり、翌年の春入学に延期した者3名となった。
1st Batch Welcome Reception May 12,2016
2nd batch Students
E-JUSTの学部教育がエジプトの他大学と異なる点は、①少人数教育、②物理、化学、数学の工学基礎の徹底、③独自入試の実施などである。
E-JUSTは学部開校時から、独自入試を実施してきた。エジプトでは、大学入試のための全国共通試験(サナウィ・アンマ)が実施され、この成績で志望大学への入学が決まる。このために教員には入試実施の経験が全くなかった。そのため、一年以上前から、入試全般についてセミナーを開き、入試の実施方法、問題作成のポイントを伝授してきた。初めての入試当日は、試験自体はある程度スムースに実施されたものの、問題に誤記や出題ミスなどのエラーが続出し、さすがに私も切れて、問題作成委員長を怒鳴りつけた。2年目からも大目付として試験を監視したが、エラーもほとんどなくなった。コロナ渦で私が日本に帰国中に実施された入試の後では、終了後、以前怒鳴りつけた教員から「Prof. Suzukiが不在でも滞りなく実施できました。」というメールが来た。「入試がE-JUSTに根付いたな」と実感した。
学部開校以前に大学院の支援をしていくうちに、工学部の大学院生の基礎学力が足りないこと、応用力に欠けることに気が付いた。これを解決するために、学部において日本型の工学基礎を導入することとし、大人数教育では体験できなかった物理実験、化学実験の実験科目を必修科目として導入した。また、数学の演習方法を強化し、「考えさせる数学の教育」の指導を行った。東工大に教員を派遣して学生実験の実施法を学ばせたり、東工大の理学系教員をE-JUSTに派遣して、実地指導も行った。エジプトの高等学校までの教育は、数学ですら暗記物となっており、基礎学力や応用力に難があるのはどうやらそのためであった
工学部のカリキュラムは、全学必修科目、工学部必修科目、学科必修科目、選択科目に分類されている。工学部必修科目を検討する際に、安全に関する講義を導入する必要性を説いた。エルタウイ教授が賛同してくれて、1年生に「安全とリスク管理」というタイトルの講義を立ち上げることになった。以前、日本において、産業における安全性の確保が大きな問題となり、東工大の各学科に安全性に関する講義を立ち上げた経験があった。そこでなるべく早く安全について理解させるのが良かろうと考え、1年時の必修科目とすることを提案した。この講義はエルタウイ教授が担当することになり、私に初回の講義の半分と中間で原子力安全の講義をして欲しいというリクエストがあり、喜んで承諾した。
2017年初めての入試が実施され、晴れて69名の学生が工学部の第一期生として入学してきた。9月28日、工学部学生の記念すべき最初の講義は、我々の「安全とリスク管理」であった。私の講義は、安全の確保は、産業において特殊なものではなく、本来人間が持っている日常気を付けるべき感性と同じであり、日ごろからの気の使いようが産業における安全確保につながる。ということから始め、産業においてはリスクをゼロにすることは不可能であり、安全とリスクを考慮して社会的受容性が得られるリスク血を探る必要があることなど。概念的な講義を行った。一方、エルタウイ教授の講義は、過去の事故事例をたくさん取り挙げ、何人死んだというような事実を紹介する現実的講義がメインであった。
年を経るにつれて、エルタウイ教授の第一回の講義の内容が徐々に、事故事例の解説から、エンジニアの役割や安全を追求する意義、といった内容に変化してきた。初回の講義が、私の講義の内容を補完する内容に変わり、学生と議論もするようになってきた。大変に良い講義になってきたと自負している。この講義は、途中コロナ禍もあってリモートでの講義を余儀なくされることもあったが、2022年の秋学期まで私の講義が続いた。この年の工学部新入生は326名となったため、少人数クラスの教育をモットーとしているE-JUSTは、これを5クラスに分けて講義を実施している。必然的に同じ講義を5回やらざるを得なくなったのには閉口したというのが本音である。
E-JUST学部最初の講義_1
E-JUST学部最初の講義_2
2017年学部を開校するにあたって、学部教育のために多くの教員が採用された。工学部の教員はそれまで大学院教育を通して、日本型教育について議論してきたが、心を新たにして学部教育にも立ち向かってほしかった。新たに採用された教員についてはもちろん、E-JUSTの何たるかを周知し、日本型教育の実践のためにも、教員の研修をする必要があった。
1900年代終わりの頃、文部科学省から「教員が授業内容・方法を改善し向上させるための組織的な取組」を努力義務とすべしとの通達があった。その意味するところは、それまで各教員の授業が全く教員個人に任されており、ブラックボックス状態であった授業をオープンにして、授業内容・方法を改善、向上させよう、ということである。当時、東工大工学部の教育委員長であった私は、さっそくこれを実践すべく、工学部教員の第一回FD研修会を企画した。研修会は、各専攻から派遣された約50名を対象として、一泊二日で実施した。内容は、授業方法に造詣の深い教育系の先生による講義などに加え、7~8人を一グループとして、講義の方法などのテーマについて議論を行い、翌日に、討議内容を取りまとめて各グループが発表した。その後、東工大ではこの研修会が定着し、全学の教員を対象に実施されるようになった。この経験を活かし、学部開校前にE-JUSTで第一回FD研修会を実施することにした。
研修会を実施するために、まずFD研修実施委員会を立ち上げ、委員長にProf. Mohsenを、またメンバーに各分野から5名を選任した。私はスーパーバイザーという形で参加している。2015年から、私とゴハリー学長は、アフリカの大学の教育内容をそろえて、EUの大学が実施してきたように、アフリカ域内でも学生のモビリティを高めることを目的にした「Tuning Africa」プログラムに参加していた。ちょうどそのころ、主催大学であるスペインのDeusto大学が、教育方法に関するオンライン講座を開設しており、プログラム参加大学はこれに参加することが推奨されていた。そこで、実施委員会メンバーにはこの講座に出席してもらい、そこで得た知識を中心にグループ討議を行うことにした。Mohsen委員長には、この講座の総論についての講義「Outcomes Based Education and Continuous Quality Improvement」をしてもらうことにした。
ある時、日本大使から、シーシー大統領が「日本人は歩くコーランだ」と言ったという話を聞いた。なんで歩くコーランなんだろうというちょっとした好奇心もあって、アマゾンのキンドルでコーランの日本語訳上下2巻をダウンロードして、暇に任せて読んでみた。おそらく、日本人には道徳観が宗教的ではなく、自然に身についていることが驚きであったのではないだろうか。加えて、いわゆる「聖戦」といわれている「ジハード」に、世界は大いなる誤解をしていることに気が付いた。「ジハード」は、イスラム教の最も重要な教えの一つで、「神様のために良いことを奮闘努力する」という意味である。「聖戦」もジハードの一部だが、CNNがジハードをHolly Warと訳したのが世界の誤解の発端となってしまったようだ。
私は常々、日本人が行ってきた科学技術の進歩は、技術の改善やイノベーションに対する切磋琢磨する姿勢や、より良いものを目指す向上心にあると理解し、日本でもエジプトでも、学生にはこの精神を常に忘れるなと指導してきた。「神様のために」ということを除けば、まさに「ジハード」の教えは、この精神に相通じるものであることに気が付いた。この考えについては、ゴハリー学長と随分と議論した結果、私の理解に間違いがないことを確認した。さて、E-JUST・FD研修会である。当日は、学長から全員出席の命令が出て、全教員が集まった。冒頭に私の講義、Prof. Mohsenの講義、そして、前述したグループ討論の全日プログラムである。私の講義では、FD研修の目的・意義に始まり、日本人が科学技術立国として大きな発展をしたのは、「たゆまざる切磋琢磨、そして常により良いものを目指す向上心」にある、と説き、そしてこの精神がイスラムの重要な教えの一つ「ジハード(アラビア語:جهاد)」の精神と同じであると説いた。そして、「Remember جهاد once more」、「Reconsider جهاد جهاد in yourself」,『Practice جهاد more!』とパワーポイントに大書して読み上げ、私の講義を締めくくった。出席者からは共感が得られ、何人かの教員からは、講義パワーポイントのコピーをリクエストされた。その後、FD研修会の実施主体はリベラルアーツ・カルチャーセンターへと移行され、研修会は続いている。
Prof. MohsenのFD研修
FD研修の様子
「アフリカのSTIのためのTICAD7奨学金」がE-JUSTの国際化にもたらした効果は大きかった。2019年から毎年50人の修士学生を採用するのは大変なことであった。しかしながら、以前に述べた様々な広報が功を奏し、E-JUSTの名前も定着し、第1バッチこそ400人程度の応募であったが、第2バッチは約3700人、第3バッチは約6000人にも上るアフリカ留学生がこの奨学金に興味を示し応募してきた。こうして、第2バッチは11か国53名、第3バッチは11か国43名の優秀な学生を採用することができた。この間エジプト政府からは、南スーダン、フランス語圏の学生を採用して欲しいとのリクエストがあり、南スーダン11名、フランス語圏2名は採用することができた。
アフリカのフランス語を公用語としている国は多く存在しているにしては、この数字は極めて少ないと言わざるを得ない。E-JUSTの入試では、IELTSやTOEFLなどの英語能力検定の試験結果提出を義務付けている。フランス語圏から採用できないのはもちろん、英語が公用語でないことにもよるが、最も大きな理由は、貧しい国の学生にとっては、これらの英語試験の受験費が高額なため、受験できないということが大きな原因であった。ちなみにブリティッシュ・カウンシルのIELTSは、アフリカ各国内で一律220ユーロである。ある程度高所得の国の学生でない限り、220ユーロの拠出は難しいだろう。
何とかフランス語圏の学生の英語能力を図るすべがないか考えた。アレキサンドリア市内にセンゴール大学というフランス語圏の学生を対象とする修士課程の大学院大学がある。E-JUSTの募集が始まる前に、この大学に、どのようにしてアフリカからの留学生を採用しているかを聞きに行ったことがある。この大学は、フランスを始めとするフランス語圏が出資して運営しており、入試は各国に駐在するフランス大使館が実施して送り込んでくるということであった。以来様々な交流があったので、英語力を測定する方法はないか聞いてみたが、残念ながら、英語を必要としないセンゴール大では解決策は何も得られなかった。
AUFというフランス語圏の大学を束ねる組織があり、幸いなことにエジプトにも事務所がある。エジプトもフランス語圏の国(Francophonie)の一つであることを始めて知った。最初、AUFエジプト事務所に相談して、なんとか英語力の検定に力になってくれないかと相談をしたが解決策は得られなかった。しかし、これを機会に、E-JUSTもAUF中東地域のメンバー大学になっては如何かというオファーをいただいた。すぐにレバノンで開催されたAUF中東地域の学長会議(オンライン会議)に招待され、E-JUSTの説明をし、メンバーとなることが承認された。AUFでも英語能力検定には力を得られなかった。しかし、TICAD7奨学金の広報をしてくれるというので、フランス語のパンフレットを用意して協力を求めた。また、AUFの博士課程学生及びポスドクを対象にした独自奨学金(South-South Mobility Program)の学生の受け入れ大学として登録されるに至った。おかげで、2022年度にはベナンから初の学生が、2023年度にはカメルーンとモロッコの学生2名が、このプログラムに応募し、E-JUSTで研究をする機会が与えられた。
前述したセンゴール大学とも、いろいろと交流を持つようになってきた。センゴール大学は、毎年、夏にフランス語圏各国の若い外交官を対象とする研修会を開催している。2022年度はこの研修生80名がE-JUSTを訪問し、E-JUSTの紹介、E-JUST教員との様々なディスカッションをとおして、E-JUSTとTICAD7奨学金の名を広くフランス語圏に広めることができた。この研修会の修了式にフランス語圏各国大使とともに招待されたが、すべてフランス語なので全くわからない。同時通訳システムがあるのでホッとしたものの、フランス語-アラビア語の通訳で全く役に立たなかった。それでも、研修生に終了証を手渡す役目に突然指名され戸惑ったが、見よう見まねでなんとか役割を果たすことができた。2023年度には35か国95名の研修生がE-JUSTを訪問した。
センゴール大学のキャンパスはアレキサンドリア市内のビルをキャンパスとしているが、現在新キャンパスをE-JUSTキャンパスの目の前に建設中である。近々移転してくる計画となっており、交流が一層期待できる。前述のAUF奨学生も今後増えることが期待されており、これらフランス語圏の各組織と、より一層の協力関係が築けると期待しているところである。
センゴール大学研修生のE-JUST訪問_1
センゴール大学研修生のE-JUST訪問_2
2016年の暮れ頃だったか、カイロの日本大使館から、何かサイエンスに関連するイベントができないかとの打診があった。私は迷わず、サイエンスカフェをやろうと提案して、大使館も後援してくれることになった。もちろん主催はE-JUSTである。そもそも、サイエンスカフェは、20世紀の終わりころ、イギリス、フランスで始まったのが起源とされており、その目的は、カフェのような自由な雰囲気の中でサイエンスを語り合う場を提供するイベントのことである。東工大でも、2007年頃に、平易な言葉で科学を語り、科学を専門としない学生や一般人を対象としたサイエンスカフェを開催してきた経験もあった。しかし、エジプトでは恐らく初めての試みであったに違いない。
2017年秋には学部が開校する予定であり、E-JUSTをアピールする上でもタイムリーな企画であった。そのため、まずは高校生をターゲットとすることとした。時期は2017年の3月頃として企画を進めた。まずは、E-JUST教員の協力を得るために、教員を集めてサイエンスカフェの何たるかを説明することからスタートした。シャラフ准教授とモナ教授が名乗りを上げてくれた。こうして、記念すべきE-JUST第一回サイエンスカフェが開催されることとなった。当時会場となる施設がE-JUSTにはなかったので、E-JUSTメインキャンパスの隣にすでに完成していたコンベンションセンター、シリコン・ワハをメイン会場として借上げた。PRスタッフの協力により、アレキサンドリア地区の高校にアナウンスされ、約60名の高校生が参加した。内容は、私から、サイエンスが、如何に楽しいかを伝える話、シャラフ准教授からはE-JUSTとそのアクティビティの紹介、モナ教授からは、専門の環境問題についての話、その後は、各グループに分かれて、大学院生をチューターとしてのディスカッション、そして、E-JUST研究室ツアーと盛りだくさんの内容であったが、高校生は満足した様子で、時間いっぱいいろいろな質問をしてくれた。
2018年に第2回、2019年には第3回が開催され、在エジプト日本大使も参加してくれるまでになった。また、JICAのメンバーが、様々な日本文化、折り紙やお習字などを伝えるコーナーも設置して、彩を添えてくれるようになった。エジプトメディアも取材に訪れるようになり、テレビでも紹介されるようになり、参加者も、2~300人へと膨れ上がった。第3回にはNHKカイロ支局からも取材に来てくれた。一週間ほどたったころ、日本の友人から何通もメールを受け取った。メールは、「NHKのお昼のニュースを見ていたら、エジプトからのニュースにとつぜん鈴木が現れてびっくりした。」というものであった。
このような取材がきっかけとなったのか、あちこちから様々な依頼が舞い込んだ。アレキサンドリアのある高校から、サイエンスフェアを開催するので、学生の研究発表の審査員を派遣して欲しいというリクエストがあった。これには、E-JUSTの教員4名とともに参加した。この高校からE-JUSTに何人も入学するようになった。また、小学生のロボットコンテスト(ロボコン)にも招待されて祝辞を述べたり講演したりもした。その他、STEM高校の研究発表会、数学オリンピックや物理オリンピックのエジプト決勝大会など、いろいろなイベントの来賓として呼ばれるようになった。少しでも、E-JUST希望者にこれら理科が得意な子供が来てくれればという思いで、都合が許す限り参加した。自分自身、結構楽しく参加した。
しかしながら、2019年終わりころから、コロナ感染が世界的に報じられるようになり、エジプトも例外ではなかった。3月は、サイエンスカフェどころの騒ぎではなく、ついに、JICAから帰国命令が出た。忘れもしない、エジプト政府のカイロ空港閉鎖、3月19日のカイロ発日本行の最終便に乗ることができて、あわただしく帰国した。帰国2日目に発熱し、PCR検査を受診、陽性と分かり即入院となった。当然この年のサイエンスカフェは中止となった。その後、E-JUSTもオンライン講義などが始まり、2021年には、第4回サイエンスカフェもオンラインで行った。COVID-19をテーマにして、生物工学のモグウッド教授が講演や実験をおこなった。この時私は日本からの参加となり、私の講演は、用心のためパソコンに向かってVTRを作成して、当日これを流しての参加であった。2022年の第5回サイエンスカフェは対面で実施したかったが、もう一度オンラインで実施することとなり、この年の秋にエジプトでの開催が予定されているCOP27を盛り上げようと、SDGsをテーマにした。
今後も、サイエンスカフェが継続的に実施され、エジプトにサイエンスが好きな子供たちが増え、何人かでもE-JUSTに来てくれることを期待している。最後に、サイエンスカフェを最初から支援いただいたカイロの日本大使館に、この場を借りてお礼の言葉を述べたい。ありがとうございました。
第一回サイエンスカフェ
香川大使のお話(第2回)
様々なブースと参加者(第3回)
9年間、副学長という立場でいたおかげで、様々な方々と面会する機会があった。もちろん、ほとんどのエジプトの有名大学の学長とは面談した。しかしながら、この年になると名前を覚えるのが少々きつく、かろうじて顔は何となく覚えているものの、名前は全く思い出せない。しかし、先方にとってみれば、日本人は珍しく、ましてスズキという名前は覚えやすいらしく、会うとみなさん名前を呼んでくれた。大臣や県知事など主だった方とも面談した。2016年1月、日本の安倍首相がエジプトを訪問した。JICAのおかげで、首相に同行した日本-エジプト経済委員会のメンバーに加えていただき、安倍首相に面会する機会を得た。さらに、大統領府でシーシー大統領に面会する機会を得た。安倍首相と、シーシー大統領と私が写ったスリーショットは、私にとって最高のお宝写真である。
我々の年代の日本人は、エジプトで活躍する日本人といえば、吉村作治先生を思い起こす。理事会に来られた早稲田大学の白井元総長に付き合って、サッカラのピラミッドを訪問し、早稲田の発掘隊の視察をした後に、白井先生に吉村先生を紹介いただいた。その後、大使館の夕食会で何度かお会いすることができた。想像通りの人柄で、、お酒を飲みながら様々なことについて歓談することができた。このほか、在エジプト日本大使からは、たくさんの方々と会う機会を与えていただいた。その一人にラシュワンさんがいる。1984年のロス五輪で、男子無差別では決勝まで進み、山下が負傷していた右足を攻めずに敗れ、銀メダルに終わった、あのラシュワンである。大変に大きな人で、E-JUSTに柔道部をつくるときには、手伝ってもらう約束をした。その後彼は、何回かE-JUSTを訪問してくれたが、柔道部はまだできていない。彼に、「オリンピックでは、なぜ、山下の右足を攻めなかったの?」と聞いたところ、「本当に強い山下に勝ちたかった。」と、当時を思い出すように語ってくれた。
副学長に就任した早い時期に、材料科学専攻の先生方から、エジプトの国立中央冶金研究所(CMRDI)と交流を持ちたいので、カイロのCMRDIに一緒に行ってほしいと頼まれた。朝、モネム教授以下4名の教員とともにアレキサンドリアを出発した。研究所は、カイロの南のはずれで道も悪く、たいへんに遠かったのを覚えている。研究所では、所長はじめたくさんの方々から歓待を受けた。Dr. バハア・ザグルールと会ったのはこの時が初めて出会った。彼は私の経歴を調べていたらしく、Dr.バハアはいきなり流暢な日本語で「私、あなたの先輩よ!」と言ってきた。聞けば、東工大に修士・博士と留学して1977年に金属工学の博士号を取得したという。私の学位は1978年の学位なので、確かに彼は先輩だ。彼は、CMRDIの所長を長年務め、現在も研究所の名誉教授としてにらみを利かせている。彼はエジプトの工学会の重鎮で、E-JUSTの設立準備委員会にも名を連ねていたそうだ。ここから、彼との付き合いが始まった。その後E-JUSTはCMRDIとは協力協定を締結した。
Dr. バハアは年も近かったこともあって大変に親しくなり、彼のリクエストにはいろいろと協力したし彼の家にも招待された。彼には、大学生のお嬢さんがおり、東工大に留学させたいので良い先生を紹介して欲しいと頼まれた。彼女はカイロ大学工学部で優秀な成績で、卒業間近であった。専門と希望を聞いて、私の知己ある教授を紹介した。試験にも無事合格し東工大生となった。修士課程を順調に終え博士課程の時は、日本もコロナ禍で大変であったようだが、めでたく2023年9月に博士課程を修了し学位を取得した。Dr.バハアは修了式に出席するために来日し、大変な親ばかぶりを見せてくれた。Dr. バハアは、エジプトのCMRDIの所長としての功績に加え、日本留学生会の会長、また、AOTS(海外産業人材育成協会)のエジプト同窓会の会長を務め、日本・エジプト間の経済・科学技術の交流に寄与したとして、2017年旭日中綬章が贈られた。この伝達式が日本大使館で行われ、私も招待者の一員として出席した。この日には、著名なソプラノ歌手、中丸三千繪さんがエジプトに来られていて、伝達式後のミニコンサートで、いろいろな歌を歌ってくれた。クラシック音楽ファンの私としては、Dr.バハアの叙勲よりも、はるかに印象深く残っている。彼女と撮ったツーショットもお宝写真の一枚である。
大使館にて
一番大きな方がラシュワンさん
旭日中綬章伝達式
香川大使とDr.バハア
ソプラノ歌手
中丸三千繪さんと
2018年のことである。エジプトの国民的人気テレビ番組「モナ・エルシャズリ・ショウ」でE-JUSTが取り挙げられ、2時間番組が作られることになった。モナ・エルシャズリはエジプト人の美人キャスターで、彼女と出演者とのトークがメインとなる。番組の収録は、オクトーバー6市郊外のテレビスタジオで夜遅くに行われた。このために、E-JUSTの職員・学生のほとんどがバスを連ねて現場に行った。番組の前半部分では、高等教育大臣と香川日本大使とモナ・エルシャズリのトーク、後半は、ゴハリー学長、私と後藤副学長(当時)とモナ・エルシャズリのトークである。いまだに、この時の部分的な動画がYouTubeにアップされており、見ることができる。https://www.youtube.com/watch?v=gFd6o8qrDNQ
私は、大学時代から、東工大オーケストラでトランペットを吹いていた。卒業後も仲間が集まってオーケストラを結成し、年に2回の演奏会を開催している。たまの帰国時にもこれに参加できるよう、またヒマつぶしのためにもと、楽器をエジプトに持参して時折練習をしていた。第二キャンパスができて間もないころ、JICAスタッフが声をかけて、皆で日本の歌を歌う会が結成された。ついでに楽器ができる人を集めて伴奏をすることになった。私にも声がかかって伴奏バンドのメンバーになった。当初のメンバーは私のトランペット、ジンバブエからの留学生クダ君のギター、それにITテクニシャン、モタズ君のウードの3人であった。ウードはエジプトの民族弦楽器である。モタズ君はこの楽器のなかなかの名手で皆を驚かせた。曲は、SMAPの「世界に一つだけの花」である。昼頃に何回か集まって練習をした。歌のメンバーは、エジプト人スタッフもたくさん加わって、それなりの合唱団になった。この成果を、E-JUSTの教職員、学生に披露するチャンスにも恵まれた。その後は、卒業式でも演奏する機会があった。この頃には、お世辞にもうまいとは言い難いマーディ教授のバイオリンも加わった。さらに、このメンバーで、モナ・エルシャズリ・ショウでも歌と演奏を披露することになった。その時の模様もYouTubeにアップされている。私は危うく舞台上でトランペットを吹かされそうになったのを何とか回避し、あまり目立たないように他のメンバーと並んで演奏した。https://www.youtube.com/watch?v=Do6IpRToc9k
モナ・エルシャズリ・ショウの視聴率は40%以上もあると聞いていたが。このTVショウが放映された後から、私は大変な有名人になったようだ。いつも行きつけのスーパーマーケットでは、肉売り場の親爺、チーズ売り場の親爺が、プロフェッサー・スズキと呼んで挨拶して握手を求めてくるようになったし、世間話をするようになった。アレキサンドリアでは日本人は珍しく、変な日本人が買い物に来るがいったい何者なんだろうと疑問であったに違いない。チーズ売り場の親爺とは特に親しくなり、我が息子をE-JUSTに入れたいと言ってE-JUSTの情報を求められた。こんな話をしながら、売り場に並ぶほとんど全部のチーズを試食に供してくれた。おかげで、自宅ではおいしいチーズでワインをエンジョイすることができた。
カイロでも有名人になった。カイロの日本人の定宿であるフラメンコホテルの向かいに、カイロに行くたびに食事するタイ料理のレストランがある。モナ・エルシャズリ・ショウの放映後しばらくして立ち寄った際、ここのマスターからもTVショウを見たと声をかけられた。おまけに私が知らない間に、マスターが店内のいくつかあるTVモニターに、YouTubeにアップされていたこのときのビデオを流した。お客からは握手を求められるし、とんだ有名人になってしまった。改めて視聴率40%超を実感した。
「世界に一つだけの花」練習風景 合唱団
「世界に一つだけの花」練習風景 バンド
「モナ・エルシャズリ・ショウ」収録風景
エジプトでは、近年高等教育の無償化及び拡充政策により大学における教員一人あたりの学生数が増加しており、教育の質の低下が顕在化している。特に工学部においては実験・実習機材の不足から座学による講義形式の教育が中心であり、実践的・先端的な教育を実現している大学は限定的である。このような状況で、日本型の少人数教育を行う大学を新設するというのがE-JUST設立プロジェクトである。また、この教育の質の低下に加え、教員の質の低さおよび研究成果が極めて少ないことも指摘されていた。これは、教員の給与水準が低く、そのため企業のコンサルタント業務を請け負うことに終始し、研究を実施する時間がないことが主たる原因とされていた。そのため、E-JUSTは教員の給与水準を高く設定し、研究に従事することを義務付けた。E-JUST教員の研究業績素晴らしく、2019年に教員一人あたりの論文数はエジプト1位になった。しかしながら、エジプトの産業界の状況を考慮すると、事はそう簡単ではなかった。
エジプトにおける工学系大学院の修士課程、博士課程は、研究者への道であって、博士卒はまだしも、修士卒であっても、企業が採用することは極めて珍しい。大部分の大学院修了者は、大学あるいは、国の研究所に就職し、研究に従事することになる。一方、産業界は学部卒のエンジニアを主に採用する。必然的に、企業の研究開発能力はほとんど無いに等しく、大学と企業との相補的共同研究は成り立たず、産学連携と言えば、一方的に企業から大学へのコンサルタント業務が依頼されるだけとなっているのが現状である。大学教員は、企業からのコンサルタント業務を請け負うが、基本的に、企業が抱える問題の質は低く、せいぜい修士論文のテーマになる程度のものである。これを解決したとしても、国際的な工学分野の研究論文として出版されるほどの内容ではない。必然的に、大学で国際水準の研究を行おうとすれば、二足の草鞋を履かざるを得ないが、容易ではないことは想像に難くない。E-JUST教員が企業とも付き合いつつ、エジプト1の研究業績を出しているのは、尊敬に値する。
問題の根底にあるのは、企業が研究開発能力を持っていないことにある。これを解決するためには、研究開発能力を有する人材を適切に育て、企業がその人材を確保していくことであろう。このために、高等教育省主催のフォーラムなどに招待された講演では、企業の体質改善を強く提案してきた。人材育成については、日本のように、企業がエンジニアを大学の博士課程に派遣する社会人博士のようなシステムを提案した。当初より社会人博士を育てるのは無理なので、修士課程に派遣する社会人修士を提案してきた。企業が自社のエンジニアを大学に派遣し、大学教員の指導の下、企業が抱える課題を修士研究として実施、その成果をもって企業に戻る、というシステムである。こうすれば、企業は、エンジニアの質を向上させ、研究開発能力を持ち、企業が発展することになる、というのが私の主張である。
しかしながら、E-JUSTに社会人修士を派遣してきた企業は、私が知る限り、エジプトの大企業一社のみである。やはり、企業に籍を置いたまま、2年間大学に派遣する余裕がある企業は数少ないし、企業がそうまでして、人材を育てるという意識が欠けているということのようだ。一方で、企業としても、進歩する科学技術の情報を得ることの必要性は感じているのが見て取れる。このため大学に期待しているのが、時流に合った課題のディプロマコースである。つまり、企業は、2年間社員を大学に派遣する余裕はないが、1年間のディプロマコースには何とか派遣することができる、ということだろう。E-JUSTもいくつものディプロマコースを設置し、社会人教育に門戸を開いている。ディプロマコースとは、日本人にはなじみが薄いが、簡単に言うと、一般の大学院修士課程から、修士研究を除いた講義だけの1年間コースのようなものであり、エジプトでは一般的である。
もう一つ大きな問題点がある。エジプトでは、大学で工学を学んだ学生は、エンジニア・シンジケートからエンジニアの称号を受ける。このエンジニアのステータスがホワイトカラーとして高く評価されすぎていて、「あがり」のステータスになっていることである。4年間の理学教育を受けた学生とは一線を画し、優位な教育として工学教育は5年間となっている。にもかかわらず、就職できないエンジニアも多くいて、タクシー運転手をしているものも多いという。そうであるならば、ホワイトカラーに固執せず、ブルーカラーのテクニシャンの仕事の方がまだましではないかと、エジプト人と議論した。だが、エンジニアはホワイトカラーとしての誇りがあって、タクシー運転手をしてエンジニアの職の機会を待つのだそうだ。きわめて不可解である。
こうして、エジプトの企業、特に製造業は、エンジニアを採用し、外国から輸入した機械なりプラントなりを運転・保守をすることによって成り立っている。ここでエンジニアに課せられる課題は、せいぜいインプルーブメント(改良)であって、イノベーション(革新)はない。新しい革新的な機械・プラントが必要になれば外国から買うだけで、このままでは革新的な機械・プラントを自ら作り出すことは永久にできないであろう。植民地であったエジプトは独立を果たしたものの、旧宗主国が作ったこのような産業構造になれきってしまっている。旧宗主国は、独立した後にも損をしないシステムを造ったのであろう。長い間、エジプトを見てきて、この国が抱える問題の本質が垣間見えた気がした。
アボ・イスマイル先生と初めて会ったのは、プロジェクトが始まる前、2007年にエジプトのミッションが、東工大を訪問した時である。アボ先生は、東工大で学位を取得し、当時はアシュート大学の教授であった。彼は、東工大の学生時代を懐かしみ、当時研究室の後継者がいたらぜひ会いたいので探してほしいと頼まれた。指導教授の名前から、アボさんが学生時代に助教だった下河辺先生に行き着いた。下河辺先生は研究担当副学長となっており、アボさんを紹介した。下河辺先生からは、当時のアボさんとのエピソードを聞いたが、微妙なのでここでは触れない。アボ先生は、当時を思い出して感慨に浸っていた。
E-JUSTプロジェクトがスタートして、アボ先生は初代の第一副学長(教育担当)に就任した。アシュート大学を母校にする何人かの教授がE-JUSTの教授となっていた。当時、私が担当していたエネルギー資源専攻のハムザ教授もその一人だ。ハムザ教授は専門分野も近いことから、いろいろと相談された。親しくなるにつれて、冗談を言い合ったり、愚痴を聞く機会も多くなった。「ちょっと話を聞いてくれないか?」などと言ってくるが、さしずめ日本であれば、一杯飲みながらということになるのだが、エジプトではそうもいかない。アレキサンドリア一のスイーツの店に連れていかれ、スイーツとお茶で愚痴を聞くのは、なかなかつらいものがあった。
ハムザ教授にとって、アシュートの先輩教授であるアボ先生には頭が上がらず、そんな時に、彼は私をうまく使った。ある時、大学院入試が修了した後にもかかわらず、「アボ先生からエネルギー専攻に学生を一人採用してくれ」と頼まれたが、なんとかしてくれないか、と言ってきた。ハムザ教授もこれはルール違反だと思っているが、アボ教授に言われるとノーと言えない間柄だ。そこで私の出番になったのだが、アボ教授に面会し、ルール違反である旨説明し、次の機会に受験させるよう説得した。ハムザ教授からは、スイーツをおごってもらった。
その後、アラブの春があり、E-JUST内でも学生運動が起こったり、ハイリー学長が辞任するなど、たいへんな時期を経験した。アボ・イスマイル第一副学長は身を擦り減らしたに違いない。2014年に新体制になったころ、アボ先生は体調を崩し、しばらく病気療養していたが、ついに帰らぬ人となった。
この時がエジプトの葬儀に出席した最初であった。葬式なのかお通夜なのかよく分からなかったが、夕刻5時から開かれると聞いて、当時の吉浦プロジェクト・リーダーと葬儀場に行った。葬儀場は、教会とは離れたところにあって、大きなテント張りのような建物で、入り口はオープンで、最奥にはシンプルな祭壇のようなものがあり、そちらに向かって椅子がたくさん並べられている。おそらく200席ぐらいはあった。祭壇前では聖職者が2人、こちら向きに座って、コーランと思われるお経を朗々と唱えている。我々は定時に行ったが、奥に数人がいるのみでだれもいない。いったいどうすればよいのか全く分からず、とりあえず、入り口近くの端に座って待っていた。20~30分して、少しずつ参会者が現れ、皆が、端に座っている我々に握手を求め、何か言って奥の方に行って着席する。おかしいなと思いながらもしばらくそうしていた。遅ればせながらE-JUSTの知り合いがやっと来て、事の真相がやっとわかった。この端の席には、通常は親戚筋が座って、参会者を出迎えるのが通例なのだそうだ。皆が握手を求めるのも納得できた。参会者の皆さんにとっては、何故、アボ・イスマイル教授の親戚に日本人がいるのか不思議だったに違いない。後は難しいことは何もなかった。ただ会場でコーランを聞いて、供されるお茶を飲んでしばらく過ごせば良い。きっと、日本のお通夜のようなものなのだろう。2017年に、第2キャンパスが完成した折に、新築なった講堂が、アボ・イスマイル先生の功績をたたえて、アボ・イスマイル・シアターと命名された。第2代の第一副学長の私としては、ちょっとうらやましい。
このお通夜のようなものには何回か出席したが、一度だけ、お墓に埋葬する埋葬式にも出席した。運転手のモハメッドが、E-JUSTの誰かがなくなったのでセレモニーに行こうと言って連れて行ってくれたのだが、車はどんどんと寂しい方向に向かって走って行く。変だと思っていたら、行く先は墓地だった。結構な人が集まって、コーランを聞いている。私は一番後ろに立っていたが、突然、全員がそろって後ろにいる私の方を向いた。何事かとびっくりしたが、あとでモハメッドに聞いたところ、メッカの方向に向かって祈りをささげたということが分かった。その後、埋葬をして会はお開きであった。
アボ・イスマイル副学長(左)とハイリー学長(右)
ハムザ教授、市村教授と私
アボ・イスマイル・シアターにて「私の送別会」
2015年春、ブリティッシュカウンシルの面々がE-JUSTを視察に訪れた。目的はUKの大学との連携云々とのことであったが、「エジプトで日本人が何をしている?」 という感じの視察調査をしているようで、あまり良い印象ではなかった。後でゴハリー学長に印象を聞かれ、あまり良い印象を持たなかったというと、彼は、「UKはいつも上から目線なんだよね。」と、私と同じ印象であったようだ。その後数年何事もなかったが、学部がスタートした後、ブリティッシュカウンシルからE-JUSTと連携したいという問いかけがあり、協議を重ねた結果、ブリティッシュカウンシルが所掌する英語試験IELTSをE-JUSTで実施できるようになった。この件一つを取ってみても、E-JUSTを支援する日本は、地理的に遠く、代わりに、イギリスを始めとするヨーロッパ(EU)が極めて近く、歴史的かかわりも含めて大きな影響力があることを痛感した。E-JUSTの将来を考えても、EUとの関係は重要であり、E-JUST教員にはECのERASUMUS+ファンドなどにも応募し、積極的に活用していくべきであると説いた。
EU各国は、ヨーロッパ教育圏の設立を目指し、ボローニャ憲章に始まるボローニャ・プロセスを施行して20数年が経過した。この間、学位の基準化、単位の互換、教育の質のチューニングなど、かなりの成果が得られてきたのは周知のことであろう。スペインのデュースト大学とオランダのグローニンゲン大学は共同で「チューニング・アカデミー」と称する研究・教育センターを構成し、ヨーロッパの経験を生かして、EU外の様々な国、地域の高等教育のチューニングをサポートしている。このセンターがECのファンドを獲得して、アフリカ各国の高等教育のチューニングを支援する目的で、「チューニング・アフリカ」プロジェクトを立ち上げた。公募の結果、アフリカの42か国、E-JUSTを含む105大学から123名の参加者が採択された。E-JUSTからはゴハリー学長と私が参加することになった。プロジェクトは2015年から3年間、毎年2回の全体会議がアフリカの各国持ち回りで開催された。
全体会議においては、参加者は、まず、各国の学位取得年限、単位制度などを公表し、ヨーロッパの単位互換システムを学んだ。また、専門分野ごとに分かれて、その分野における統一された内容のカリキュラムを作る演習も行った。私は、機械工学分野に参加し10名ほどのグループで作業を行った。全体会議では各大学に宿題のタスクが出され、E-JUSTの教員とこの課題を共有しながら、カリキュラムのE-JUST案を作り提案した。得られた知識をE-JUST教員と共有することができ、彼らにとっても大いに有益であったと思う。このような作業を通じて、アフリカの機械工学グループの仲間とは大変に親しくなり、その後、各大学からE-JUSTに留学生を送ってくれる大きな力にもなった。おかげで、アフリカの主だった国々、エチオピア、ガーナ、タンザニア、南アフリカの会議に参加することができた。最終回のとりまとめの会議はEUの本拠、ブリュッセルのECの会議場で行われた。なんとも得難い経験であった。
ARELEN(Arab Europe Leadership Network)は、エジプト人で、イギリスのカーディフ大学(当時)のロツフィ教授がアラブ大学協会(AArU)と協働してEUのファンドを得て実施してきたプロジェクトである。目的は、アラブ各国の高等教育における人材育成、質の高い教育、国際協力などを推進するネットワークを構築することである。ボードは各国の大学の学長15名ほどで構成され、ロツフィ教授の推薦でゴハリー学長もメンバーとなった。ARELENは、毎年、様々なイベントを主催し、高等教育における様々な啓蒙活動を行ってきた。例えば、2015年のE-JUSTの国際会議の際には、東工大の田中教授を招待し、「アラブ高等教育と知的財産権の在り方」についてのサテライト会議を開催した。その他、私もARELENのイベントにはずいぶんと参加した。また、2度ほど、ゴハリー学長の代理として、ヨルダンのAArUの本部で開催されたボード会議にも参加し、E-JUSTが如何にエジプトに貢献しているかについて講演したこともあった。こうして、ロツフィ教授とは随分と親しくなっていった。
ロツフィ教授はエジプトからの頭脳流出組の一人である。母国エジプトとアラブに対する思いは大変なものがあり、EUからエジプト・アラブを支援してきた功績は大変に大きい。また、彼はE-JUSTを高く評価し、E-JUSTを大学大憲章の署名大学に推挙してくれた功績もある。その後、彼は、コベントリー大学に移ったが、E-JUSTとの研究交流促進にも貢献してくれた。2021年には、ロツフィ教授は、BUE(British University in Egypt)の学長に就任し、エジプトへの帰国を果たした。故郷に錦を飾ったと言ってよいだろう。私は、この学長就任式に招待されたのであるが、招待状には、「Dress code : Formal」と明記されていた。イギリスの大学を踏襲しているBUEでは、きっとUKの正当スタイルを守っているのだろうと躊躇した。そのため、エジプトでタキシードを誂えるのもいかがなものかと思い、日本へ帰国のため出席できずと返信した。間の悪いことに、就任式の一週間前に高等教育省主催のフォーラム会場で、ロツフィ教授にばったり会ってしまった。「なぜ出席しない?」と問われ、「明日日本に帰るから」と噓をついた。後で見た就任式のVTRでは、フォーマルなどではなく、客は通常のボウタイにスーツ姿であった。エジプトのフォーマルはいいかげんで良いようだ。後の祭りであった。
チューニング・アフリカ:
機械工学分野の仲間たち
チューニング・アフリカ
EC会議場前にて
ARELENボード会議:
ロツフィ教授(前列中央)
於:AArU本部(アンマン)
昨今、イスラエルとパレスチナの紛争が極めて悪い状況になってきた。テレビのニュースを見るたびに、パレスチナの人々の悲哀を感じざるを得ない。エジプトに住んでいると、日本の報道で想像していたパレスチナが全く違って見えてくる。2018年の夏ごろだったと思う。パレスチナのアレキサンドリア総領事館から領事一行がE-JUSTを訪問し、教育問題についていろいろと歓談した。ガザは難民キャンプばかりと思っていた私のパレスチナ像が、全く異なるものであったのに驚いた。というのも、学校がきちんと整備されているし、高等教育では、ガザにはアル・アクサ大学という大学があって、3万人もの学生が勉強しているという。領事からは、高等教育に関する連携・協力を要請された。のちに、アル・アクサ大学から、協力協定の締結について申し入れがあった。大変に機微な話なので、エジプトの高等教育省にお伺いを立てたが、残念ながら、色よい回答を得ることはできなかった。アラブの中での政治的関係が如何に難しいかを考えさせられた出来事であった。
パレスチナは、国家として認められていないまでも、想像以上に国家に近い形になっていることがうかがえた。大学までもがきちんと運営されていることを知る日本人は少ないのではないだろうか。しかし、報道によれば、残念ながら、イスラエルの爆撃によってアル・アクサ大学は廃墟となってしまった、とのことである。
話は飛ぶが、中東のもう一つの大きな難民問題は、クルド人であろう。E-JUSTの国際会議を開催した時のことである。会議に参加者したクルド人に挨拶された際、クルディスタン大学教授という肩書の名刺をくれた。我々日本人にとって、クルドは報道される機会が少なく、パレスチナ以上に環境が悪いように思っていたが、話を聞くとそうではない。クルド人もパレスチナ人も国家の樹立を目指して、様々な機能を作り上げていることに驚いた。また、教育には特に力を入れているように感じられ、彼らが長期的展望に立って人材の育成に努めていることに感銘を受けた。
E-JUSTの学部開校が迫る中、いかにして学部への留学生を獲得するかは大きな課題であった。ターゲットは、自費での留学を見込めるガルフ諸国、オマーン、ヨルダンなどの国々である。しかしながら、これらの国々からの留学生獲得は簡単ではなかった。これらの国からの留学に際しては、E-JUSTが各国の高等教育省から留学先としての認証を得る必要があり、多くの国の高等教育省は、少なくとも最初の学部生が卒業すること、あるいはその後数年経過した後、などの実績を要求していた。
この頃、「アラブの春」以降激しくなったシリアの内戦は、2015年にロシアのアサド政権支援による空爆が開始されたあたりから、日本でもシリア内戦がたびたび報じられるようになった。聞けば、エジプトにはそれ以前からのシリア人難民の数は100万人を優に超えるとのことであった。そこでエジプトのシリア難民子弟の教育事情を調べてみると、エジプトの高校は彼らを受け入れて、エジプト人と同様の教育を与えているとのことであった。それならば、E-JUSTで奨学金を用意すれば、受け入れる可能性があるとの結論に至った。エジプト政府からの奨学金は難しいとのことだったので、日本政府の奨学金が何とかならないか、カイロの日本大使館に相談した。幸運なことに、大使館の強い協力がえられ、わずかではあるが、シリア難民子弟用の奨学金を準備することができた。
毎年の奨学金の予算を組み込むのは困難であったが、とりあえず、日本政府の補正予算から拠出が認められ、E-JUST工学部4年半分の奨学金、4人分が認められた。こうして予算が用意されたが、これを執行する方法を考えなくてはならなかった。シリア難民を管轄するのは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)である。幸いなことにアレキサンドリアに支所があり、しかも日本人の女性スタッフが勤務していた。彼女と何度も協議を重ねた結果、奨学金は日本からUNHCR経由でE-JUSTに支払われること、UNHCRアレキサンドリア支所が奨学金のアナウンスをして候補者をしぼり、最終的にE-JUSTが選考を行うこと、2018年度の入学とし、4年半(工学部)の就学とすること、学生の状況をモニターし、UNHCRに報告すること、などが合意された。2017年の11月であった。
こうして、2018年秋、シリア難民子弟4名がE-JUSTの工学部に就学した。2023年春には4名全員が4年半の就学期間を終えて無事卒業した。このうち3名はエジプトの企業に就職して元気に過ごしているとのことであり、残る一名も就職活動中とのことである。E-JUSTがわずかでもシリア難民の役に立てたことは喜ばしい。
ガザのアル・アクサ大学
破壊されたアル・アクサ大学
(February 2024 Issue, The Nation)
JICAはODA(政府開発援助)による技術協力など、様々な国際協力を世界中に展開してきた。E-JUSTプロジェクトも技術協力の一環である。協力事業には多くの専門家の派遣が不可欠であり、実際、多くの専門家を派遣して事業を行ってきた。このような協力において、「派遣先における専門家の立場は、「あくまでアドバイザーであって、派遣先の組織の一員にはならない。」というのが鉄則であった。しかしながら、私の場合は、E-JUSTの「副学長/学長アドバイザー」という立場であり、これは、JICAの鉄則を外れた第一号であった。すなわち、私の半分はE-JUSTの副学長としてマネージメントを実施する一員であり、他方、半分は通常のJICA派遣のアドバイザーとして、日本からの立場で学長にアドバイスをするという、微妙な立ち位置であった。時として、この2つの立場がコンフリクトしてしまうことが起こる。
エジプトは2015年、ロシア製原子炉の導入にかかる基本協定に調印し、原子力発電所建設が決定した。これを機に、E-JUSTに原子力工学関連プログラムを設置してはという話が持ちあがった。私の東工大時代の専門は原子力化学工学という分野であることから、ゴハリー学長から本件を検討して欲しいという依頼があった。全くエジプトの原子力事情を知らない私は、まず、エジプト国内の原子力事情を調べることからスタートした。エジプトの原子力関連の機関は、Ministry of Electricity and Renewable Energy の下に、研究開発を担うEgyptian Atomic Energy Authority(EAEA)、建設・運転を担うNuclear Power Plants Authority (NPPA)がある。これらとは別に、首相直下にEgyptian Nuclear and Radiological Regulatory Authority(ENRRA)が置かれ、規制の役割を担っている。
エジプトの原子力導入計画は1954年に開始した。1955年に上述のEgyptian Atomic Energy Authority (EAEA)を創設し、研究を開始した。1958年には、旧ソ連から5MWの実験炉ETRR-1を導入した。その後、原子炉導入計画が発表され、1976年にはNuclear Power Plants Authority (NPPA)が創設された。さらに、1988年には、発電所サイトとして地中海沿岸のEl-Dabaaが決定されたが、1986年のチェルノブイリ事故などの影響により、計画が凍結された。このため、多くのエジプト人原子力研究者・技術者は海外に職を求めて霧散したという。その後、新たな原子力導入計画が持ち上がり、1990年代後半に、アルゼンチンから研究炉を導入して、研究やトレーニングが再開した。
様々な伝手を通して、エジプトが所有する原子力施設を視察し、担当者と議論をした。EAEAのNuclear Research Center(NRC)では様々な関連研究が行われている。NRC保有の1958年設置の5MWの研究炉ETRR-1は現在休止中である。また、研究炉ETRR-2はアルゼンチンINVAP社製のプール型の熱炉で、出力は22MW、この炉は1997年に初臨界を達成して以来、主にトレーニングと医療用アイソトープの製造に使われている。燃料のウランはロシアから購入し、アルゼンチンで濃縮されたものである。ETRR-2と同時にINVAP社からFuel Manufacturing Pilot Plant (FMPP)を導入し、燃料要素の製造、使用済み燃料から有用アイソトープを抽出する化学処理などをおこなっている。また、Hot Laboratory and Waste Management Center (HLWMC)では、やはり医療用のRIラベル物質の製造がおこなわれており、またそれらの廃棄も所掌している。National Center for Radiation Research and Technology(NCRRT)は、20MeVの粒子加速器と3基のガンマ線照射器を保有し、主に材料科学研究、農業をはじめとする産業に使用している。高等教育機関としては、アレキサンドリア大学が、エジプトで唯一の原子力関連専攻(Nuclear and Radiation Engineering Department)を持つ大学であり、以前から学部及び大学院の教育を行ってきた。当時のカリキュラムは、原子力というより、放射線応用、アイソトープ利用に重きを置いた教育であったのは否めない。
E-JUSTの原子力工学プログラムを前提として、エジプトが有するこれら資源を最大限利用するカリキュラムを考えた。日本的として特に強調したかったのは原子力の安全性であった。このための協力を私の古巣の東工大原子炉工学研究所の斎藤名誉教授に求めた。また、幸いなことに、ロシアを代表する原子力企業ロスアトム(ROSATOM)に知人がいた。ロスアトムは、ロシア国内の原子力施設の建設、運営のすべてを担い、国外への輸出も積極的に行っている。エジプトの原発も当然このロスアトムが建設主体となる。Dr. アーティシュクは、ソ連崩壊後、東工大に留学し、原子力安全の分野で博士号を取得した。彼は、将来の原子力の在り方を探る研究会などで随分と議論をした仲間であり、東工大のロシア協力でロシア訪問した際には、彼の自宅に訪問したこともある。都合の良いことに彼は、ロスアトムの教育訓練機関、中央先進訓練研究所(CICE&T)の所長になっていた。そこで、E-JUSTの2017年春に開催されたEECEスクール主催の国際会議にアレキサンドリア大学などの関連教員に加えて、東工大斎藤名誉教授、ロスアトム Dr. アーティシュクを招待して、原子力関連セッションを組んだ。エジプト、日本、ロシアの3者の協力で、E-JUST原子力プログラムが誕生するかに見えた。
しかしながら、事はそう簡単ではなかった。中東における原子力問題は、イスラエルの核保有疑惑問題や、エジプトが提唱する中東非核地帯構想などが複雑に絡んでおり、現在も極めて微妙であるのは言うまでもない。このような状況の中で、日本政府とエジプト政府の間には、原子力協定が締結されていないことが大きな障害となった。これは、原子力関連機材等の平和的利用及び核不拡散についての法的な保証を確保する法的枠組みを定めるために締結するものであって、基本的に、この協定がないために、日本のODAであるE-JUSTに教育といえども原子力関連プログラム設置に対する協力はできないことを意味する。原子力プログラムを推進するE-JUSTの副学長としての鈴木と、日本から派遣されたJICA専門家の鈴木のコンフリクトが起こった。こうして残念ながら、E-JUST原子力プログラムは、青写真まで完成しながら見送らざるを得なかった。
2017年にはROSATOMとNPPAの契約が完了し、4基の第3世代VVER-1200をアレキサンドリアから西方約100kmの地中海沿岸にあるEl-Dabaaに建設することとなった。それ以降、計画はCOVID-19の影響で遅れたものの、2028年の営業運転開始に向けて建設が進められている。その一方、原子炉運転・維持にかかる人材が確保できるのかが危惧される。ロシアからの原子力導入を反映して、Egyptian Russian University (ERU)に原子炉工学科が創設された。ERUは、2006年にロシアが協力して創設した私立大学である。ERUの原子炉工学科は、エジプトでの通常コースに加えてROSATOMが支援する Tomsk Polytechnic University (TPU)とのジョイントプログラムを開設している。このプログラムは、エジプトで3年間の基礎教育を終えたのち、TPUで2.5年の教育を受ける。開設以来、毎年20名以上のエジプト人学生が教育を受け、それなりの技術者は育っているように見える。そのほかカイロ大学などのいくつかの大学には、既存の学科の中で、原子力に関連する教育がなされているとは聞いている。私としては、Dr.アーティシュクを始めとするロスアトムのCICE&Tがエジプト人技術者に適切な教育訓練を授けてくれることを祈るばかりである。
エジプトの研究炉ET-RR-2
Dr.アーティシュクと私 / アレキサンドリアにて
Dr. アーティシュクの講演 E-JUST国際会議(ICCEEE)
東工大齊藤教授の講演 E-JUST国際会議(ICCEEE)
JICA E-JUSTプロジェクトの約15年を異なる視点から、もう一度振り返ってみたい。E-JUST設立・運営経費は、主に、エジプト側がキャンパス建設、E-JUST雇用の教員人件費などを負担し、日本側はプロジェクト長期専門家の派遣に加え、本邦大学教員の派遣、研究・教育機材の供与を負担してきた。すなわち、日本側の支援はハード面では教育・研究機材の供与であり、ソフト面では日本の大学教員を派遣し、専攻運営のアドバイス、教育・研究への支援である。当初の工学系大学院の発足にあたっては、早稲田大学、東京工業大学、京都大学、九州大学が幹事大学として協力し、各大学が1~2専攻を担当した。各専攻に対し、長期派遣教員1~2名、短期派遣教員数名が派遣され、専攻立ち上げから協力をしてきた。第1フェーズでは延べ50名の教員、第2フェーズでは延べ100名を超える教員が派遣されて、教育・研究活動を支援した。これらの大学に加えて、多くの名だたる大学が国内支援委員会を構成し、継続的な支援を行ってきた。貢献いただいた先生方には、たいへんに感謝している。ありがとうございました。
このようなオールジャパン体制の大学からの支援がプロジェクトを成功に導いたことは言うまでもない。しかし、当初、JICAおよび関係者は、大学設立のためには各専攻を支援する教員だけを派遣すればよいと考えていた節がある。E-JUSTプロジェクトはJICAでも類を見ない、初めてのゼロからの大学設立プロジェクトである。2010年からの設立当初は、大学院のみであり、教員も事務職員の数も少なく、良い機材を供与して研究実施にまい進するためには教員の派遣だけで何とか成り立っていた。アラブの春に端を発した混乱期を過ぎ、2014年、シーシー大統領が政権を執るようになって、E-JUST設立プロジェクトが本格的に動き始めた。アブルナガ大統領補佐官が理事長に就任し、新たに、第2代学長として、ゴハリー学長が就任した。これに少し遅れて、私が、第一副学長として就任し、E-JUSTの新しい運営体制が整った。
こうして、新しい政治体制の下、大統領令によって、エジプトにおけるE-JUSTの法人格が明確にされ、エジプト政府の支援体制も整った。この頃、E-JUST内部では学部設置に向けて、文系の国際ビジネス人文学部の創設、教養教育組織の創設などの準備が急ピッチで行われ、事務組織の仕事が急増した。これを円滑にかつ日本的に進めるために、事務組織に対する日本の支援が必要となり、立命館大学に支援を要請した。事務組織の在り方への助言、事務職員の教育など、様々な事務運営に対して立命館大学が行った支援が、E-JUSTの設立に大いに役立ったという功績はたいへんに大きい。一方、文系学類、リベラル・アーツ・センター設置に伴う、日本からの支援に対しては、筑波大学、早稲田大学、立命館アジア太平洋大学(APU)、広島大学が新たに加わった。また、日本人研究担当副学長の就任要請があり、後藤副学長が就任した。貢献いただいた先生方と立命館大学の職員の皆さんにお礼を述べたい。ありがとうございました。
こうして、支援体制が整い、大学院教育の更なる充実化、学部設置へと繋がっていく。これまであまり触れてこなかったが忘れてならないのは、常駐するJICA派遣の専門家の方々の業務である。日本からの支援を円滑に進め、プロジェクトを適切に実施するために、常時、JICA専門家5~6名が常駐してその任に当たってきた。エジプト政府の支援、特にキャンパス建設などの投資が進むにつれて、エジプト政府あるいはE-JUSTサイドからの様々な要求も増加していった。これに対して、チーフアドバイザー、サブチーフアドバイザーは、政府、E-JUSTエジプトサイドの要求に対する交渉から、実現に向けたJICA本部との折衝など、我々教育サイドとは全く異なる業務を通してE-JUSTの設立を支えてきた。特に、現在のプロジェクトチーフアドバイザーである岡野貴誠さんには敬意を表したい。彼は2008年から2017年までE-JUSTプロジェクトに従事し、プロジェクトの経緯すべてを知っており、2020年にリーダーとして再赴任した。E-JUSTプロジェクト開始前からのエジプト政府とのやり取りなど、大変な苦労があったことは、彼の著書「科学技術大学をエジプトに」*に生き生きと描かれている。また、この著書にはプロジェクト実施者という視点から、E-JUST設立にかかる様々な経緯が詳細につづられている。
他の専門家の日常の業務には、本邦大学教員の派遣にかかる日程調整に始まり、赴任中のホテル、交通手段の手配などがある。私も、東工大時代に何度もE-JUSTを訪問したが、その折にはたいへんにお世話になったものである。また、皆さんには、E-JUST各組織の運営をウォッチいただき、教育・研究実施の上で様々なサポートもしていただいた。
専門家の中で、松下専門家(技術アドバイザー)の仕事は少し毛色が違い、研究・教育機材の供与、無償資金協力による太陽光パネルの設置にかかる契約事務、通関手続き、機器導入に伴う技術者の受け入れから、E-JUSTの安全管理体制の整備に至るまで多大な貢献をしていただいた。彼は12年以上の長期にわたって、この業務にあたってくれた。ここで改めて敬意を表したい。
JICA専門家の皆さんの任期は通常2~3年であり、私が副学長に就任した2014年から勘定しても、20名を超える方々が、入れ替わりE-JUST支援業務にあたってくれた。単身赴任中の私にとって、彼らの存在は極めて大きく、時には飲み会など楽しい時間を過ごすこともあった。ここに紙面を借りて、感謝の意を表したい。皆さん本当にありがとうございました。
最後に、私にこのような回想録を書くことを勧めてくれた、現サブチーフアドバイザーの佐々木さんには、改めてお礼を言いたい。ありがとうございました。
*岡野貴誠、「科学技術大学をエジプトに」、(株)佐伯コミュニケーションズ (2022)
JICA専門家の皆さんと(2010年)
JICA専門家の皆さんと(2023年)
松下専門家と私(2023年)
2014年9月に開催されたE-JUST理事会(BOT)において、私の第一副学長就任が承認された。その翌日から、黒塗りの送迎車が付いた。車はトヨタ・カローラ、南アフリカで生産されているとのこと、エジプトでは高級車だ。ナンバープレートはグレーで、政府所管の車だそうだ。運転手はモハメッド・ベシス君、彼はエジプトの日本企業で運転手をしていたそうで、いわゆる日本型の躾が成されており、到着すると、さっと降りてドアを開けに来る。以来、9年間、副学長職を離任するまで、彼はこのカローラで私のエジプトでの足になってくれた。ほぼ新車だったカローラの走行距離は、約35万キロに達した。考えてみれば、アレキサンドリア市内、サン・ステファノの我が家から、1日往復で100キロメートル、月に数回カイロなどに出張した距離を加えれば、月に約4千キロ程は走っていた。これで、年に4~5万キロ、9年間で35万キロは頷ける。
2015年から2016年頃は、ゴハリ-学長、様々な大臣あるいは国の要人にE-JUSTの紹介や陳情などに行ったが、必ず同行を求められた。高等教育省はもちろんのこと、教育省、計画省の大臣、あちこちの大学の学長など、また、アレキサンドリア知事にも会いに行った。英語を使えない要人もいて、気が利いていれば、通訳をつけてくれたが、通訳なしも多々あった。時々、ゴハリー学長が話の内容を教えてくれたりしたが、学長はアラビア語で話して申し訳ないと言ってくれた。私の役割は、E-JUSTには日本人の副学長がいて、日本がきちんと支援していることを示すことで、私がそこに存在すること自体が重要なのだと言っていた。
日本で、例えば、教育大臣に会いに行くときは、教育省の建物の何階のどこと聞いて面会に行く。最初のころは、それと同じと思って場所を聞いたりしていたが、全く気にする必要がないことが良くわかった。運転手のモハメッド君が、高等教育省の建物入り口まで連れて行ってくれれば、入り口で職員が待っていて、その後エレベーターの前や、降車口で入れ替わり待っていて、大臣室まで案内される。エジプトの公務員があり余っているのが良くわかった。こうしてモハメッド君は9年間私の足を務め、カイロ・アレキサンドリアを中心にナイルデルタをくまなく走り回った。ご丁寧に私がコロナに感染した時、どちらが先かは不明だが、彼も感染した。
話は変わるが、私の父は第2次大戦前、日本帝国海軍の所属で、若いころは、機関兵として戦艦に乗り込んでいた。今から5年程前に日本に帰国した際、父が残した数々の遺品を処分しようとチェックしていたところ、「昭和5、6年度練習艦隊巡行記念」と題するアルバムが出てきた。これによると、戦艦「八雲」を旗艦とする帝国海軍練習艦隊が、日本を出発して、スエズ運河を通り、イタリアまで巡行していた。この時、カイロ、アレキサンドリアにも寄港した記録がある。父は、この八雲の機関兵として乗り込んでおり、アレキサンドリア、カイロの絵葉書を買い求めたようだ。私が住んでいたサン・ステファノの絵葉書もあって、サン・ステファノはカジノであったらしい。E-JUSTプロジェクトに参加し、アレキサンドリア、サン・ステファノで9年も暮らしたのが、偶然ではあるが、何か因縁めいたものを感じた。私はアレキサンドリアに赴任する運命にあったのかもしれない。
E-JUSTは、砂漠の地に立派なキャンパスもできた。エジプトのトップ研究大学にもなった。また、高等教育省は、E-JUSTをモデルとして4つの新大学も造った。E-JUSTは今や名実ともに立派なエジプトを代表する大学となった。しかし、プロジェクトの第3フェーズ終了も間近に迫り、日本の支援も先細っていく中、この大学を如何に継続させていくのかが大きな課題となる。大学名にジャパンを冠した以上、何らかの形で日本はサポートしていく義務があるのではないだろうか。端的に言えば、E-JUSTには常に日本人教員が存在し、エジプト人教員と協同して、日本型教育を実践していくことが、ジャパンを冠した大学の使命であろう。今後の支援の在り方に期待したい。
私にとって、運命的であったとはいえ、E-JUSTの設立と発展に、微力ながら貢献できたことは望外の喜びである。私にこの壮大なプロジェクトの当初から参加する機会を与えてくれたJICAとJICAの関係者の皆様に心から感謝するとともに、今後のE-JUSTの更なる発展を期待する次第である。
1930年頃アレキサンドリアを訪問した戦艦「八雲」総員(父はどこかに)
1930年頃の絵葉書:サン・ステファノの風景
地中海に沈む夕日
9年間住んだサン・ステファノの我が家からの風景