石原莞爾将軍年譜

1889年(明治22年)1月18日  

山形県鶴岡市に生まれる。

1902年(明治35年)

仙台陸軍地方幼年学校に入校。

1908年(明治41年) 陸軍士官学校本科生徒(陸士21期)時代(武田)

1909年(明治42年)

陸軍歩兵少尉 歩兵第65連隊付。会津若松。

1910年(明治43年) 会津若松歩兵第65連隊時代、渡鮮前、飯盛山白虎隊碑前にて(武田)
1910年(明治43年)6月 会津若松歩兵第65連隊、韓国の春川にて(武田)
1910年(明治43年) 会津若松歩兵第65連隊、銃剣術の賞として与えた絵葉書(武田)

1910年(明治43年)

連隊、韓国守備着任。駐屯地 春川(京城北)。

1912年(明治45年)

守備交代のため、春川離任、青森帰着。

1913年(大正2年)

歩兵中尉。

1910~1912年(明治43~大正元年)頃 会津若松歩兵第65連隊、韓国の春川守備隊長時代(中央)(武田)
1910~1912年(明治43~大正元年)頃 韓国の春川守備隊長時代、農村視察(中央黒手袋)(武田)

1915年(大正4年)

陸軍大学校に入校。

1918年(大正7年)

陸軍大学校卒業。原隊に戻る。

1918年(大正7年) 陸軍大学校卒業の頃(武田)
1918年(大正7年) 会津若松歩兵第65連隊転出記念(後列中央)(武田)
1918年(大正7年) 陸軍大学校卒業(次席)記念、メッケル将軍像前にて(武田)
1919年(大正8年)4月 歩兵大尉任官記念(中央)、恩賜の軍刀と共に(武田)

1919年(大正8年)   

30歳。歩兵大尉 中隊長。国府 銻子(こくぶ ていこ)と結婚。 日蓮聖人の信者として確信された時期はこの頃 。国柱会員になる。

1920年(大正9年)

中支那派遣隊司令部付。漢口。

1921年(大正10年)

陸軍大学校 兵学教官。

1922年(大正11年)

軍事研究のためドイツ駐在。ベルリン在住。

1924年(大正13年)

歩兵少佐。

撮影時期不明 詳細不明(武田)

1925年(大正14年)

ドイツからの帰途、ハルビン講演で初めて『最終戦争論』による歴史観を発表。再び、陸軍大学校 兵学教官。

1928年(昭和3年)

歩兵中佐。関東軍参謀。旅順。

1931年(昭和6年)9月

満州事変勃発。

1932年(昭和7年)8月

歩兵大佐。陸軍兵器本廠(ほんしょう)付となり東京へ転居。

1932年(昭和7年)10月 国際会議出席のためスイス・ジュネーブへ向かう(武田)

1932年(昭和7年)10月

国際連盟総会臨時会議帝国代表随員(ジュネーブ)、翌年5月まで。

1933年(昭和8年)

歩兵第4連隊長。仙台。

1933年(昭和8年) ジュネーブ国際会議の帰路モスクワにて(前列右2人目)(武田)
1933~1935年(昭和8~10年)頃 歩兵第4連隊長時代(前列中央)、場所不明(武田)
1934年(昭和9年) 歩兵第4連隊長時代、銃剣術最優秀者と記念撮影(中列中央)(武田)

1935年(昭和10年)

参謀本部作戦課長。

1936年(昭和11年)

戒厳参謀兼務(二・二六事件)、2月27日~3月7日まで。

参謀本部戦争指導課長。

1937年(昭和12年)3月

陸軍少将。参謀本部作戦部長。

1937年(昭和12年)9月

関東軍参謀副長。新京。

1937~38年(昭和12~13年)頃 関東軍参謀副長(左から2人目)(武田)
1937年(昭和12年) 関東軍参謀副長、満州丸船上にて(眞山)
1937年(昭和12年) 陸軍少将、参謀本部作戦部長時代(武田)
撮影時期不明 詳細不明(武田)
撮影時期不明 詳細不明(武田)
1937年(昭和12年)11月 多田参謀本部次長の満州訪問時、前列右2人目から石原、多田、東条 (武田)
撮影時期不明 詳細不明 (武田)

1938年(昭和13年)8月

予備役(よびえき)編入願いを関東軍司令官に出し、帰国の途につく。『昭和維新方略』を執筆。

1938年(昭和13年)12月

舞鶴要塞司令官。

1939年(昭和14年)8月

陸軍中将。留守第16師団司令部付。第16師団長。京都。

撮影時期不明 舞鶴にて(武田)
1939年(昭和14年)8月 舞鶴要塞司令官時代(前列中央)(武田)
1939年(昭和14年)頃 舞鶴・清和楼にて東亜連盟講習会 (武田)
1940年(昭和15年)1月1日 第16師団長(京都)時代、師団司令部一同と橿原神社に参拝(武田)

1940年(昭和15年)9月

『世界最終戦論』初版(立命館大学出版部)。

1940年(昭和15年)初冬頃 京都・一灯園前にて、講習会を終えて (武田)
1940年(昭和15年) 京都・聖護院にて東亜連盟講習会(武田)

1941年(昭和16年)                

予備役編入。『戦争史大観』を著したが事実上の発禁となる。軍閥政治の弾圧下、東亜連盟運動を指導。

1941年(昭16年)4月7日 身延山参拝(前列右)(歌川)
1941~1942年(昭和16~17年)頃 鶴岡市番田の時雨荘前にて(鈴木)

1942年(昭和17年)9月

郷里鶴岡へ転居。

1942年(昭和17年)12月

甘粕正彦氏仲介により、東京にて東條・石原会談。東條首相に辞任勧告。

1942年(昭和17年) 鶴岡市風間邸にて、満州留学生慰問会(前列中央)(武田)

1943年(昭和18年)1月

三笠宮殿下ご進講。殿下が支那派遣軍参謀として出発に際して。

1943年(昭和18年)8月

大川周明と会談。皇族内閣を要望。

1943年(昭和18年)6月 宮城県立農学寮前にて、東亜連盟講習会(2列目中央)(武田)
1943年(昭和18年)7月24日 福島県嶽温泉にて、会津若松第65聯隊第4中隊当時の部下と共に(武田)
撮影時期不明 東亜連盟の同志と共に、場所は不明(武田)

1945年(昭和20年)8月

組閣を終えた東久邇宮(ひがしくにのみや)より内閣顧問の要請、固辞。

1945年(昭和20年)9月12日

山形県新庄にて東亜連盟同志会集会。聴衆は3万人ともいわれる。

撮影時期不明 和服姿で、場所は鶴岡市の番田と高畑町の二説がある(眞山)
撮影時期不明 石原将軍とてい夫人と思われる、場所不明(武田)
1945年(昭和20年)9月12日 東亜連盟新庄大会、新庄公園での講演(菅原克)

1945年(昭和20年)10月

京都講演で『新日本の建設』を説く。

1946年(昭和21年)1月

占領軍司令部より、東亜連盟同志会へ解散命令(地方組織68・約20万人)。

1946年(昭和21年)1月~8月

東大病院から逓信病院入院。

1946年(昭和21年)8月~10月

鶴岡大泉村に仮住まい。

1946年(昭和21年)10月12日

高瀬村(現遊佐町)の西山開拓地に入る。 

1946年(昭和21年)12月

『我等の世界観』執筆。

1947年(昭和22年)5月1・2日  

極東国際軍事裁判酒田出張法廷に証人として出廷。

1947年(昭和22年)4月30日 極東軍事裁判酒田出張法廷へ、リヤカーで吹浦の月光川を渡る(武田)
1947年(昭和22年)酒田法廷に出廷するため同志が引くリヤカーに乗り自宅前を出る石原。後方で談笑する2人は桐谷誠氏夫人敏子さんと付添いの小野克枝看護婦(思想研)
1947年(昭和22年)5月1-2日 極東軍事裁判酒田出張法廷、酒田商工会議所二階にて(武田)

1948年(昭和23年)11月

16ミリトーキー記録 。

1949年(昭和24年)6月  

『日蓮教入門に関する愚見』著す。これをもとに同志が協力し『日蓮教入門』を完成させる。 

1949年(昭和24年)7月  

占領軍マッカーサー元帥あて『新日本の進路』(英訳)を送る。 

1948年(昭和23年)冬頃 藪式温熱治療を受ける、後方は右から武田邦太郎、桐谷誠(武田)
1948年(昭和23年)頃 病躯をおして「立正安国」の文字を揮毫する(眞山)

1949年(昭和24年)8月15日  

逝去。享年60歳7ヶ月。

1946~1949年(昭和21~24年)頃 晩年の石原将軍、西山のご自宅にて(鈴木)
参考資料:石原 六郎、『石原莞爾・年譜』/石原莞爾生誕百年祭 実行委員会編、『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』所収、276-278頁、原書房、1988年。石原莞爾顕彰会 事務局、『石原莞爾先生に係わる主な略歴または経緯(戦後を中心にして)』、2010年1月。野村 乙二朗 編、『東亜聯盟期の石原莞爾資料』、同成社、2007年。
写真出典:武田 邦太郎氏所蔵アルバム および ネガフィルム眞山 文子氏所蔵アルバム歌川 博男氏所蔵アルバム鈴木 法行氏所蔵アルバム菅原 克夫氏所蔵アルバム石原莞爾思想研究会
編集: 歌川 博男、鈴木 卓監修: 歌川 博男
注記 写真並べ順:撮影時期不明分もありますが、それらについては推測で年代順に配置。お気づきの点がありましたら、墓所事務局へ、または、ご意見・ご感想の入力フォームを利用して、ご連絡いただけると大変助かります。