経営やってみたラボ

vol.2

なぜ私は自分の会社をホールディングス化したのか?

その効用と課題(1)


なぜ私は自分の会社をホールディングス化したのか?

その効用と課題(1)


2017年11月、私は父から引き継ぎ、長らく自らが代表取締役社長であったミカド電装商事株式会社を事業会社化し、自ら設立し代表に就任したホールディングス会社、エースユナイテッド株式会社の傘下に置きました。

この事業会社になったミカド電装商事の代表取締役社長を、常務だった1歳違いの実弟に譲り、私は会長になりました。まだ代表権は残していますが、金融関係の整理が終われば取締役に退く予定です。

ミカド電装商事の総務部と企画室の社員はエースユナイテッドに移籍しましたので、ミカド電装商事は営業部と工務部、そして新設された環境エネルギー部の体制となりました。

「屋上屋を架す」なんでそんな面倒な体制にしたの?

「わたくしHDの代表です」って言いたいだけでしょ??

なんて風に感じてしまった方もいらっしゃると思います。

ま、確かにそれもないとは言えません

が、事の本質はそんな単純なものではありません。今回はHD化を決心した経緯についてお話します。

もしかしたら、皆様の会社を今後どういう形にしていくかの参考になるかもしれません。


私は、昭和37年当時ミカド電装商事の社長に就任したばかりの、故澤田澄男の長男として生を受けました。

ミカド電装商事は、祖父澤田万三が設立した会社の一つで元々は今の業態とは縁もゆかりもない、三興社という名の会社でした。

業績不振のこの会社を立て直すにあたり社名変更をし、本家とも言えるミカド電気工業で割と気楽に公共公益企業向けの部門長をしていた末っ子をトップに据え、延命継続を図ろうした、という流れで父は倒産寸前の会社の経営者になりました。

この辺の話はとりあえず置くとして、そのまた長男の私は紆余曲折ありながらも、20代前半からこの会社に身を置き、現場体験を積んだうえで30代前半で社長となったのです


またまた紆余曲折ありまして、一時は傾いた業績を見事(?)立て直し、さらに拡大を遂げた私は50代半ばに入って、こんな問題に直面していました。

1,子供は娘3人。直系の後継者候補がいない。

2,長女は結婚したが、旦那は大企業の社員。継がせるのは難しそう(次女三女はまだ学生)。

3,弟が二人会社にいるが、さほど年が離れておらず後継できたとしても先が短い。

4,弟たちにはそれぞれ息子がいるが、彼等には伯父さんとして自由な道を歩ませてやりたい。

5,現在やっている事業は安定しているが伸びしろが少ない「枯れた」事業。さらに「5%経済」の東北から離れて東京圏に行くには、業界慣習など様々な障害がある。

そんな折も折、早期がんが見つかり胃を2/3摘出する手術を受けることになった私は、自分も寿命があること、いずれは会社を去らねばならなくなること、を否が応でも意識することになりました。


そんな私に、時を前後して2つの出会いがあります。

ひとりは最近業務上の理由で疎遠になってしまいましたが、S社のK会長

Kさんは上場企業の子会社の会長職をやっておられ、当社の業績を大幅に改善するにあたり大変お世話になった恩人です。

がんになったあと、快気祝いも兼ねKさんと東京で呑んでいた時、彼から急にこう言われました。

「沢田さん、あんたも会長になりなよ、俺も会長なんだから。社長はそろそろ弟さんにやらせないと。ずーっと常務のまんまなんて大変すぎるよ。」

確かに次弟は、父が亡くなったあと私の求めに応じて上場企業社員の前職を捨てて入社してくれ、10年以上私のNo.2で居続けてくれました。

私はそれが当然のことと思ってましたが、本人にとってはどうだったでしょう。

「たしかに名前は変わるけど、やることはお互い変わらないんだから、それもいいか。」

とその時はそんなふうに都合よくぼんやりと考えていました。


もうひとりは現在も日本経営合理化協会の「多角化研究会」でお世話になっている、ヤマチユナイテッドの山地章夫社長

Kさんからそんな話をされる少し前、山地さんがたまたま私が仙台のとある勉強会に講師でいらっしゃった時に、ご自身が展開している「連邦・多角化」についてお話しを伺いました。

当時の私は「ふーん、そんな方法があるんだ」ていどの認識でしたが、山地さんがすごく楽しそうにお話していたのと、お話がとても論理的で明快だったことを覚えています。

「会長になって、本業は主に社長に任せ、自らは一歩引いた目で多角化を推し進める」

徐々にそんな考えを持つに至った私は、早速山地さん率いる「多角化研究会」に身を投じ勉強を重ねます。


そして、たどり着いた自分なりの答が「ホールディングス化」


ミカド電装商事の会長として多角化を図ると、どうしても本業に絡んでいる必要があり制約を受けます(もちろんこれまでのノウハウや、お客様は活用できますが)。

そこで「エースユナイテッド」という会社を設立して、本業に関わる多角化はミカド電装スタート、本業と関係の薄い多角化はエースという形にすべく、ホールディングス化に着手しました。

またその際、本来ミカド電装商事の理念だった「未来に貢献」をエースグループ全体の理念に引き上げ、「未来に貢献しない事業は行わない」という「しばり」を設けました。


具体的なスキームについては、メイン行からご紹介いただいた会計事務所に全面的にお願いし、決心を固めてから10ヶ月後の2017年10月、ミカド電装商事はホールディングス会社エースユナイテッドの100%事業子会社として生まれ変わり、実弟の沢田秀二が代表取締役社長に就任、私は会長として当面財務を支えることとなりました。

エースユナイテッドの代表はもちろん私。元総務・企画の役員・社員もエースに移籍しミカド電装商事とプログラミング教室など教育事業を手掛けるソシオス・イー・パートナーズ株式会社(代表は私)を総務・財務・企画面で支えます


またミカド電装商事・ソシオスEPには私の他、兄弟や親戚、社員などの株主がいましたが、皆様にお願いしてすべての株式を私個人が買取り(もちろん結構な借金をしました)、その株式をエースユナイテッドの株式に交換することで、株式をすべて私の手元に集約し、経営と所有の分離をいつでも実現できる体制に移行しました。

1,もし私の一族に経営能力とその意志を持つものが現れたら、ホールディングスを引き継ぎ、経営と所有を同時に行ない更に成長を目指す。

2,もし私の一族が経営を望まずしかし会社の成長を求めるのなら、経営はその能力を持つものにおまかせし、株主として監督をする。

3,もし私の一族が会社の所有も望まないのなら、事業会社を売却、ホールディングスは単なる地主に移行する。またはホールディングスも売却しすべての所有を放棄する

つまり、ホールディングス化したことで株主が誰であれ、社員はその時考え得る一番良い経営サービスをうけられる体制に身を置くことになったのです。


次回はなぜ私は自分の会社をホールディングス化したのか?その効用と課題(2)と題しまして、ホールディンス化の光と影について、さらに私が欲張りにもコンサルタントを目指すきっかけになったちょっと変わった出会いについてお話していこうと思います。


☆なぜホールディングスの名前を「エースユナイテッド」にしたのかといいいますと、山地さんにならってゆるやかな連邦体制を目指し「ユナイテッド」、そしてそのシーズンにたまたま人生初のホールインワンを達成。ホールインワンの別名「エース」をとりました。もちろん各事業会社が各界の「エース」になって欲しいという願いが込められています。