FAQ
試験運転中。正式版はgnck.netに作る予定。質問は質問箱へ
01
gnckは日本画も鑑賞/批評するのですか?
基本的には絵画全般について鑑賞してます。そもそも批評行為については誰しもが行っている行為です。→02
で、現在の日本画については、画題の傾向と画材の縛りくらいしか実質的なジャンルの同定はできない状況となっています。画材については膠と岩絵具で描くということになるけれど、そもそも岩絵の具の乾燥し、ざらついた表面が得意とする表面は、植物か錆かくらいで、それ以外のものを描くときにあの表面は基本的には扱いづらいものとなってしまう。(膠画はたとえば水墨画とは技法的に断絶してる。)にも関わらず、不得意なモチーフを選ぶものや、向いているというだけで保守的な画題となっている作品ばかりで、個別にうまい作家はいるものの、ジャンルとしては見るべきものが無い状況に陥っていることは確かでしょう。
ジャンルの前提となる「日本の絵画」と「日本画」の違いや制度史的な解説については北澤憲昭や佐藤道信の仕事を読むといいんだと思う。けど、画壇の形成や各地の団体展の構造など詳しいリサーチはあるのかな?無いのかな?どうでしょう。近代以降の文化政策とのかかわりについての基本的な本とかもそんなに無いような(というか、文化政策そのものが日本においては明確な指針をもたない期間がかなりあったようです。)。
例えば「日本の伝統を背負うのだ」ということは、一作家が考えるようなことかといえば、それよりは、思想家や宗教家などの専門家がクライアントとなって画家に発注する方が適切な「ナショナルペインティング」になりそうです。(そのような発注すら存在しないがために作家が「なんとなく伝統画題の中で自分にあったものを選ぶ」とか「極私的なモチーフに内向する」ことが起きている。起きているにもかかわらず、画材や表現技法とは齟齬をきたしているということが大きな問題のように思えます。)
その上で、植物への注目や画材に縛りが与えられているという教育プログラムをきちんと”応用”しているみなはむのような作家に注目しています。
(2019.2)
02
批評を行うというのはどういうことですか?
食事について美味いか不味いかを判断しないことが困難であるように、作品を見て、善し悪しを判断すること(=鑑賞)は、誰しもが行っているはずです。その判断について「根拠をもとに言語化し説明する」ことも、たとえばあなたのそばに展覧会を見に行く人がいたり、ギャラリーのレセプションにいたりすることがあれば分かるように、決して専門家に専有されるようなスキルでもありません。その話の聞き手はそれが妥当かどうか判断することもできるし、その場で質問を投げかけることもできるはずです。本来的には批評行為とはそんなものであって、テキストで発表するかどうかとか、そこに新しい理論的枠組みがあるのか無いのかというのは二次的な問題(というか、作品の質の説明のために理論的な枠組みが必要とされてはじめて理論は提示し得るものでしょう)だと言えるでしょう。
詳しいことは森功次訳のノエル・キャロル『批評について』とか読むといいんだと思う。
(2019.2)
03
作品のコレクションはしますか?
あまり積極的ではないですが、ドローイングくらいなら何点かあります。あんまり積極的にコレクションを形成しようという気が無いのは、それによって言説が歪むのが嫌だなという風に感じているからですが、別にコレクションすることと言説の正しさは直接的な関係がありません。なので、単に億劫だとか、容積に限りがあるとか、お金が無いとか、そういうことでもあります。デジタル画像の批評が専門であるという出自もまた、関係しているかもしれません。また、作品を所持するよりは、作品の達成を理解すること、適切に言葉にできることに重きを置いている部分もあります。しかしながら展示芸術においては、何よりもコレクションの形成が言説の形成のための強力な資源であることに疑いの余地は無いでしょう。
(2019.2)
04
講評を希望しています/展示を見てほしいです。
学生である/ないを問わず、講評の希望は可能です。twitterおよびメールにて連絡してください。展示については「良ければ来てください」という情報提供なのか、「是非来てほしい。その場でコメントが欲しい」という依頼なのかをはっきりとお知らせしてもらえると嬉しいです。
講評については2019年現在、相原、橋本駅近辺には向かいやすいです。(なので相模原も至近距離です。)
(2019.2)
05
最近気になっている作家はいますか?
トレンドだとか、次に来る、という意味で聞かれている側面が多分にあるかと思いますが、興味の更新がどんどんされるタイプではありません。したがって、2009年に企画した「解体されるキャラ」展で取り上げた二人の作家JNTHEDと梅沢和木が継続的な興味の対象だといえます。また、エドゥアール・マネについて、非常に高い達成を成した画家であると思っています。
近年の関心については、『スクリーン・スタディーズ』で取り上げた作家たちもご参照ください。
(2019.2)
06
gnck自身も制作をするのですか?
「芸術作品の制作」を行うことはありませんが、普段の業務では造形行為やその指導も行います。(プロフィールにも書きましたが、高校はデザイン科を卒業しています。)批評においては、作り手や作品に内在する理論を言語化するような仕事をしたいと考えています。
(2019.2)
07
ステートメントのポエム化について、どのようなものが「ポエム」とお考えですか。(具体例を出すことが悪口になってしまうので、挙げにくいかもしれませんが・・・)わたしは美大生の作品タイトルの「たゆたう」のような曖昧な動詞やキュレーターが作家の作品に色をつけるために寄せる文章によく見られる、比喩の多い独特な文体のことを想像しているのですが。
詩が現に一つの表現領域であるように、詩的な表現であることそのものをもって、ステートメントを断罪することはできません(一つの立場として、絵画のものは絵画にせよ、という態度であれば、言語の部分に無用に修辞を尽くしてはならない、という立場もあるでしょう)。
さしあたってファインアートにおいてステートメントが要求される瞬間とは、「作品が、アートワールドのイシューや、美術史に対して、どのような立場を表明しているのかを鑑賞者に伝える補助線」としてのものになるでしょう。→08
「ポエム化」が非難される所以は、まずはそのような態度表明がなされていないとか、あるいは結論が出ているはずのことに対して、新しい角度の批判ではなく、作家の感覚的な態度表明しかなされていない、ということにあるのかもしれません。(そもそもステートメントとは「声明文」という意味ですから。)
詩的な表現を用いてもよい場面を考えるならば、「作品に内在する感性や美意識を適切に言語化できている」時であって、詩的な言葉が造形的な作品を超えてしまえば、本末転倒でしょう。
作家としては、「言語的なフレームを不用意に設定すると、単純化された視点からしか鑑賞されない」ことを嫌って、そのような詩的な言葉遣いとなっている事情もあるかもしれません。同様に、作家を説明する言葉として用いられる際にもそのような事情が機能している可能性はあります。
作品についての言葉を読むものには、「作品が真に価値をもち、その内在する可能性を誠実に言葉にしようとしている」のか、「言葉によって煙にまこうとしているのか」という視点が求められるかもしれません。
(2019.2)
08
アートワールドとは何ですか
要するにファインアート業界のこと。(と、思っていましたが、ゲームの美学を松永伸司アーサー・ダントー『アートワールド』ではそんな議論してないよ、とのこと。これだから耳学問はだめですね。)
「ファインアートとは欧米のアートマーケットのことであり、そこでは全てが言語化され、ルール化された世界である」という態度は、村上隆が特に強力に言説を展開し、展覧会をはじめGEISAIや書籍の刊行、講演、カオス*ラウンジやOOOOをはじめ若手アーティストのリクルートなどのプロジェクトを推進していました。(カオス*ラウンジとは後に訣別しています。)
gnckは、この業界が単に世に数ある業界のうちの一つなのか、国家行政による美術館制度と密接に関わる業界なのかという点を問題にします。(gnck「芸術の公共圏」(『絵画検討会2016』)も参照ください。)
(2019.2)
09
美術系学生など初学者向けの本や、重要だと思う本はありますか?
まずgnckはあんまり本読めてません。多読の人にちゃんと聞いたほうがよい質問です。誰だろう。その上で。
問題は何のために本を読むのか?ということです。本を読むことによって、作品を見る際の視点がより豊かになるとか、制作する際の気を使うべき点がより分かるようになるならば、積極的に本を読むべきですが、書籍に書かれた理論によってあなたの作品の造形的な欠点が覆い隠されたり、作品がすぐさま承認されたりはしません。あるいは、鑑賞中に腑に落ちないことが理論的に説明さえされれば直ちに覆るとも限りません。
また初学者がまず芸術について学ぼうという時に、はじめに気をつけてほしいことは、印刷芸術と展示芸術では、作品の見え方や鑑賞体験にそもそも相当に隔たりがあるということです。その上でどのような表現形式でもそうですが、一定の量の作品を鑑賞する必要があります。
一定量の鑑賞を併せて行うことを前提に書籍を紹介するならば、普通に教科書的にド定番に通史を勉強したいとかならばエルンスト・ゴンブリッチ『美術の物語』でしょうか。ポケット版もありますが、図書館でちゃんと図版が大きいものでペラペラ読むと良いです。また図書館でオススメしたいのは、美術コーナーの端から端まで全部中身を「見る」ことです(いきなり「読ん」ではいけません)。入門書や全集などはすべてパラパラ見る。理論書であれば、目次くらいはちゃんと読んでみる。そうすることによって、全体的な地図が手に入りやすいのではないでしょうか。
(とにかく図書館というのは、そういう入門書や初学者向けの本はしっかりと取り揃えているものです。大学図書館や、美術館に併設のライブラリーであればなおのこと美術書も豊富です。ザッピングをたくさんするのは、どんなジャンルでも有効な手法だと思います。)
gnckのテキストで初学者向けだと思うのは『パンのパン03』の「モネと水鏡(イラスト:山本悠)」です。山本悠のせいで、やや難解な図になっていますが・・・。
(2019.2)
10
絵画空間とは何ですか。
この言葉を用いている人間がどのように意図して使っているかにもよりますが、自分が用いるとしたら、ということで答えます。
「絵画」という平面のものに対して「空間」という言葉を用いるのは不思議なことですよね。しかしながら、線遠近法的を用いることによって平面の中にあたかも奥行きがあるように空間表現ができることも分かると思います。
絵画において奥行きを表現するためは、画面の上を奥、画面の下を手前として表現する鳥瞰図的な方法や、2つの事物の重なりによって表現するなどの初歩的な方法から、進出色と後退色、空気遠近法などの色彩を用いるもの、大きさの大小や短縮法など形態によって奥行きを表す方法や、絵の具の重なりを遠近に見せる方法など、様々な表現技法が試みられてきました。
さて、絵画を「現実の再現」と考えるならば、それは「線遠近法によってよりリアルな表現が可能になっていった」のだといえばよいし、あえて「絵画空間」と呼ぶ必要はなく、「(絵画における)空間表現」と呼べば良いはずです。しかしここで「絵画空間」と呼ばれているということは、おそらく「絵画を鑑賞している人間が知覚する(現実の空間の物理法則とは異なる)空間」という含意があると思われます。→11
たとえば、トリミングを経験した人は誰もが知っていることですが、画面でモチーフが見切れている/いないことで、同じような図像であっても、その広がりの感じられ方が異なったり、細かく描き込まれている部分とそうでない部分を作ることによって、注視点を操作し、そのことによって作品と対面し続けられる構造を作ることが絵画とイラストとの大きな差であり、絵画の鑑賞体験を大きく左右したりします。あるいは、セザンヌの絵画は注視点によってパースの消失点がガチャガチャと組み変わる経験をもたらしますし、モネの睡蓮の連作は、ストロークの方向性によって面の奥行きや、水鏡の光線の反射までトラッキングしているかのような試みであると言えると思います(詳しくはgnck「モネと水鏡」を参照のこと)。
近代絵画の特質は、このような「あるパース(視点)からあるパースへと視点をうつす」とか、「絵画空間を認識したり、それが絵の具でしかなくなったりする」といった認識をスイッチングする鑑賞体験にあると考えます。
(2019.2)
11
グリーンバーグのいう「イリュージョン」とは何ですか。
クレメント・グリーンバーグの批評は近代芸術の特にモダニズム芸術について語るものですが、近代絵画においては、この空間がどんどん圧縮され「平面」となっていくプロセスがあるとしました。(絵画はもともと平面なので、それに奥行きがあるかのように見せるのではなく、自己純化のプロセスとして、より平面的、かつ抽象画へと発展していくという発展史観でモダニズムの絵画を説明しました。)
たとえば、グリーンバーグはキュビスムの絵画(ピカソだったかブラックだったか失念してます。すみません)のコラージュの上に描かれた釘の影に注目します。釘の影を描くことは、その釘を立体感のあるものに見せようという行為なわけです(実際、鑑賞者はそのように感覚できる)。本来平面であるはずの絵画に立体感や奥行きを感じさせることをグリーンバーグは「イリュージョン」と言った訳ですね。しかし、キュビスムの絵画においては、絵画全体がそのようなイリュージョンを起こそうとしていない(部分的な奥行きがバラバラに連結され、「空間そのものがガチャガチャと組み合わさっている」ように見える)がために、それが「イリュージョンである」ということが白々しくも露見してしまうわけです。グリーンバーグは、モダニズムの絵画において、その態度がどんどん進行して、単なるフラットな平面へと還元され、「メディウム」が顕になることがモダニズムの芸術において起こっていることだと指摘しました。
(2019.2)
12
日本であまり紹介されていない現代美術系の批評家や批評、研究で最近なにか面白かったものはありますか?
そういうのは私が知りたいです。ぜひ教えてください。とりあえずポストインターネットアートについては、イベントを企画中です。
(2019.2)
13
社会や特定の文化、既存の作品からの影響下にある作品と、それらに対しての応答や批評性が見いだせる場合の違いは何ですか。
まず、社会や特定の文化、既存の作品の影響下に無い作品、というのは想像し難いですよね。作品であるならば、それは何らかの文化の影響下にあると考えてよいはずです。その上でたとえば、「新たな価値観を提示する作品」か「既にヘゲモニーをもっている価値観を追認するだけの作品」みたいな区別はできそうですね。しかしその区別をするためには、何がヘゲモニーを握っている価値観なのかを、どう認識すればよいのかという問題が発生しますね。これを質問としましょうか。
さて、現在の支配的な価値観を知るためには、文化的な事象の、多数の事例に通じている必要があるかと思います。簡単に言うと、教養があるかどうかですね。通史だけでなく、文化史や、特定ジャンルの発展史や、現在注目されているプレイヤーは誰かなどなど。ジャンルが発展する過程ではしばしば、革新的なプレイヤーの登場、ジャンル全体の表現力の向上、マニエリスティックな停滞、古典の再解釈による創造、他ジャンルの達成の翻訳などが起こります。そのような事例に通じていけば、影響関係などは見えやすくなるでしょう。
(とはいえ、歴史に残って語られている影響関係や、オリジネイターと現在されている者が本当にどれほどオリジネイターなのか?は検証が進むと、単に神話的に語られているだけとか、ミュージアムのコレクションの形成によって、そのような見方が強くなったとか、実はこんなに先例を抱えているじゃないかとか、そうした研究も増えてくるわけです。これは「その場で価値判断をする」ことと、「歴史として位置づけて語る」ことにどうしても齟齬が発生するからでもあるわけですけど。社会学などはこのようなことを問題として扱ったりしますね。
さらに言うと展示芸術においてに発言権を持つためには恒常的に多数の展示に触れられる必要がある――つまり中央の文化の者ばかりに発言権が与えられてしまう、という構造的な問題も同時に発生するわけですが。)
たとえば藤田嗣治のキュビスムの作品が先だっての東京都美術館での展覧会で展示されていましたが、その作品を見る限り、藤田はキュビスムの効果をあまり習得できていませんでした。藤田のキュビスム様式のような作品は「ある芸術形式の影響下にある」といって良いのではないでしょうか。その後藤田は「ごく細い描線によって描くことで物体の迫真性を立ち上がらせる」という様式を発展させますが、そこには独自の達成があると思います。
(そういえば国立近代美術館の日本の近代絵画のコレクションってあんまり「優れた作品」という意味では豊かでないように感じますが、何故なんでしょうね。)
(ところで、岡崎乾二郎は、作品に内在する問題系を見ずに、すでに確立された西洋美術史との距離だけで作品価値を測り、自らの評価基準を創出しようともしない態度を批判していますね。)
(2019.2)
14
相磯桃花作品についてどう考えますか?
相磯桃花評は、「ペラペラで魅惑的な美少女たち(あいそ桃か展評)」(美術手帖2015.2)、やブログ記事「杉本憲相と『キャラ・アートについて』」を参照いただければと思います。
美術手帖の評は古い記事ですが、かんたんに紹介すると、相磯の展示で最も成功した展示は新宿眼科画廊での「ももか」だと考えていますが、「ももか」における相磯作品の特質は、
1.まずキャラ絵が十分に「上手い」こと。
2.にも関わらず、キャラの図像が引き伸ばされたり、変形したりするなど、「上手い」ことによって本来は抑圧される要素が再び呼び寄せられていること。
3.素人が声をあてることによって、その背後に人間が見えてしまう(=通常、声優の声は声優の顔を想像させない声質や演技となっている)、そのために絵が絵であることが強調されること。
にあったと考えます。キャラが十分に「上手い」(1.)ということは、実際には生きていないはずのキャラに感情移入できてしまうという体験を与える一方で、それが絵でしかないことを相磯は強調します。(2.)さらには、声を吹き込むことによって、その背後に生身の人間がいることさえ強調(3.)するのです。
「ももか」ではぺらぺらのビニールがエアコンの前に張られ、ゆらめく透明なスクリーンに投影されたキャラが桜吹雪の中にいるという状況になっていましたが、「キャラに耽溺できてしまうことのおかしさ」があれほど強調された仕事は無いのではないでしょうか。
(2019.2)
15
作品のテーマやモチーフなど、「何を描くか」という事と、「どの様に描くか」ということに主従関係はあるのでしょうか。あるとしたらどちらが先なのでしょうか。
普通に考えると、「画題(何を描くか)」によって適した「技法(どのように描くか)」は変わってくるわけで、逆もまた然りです。日本画の技法に適しているのが植物や錆であったり(→01)、キャラ絵がその発展史からして、筆触の跡がよく出るような画材で描くにはそれなりの対応や修練が必要であったり(門眞妙やMr.の技術開発に注目するとわかりやすいでしょう)するわけですね。加えてキャラ絵については、藤城嘘は「修練から外れているが、しかし魅力的な描画」に注目すると言えるでしょう。(詳しくは「藤城嘘とひらがな化」を参照ください。)
美術史的な理解にたてば、何を描くか?ということが失効した極北に、無対象絵画=抽象絵画が登場した、ということになるかもしれません。(グリーンバーグは、「抽象だから偉い!とは言ってない。今ある絵画の優れたものの趨勢を理解しようとするならこういう理屈になるだろって言ってるんだ」とか書いていた気がします。うろ覚え。)「画題があっては、特定の何かに依拠しすぎてしまう」ことを嫌えば、対象は必然的に抽象化されていくわけですね。そのように理解すれば、「技法そのものを表そう」というモチベーションによっても、画題は無対象化したり、あるいは人々がよく知っているモチーフへとなっていくでしょう。
ということで、作品の善し悪しにとっては、それらはお互いに重要な項目であって、主従関係ではないとも言えそうです。あるいは、「ある作品Aにとっては、技法こそが重要であるが、ある作品Bにとっては、画題こそが重要だ」ということもあるかもしれません。または、ある作家Cのモチベーションは、画題にあって、その画題を十全に表現するために技法が存在していたり、作家Dにとっては技法が関心事であるのかもしれません。
(2019.2)
17
サン・チャイルドの設置から撤去までどのように考えていますか?アート側の人は表立って言わないだけで、「アートがわからない一般人が悪い」というような意見がやはり多いのでしょうか?
まず、アートの言説の中心がどこかというのは難しいですが、gnckは内部の言説を把握する位置にいません。更には、現地で作品を見ているわけでもなく、作品の質についてのジャッジはしません。その立場から言える、原則論と立場を説明したいと思います。
まずは、今回の騒動を「市民の現代美術への無理解による過剰反応」と片付けることが可能かといえば、そうではないでしょう。現代美術なり表現が、他者に攻撃的であっても即座に芸術であることをもって許されるという理屈はありません。芸術が時に攻撃的である(後の時代には当たり前に思われようと、当時はスキャンダラスに見られていたというものもあります)のは、鑑賞者の無条件な前提を揺さぶることによって、新しい可能性に到達し、表現を更新する可能性がある時であったり、作品の質がそもそも攻撃的な表現と不可分(たとえば暴力描写)であったりする場合だと思います。
また、放射能をモチーフにレトロフューチャー的な作品を制作してきたヤノベケンジの作品が「福島イメージを固定化させる」ものかはあまり判然としません。「ガイガーカウンターの数値が0」ということが、実際には自然環境の放射線があり0にはならないという知識をもつ者からは批判になりましたが、サン・チャイルドが「放射能汚染からの復興」をモチーフにしていることは(その前提こそが批判されているわけですが)疑いようのないものですし、ヤノベに「攻撃の意図」は無いように見えます。(とはいえ、無邪気ならばただちに免責されるものでないことも当然です。)
東浩紀の『福島第一原発観光地化計画』という取り組みがありましたが、東は「福島への目線は原発事故のイメージが一度植え付けられてしまった以上、そのイメージには乗りつつも、そのイメージを新しいポジティブなものに読み替えていくしか無い」という発想のもと提言は行われました。(ただしその中にはカオス*ラウンジによる「原発麻雀(プレイヤーは東京電力となって、補助金をいかにせしめるかに興じる)」といった、ただの逆撫ででしか無いような作品もありました。)
その観光地化計画のメインビジュアルとして採用されていたものの一つが、梅沢和木による〈ツナミの塔〉です。岡本太郎の〈太陽の塔〉の津波=瓦礫版といったもので、津波による瓦礫が集合し塔になっているというものです。「瓦礫は全て完全に除染が完了している」と想定されています。
ビジュアルとしての喚起力は、梅沢がそれまで手掛けた作品における「記号をジャンプする」ような鑑賞体験が無くなっており、にも関わらずキャラの要素が全く廃されているわけでもなく、視覚的な作品としては中途半端なものです。ですが、仮にこれが瓦礫によって実際に建造されたとすれば、それは、一つ一つの瓦礫から、かつてあった人々の、一人ひとりの生活や、人生や、命のイメージが喚起されるものになるかもしれません。その意味では、実際に建造されて初めて梅沢作品として完成するというものように思えます。
しかしながら、これを実際に建造しようとするために超えるべきハードルは途方もないものになるはずですし、何より遺族を傷つけかねないでしょう。実現のためには複数のエージェントとの粘り強い交渉が必要になるはずです。
遺族感情を鑑みれば震災遺構の保存すら難しい状況でこのようなものを「作品」として作るべきなのか。これは単に表現を縛れということではなく、表現の必然性についての社会とのコミュニケーションを果たそうという使命をもって発表を行うのか?こそが問われてくるはずです。
たとえば、自分の手元で作品として作ってしまうことは止められないことですが、それを発表することには社会性の問題が関わってきます。良いか悪いかを評価(議論)するためには、発表を阻止するのではなく、発表されたものについて評価を各々が下せば良い、というのが表現の原則だと思います。たとえば、会田誠の〈檄〉が、東京都現代美術館にて展示が中止されかけた件などは記憶に新しいですが、過去より検閲の事例はおおくあります。(と思って検索してたらHAPSにまとめなどもありました。)美術館が公共的だからこそ偏ったものを公開中止にせよ、というのではなく、公開された作品に対して批判や対話がなされ、その議論までもが公開され、蓄積されることにこそ、美術の公共性がかかっているのだと考えます。(「芸術の公共圏」『絵画検討会2016』なども参考ください。)
しかし、公共彫刻は、その性質上屋外で誰の目にも触れうるものです。つまり公共彫刻においては、その制作や発表に至るまでに既に、コミュニティーとの対話というプロセスを経る必要があり、その対話は公共的な性質を帯びるということだろうと思います。(この「屋外彫刻の公共性」とでも呼べる性質を作品化したものに、横浜トリエンナーレ2017でのクリスチャン・ヤンコフスキーの作品があるのだと思いますが、まぁ、置いといて)
批判は対話の契機であり、すべてを「炎上」とする雑な解像度ではなく、批判のなかの真摯なものへの粘り強い応答可能性だけが、芸術を正当化することになる、と考えていますし、たとえば、今回のサン・チャイルドの件も、仮にも積み上げられてきた今までのプロセスが失われてしまえば、作者・批判者にとって、ともに不幸な結果だけが残るでしょう。
(2019.2)
18
オススメの美術館を教えてください。
gnckは近代絵画(特にマネ)が好きですが、優れたコレクションだな、と思うのは、国立西洋美術館の近代絵画や、旧ブリヂストン美術館(アーティゾン美術館として会館準備中)、川村記念美術館、高松市立美術館などでしょうか。海外はオススメというか、行ったことがあるものを列挙するだけになってしまいますが、とにかくオルセー美術館は見たほうがいいのではないでしょうか。パリだと、パレ・ド・トーキョーとかベルリンのハンブルガーバーンホフ美術館、アメリカはディア・ビーコンとかも良かったですね。
というのも、「印刷で作品そのものを享受できない」傾向の強い作品として、「色の再現が難しい」「筆触の凹凸の再現が難しい」「空間の再現が難しい」というものがあります。前者2つは19世紀後半から20世紀初頭の近代絵画に顕著な傾向であり、最後のものは20世紀中頃以降の傾向でしょうか。要するに、作品の質(や説得力)を支えているものが、筆触であったり、巨大さであったりする場合には、その作品の質が腑に落ちるためには、実際に直接鑑賞しなければならないのです。これを言説だけで納得しようというのは、無茶な挑戦であると言わざるを得ないでしょう。
(2019.2)