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本書は、佛教大学通信教育部学友会が設立三十周年の節目を迎えたことを記念し、その輝かしい歩みを後世に伝えるべく編纂されたものである。働きながら学ぶ通信教育生の主体性こそが、通信教育部の存在意義を支える中核である、という本書の根幹をなす主張は、極めて重要である。本書の編纂に携わった当時の関係者は、学友会三十年の歴史が、奇しくも自身の佛教大学における三十年の軌跡と重なることに深い感慨を寄せている。特に、学友会が産声を上げた昭和二十八年九月三日の記録は、草創期の情熱と理想を今に伝える貴重な一次史料であり、本記念誌の価値を一層高めている。
この三十年にわたる歴史の重みは、通信教育部という一つの組織の歴史に留まらない。その源流は、母体である佛教大学そのものの創設の精神にまで遡ることができる。次章では、まずその原点から紐解いていくこととしたい。
1.佛教大学の開学
本章では、通信教育部の母胎である佛教大学が、いかなる時代の要請のもとに設立されたのか、その歴史的淵源を明らかにする。学友会の歩みを深く理解するためには、その根底に流れる建学の精神を把握することが不可欠である。
大学創設の直接的な契機は、幕末から明治維新へと至る激動の時代状況に見出すことができる。慶応四年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに新時代の幕が開かれ、三月には新政府の基本方針たる五箇条の誓文が発布された。このような世情騒然とした社会の混乱期にあって、知恩院第七十三世名誉学天大僧正は、時代の混迷を鋭く洞察されていた。そして、僧侶たちが世俗の情に流され、学業への志が薄れていることを深く慨嘆し、学問の重要性を説く「勧学の諭達」を発せられたのである。この「自らの修学求道により近代日本の黎明を切りひらく」という高邁な精神こそが、佛教大学設立の揺るぎない精神的源流となったのである。
この建学の精神を受け継ぎ、その学びの門戸を広く社会に開放する試みとして、通信教育部は開設されることとなる。
2.通信教育部の開設
本章では、佛教大学が社会の要請に応え、教育機会の均等化という理念を実現すべく通信教育部を設立した経緯を詳述する。その設立理念と制度的基盤の確立は、単なる教育課程の拡充に留まらず、後の学友会活動の礎を築くという戦略的にも極めて重要な意味を持っていた。
設立の理念と目的
大学昇格の翌年から準備が進められ、昭和二十六年四月、「二部」という名称のもとで通信講座が開講された。その目的は、広く社会を教化し、仏教的教養人を育成することにあった。当初は制度・設備ともに十分とは言えなかったが、これが通信教育部の原点である。
制度的確立と社会的地位
通信教育の制度的地位を確立する上で画期的であったのが、昭和二十七年に文部省から発布された「大学通信教育基準」である。本学はこの基準に従って正式な認可を受け、これにより、本学通信教育部の卒業生は、正規の大学卒業生と資格、特典、社会的地位において全く同等に扱われることとなった。これは、働きながら学ぶ学生たちにとって、その努力が社会的に正当に評価されることを保証する、極めて重要な一歩であった。
当初の募集要項
当時の募集要項によれば、募集人員と入学資格は以下の通りであった。
• 募集人員:
◦ 正科生(高校卒業資格者):300名
◦ 特修生(学歴不問):700名
このようにして制度として正式に発足した通信教育部は、いよいよ具体的な運営を開始する。しかしその前途には、幾多の困難が待ち受けていた。
3. 開設当初の通信教育部
制度は整ったものの、その運営は未知の課題との格闘であった。本章では、通信教育部開設当初の事務局が直面した具体的な困難と、それを乗り越えた職員たちの情熱的な尽力を描き出す。この草創期の奮闘こそが、後の発展の力強い土台を築いたのである。
事務局の奮闘と教材作成
昭和二十八年一月二十三日の認可決定から四月の開講までは、まさに怒涛の日々であった。総務課、教務課、指導課、編集課に配属されたわずか6名の職員が、それぞれの持ち場で奮闘した。特に困難を極めたのが教材作成であった。当時は印刷技術も未発達であり、謄写版(ガリ版刷り)を用いて、職員自らが教材を手作りするほかなかった。
当時の関係者の回想によれば、編集課の職員は徹夜で原紙を切り、来る日も来る日も印刷作業に追われたという。夏場には上半身裸で氷をかじりながらガリ版を刷り、さらには製本までも自分たちの手で行った。こうして完成した最初の教材が『天台教学』と『仏教史』である。職員たちの汗と涙の結晶である手作りの教材が第一回生に発送された時、その感激は生涯忘れ得ぬものであったと伝えられている。この謄写版刷りの粗削りな教材は、職員たちの徹夜の労苦から生まれた制度の黎明期の情熱を象徴するものであり、その精神は、体裁よりも実質を重んじる第一期生たちに熱意をもって受け入れられた。
第一回スクーリングの記録
昭和二十八年、記念すべき第一回スクーリングが開催された。大学側にとっては何もかもが初めての体験であり、突発的な問題に次々と頭を悩ませた。一方で、全国から馳せ参じた学生たちの向学心は燃えるように熱かった。当時の学生には僧職関係者や教職関係者が多く、その多様な背景を持つ人々が一同に会し、学びを深める貴重な機会となった。
このようにして集った学生たちは、孤独になりがちな通信教育という学習形態の中で、自然発生的に相互の連帯を求めるようになる。その熱意が、やがて学友会の結成という形で結実するのである。
4. 学友会の発足と発展
通信教育という学習形態は、強い意志を必要とする一方で、孤独に陥りやすいという側面も持つ。そのような学生たちの相互の連帯と学習支援の拠点として、学友会は誕生した。本章では、その結成の経緯、目的、そして初期の活動内容を分析し、学友会が学生にとって不可欠な組織へと発展していく過程を明らかにする。
結成の経緯と目的
昭和二十八年九月三日、第一回スクーリングの熱気も冷めやらぬ中、佛教大学通信教育部学友会が発足した。その目的は、会則第一章第二条に明確に記されている。
佛教大学通信教育部学友会会則(抜粋)
• 第二条 本会は相互の親睦を厚くしその理解を深め本学建学の精神に則り日本仏教教育の発展に寄与することを目的とする。
この条文は、単なる親睦団体に留まらず、大学の建学精神を体現し、社会に貢献するという高い理想を掲げていたことを示している。
初期の活動内容
発足当初の活動の中心は、スクーリング中に開催される懇親会や茶話会であった。ここでの質疑応答の記録は、当時の学生が直面していた課題を生々しく伝えている。
• 学生からの要望:
◦ 教材の乱丁・落丁といった不備の改善
◦ スクーリング開講期間の調整(僧職関係者と教職関係者で都合の良い時期が異なる)
◦ 地方では入手困難な参考文献の紹介
• 大学側の応答:
◦ 教材の改善と、将来的には活版印刷に切り替える方針を表明
◦ 各職種の事情を考慮しつつ、期間設定の難しさを説明
◦ 出版社を紹介するなど、具体的な対応策を提示
これらのやり取りは、学友会が発足当初から、学生の声を大学に届けるための重要なパイプ役を担っていたことを明確に示している。
組織と予算
学友会は、委員長、副委員長、委員といった役員を置き、組織的な運営基盤を整えていった。昭和三十三年度の予算案を見ると、歓迎会費や見学費、卒業記念品費などが計上されており、学生生活を豊かにするための具体的な活動が計画・実行されていたことがわかる。
組織としての基盤を固めた学友会であるが、その活動の核心は、あくまで個々の学生一人ひとりの体験にあった。次の章では、当時の学生たちがどのような日常を送り、何を想っていたのか、その息遣いを追ってみたい。
5. 学生生活の追憶
本章では、公式な記録や議事録だけでは窺い知ることのできない、当時の学生たちの息遣いや学びの場の空気感を、個人の回想録を通して探る。仕事と学業の両立という厳しい環境の中に身を置きながらも、彼らが特にスクーリング期間中にどのような貴重な体験をし、何を感じていたのかを明らかにする。
スクーリングの思い出
多くの学生にとって、スクーリングは学友との人間的な交流を深める唯一無二の機会であった。回想録には、当時の情景が色鮮やかに描かれている。
• 大徳寺での自炊生活: 費用を切り詰めるため、大徳寺に下宿し、飯盒で自炊しながら大学に通った学生の姿。
• 夜の交流: 授業が終わると、寮(智恩寮)や下宿先で学友たちが夜遅くまで語り合った。全国から集まった多様な背景を持つ人々との対話は、何物にも代えがたい刺激となった。
• ユーモラスな逸話: 懇親会での芸者との「お酒は飲めるか、甘いものは好きか」という問答の末、「アレー方どすか(女性は好きか)」と切り返され、返答に窮したという人間味あふれるエピソードも残されている。
学習と仕事の両立
働きながら学ぶことの困難さは、筆舌に尽くしがたいものであった。しかし、それゆえに得られる学びの喜び、そして仲間との出会いは、彼らにとって何よりの宝であった。ある学生は、スクーリングでの体験をこう振り返る。
「真に学徒であるという自意識を強くし得た」「真に向学の志止み難き人々と出会えた」
この自意識と連帯感こそが、彼らの学習意欲を支える原動力であった。
「佛教大学七不思議」
ある卒業生がユーモラスな筆致で綴った「佛教大学七不思議」は、学生の視点から見た大学のユニークな特徴を伝えている。その筆頭が「佛教大学は大学である」というものである。この一見当然の言明の真意は、その理由付けにある。大学の校庭の草の上に寝転んで比叡山を眺める風景こそ「京都第一の風光」であり、「重要文化財として残しておきたい」とまで述べているのである。この機知に富んだ表現は、大学が格式張らず、学生に開かれた親しみやすい場所であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
個々の学生の想いは、やがて学びの場を故郷に持ち帰り、地域ごとの連帯の輪を形成していく。それは全国的な組織活動、すなわち支部活動の活発化へと繋がっていったのである。
6. 全国に広がる支部活動
学友会の活動は、京都のキャンパス内だけに留まるものではなかった。全国に散らばる学生たちの学習と交流を支えるため、その活動は地域支部へと拡大していく。本章では、各地域に根差した支部がどのように結成され、独自の活動を展開していったのかを概観し、学友会が全国的なネットワークへと成長した過程を分析する。
地方試験の開始と支部の役割
支部活動が活発化する大きな契機となったのが、地方での科目最終試験の実施である。それまで大学でしか受験できなかった試験が、支部結成と学生たちの強い要望を背景に、全国各地で実施されるようになった。これは支部活動の大きな原動力となり、地方在住の学生の負担を大幅に軽減するとともに、支部が学習支援の拠点として、その存在意義を一層高める画期的な出来事であった。
各ブロック・支部の活動報告
全国に設立された支部は、それぞれの地域の特性を活かしながら、多様な活動を展開した。
• 北海道支部: 広大な土地ゆえに会員の交流が困難であり、南北二部制を採用。学習会や情報交換を通じて、地理的ハンディキャップの克服に努めた。
• 東北・奥羽支部: 東北・北陸支部から独立。当初は学生数も少なかったが、学習会や最終試験の実施を通じて組織を強化し、東北6県をまとめる支部へと発展した。
• 関東・東京・神奈川支部: 首都圏に位置し、多数の会員を擁する。年6回の学習会や機関紙「きずな」の発行など、活発な活動を展開。自主的な勉強会も行われた。
• 長野支部: 一時は活動が停滞したが、学習交流会などを通じて再建。善光寺やアルプスといった豊かな自然に囲まれた環境で、独自の活動を模索した。
• 北陸(富山・石川)支部: 北信越支部として発足し、地方試験を全国に先駆けて実施した歴史を持つ。富山、石川を中心に、学習会や機関紙発行などの地道な活動を継続。
• 東海・愛知・岐阜支部: 会員数が多く、特に小・中学校の免許取得を目指す学生の実技講習会が活発。学習会を年6回開催し、学生間の情報交換と親睦を深めた。
• 近畿(京都・奈良・和歌山・兵庫)支部: 大学のお膝元である京都をはじめ、各府県で特色ある活動を展開。特に兵庫県では、姫路、明石、丹波など地域ごとに支部が独立し、きめ細やかな学習支援を行った。
• 中国・四国支部: 中国の五県と四国の三県(原文ママ)をまとめる広域支部。地理的な広さから全会員の参加は難しいものの、ブロックごとの学習会などを通じて連帯を維持した。
• 九州(北九州・南九州)支部: 九州全域をカバーし、後に南北に分かれる。福岡・佐賀を中心とする北九州、大分・熊本などを中心とする南九州で、それぞれが地域に根差した学習会や親睦会を実施した。
これらの報告は、その具体的内容は多様であれ、一つの共通した姿を描き出している。それは、地理的な広大さから首都圏の稠密なニーズまで、各地域特有の課題に適応しながら、通信教育に内在する孤独感を軽減するという共通の目的のために結ばれた、草の根のネットワークの姿である。
三十年にわたる各支部の多様な活動の歴史は、組織の記録だけでは語り尽くせない。その息吹は、次の記念座談会で、歴史を築いてきた当事者たちの言葉によって、より立体的に語られることになる。
学友会設立三十周年という記念すべき節目に、その礎を築き、発展を支えてきた歴代の関係者が一堂に会した。本章では、彼らの貴重な証言を通して、学友会発足の瞬間から発展期の苦悩、そして未来への展望までを、生き生きとした対話の中に再現する。これは、公式記録だけでは決して伝わることのない、歴史の深層を明らかにする試みである。
学友会結成時の回想
座談会では、まず学友会が誕生した昭和二十八年当時の様子が、懐かしくも鮮やかに語られた。ある初代役員は、発会式の景気づけに「どぶろく」を教室に持ち込もうとして、学長から「学生が教室で酒を飲むとは何事か」と厳しく叱責されたという逸話を披露した。このエピソードは、当時の学生の多くが分別ある社会人であったにもかかわらず、教職員と学生の関係が非常に近しく、牧歌的で人間味あふれる学風であったことを象徴している。
発展期の課題と変化
学友会は「学友倍加運動」などを経て学生数が急増し、大きな発展を遂げた。しかし、その過程で新たな課題にも直面した。座談会では、大学の規模拡大に伴い、かつてのような「恩情的」できめ細やかな学風が薄れ、次第に規則による画一的な管理が強化されていったという変化が指摘された。特に、それまで黙認されていたレポート未提出者の科目最終試験受験が一切認められなくなるなど、かつての恩情的な学風を知る者にとっては、大学の厳格な方針転換を象徴する出来事であった。これは、学生の質の変化に対応するための必然的な措置であったとも言えるが、同時に、学友会が大学と学生との間で難しい調整役を担うことになった時期でもあった。
今後の通信教育への展望
座談会の最後は、時代の大きな変化の中で、佛教大学通信教育と学友会が今後いかにその特色を維持し、発展させていくべきかという未来に向けた議論で締めくくられた。参加者からは、マスプロ教育に陥ることなく、建学の精神に基づいた人間的な教育をいかにして守り続けていくか、その重要性が改めて強調された。
三十年の歴史とは、単なる年月の経過ではない。それは、日々の労働の傍ら、眠い目をこすりながら机に向かい、知識の光を求め続けた幾多の学友たちの、意志と情熱の物語である。家庭や職場の喧騒の中で孤独な思索を深め、年に一度のスクーリングでようやく得た仲間との語らいに心を熱くした、名もなき一人ひとりの奮闘の集積である。この記念誌に刻まれた先人たちの息吹は、通信教育という場で人がいかに学び、いかに繋がりを求めたかという壮大な叙事詩に他ならない。この尊い遺産を未来へと繋ぎ、佛教大学通信教育と学友会が、これからも学びを志す人々の灯火であり続けることを、心から願うものである。