アクティブラーニングという「教義」

文科省から来たメール

A-n-I/18

1 文科省の通知

 文科省が2022年3月22日に「令和4年度の大学等における学修者本位の授業の実施と新型コロナウイルス感染症への対策の徹底等に係る留意事項について(周知)」という文書を出しました。

これをもとに、FNN、フェイクニュースネットワーク・・・ではなかった、フジニュースネットワークが「文科省 対面授業を大学に要請 コロナによる中退者増加で...」(2022年3月22日 火曜 午後4:54)という見出しのニュースを流しました。

 前回、ここで指摘されたようにコロナ禍で中退者は増加していません「ほとんど前年と同数の中退者の中でコロナを理由づけする学生が増えた」というのが事実です。

 しかし、テレビ局に文句を言っても仕方ないです。そんなことはもはやどうでもいいのです。


 まず、指摘したいのは文科省の文書自体は今の方針を繰り返しているに過ぎません。

 曰く「感染症対策を十分に講じた上で、面接授業の実施に適切に取り組んでいただきたいことや、図書館等の学内施設の利用機会を確保いただきたいことなど、学修者本位の教育活動の実施を一貫して求めてきたところです」。

2 文科省からの返答

(1)回答メール公開

 通知では「中退者・休学者のうちには、オンライン授業の実施等によりキャンパスへ通う機会が十分に得られなかったことで、学生同士や、 学生と教職員との人的交流ができていないと感じた者がいたことも考えられます」と、前回A-n-I/17指摘したいい加減な分析結果が既成事実として示されています。

 これに関連づけたいのは文科省から私に届いた1通のメールです。

前回A-n-I/17私は文科省に問い合わせたけれども返信がなかったと書きました。しかし、あの記事を公開したのち、2022年3月18日の16時38分に文科省は律儀にも返答を送ってきました。それを以下、示します。まず、私の質問、次に文科省の返答です。

タイトル:「学生の修学状況(中退者・休学者)に関する調査」について (2022/3/2送付)

立命館大学で教育学を研究しております、蒲生と申します。3月1日に公開された件名文書(https://www.mext.go.jp/content/20220301-mxt_kouhou01-000004520_1.pdf)について質問です。

1 この文書では中退者について「実人数では約1.4倍」、休学者について「実人数では約1.3倍」となっています。しかしR2とR3の4-12月期の調査について回答率が異なり回答総数が違うことが理解できます。そのため、実人数での比較は原則的に不適切に感じます。文科省としてこの分析についてどのように正当化できると考えていますか

2 「中退者のうちコロナを理由とした者の内訳」を今回初めて提示したと思います。前回調査「新型コロナウイルスの影響を受けた学生への支援状況等に関する調査(令和2年 12月時点)」では「学生生活不適応・修学 意欲低下」と「経済的困窮」の前年度比増減について今回の調査と同様の傾向は見られなかったのでしょうか。また、今回、「中退者のうちコロナを理由とした者の内訳」を提示した意図を教えてください

3 前回調査「新型コロナウイルスの影響を受けた学生への支援状況等に関する調査(令和2年 12月時点)」の「中退者のうちコロナを理由とした者の内訳」について公表いただけませんでしょうか

以上、ご質問に3月3日中返答いただけますと幸いです(遅れる場合はご連絡ください。また、ご回答については少なくとも今週中にいただけますと嬉しく存じます)。いただいた回答は調査資料として利用させていただき公開を前提としますことご了承くださいませ。

よろしくお願いいたします

蒲生

タイトル:(文科省・回答)→【御質問】 その他、大学・短期大学等に関すること(2022/3/18送付)

蒲生諒太 様

お世話になっております。/文部科学省高等教育局学生・留学生課です。

御質問いただきました内容につきまして、御回答申し上げます。/御回答が遅くなってしまい申し訳ございません。

■内容

1について

(回答)回答校数が異なることについては、当省でも承知をしているため、実人数とあわせて、学生数に占める中退者数の割合もお示ししているところです。

2について

(回答)令和元年度はコロナ内訳がありませんので、比較することができません。/今回提示した意図としては、コロナを理由とした中退者・休学者が若干増加しているとみられ、/文部科学省としても、コロナを理由とした中退・休学の内訳を提示することで、各大学等において今後の学生支援の在り方の検討につなげていただきたい、という考えに基づくものです。

3について

(回答)「新型コロナウイルスの影響を受けた学生への支援状況等に関する調査(令和2年 12月時点)」の「中退者のうちコロナを理由とした者の内訳」以下のとおりです。

(略)

以上、どうぞよろしくお願いいたします。

 「3について」はまた別途分析したいのでここでは省略です。

 注意したいのは「1について」「2について」です。


(2)文科省の開き直り

 まず、「1について」。文科省は回答率が異なる調査結果、つまり回答数=実人数比較ができないデータを用いて、中退者について「実人数では約1.4倍」、休学者について「実人数では約1.3倍」と不適切な分析結果を提示していました。それに対して、文科省は「回答校数が異なることについては、当省でも承知をしているため、実人数とあわせて、学生数に占める中退者数の割合もお示ししている」と言います。

 確かに割合について文科省も示しています。しかし、だからと言って不適切な「実人数」比較を正当化できるなんてことはありません。「不適切な行為も適切な行為と同時にすれば問題ない」というのは開き直りに過ぎません。

 実際、この不適切な比較を用いてフェイクニュース製造機センセーショナルな記事を書いたのは前回指摘した通りです(そのフェイクを流したのはFNNですから、もう何も言えません)。これらのニュースは人々に「対面授業をしなければ中退者が増える」という強迫観念を与えます。

 今回の通知でも文科省は「中退者・休学者のうちには、オンライン授業の実施等によりキャンパスへ通う機会が十分に得られなかったことで、学生同士や、学生と教職員との人的交流ができていないと感じた者がいたことも考えられます」と言います。

 文科省の返答は全くもって論理的ではありません。しかし、それを平然と書いてくるあたり、文科省は自分たちが明らかにおかしなことをしているとある程度理解しているのではないかと感じられます。


参考にならないデータを参考にさせる

 「について」、ここでも文科省はおかしなことを言っています。文科省はこのデータについて、「コロナを理由とした中退・休学の内訳を提示することで、各大学等において今後の学生支援の在り方の検討につなげていただきたい」。つまり、「コロナ中退内訳」は各大学において方針立案の重要なエビデンスになるというわけです。

 学生数5,000人の中規模大学で考えてみましょう

 学生に占める中退者の割合は0.99%です。昨年度のR2は0.97%の中退者、48-49人の中退者が今年R3は0.99%、つまり、49-50人になりました。コロナ理由はR2は0.05%、つまり、25人からR3は0.06%、30人になりました。そのうち、学生生活不適応・就学意欲低下はR2が2割で5人、R3が今年は3割、9人に変化しました。

「中退者が5,000人中48人から49人になりました。コロナ理由は25人から30人に。そのうち、コロナ禍での学生生活不適応・就学意欲低下が理由というのは5人から9人になりました」

 いかがでしょうか。中退数はほとんど変わらず、理由が少し変わったかな。でも、4人増って、どうだろうか・・・。これが小規模大学なら尚更ですし、大規模であっても変化はそれほど大きくないでしょう。要はこのデータ、非常に割合として少ない、かつ変動もわずかなものなので、現場レベルに落としたとき、これでもって何かを検討できるほどのデータではないのです。

 文科省はこの参考にならないデータを大学に参考にさせたいわけです。それはこのデータに対する不適切な分析とそこから生じるフェイクニュースそれに踊らされる世論も含めたものもです。

 文科省のやり方はとても姑息です。オンライン授業のせいで中退者が増えているというナラティブを何がなんでも広めたい。そして、それを既成事実化させ、オンライン授業を行う大学を中退者を製造する非人間的な極悪非道な集団として印象付けたい・・・・。


 ・・・と、ここまで考えて、あなたは「それは考えすぎだ。文科省が大学を陥れるメリットがない」、そう思うでしょう。私もそう思っていました。せいぜい対面授業を大学に押し付けたことを正当化するための行為だと考えていました。

 それが冒頭の通知を読んで「なるほど」と、より熱情的なものがあると感づいたわけです。

3 教育改革という宗教とその教義

文科省30年来の悲願


 冒頭の通知で最も重要な部分(少なくとも私がと感じる)に下線が引かれています。


豊かな人間性を涵養し、人格の完成を目指す上では、直接の対面による学生同士や学生と教職員の間の人的な交流も重要な要素です


多様な人々の関わる授業や、 少人数のグループワークによる質の高い学修など、相互に切磋琢磨することのできる環境を整備することが重要


 この二文を読んで私は「ああ、そうか」と声を上げました。この記述はコロナ禍の対策を書いている文書なのになぜか、あるべき教育の姿を力説しているように思えて、現場との妙な温度差、落差を感じさせます。そこが重要なのです。私はここで初めて文科省を突き動かす熱情が理解できたのです。

 キーワードは「豊かな人間性」、そして「グループワーク」です。この2つを見て教育関係者ならピンとくるでしょう。

 「豊かな人間性」は「ゆとり教育」が掲げた「生きる力」の構成要素です。ざっくり言えば「社会性」と「自律性」です。一連の教育改革において この豊かな人間性を培うために用いられるべき学習方法として示されたのが大学教育で「アクティブラーニング」(学校教育での呼び名は「主体的対話的で深い学び」)、その一例が「グループワーク」であるわけです。

 多くの人が忘れてしまっていることですが、コロナ禍真っ只中の2020年度は文科省にとっても重要な年でした。それは臨時教育審議会以降の文科省30年来の悲願であった教育改革の総決算、高大接続改革、つまり、新センター試験(大学入学共通テスト)実施の年であったのです。

 文部省時代からの学校教育改革はまずは小中学校「ゆとり教育」から始まり、ここ数年来の「新学習指導要領」における、行政が学校現場にその学習方法にまで介入する強権的なアプローチにまで発展してきました。

 この改革の本丸は高校と大学の接続改革、つまり入試改革であるわけです。それは高校教育の変革と同時に大学教育の大きな改革でもあったわけです。このトップダウン的な改革は、大学の機能分化はもとより、アドミッションポリシー・カリキュラムポリシー・ディプロマポリシーの3ポリ整備、そして、アクティブラーニングの導入やルーブリックの導入などの教育改革、カリキュラム改革に及びます。


許されざるオンライン授業

 それがコロナによってぶち壊しになったわけです。これは単純に入試の円滑な運用できなかったというだけではありません。

 最もクリティカルなものはオンライン授業だったのです。私はこのことにこの通知を読んで気づきました。

 端的に言えばオンライン授業が広まってしまえば、文科省が思い描いたアクティブラーニングが大学教育の中心から外れてしまう。そもそも文科省は大学における(従来型の)講義をなくしたかった。思い出してみて欲しいのです。文科省はアクティブラーニングを次のように定義しました。

 アクティブラーニングとは「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れ た教授・学習法の総称」。 なるほど、 アクティブラーニングの推進は一方向的な講義形式の駆逐につながるものでした。

 それに対して、オンライン授業は、zoom等を用いた双方向授業では比較的アクティブラーニングに近いでしょうがVOD型は一方向的な講義になりがちです。そんなものは文科省の教義から考えて、許されざるものだったわけです。

 文科省にとって、オンライン授業は大学教育の中心になってはいけない。それは嫌われ者でなければならない。学生たちに不満を与えるものであり破局的な終末を迎えるものでないといけなかった。つまり、大量の中退者が出てくれないと困るというわけです。・・・いや、なんだったら、大学生が大量に自殺するとか、精神的に破滅するとか、そのレベルのことが起きて欲しかった。そんな危機に陥った大学現場に颯爽と現れる救い主が対面でのアクティブな学び、そして、それを広める文科省となるべきだった。

 これはまさに文科省30年来の教育改革の基本理念、ドグマとピッタリと一致するものです。従来的な詰め込み教育は豊かな人間性を抑圧する最低最悪なものであり、それを駆逐して新しい学びを提供する文科省は神が使いし聖戦士であり、それに抵抗する教育現場、とくに大学現場は悪魔の巣窟であった。これこそが日本の大学教育改革の基本イメージだったわけです。


裏切られた神の教えと現場が見つめていた別天地

 それがこの2年間の出来事は文科省が当たらない占い師だということを明らかにしていったのです。大学生はどうもオンライン授業を嫌っていない。それどころか割と満足している中退も増えない

 そんなことになれば自分たちの教義が、宗教が崩れていってしまう。だからこそどんな手を使ってもオンライン授業は大学生にとって良くないものだ、これは悪魔がもたらした危険な果実だと言うことをアピールしなくてはいけなかったのです

 それが私が今まで紹介した、文科省が見せた一連の腐臭のする無様でゴミのような醜態へと繋がっていくわけです。(参照:A-n-I/01-04 A-n-I/08-10

 私はすっかりこのことを理解していませんでした。なぜなら、この2年間、文科省とともに教育改革を推進してた高等教育関係の教員・職員は感染症という現実の前に、ネットワーク機器等に不慣れな研究者たちと必死になってサポートし、その経験の中に文科省の理想郷とはまた違う別天地を見つけようとしていたからです。文科省もまた、新しい別天地を見つめているのだと思い込んでいたのです。まさか文科省が古臭くなった神を信仰し、古ぼけた経典を高らかに掲げているなんて思いも寄らなかったのです。

 投げ捨てられた人々

 これは宗教の問題です。文科省のスタンスは教義に沿ったものです。学生たちの対面交流を基本とするアクティブラーニングを推進してきた文科省にとって「対面授業」は自分たちの宗教における最も重要な儀式であり、キャンパスは壮大なる理想郷の建設のための教会だったわけです。

 こう考えたらいろいろと合点がいくと思うんです。 文科省がこの2年、誰の声を聞き、誰の声を聞かなかったのか。次のレポートシリーズで示しますが、文科省はある特定の人たちにシンパシーを持ってコロナ禍で政策を打ち出してきました。「どうしてだろう?」と私はずっと思っていたのですがこれは極めて単純なことだったのです。

 コロナ禍において対面授業を求める人たちは、教育改革という宗教の中心となる教義「アクティブラーニング」の信徒だったのです。「アクティブラーニング」のためなら、ウイルスなんて怖くない、感染なんて怖くない、感染が拡大して高齢者が、障害者が死のうがどうなろうといい。対面授業バンザイ、アクティブラーニングバンザイ!

 だからこそ、文科省は彼ら彼女ら優秀な信徒のために教会=キャンパスを開けよと言い続けたのです。文科省の対面授業強制は、教育改革という宗教の最も重要な教義を守るための戦いだったわけです。

 こうして、この2年間、文科省が必死になってやろうとしていたことが理解できたわけです


 自分たちの教義のため、ウイルス禍に大学の教職員と大学生、その家族を放り込むこと。それを私たちは目撃していたのです。

追記


 最後の方の記述に驚いたというか、受け入れられないといった感じの方がいて、私自身、「えっ、そうなんだ」と感じていたりします

 「コロナ禍において対面授業を求める人たち」のくだりは今まとめている新しいレポートシリーズで明らかになるでしょう。ですから、しばしお待ちいただければと思います。


 一方の文科省ですがこの省庁がどういう組織か、多くの人は見誤っているように感じます。

 私は教育学者の中でも文科省の方針に賛同し、不満を垂れつつも文科省の方針を信じともに活動していた部類の人間です。そんな人間であってもコロナ禍以前の数年来の文科省の動きには少し違和感があったのです。

 もちろん、それらはさまざまな点で批判されていますが、あくまでも「文部省=行政権力vs職員組合=現場権力」という昭和的な世界観での語りが大半です。私は、本質は微妙に異なるものだと感じています。


 あるクローズドなシンポジウムに出席していた時のことです。文科省高等教育局のある官僚が出席していた大学教職員に向かって「最近は研究論文の本数が減っているとか言われますけどね、そんなことどうでもいいじゃないですか。大学教育改革がここまで進んでいるんですから!」と言いました。

 別の官僚はまた別のクローズドな立食パーティで「法学部って文科省的にどうなんですか?」と質問されました。法学系の学部は文科省の一連の改革に批判的なところが多く、動きが鈍いということが前提にあります。この官僚は皿の上のオードブルをつまみながら、こう答えました。「あれはドメスティックだからね。まあ、じわじわと干上がらせればいいよ

 ともに役職付きの方で前者は改革の先頭に立って各所で講演を行い、今回の対面授業強制問題でもその名前が公文書で見られた人物です。

 これらは文科省の高等教育政策の人間がどういう感覚で現場と関わっているのか、物語るエピソードです。


 かつて、SGH(スーパーグローバルハイスクール)という高校を対象にした取り組みがありました。現在も続くSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の文系版なのですが、数年前、全国での聞き取り調査をした際、興味深い話を聞きました。

 もともと、SSHは文部省と科学技術庁が統合してできた最初の事業と言われており、JST(科学技術振興機構)を間に挟んで現場の先生から選出された出向職員が現場に指導を入れるという方針でした。一方のSGHは文部系単独の事業で、現場に官僚自ら出張って指導していたというのです。SGH関係者いわく、どうもそれが的外れだというのです。授業を評価する基準や学校間の評価・・・・。どれも妙に見当違いだというのです。ここら辺、詳しくは書ないですが、文科省はSGH事業を通して極めて短期間でのラディカルな学校改革を現場に求めていたようです。


 これらの経験から私はコロナ禍以前より文科省が自分たちが作り出した教義に「自家中毒」になっているのだなあと感じていました。彼ら彼女らは自信に満ち溢れ、自分たちが改革運動の騎手であると、割と本気で信じてしまっているようでした。

 この認識が根底にあったので、一連の対面授業強制が教育改革という宗教の文脈に位置付けたとき、「ああ、そうか」と妙に納得できたのです。

 文科省の官僚にとって、現場の人間なんてどうでもいいとして、それが悪いことではないし、改革運動=革命運動とは基本的にそういうものかなとも思うんです。革命理論に必要なのは歴史の必然性であり、個人の人生はそれを動かす養分や歯車に過ぎないですから。だから、私は教育改革に年々興醒めしていったのです。


 私が書いたもので文科省を批判している方がいると思いますが、それはあまり本質的ではないのです。むしろ、より重要なことは、この2年の出来事が一連の改革運動の一部であり、その背景に流れるものがこれまでの文科省の教育改革の教義であるなら、文科省の奇妙な立ち回りとその裏側にあった熱情がすっかりきれいに説明できること。そして、それが現場で文科省の教義を信じ、改革運動の一端を担っていた私たち一介の教職員をウイルス禍に投げ込むことにつながったこと。この「皮肉」です。


 私にとってはこの「皮肉」こそが何よりも重要なものです。それは1つの情熱の破局的終焉であり、多くの人々を時代遅れにする歴史の切断なのです。「文科省批判」なんて、そんなもの重要でも何でもないのです。

2022/3/23 公開

同日追記

お願い・2021年4月19日に「文部科学省に届いた『苦情・要望』についての調査」のレポートをアップロードして以降、SNS上で私への誹謗中傷を含む投稿が、複数回、複数アカウントによってなされました。・その中から悪質なものに関して、不法行為としての名誉毀損が成立しており私に対して大きな損害が発生していることが考えられましたので刑事・民事の両面から法的措置を取るため、発信者情報開示の仮処分申請を東京地裁に行いました。債権者面接及びTwitter社代理人を交えた双方審尋が行われ、2021年6月9日、仮処分命令が発令いたしました。・これに伴い2021年6月17日、Twitter社より当該アカウントのIPアドレスが開示され、プロバイダへの消去禁止仮処分及び発信者情報開示請求訴訟を提起するため、サイバーアーツ法律事務所 田中一哉弁護士に対して委任契約を結びました。・今後はプロバイダとの間での発信者情報開示訴訟となり、契約者の情報が開示されて以降、刑事告訴及び民事訴訟を準備いたします。
・ただし、情報開示訴訟となりますと費用的時間的コストがさらにかかり、損害賠償請求の金額もより高額になってまいります。・不法行為の事実関係を争うかどうかは別にしても、誹謗中傷をされた方も債務が膨大になる危険が高まります。
・以上のことより、私への誹謗中傷に御心お当たりのある方は早急に代理人、サイバーアーツ法律事務所 田中一哉弁護士(連絡先ウェブサイト)にお申し出いただきますようお願い申し上げます・双方で事実関係を確認できましたら、示談も含めて法的措置のあり方を改めて検討いたします。

本ウェブサイト掲載の内容は蒲生諒太の個人研究成果です。所属機関等の公式見解ではございません。