1971年(2018年12月14日再読)
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きらめく砂漠の中の幻影の街。バラードの最高傑作
(序文)「バーミリオン・サンズはどこにあるのか?おそらくその精神的な故郷はアリゾナとイパネマ・ビーチの中間のどこかにあると思うが、うれしいことに最近ではよそにもそれが出現し始めたようだ。中でも特にあげたいのは地中海の北岸沿いにジブラルタルからグリフォダ・ビーチにまで連なる長さ三千マイルの線的都市のあちらこちらで、毎夏、全ヨーロッパがそこに寝そべって、背中を日に焼くのである。」
この本を読んだのは1980年より前のはずだから、かれこれ40年前ということになる。バラードの作品はこの前に結晶世界やいくつかの短編を読んでいて、この後もハイ・ライズなどを読んだが、いずれもどこか暗いイメージの悲劇ものばかりで好きになれなかったが、このバーミリオン・サンズは違っていた。何が違うって?とにかく出てくる人物が実に生き生きとしている。彼等は飛行機で雲の彫刻を描き、歌を歌う植物を調律して店に並べ、宝石をくっつけた虫たちを従わせ、歌う彫刻で愛を語り、カンバスはひとりでに絵を描き、成長する彫刻はマーラーやモーツァルトを奏で、生き生地でできた金色のスーツに絞殺されそうになり、機械で詩を書き、生きている家に住む。このガジェットともいえるモチーフを使って語られる美と狂気の世界はなぜか生き生きとしていて、一気に読み切った。SFの一つの境地ではなかろうか。
いくつかの作品ではコメディ・タッチな部分があり、バラードらしくないが、楽しい。なかでも一番好きなのはスターズのスタジオ5。ここのモチーフは詩で、詩人たちはIBM製のコンピューターで詩作している。彼等はどうやら詩の女神の寵愛を失い、詩を作ることができなくなっていたらしい。ヒロインのオーロラ・デイは詩人たちに詩を作らせようとするがなかなかうまくいかないところの描写は笑える: 「自分の手で書けだと、ポールおまえさんも気がふれたな」「ポール、私はごめんよ。妙なところに筋肉でもついてごらんなさい」。そして最後に、詩人たちが霊感を取り戻すところの描写は感動的:
「もう十二時四十五分でふつうなら疲れ切っているはずだったが、頭の中は生き生きと冴え返り、無数のアイデアが駆け巡っていた。一つの詩句がひとりでに頭の中に形作られた。私はメモをとりあげ、それを書きとめた。時間が消え失せたようだった。十何年ぶりに書く最初の詩を私は五分と立たぬ間に完成していた。そのあとには、十あまりの詩が心の表層のすぐ下にひそみ、ゆたかな鉱脈に含まれた金のように日差しの下に取りだされるのを待っているのだった」
コーラルDの雲の彫刻師
これを読み返すのは何年振りだろう。バラードがこれを書いたのはもう50年前。最初はコーラルDの雲の彫刻師。金持ちの女性、シャネルというのは、あのシャネルをイメージさせる。男たちはグライダーに乗り、雲の彫刻を描く。はかない、いかにも退廃的なバラードらしい短編。これから長野。
三人の彫刻師たちはシャネルに呼ばれてラグーン・ウェストの夏別荘に行き、招かれた客たちの上空でレオノーラ・シャネルの雲の彫刻を描く。グライダーで巨大な雲の彫刻を作る壮大な情景、その彫刻は頭上を形を変えながら飛んでゆき、やがて消え去る。一瞬のきらめきのはかない芸術。そして最終日、嵐の中に飛び出したプチ・マニュエルは墜落し、レオノーラとバン・アイクは竜巻に襲われて夏別荘もろともに死ぬ。せむしのプチ・マニュエルはレオノーラにそそのかされて飛び立ったのだが、その竜巻はノーランが復讐のために連れてきたものだったのだろうか。ノーランはどうやら生き延び、どこかで雲の彫刻を作っているらしい。結局、気付いてみると、主人公のレイモンド・パーカー少佐は美人らしい秘書のビアトリスをものにし、コーラルDのノーランのアトリエに住んでいる。うまくやったな。悲劇の終末だが主人公はハッピーエンドというのは、バラードの小説では時々あるストーリーかもしれない。
「観客の注意はつぎの雲に向かって翔け昇っていくノーランの黒い翼のグライダーへと移った。たそがれはじめた空から溶けかかった雲の花びらが降り注ぎ、そのしぶきは、ノーランが彫り進めている作品を朦朧とぼかしてしまった。意外なことに、やがて出現した肖像は真にせまった出来だった。盛大な拍手とタンホイザーの数小節が響き渡り、次にサーチライトがその優雅な顔を照らし出した。客たちに囲まれたレオノーラは、ノーランのグライダーに向かってグラスを差し上げてみせた」
プリマ・ベラドンナ
歌う花の話。主人公は歌う花を店で売っている。そこに絶世の美女がやってきた。歌手の彼女がやってくると、店の花たちは反応し、歌い始める。なんとも魅惑的な世界。そこはバーミリオン・サンズ。歌い始めた花のバルブを閉めて黙らせてしまう主人公。魅力的な女性との会話。この主人公はバラード自身に違いない。彼は今も、バーミリオン・サンズにいて、歌う花を売っているのだろうか。
ジェイン・シラシリデスは妖艶な魅力を持った歌手で、バーミリオン・サンズのカジノで人気者となる。スティーブは歌を歌う植物を育てて売る商売をやっているが、ジェインがやってくると花たちはざわめいた。ジェインに花たちの調律をたのみ、彼女をものにしたと思ったスティーブだったが、ジェインが狙っていたのはアラクニッド蘭だった。夜の店で巨大に成長して歌うアラクニッド蘭は翌日死に、ジェインも去る。不思議な魅力をもった作品。
「静かに、歌いたがっているようだわ。・・・低くリズミカルに溶け合ったメロディがまわりに並んだ植物から響いていたが、今その上により力強い一つの声が大きく呼びかけるのを私は聞いた。最初のそれはリード楽器に似た細くかん高い音だったが、やがて脈打ち始め、深みを増し、ついには他の植物たちのコーラスを従えた朗々たるバリトンまでに膨れ上がった。・・・スタン・ケントン楽団演奏のニーベルンゲンの指輪だ」
「まずこれから始めよう・・・周波数543から785。譜面はここにある。ジェインは帽子を脱ぎ、澄んで狂いのない声で音階を下から上へとさらった・・・・・コロンビーヌは元気よく彼女に続き、下萼を震わせて高音部のデリケートな変奏を歌いこなした。完璧だ。・・君はアラクニッド蘭より腕がいい」
「照明は全部消してあったが、まばゆい輝きが店内に溢れ、カウンターの上に並んだタンクに金色の炎を投げかけていた。・・・その音楽を私は前にも聞いたことがあるが、しかしあれは単なる序曲にすぎなかったのだ。アラクニッド蘭は三倍の大きさに成長していた。栽培タンクを突き破って9フィートの高さにそそり立ち、葉を真っ赤に膨れ上がらせ、バケツのように大きな萼で狂おしく絶叫しているのだ。その前に身を乗り出し、首をのけぞらせているのはジェインだった。・・・・・あくる日、蘭は死んだ。」
「ジェインの行方は知らない・・・・ジェインにそっくりな歌手が・・・ナイトクラブをめぐっているという・・・・だからもしあなたがたのなかに歌う草花店を経営していて、おまけにカーン・アラクニッド蘭を持っている人がいたら、金色の肌に昆虫の瞳をした女にだけは用心したほうがいい」
スクリーン・ゲーム
バーミリオン・サンズで映画撮影する資産家チャールズ・バン・ストラットンと監督オースン・ケニン。私ポール・ゴーディングはチャールズから背景の作画、美術設計を依頼された。
ポールは宝石を象嵌された昆虫に取り巻かれた女性xxxxに会う。彼女はストラットンの家族(妹?)のようで、xxxx博士がつきそっている。彼女が去ると宝石昆虫たちも去り、カマキリだけが残っていた。蝶やトンボでなく、サソリや毒グモというのがいかにもバラードらしい。暗い影がつきまとう美の世界。ストーリーなんかどうでもいい。この審美の世界にぞくぞくするのだ。
宝石を象嵌した虫たちに囲まれたエメラルダ・ガーランドを正気に立ち直らせるため、チャールズはスクリーン・ゲームを利用しようとした。エメラルダは夏別荘から出てスクリーン・ゲームに加わるが、結局、外へ行くことはなかった。そしてある日、エメラルダに近づこうとしたチャールズは虫たちに刺殺される。
「彼女はゲームのリズムに魅せられたように体を左右にゆすり、その足元にはいつもの虫たちが群れつどっていた」
「彼女は私の手を振りちぎって走り去った・・・・・宝石をいただいた虫たちはのろのろとテラスを横切って彼女を追い、その最後の光が消えゆく夜の河のように薄れていった」
「爆発の閃光のようにエメラルダの足元からまばゆい光の渦が吹き上がった。宝石をつけた蜘蛛や蠍が地上から舞い上がったチャールズ・ヴァン・ストラットンを包み込んだのだ」
歌う彫刻
歌う彫刻家ミルトンのところに金持ちの客ルノーラ・ゴールンがやってきた。店の主人ゲオルクは薄汚い彫刻家を追い払うが、客は彫刻家の作品が気に入り、購入する。バラードには珍しいコメディ・タッチの作品。
「この世で最もあなどられている人種はモダン・アートの富裕なパトロンであるというのはだいたいにおいて正しいだろう。世人には笑われ、美術商にはふんだくられ、当の作者にはせいぜい食券くらいにしか思われない。・・・何百万ドルもの作品は大勢の彫刻家にとって自由と生命を象徴するものであるのに、ミス・ゴールンに感謝する者はほとんどいなかった」
「マダム・シャルコウはしたりげにうなずいた。このかた、作者なんですのね。それで安心しました。あたくしはまた、このかたが内部に住まっておいでだったのかと思って」
ルノーラが彫刻を気に入ったのは、彫刻のなかでミルトンがとっさに歌った曲のためだった。彫刻が歌わないので直してくれとたのまれ、ミルトンは録音テープでいろんな曲を流し、ルノーラに捧げる。テープを取り換えようとして断られ、外からテラスに侵入して取り換えるミルトンはルノーラに恋していたのだが、結局、ルノーラはミルトンには目もくれない。そして歌わなくなった彫刻を残し、ルノーラは去る。出だしはコメディタッチ、テラスから忍び込むところはロミオとジュリエト風だが、最後はやっぱりバラード風の悲劇的な終末。金持ちの美女と貧乏芸術家の恋のすれちがい。しかし、テープとは・・・
希望の海、復讐の帆
これまた男が金持ち美人に会う話。今度のモチーフはひとりでに絵画を描くカンバスと絵具。毎日2時間ほどカンバスの前に立つことで、絵具がその姿を描いていく。劇的に。バラードはプロットの中に古典の名作、コールリッジの老水夫行のオマージュを入れ、主人公のロバート・メルビルは銛で砂鱏を打ち殺し、大きなスクーナーに乗ったホープ・キューナードに助け出され、彼女の邸宅でロートレアモンのマルドローヌの歌を朗読させられる。
「あなたの鱏を殺したのはすまないと思うけれど、信じてほしいな、あれはなんの考えも無しにやったんだ」「老水夫もそうだったわ・・・・・あなたがマルドローヌの歌をよんでいるところを描きましょう」
物語はやや屈折ぎみに進む。ホープの絵に少しづつ姿を現わしはじめたのはホープの昔の恋人xxxxxxで、毎夜こっそり現われ、キャンバスに姿を写しとらせていた。ロバートはその姿に自分の顔を写しこませ、ホープの愛情を勝ち取り、彼女の新しい恋人となる。だが、ホープとロバートの絵は醜悪な姿に変身しはじめた。それはホープの異母弟と秘書のしわざだったが、醜悪な絵を見て動転したホープはロバートとxxxxxに向かって発砲し、彼等の恋物語は終わる。ホープは異母弟や秘書の悪戯がなければxxxxやロバートと幸せに暮らせていたのだろうか。それとも一生治らぬ神経症のため、異母弟たちとの悪戯を繰り返す人生に縛り付けられているのだろうか。プロットは二の次、姿を写しとるキャンバス、砂漠を行き交うスクーナー、白い砂鱏、そして老水夫のオマージュを楽しむべき作品なのだろう。美と狂気の世界。
ビーナスは微笑む
スクリーンに登場したレイモンド・メイヨが再登場し、芸術委員会委員ハミルトンの相棒役を務める。バーミリオン・サンズの広場にロレイン・ドレクセルに頼んで設置した音響彫刻が主役で、デビューのときはひどい騒音を出して広場から撤去され、ハミルトンの庭に移されるが、なんと、この音響彫刻は成長し、鉄のスパイクから音響コアが生まれ、今度はモーツアルトやマーラーを奏で始める。鉄が錆びる過程を逆にたどっているようなのだが、科学的説明はそこまで。音響彫刻は成長を続け、ストラビンスキーやシュトックハウゼンまでやりだす。ハミルトンとメイヨは彫刻を解体して業者に引き取らせるが、これが契約違反に問われ、ロレイン・ドレクセルに賠償金を払うはめになる。が、これはまだオチではない。建設中の裁判所の鉄骨にいつの間にか音響コアが芽吹いていた。この鉄は溶かされても不死身らしい。そこで話は終わるが、彫刻は死んでおらず、町に被害を与えたとなれば、ハミルトンは賠償金を取り戻せたのだろうか?
風にさよならを言おう
今度の主人公は生きた生地(バイオファブリックス)でできたブティックの店主。もはや死んだ生地の服を着る者はいないらしいから、格別特殊な職業でもないらしい。ある日、洋服たちはえらく調子が悪く、色も褪せていたが、ある女性が店に入ってくると洋服たちは大人しくなった。それは前の夜、郊外で男たちと踊っていた女だった。人の感情を感じ取って着ているものが暴れたり色あせたりするんじゃ普段の生活も大変だ。このバラードの世界はちょっと落ち着かない。
バイオ・ファブリックスのブティックを開いているサムスンの店に若くして引退したモデルのレイン・チャニングがやってくる。サムスンは彼女が店じまいしたナイトクラブで踊っているのを見た。六千ドルほど購入していった服が暴れだし、サムスンは出かけて行って服をなだめるが、それ以後、サムスンはレインと恋人関係になる。まあ、いつものパターン。だが、レインの別荘の近くに砂上ヨットの青年が出没し、やがてレインはサムスンを残してその青年と出かけて行ってしまう。
「色彩と組織が固定しているため、うつろいやすい人間の姿をごく大ざっぱにしか模倣できないような死んだ繊維から衣服が作られた時代はすでに終わり、着用者の体形と個性にぴったり適合できる生きた繊維の時代がやってきたのだ。さらにそれ以上の長所は、着用者の体臭や発汗、女性の汗腺からしみ出る甘いリキュールを栄養にして、布地が成長を続け、そして、この絶え間ない繊維に再生によってほころびやほつれの修理だけでなく、洗濯さえも必要がなくなることだった」
「いまでも戦慄とともに思い出すのは、ネプチューン・ホテルの混雑したプールである女性が高飛び込み台の上に立った瞬間、神経質なビキニがいきなり持ち主のくるぶしへと脱げ落ちてしまった光景だ。」
「見守るうちに私はそれらの衣装が今朝早くに起きたなにかの感情の激発のあとで、不安げに自分を落ち着かせているところだと感じ取った。だれかがこの連中を狂乱に追い込んだんですよ・・・こういう織物の近くで感情的な騒ぎを演じてはならないのをミス・チャニングはご存じないんですか」「サムスンさん、誰にも悩み事はあります。あなたの仕事をなさってくださればよろしい。報酬は即座にお払いします」
金色のスーツに絞殺されそうになっていたサムスンを助けたのは他ならぬヨットの青年だった。彼はレインの服をデザインしていたxxxxカザールの弟で、兄を殺した金色のスーツを使ってレインが同じことを繰り返しているのを阻止しようとしていたらしい。砂塵をたてて走り去るレインと運転手の車をサムスンは茫然と見送る。
スターズのスタジオ5
今度のテーマは詩、モチーフはIBM製のVT。ビデオ・テープではなく、ヴァース・トランスクライバー(詩歌編集装置)。昔の詩作に長さや韻を考慮して、機械が詩を作るというとんでもない設定。スクリーンプレイに出てきたトニーサファイヤとレイモンド・メイヨが再出演。だが、詩集の編集長はポール・ (スクリーンでは画家ポール・ だった)。ポールの隣にやってきた女流詩人オーロラ・デイはVTを使わずに自分で詩を作る(いいじゃないか)のだが、その詩がポールには気に入らない。送られてきた詩をボツにしたポールは一瞬目がくらみ、顔にできものができ、あげくに、どうやったのかは分からないが、翌月の詩集はオーロラの詩で埋まっていた。たぶん笛を吹いてつむじ風を起こす、せむしの運転手が怪しい。エル・ドラドのコンバーチブルというのはキャディラック?
「わたしはパンの神がキャディラックで通りかかるのを見たのだった」
「シェイクスピアとエズラ・パウンド?新しい隣人はひどくへんてこな趣味の持ち主らしい」
「ただボタンを押し、ダイアルで歩格(メーター)やライム(韻)やアソナンス(類韻)を選択するだけの問題になりました。」
「昔の詩はその方法で書かれていたんだよ。シェイクスピアもそれを試みたし、ミルトンもキーツもシェリーも当時はその方法でもかなりうまくいったんだ」
ポールは翌月の詩集を燃やすが、戸口にうずくまると足元に詩の一節、ドアを開けようとすると鍵穴に詩の一節、家の壁一面に詩が書かれており、手にするものにすべて詩の障害が現われ、どうすることもできない。ポールはオーロラのところに行って降参し、次号の編集をオーロラに任せる。すると彼女は機械を使わず、自分で詩を書けと言う。ポールは詩人たちにそれを伝えるが、運転手が全ての機会を壊していて、誰も作れない。ただ一人、古いポンコツの機械をもっているxxxxが作れるというが、どうやら彼は機械に頼らずに本当に自分で作っているようだ。だが、それがポールたちには分からない。機械を使わずに詩を作るなど、考えられなくなっているのだ。最後にはこのかわいそうな詩人たちはよみがえるのだろうか。それとも、バラードの落とし穴に落ちていく運命なのか。
「なれを夏の日に比べんか、なが姿さらに麗しく」シェイクスピア
「白波に竜骨を向け、かの聖なる海に船出せよ」エズラ・パウンド
「私は頭がくらくらするので目をつむった・・・何秒かすると・・・ガラスのステップに・・・。『なにゆえにかくも蒼ざめ、やつれしや?ああ、わが恋人よ、そもなにゆえに?』(ジョン・サックリング「アグローラ」の一節)」
「玄関の鍵を鍵穴にさしこもうとしたとき・・・真鍮の板に・・・『油沁みたる鍵穴に手早く鍵を回せ』(キーツの「眠りによせて」の一部)」
「グラスを取り上げて唇に近づけた。克明な刻み文字・・・『ただ汝が目もてわがために乾杯を』(ベン・ジョンソンの「シーリアに」)」
トリストラムが自分で作った詩をオーロラは気に入り、そして詩の神メランダーとコリドンの伝説のとおり、砂鱏狩りに出かけたトリストラムは鱏に刺されて死に、オーロラはせむし男と共にキャディラックでバーミリオン・サンズを去る。ところがどっこいトリストラムは生きていた。彼はコリドンの伝説を知っており、この季節は鱏に刺されても死なないと知っていたのだ。そして伝説の通り、バーミリオン・サンズの詩人たちは霊感を取り戻し、自分たちで詩を書き始める。なんとも珍しい、バラードのハッピーエンド。
「女神はこうおっしゃった・・・・おまえたちのうちの誰かが私に命をささげない限り、霊感が戻ることはありますまい」
「自分の手で書けだと、ポールおまえさんも気がふれたな」「ポール、私はごめんよ。妙なところに筋肉でもついてごらんなさい」
「もう十二時四十五分でふつうなら疲れ切っているはずだったが、頭の中は生き生きと冴え返り、無数のアイデアが駆け巡っていた。一つの詩句がひとりでに頭の中に形作られた。私はメモをとりあげ、それを書きとめた。時間が消え失せたようだった。十何年ぶりに書く最初の詩を私は五分と立たぬ間に完成していた。そのあとには、十あまりの詩が心の表層のすぐ下にひそみ、ゆたかな鉱脈に含まれた金のように日差しの下に取りだされるのを待っているのだった」
ステラヴィスタの千の夢
今回のモチーフは生きている家。ヴァーミリオン・サンズの別荘はどれもサイコトロピック・ハウス(向心理性建築)で、人間に合わせて自らを調整しようとする。
「わたしが戸口のほうに足を踏み出すと、それは突然警戒するようにぴくりと動いて入口をひっこめ、ほかの円球にかすかな振動を伝えた」
主人公が買うことにしたサイコロトピック・ハウスは、ある女優が所有していたもので、家はその女優の性格を受け継いでいた。主人公はそれを感じてみたかったのだが、妻は気に入らないようだ。
今回のモチーフはサイコロトピック・ハウス。人の感情に反応して家が動き、プラスティックスの壁が形を変えて椅子になる。ハワード・タルボットは妻のフェイとバーミリオン・サンズに家を探しにやってきて、不動産業者のスタマーズの案内でいくつかの家を見て回るが、どの家も過去の住人の感情が不吉なまでに残っていて、安心して住めそうもない。だが、グロリア・トレメインが住んでいた家にタルボットは興味を示す。昔、夫殺しの裁判で彼女の美しさに惹かれていたからだ。タルボットはフェイの反対を押し切ってグロリア・トレメインの家を買い、そこに遺された彼女の人格に熱中するが、やがて夫婦喧嘩をきっかけに殺されたヴァンドン・スターの人格が現われ、破局が到来する。フェイは出ていき、残されたタルボットも生き残り、スイッチを切ったサイコロトピック・ハウスに住み続ける。誰も死ななくてよかった。
「わたしは周囲で部屋が動くのを感じた。天上はゆっくりと脈打つように膨らんだり縮んだりしていた。われわれの呼吸のリズムに合わせた滑稽なほど大げさな反応らしい。しかしその動きにはある種の心臓疾患からのフィードバックである鋭い横断的な痙攣が重なっていた」
「グロリア・トレメインの美しく澄んだ人格はすでに消えていた。女性的なモチーフは依然としてよりかん高い調子で続いていたが、それを圧して目立つのは明らかにバンドン・スターの存在だった。・・・フェイに対するわたしの膨れ上がった怒りはこの家からいよいよ激しい敵意の表れを引き出す結果になった」
「スタマーズはたいそう驚いたようだが、わたしはその後もストラヴィスタ99番地に住む決心をした。この家はわたしにとっていくつかの申し分のない記憶を持っていたので、、とても見捨てる気にはならなかったのだ。グロリア・トレメインは依然としてそこにいたし、それにヴァンドン・スターはついに消え去ったという確信があった・・・いずれ近いうちに結果がどうなろうと、わたしはこの家に再びスイッチを入れずにはいられないことを知っている」
解説 浅倉久志 「正直いって、実験小説に転じて以後のバラードの作風にはあまりなじめない僕なども、このシリーズや初期の短編(「時の声」「大建設」「砂の檻」・・・まったくあの頃のバラードは良かった!)はすんなりと楽しめるのだ。