「コロナ・キッズ」と「上野千鶴子的なもの」

A-n-I/43

1 はじめに

 ここではこれまでに発表してきた調査を通じて感じ考えたこと、その中でも「社会運動」の実相、特に学生たちについてとそれを取り扱う社会科学者たちの「八方塞がりを描いていきたいと思います。(強調は蒲生、敬称略)


文科省、政治家、メディア、そして大学:それぞれの問題(A-n-I/42)の続きです

2 「対面授業再開運動」の実相

(1)「大学生対面授業再開プロジェクト」について

「対面授業再開運動」について、知れば知るほどに困惑の連続でした。

まずは文科省や政権与党に陳情に行き、自分たちの自民党議員の仲介でアンケートを総理大臣にまで届けた「大学生対面授業再開プロジェクト」。

顔も名前も素性も知らない人間たちがオンライン会議室に集い、国政に影響を与えるさまざまな出来事を生み出していきました。運動は陰謀論めいた「反自粛」という過激な思想から始まり、攻撃対象である大学への憎しみを募らせ、運動そのものを目的化し、そして急激に「冷めていく」。典型的な学生運動の物語が半年間の間に展開されました。

運動の創設者である女子学生とリーダーを引き継いだ男子学生。ともに何の変哲もない普通の大学生で、政治的なバックボーンはありませんでした。彼らがどうして総理大臣にまで自分たちのメッセージをあんなに容易に届けられたのか、社会運動を知っている人ほど困惑すると思います。

彼ら彼女らの背後には大人たちの影がありました。多くは保護者たちであり、素性を調べる限りは普通の一般市民でした。政治的な背景もありませんでした。保護者たちは自分の経験、スキル、そして時間を使って大学を攻撃するため学生たちの背中を押し続けました。

これら運動に関与した人々に共通するのはウイルス禍への低い危険認識と陰謀論的な思考です。それらをSNSが助長した側面もあるでしょう。

大人たちは若者たちを利用したのでしょうか。リーダーの男子学生が言った「使える人は使っていきたい」という言葉に、利用されたのは大人たちの方かもしれないと感じてしまいました。

 

(2)「#大学生の日常も大事だ」と「張角」について

次は全ての発端である「#大学生の日常も大事だ」Twitterデモを実現させた黒幕「張角」が率いる「黄巾党」です。こちらの方がより意味不明でしょう。顔も名前も素性も知らない上に文字の上だけで作戦を立て、政治家、行政、メディアを動かす大きなムーブメントを作ったのですから。

張角を名乗る人物はカリスマ的な政治指導者というわけではありません。彼はこの世界のバグを見つけ、それをうまく突いたに過ぎません。パズルを解くように世論を操作し、それに飽きれば放り出します

確かに最初は幾分かの憤りがあったかもしれませんが、私にはそれら一連の出来事は彼にとってのコロナ禍の暇つぶしに見えて仕方ありませんでした。

張角の告白に怒り心頭の大学関係者のSNS投稿も見られましたが、彼に怒っても何もないでしょう。彼は石を転がしただけで、それが雪崩になり、山崩れを起こしたのは私たちが住む世界のバグなのです。

その中で張角のカウンターパートを担った極めて優秀な「1年生」は最後までその素性が不明なままでした。ある種のロマンはその人物が背負うのでしょうが、それもまたバカげた話でしかありません。

SNS、あるいはインターネットは私たちの世界を広げると同時に狭めてしまいました。「手のひらの上の世界」は「手のひらの上の陰謀」にすり替えられ、人間をマスレベルで操り、世界を破壊することをかつてないほどに簡単なものにしました。

それも首謀者たちは姿を現すことなく、言うなれば汚れることもなく自分自身が傷つくことのない安全地帯を要領よく確保できるようになっています。

この点で張角は最も美しいテロリズムを敢行したと言えるでしょう。選挙もデモも陳情も本当は不要なのです。いえ、本当に黒幕にとってそれらは自分が描いたシナリオ上を動く駒がなせばいい業であり、彼はその美しいパズルゲームのために椅子から動いてはいけなかったのです。

 

(3)アフターSEALDsの学生運動

2015年、安保法制反対運動の先頭に立っていたSEALDsの創設者「奥田愛基」の2018年現在を追った記事を見つけました。

 奥田さんは「俺はもっとSEALDsとかよりクレバーにできます」という高校生などにしばしば会うそうです。市長や区長に政策を持って行ったり、「将来政治家になりたいと思っています」と言ってみたり。

 

 そんな若い世代からは、分かりやすく物事を変えられそうで、かつ、なるべく賛否が分かれず批判を受けづらいものに流れる傾向を感じているそうです。

「『SEALDs』メンバー、今どこに? 奥田さんが感じる『イライラ』」with news(朝日新聞:2018/07/13)

「クレバーにできる」と、かつてその身を世間に晒し、バッシングを一身に背負った彼に後輩たちは言います。そんな後輩たちに奥田は「批判を受けづらいものに流れる」と論評しながら次のように続けます。

 自分より若い世代について奥田さんは、「やっぱ賢い。自分の見え方とかをものすごい気にしている子が多い。良くも悪くも協調性があるし、あまり嫌なことをすぐ、ストレートに言ってこない」と分析。もし何かやるとしたら、したたかなやり方で出てくるのではないか、と感じているそうです。


「『SEALDs』メンバー、今どこに? 奥田さんが感じる『イライラ』」with news(朝日新聞:2018/07/13)

奥田は後輩たちを「賢い」と評し、「自分の見え方とかをものすごい気にしている」、「良くも悪くも協調性がある」、「あまり嫌なことをすぐ、ストレートに言ってこない」、そして、「したたかなやり方で出てくるのではないか」と言います。

自分たちの反自粛反大学の思想・姿勢を隠した「大学生対面授業再開プロジェクト」、そして「可哀想な大学生」のイメージと保護者活動家の動員を指針とした「張角」の「革命のガイドライン」、そして両者が徹底した「仲間にさえ貫く匿名性」。これらを思い出し、奥田の言葉を重ねると、なるほどと頷いてしまうでしょう。

彼ら彼女らはクレバーであり、自分の見え方を理解し、協調的で相手が嫌がることをストレートに言わず、したたかなやり方で他者を操作します。

奥田の感覚は当たっていたのです。

対面授業再開運動はSEALDs以降の学生運動の中で最も成功し、その成功さえ隠して痕跡をキレイに消し去ったものでした。皮肉なことは彼ら彼女らが徹底してSEALDsがカテゴライズされるリベラル=左翼的な色合いを忌避したことです。クレバーな後輩たちは奥田たちが歩んだ道を模倣し、参考にしつつも拒絶します。

SEALDs以降の、あるいは彼ら彼女らが位置する2011年の脱原発デモ、あるいは2010年ごろか始まるレイシズムへのカウンターデモ以降の社会運動シーンは明らかに曲がり角を迎えています。

「野党共闘」へとつながる「首都圏反原発連合」、「レイシストをしばき隊=対レイシスト行動集団」、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(安全保障関連法に反対する学者の会、立憲デモクラシーの会、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会、SEALDs、安保関連法に反対するママの会)という「デモ」と「SNS」を主戦場にするノンセクトの活動家と既存政治組織との連帯によって生み出された1つのムーブメントはもはや、古く重たいものになりました。

もはやフィジカルな個人は不要であり、無数のアカウントによる無機質なインプレッションの増加こそが人々を扇動するに必要なものになってしまいました。

私たちが「対面授業再開運動」から学ぶべきことは「世界はあなたの手のひらの上にある」ということです。これは誰かに勇気を与えるとともにそれ以外の多くの人にとって脅威となるでしょう。

3 「コロナ・キッズ」へ

(1)クレバーになりきれなかったものたち

しかし・・・彼ら彼女らのエレガントな運動は本当に成功したのでしょうか。それはある意味で幻想かもしれません。なぜなら、彼ら彼女らのほとんどはこうやって私たちによって世界の真ん中に引き摺り出され、その真実を晒されたからです。

もはや「対面授業再開運動」を無垢な若者の異議申し立てだというものはいないでしょう。その背景にある弱者への眼差しの欠如や自分勝手さ、そして禍々しい暗黒のオンライン会議の様子が白日の元に晒されたとき、SNSの学生運動に熱狂したオールドレフトたちは静かに沈黙するのです。

私から言わせれば、彼ら彼女らは十分にクレバーではなかったし、クレバーであり続けることができなかったです。

運動の興奮とその達成に若者たちは口を噤めないのです。綻びはどこかで出ます。

その綻びに、「運動」を信じ期待する愚かな研究者たちは触れることができないから、彼ら彼女らは安心をしてしまいます。しかし、世の中には優しい大人ばかりではありませんでした。

結局なところ、「運動」なるものへの敬意もなく、その向こうにある若者1人1人の実存へ興味を持った無遠慮な連中がやってきたときには成功裡に終わった運動の墓はみるも無惨に暴かれることになるのです。

彼ら彼女らの誤算は純粋に自分たちが何者か知りたいというただそれだけの興味関心で動く人間がいることを理解していなかったことでしょう。実際、彼ら彼女らが運動の中で接していたのは運動を擁護するか批判するか、その2つの群衆であり、自分の家のドアをノックして「あなたは誰ですか?」と尋ねる人間なんていなかったのです。

 

(2)「羅生門」の下人の如く

私たちの無遠慮さはどこから生まれたのでしょうか。

私たちはわずかながらのロマンを追い求めて彼ら彼女らの姿を追いかけていきました。きっとそこに驚くべき何かがあるだろうということ、それが主要なモチベーションでした。

しかし、それは見事に裏切られました。

「大学生対面授業再開プロジェクト」を創設した女子学生の話を私が聞いているとき、彼女があまりにもありふれた普通の学生であったことに私は徐々に冷めていきました。この感覚は今でに生々しく身体的な記憶として残っています。

それはまるで芥川龍之介『羅生門』で、門の上、死人から髪を抜く謎の老婆に話しかけた下人の心境のようでした。

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」

 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。(略)これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

「きっと、そうか。」

 老婆の話が完ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

芥川龍之介 羅生門(青空文庫より)

 

恐ろしい老婆の真実が単にかつらを作って売るために亡骸から髪を拝借しているだけと告白されたとき、下人は何かから冷めて=覚めてしまったのです。

それ以降、私はこの学生たちに最低限の倫理的配慮以外、何の遠慮もいらないと思うようになりました。

 

(3)「コロナ・キッズ」

すべての学生たちにおいて、あの運動の記憶は朧げでした。期間の短さもさることながら、自分たちが何をしたのか、その重大さを理解していない様子でした。

それも当然でしょう。彼ら彼女らは文字通り「手のひらの上」から世界を操っていました。そこにリアルな実感などありませんでした。

それを見て私は思いました。

「この子達は『キッズ』だ」

「シバター」という動画配信者がいます。彼は日本のネット動画・ネット配信黎明期から活躍していた人物で、格闘家・プロレスラーというもう1つの顔からネット配信でもヒールを演じてきました。

彼がそのヒールらしさを発揮し、有名配信者を批判するなどすると、「プロレス」を理解できない若年リスナーたちが彼を非難したり、家にいたずらをしたりしました。

世界の奥行きを理解しない、そして、安直なこの子供達をシバターは「キッズ」と呼び、怒り弄び、おもちゃにしていきました。

私にはこの「キッズ」の語感が対面授業再開運動に関与した若者と話していて何度も浮かんでは消えたのです。「消えた」というのはその明らかな蔑称を研究者が用いてはいけないという倫理的要求からです。

しかし、もし私がそのような重い倫理を自らに課さなければ、「キッズ」、・・・そう「コロナ・キッズ」という響きはあまりにも魅力的なものに感じるでしょう。

奥田がクレバーと呼んだ後輩たちの先には「コロナ・キッズ」がいたわけです。あの安保法制の混乱と情熱の先には「手のひらの上の陰謀」を弄ぶキッズたちがいたわけです。

そんなキッズたちに畏怖の念を抱くほど、私もお人好しではありませんでした。

4 「運動」を愛する社会科学者たち

(1)社会科学者たちは何をしたのか

   「コロナ・キッズ」と連携する保護者活動家(その間抜けな響きをこちらにも用いるならば「パンデミック・ペアレンツ」)がSNSで、あるいは現実で縦横無尽の活躍をし、世間から大学や大学教員がバッシングを受ける中で、何もできず沈黙するか見当違いなことを言って失笑を買うかした人たちがいます。

 それは、2010年代以降、新しい社会運動が1つのムーブメントになる中で、この世界に居所を見つけ、文字通りポストを見つけていった、「社会運動」を専門とする教育学や社会学、政治学などのリベラルな社会科学者たちです。

 この連中は私から見て驚くほど役立たずでした。特に旧帝国大学や有名私立大学の研究時間のある相対的に余裕と、そして期待を集める研究者たちが何もしなかったことに、この連中の存在意義を改めて考えてしまいました。

 冷静に考えれば、太極拳や茶道の歴史研究、そして、子供の自由研究をテーマにする私が政府に公文書を開示させ、教科書片手に統計分析を行わなわなければいけなかったのは異常事態なのです。

本来なら「運動」を専門とする社会科学者が立ち上がるべき場面でしたが彼ら彼女らは何をしたのでしょうか。

すでに取り上げている通りですが教育法規を専門とする北海道大学の「光本滋」は、「学生の異議申し立て」という左翼的なストーリーのために反自粛・反大学の学生政治団体の過激さを隠蔽し、評価すべき学生グループとしてその記録を残しました。

それは研究か、イデオロギーポルノか:「光本滋」の場合


 光本の動きは稀な方で対面授業再開運動を既存の社会運動のストーリーに取り込もうとするこのような動きに対して、社会運動の研究者たちはほとんどこの運動について触れずに来ています。

社会運動の研究者として大手メディアにも度々登場する立命館大学の「富永京子」は、SNSで対面授業再開運動について「消費者運動とか学生運動とかに近い」としつつも、それ以上の言及は行なってきていません。

「#大学生の日常も大事だ」Twitterデモは若者のハッシュタグ・アクティビズムとしてコロナ禍、最も成功したものであり、「社会運動」の研究者としてこの重要なイベントへの言及が乏しいのは不自然でしょう。しかし、後述するようにこのような態度は至極、真っ当なものなのです。

「#大学生の日常も大事だ」Twitterデモの首謀者である「張角」とSNS上でやり取りをした政治学者に私は「張角の告白」と調査レポートを送付しました。この政治学者は張角の告白について、「権力に対する学生たちの抵抗と葛藤」を感じる旨の感想をもらいました。

私は張角にこの感想を伝えたところ、「まさに避けたかった左の先生」、「葛藤もズレてますね」と返答します。

この政治学者はSNS上で学生運動や社会運動に好意的な投稿をしていますが、張角のような「操作的で露悪的な首謀者」は彼らの研究枠組みでは捉えにくいものだと感じます。

ある大学生が「張角の告白」を読んで「これはサイコパスですね」とその本質を言い当てましたが、「運動」を愛する社会科学者たちからはこのような見解を引き出すのは難しいでしょう。

SNS上で私のレポートを拡散してくれるフォロワーの多い社会学者がいました。その協力はとてもありがたいのですが、この研究者は私の朝日新聞や日本共産党をテーマにしたレポートには一切触れませんでした。

偶然かもしれませんし、取捨選択は自由です。

この社会学者のアカウントを見ると、私のレポートの紹介よりも政権批判やポリティカルコレクトネス関連の投稿の方が桁違いにインプレッションは多かったのです。その事実がこの社会学者の行動がこれらフォロワーの行動に縛られるような気がして、この研究者は学者なのか、それとも活動家なのか、と疑問に思いました。

 

(2)私が受けた「ネガティブ・フィードバック」

 「運動」に関わる研究者たちから、私たちの調査へのネガティブなフィードバックも多かったです。

ある有名大学で社会運動と密接な研究所の役職者は、私の研究そのものを「陰謀論」と評しました。

市民運動に携わる同じく有名大学の名誉教授には「まだそんなくだらないことを研究しているのか!」と怒られてしまいました。

私が大学生協の調査報告を批判的に取り上げたときは、とある国立大学教授から、機密資料を送られ「これ以上はやめろ」と暗に圧力がかかりました。

大学をめぐるメディア報道の検証について、ある社会学者から「メディアのバイアスなんて以前から知っていたよ」と嘲笑されることもありました。

これら反応は局所的なものに思えますが大局から見ても肯定できるものだと感じています。私たちの調査レポートは政治学者や社会学者から徹底的に存在を無視されており、このプロジェクトに従事した私自身、アカデミアから放逐されてしまったのですから。

 

(3)「コロナ禍の大学をめぐる運動」の扱いにくさ

 とはいえ、私たちの調査に好意的な反応を示してくれたり、似たような興味関心で取りかかろうとしたりする人たちがいたのも確かです。

 例えば、私たちの調査レポートを共有していたSNSの大学教員コミュニティでは複数の社会科学者たちから好意的なフィードバックをいただきました(特に同コミュニティの創設メンバーで市民社会論が専門の「岡本仁宏」)。また、早稲田大学の博士課程在籍の社会学「三津田悠」も、文科省の答弁分析を通じてその「転進」を描こうとする試みは私たちの調査にも影響を与えました。


三津田悠(2022)「2020年度のコロナ禍における大学での対面授業推進政策の論理と倫理:『社会問題の構築主義』の視角から」早稲田大学大学院文学研究科紀要 第67輯、pp.63-78

 

重要なことは、この運動の取り扱いにある種の困惑と混乱があるということです。富永の件でも触れましたが「運動」を研究する、あるいは、それらにシンパシーを持つ大学教員にとって、この運動はどう関わればいいのか分かりにくいものだったのです。

注意すべき点として、今回の場合、「運動」における強者と弱者の関係が一般的なものと異なっていることがあります。一般的な運動、この場合、学生運動において学生は常に弱者なのです。しかし、今回はその逆でした。

「学生保護のためにオンライン授業を」という大学教員の声も多かったのですが、健康リスクが高い「免疫弱者」は、より高齢であること、そして、男性であることが条件です。この条件を考えれば相対的に学生よりも「免疫弱者」は大学教職員の方だったのです。

「運動」に近接した大学教員、研究者たちにとっては学生たちの異議申し立てであるという点で対面授業再開運動は好ましいものでしたが、その背後には明らかに免疫弱者への切り捨てと巨視的な疫学的発想の欠如が存在していました。それは主流の疫学研究の視点からも、倫理的な観点からも無視できるものではありませんでしたが、かといって批判的に取り上げるには難しいものがありました。何せそれは確かに「学生たちの異議申し立て」だったからです。

一方でこの運動は一連の反自粛運動の中で最も、あるいは唯一成功したものだと言えるでしょう。これに匹敵する成功は参政党が国会に議席を持ち国政政党になったことくらいでした。

とどのつまり、この運動への賛意は参政党的なものへの賛意になるわけです。こうなると社会運動に近接する大学教員たちにとっての選択肢は狭まるのです。

言うなれば、「コロナ禍、大学という権力に立ち向かった学生たちとそれを支援した大学教員たち」というありもしない物語を描き出すか、そもそも一連の運動に触れないか、そのどちらかだったわけです。

率直にいえば何もしないのが得策です。しかし、それは大学と大学教員が攻撃される中で、アカデミアにおいて自分たちが期待されることをサボタージュすることに他なりませんでした。八方塞がりだったわけで、これら研究者に同情の念がないわけではありません。

5 上野千鶴子的なもの

(1)「嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」

このような社会科学者の八方塞がりの姿はこの10年来、切り結ばれ、そして肥大化していった「学問と運動のランデブー」を想起させます。

私の脳裏には、数年前、話題になったあるインタビューが浮かびます。

このインタビューは、もはや何者かわからなくなってしまった「社会学者 古市憲寿」が社会学者でフェミニストである「上野千鶴子」に行なったものです。

古市 上野さんはずっと敵がいたわけですか。

上野 そう。だから戦略的には動きますよ。私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある。

古市 つまり、データを出さないこともある?

上野 もちろんです。

古市 それはいいんですか?

上野 当たり前よ。それはパフォーマンスレベルの話だから。だけど、自分たちの議論にどういう弱点があるかとか、欠陥があるかということは正確に知っているほうがいいに決まっている。そこに目を塞ぐのは、研究者としてあってはいけないことですね。

古市 ただ、アウトプットの段階で出すか出さないかは、戦略次第ということですね。

上野 そう。その話を小熊英二さんに話したら、「社会運動家としては正しい選択です」と言ってくれました。

古市 やっぱり、上野さんの中には運動家という意識も強いわけですか。

上野 それははっきりそうです。ジェンダー研究はフェミニズムのツールですから。

 

古市憲寿(2016)『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』、光文社

 

「私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」という上野の姿勢が批判に晒されました。

 

上野千鶴子氏「私は嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」Q:つまりデータを出さないこともある?「もちろんです」Q:それはいいんですか?「当たり前よ」~このぶっちゃけに、いろいろ反響

 

一般には理解しにくいものですが、彼女の姿勢はマルクス主義的な「運動」を社会構築主義の地平で再解釈したようなものを示唆しています。

人文社会科学が内在的に持つ政治性あるいは価値中立性からほど遠い性質はポストモダン以降の常識となっています。そして、このことは学問や政治に新しい意味を与えるものでもありました。学問の政治性を能動的に再定義するというのは理解できるものであり、客観性を蔑ろにしているという点だけが批判させるのは不当なものかもしれません。


「学問が運動の従者になる」

しかし、上野の言明は明らかに学問と従来的な意味での「運動」や「政治」を混同し、運動家がその活動をサポートするために学問を用いるということ、言うなれば「学問が運動の従者になる」ことを是認するものなっています。

興味深いことに、このインタビューにおいてその姿勢を(もはや貰い事故的に)社会学者の「小熊英二」が追認させられています。

小熊が2012年、「首都圏反原発連合」と野田佳彦首相の面会を実現させたことを思い出します。かつて分厚い本数冊をもって文系アカデミズムの頂点に上り詰めたこの男が「SNSの市民活動家」の存在と社会的地位を確立させたあの瞬間に立ち会っていたこと、そして、上野の言明がそこにオーバーラップするところに重要な歴史的な断層があります。

2010年代以降、社会科学のトレンドは「運動」に移り、SNSの市民活動家とともに研究者たちは社会的な立ち位置を見つけ、学問的立場は政治的立場に読み替え可能になってしまいました。多くのスター級の研究者たちがSNSアカウントをもち、毎日くだらない短文を投稿し、ネット上の派閥争いに与し、インプレッションを稼ぎ、自分の存在価値をそこに見出しています。

 

大学教員・研究者のSNS利用、個人的な発信を考える

 

(2)「上野千鶴子的なもの」の帰結

 「上野千鶴子的なもの」はトレンドとなり、支配的な物語を生産します。              

「弱者がいてそれを抑圧する邪悪な権力者がいる。研究者たちはSNSの市民活動家とその邪悪なる権力者に立ち向かう」

 この古臭い物語に改めて息吹が与えられ、光本のようなオールドレフトな研究者たちがもはや死んでしまったであろう「運動のメロドラマ」を現代において再演させるわけです。

 しかし、「対面授業再開運動」が進むにつれ運動のトレンドに乗っていた社会科学者たちには自分がどのように振る舞えば良いのか分からなくなっていったのでしょう。弱者を抑圧する邪悪なる存在は自分たちであり、それまで連帯するのが当たり前だったSNSの市民活動家が自分たちを攻撃してきます。その上に弱者解放のために立ち上がれば自らの健康リスクは高まるのでしょう。

 彼ら彼女らに残された道は先述の通り、「運動のメロドラマ」を強引に演じ続けるか、何もなかったかのように振る舞うしかないのです。それは結局、自分たちが役立たずのクズであることを自白することに他ならないわけです。

これらのことを敷衍すれば、それは「真理」がある目的のために自由に加工されたり隠されたりすること、SNSなるものが社会の写し鏡であることを是認することでもありました。

それはまともにデータを管理せず大学に対面授業を無理強いした文科省、SNSのトレンドから社会を見通した気になっている政治家、自分たちのビジネスのためにいい加減な取材をするメディアをも肯定することになるでしょう。

結局なところ、このような「上野千鶴子的なもの」を社会科学者が是正せずに、むしろ肯定的に取り扱う中で自分からコロナ禍の騒動に対峙できる姿勢を放棄したともいえます。大学教員が苦境に立たされた状況は「上野千鶴子的なもの」に満ち溢れた社会科学の次元では是認されるというわけで、これは「皮肉的な喜劇」なのです。

6 おわりに:「運動論的転回」に寄せて

 「コロナ・キッズ」や「上野千鶴子的なもの」というワードに集約される、コロナ禍の大学をめぐる社会運動からの視点はなんとも情けないものが満ちています。

 社会運動の庇護者であった大学が社会運動に攻撃されるとき、社会運動を研究し守ろうとしていた人々が無能化するというのはやはりシニカルな印象があります。その中心にいたのがSEALDs以降のクレバーな若者たちであるというのも脱力してしまう感覚しかありません。

 一連の調査シリーズとその後の反応を通じ、私は学問がこの10年で驚くほど運動に接近し、上野が示したような「運動のための従事者」に堕したことを強く実感しました。「真実の言明よりも政治的に有利に立つための武器として学問がある」という姿勢は社会科学の言語論的転回、物語論的転回の果てにある「運動論的転回」(activism turnとでも呼べるものを示唆します。

 ポストモダン的な価値相対主義を非難し、「ポリティカルコネクトネス」という秩序のもと、社会的排除を促進していくツールとして「学問」が新しい命を与えられる。しかし、その先には学問、あるいは研究者自身の破局的終末が待ち構えている。これが対面授業再開運動のもう1つの帰結です。

この「運動論的結末」は1つの世界のバグだと思います。そしてこのバグは「コロナ・キッズ」とその末裔にとって新しいおもちゃになりうるだろうというのが私の未来予想です。

それら「コロナ・キッズ」の真実に迫ろうとするものたちが学術的にほとんど無視されるか、水面下で潰されるか、どちらかである以上、何が起きているのかについて考え、検証するモチベーションは生まれないでしょう。言うなればこのバグへのアクセスはフリーパスなのです。

思い出すべきことは対面授業再開運動から学ぶべきことが何だったかということです。

「世界はあなたの手のひらの上にある」

私たちが誰かを殺さないのは単にそれが容易いことだと気づいていないだけなのです。

これはいわゆる「キャンセル・カルチャー」批判ではありません。これは「卵を投げれば地面に落ちて割れる」程度の言明なのです。

あとはあなたがそうするかどうかだけなのです。

お願い・2021年4月19日に「文部科学省に届いた『苦情・要望』についての調査」のレポートをアップロードして以降、SNS上で私への誹謗中傷を含む投稿が、複数回、複数アカウントによってなされました。・その中から悪質なものに関して、不法行為としての名誉毀損が成立しており私に対して大きな損害が発生していることが考えられましたので刑事・民事の両面から法的措置を取るため、発信者情報開示の仮処分申請を東京地裁に行いました。債権者面接及びTwitter社代理人を交えた双方審尋が行われ、2021年6月9日、仮処分命令が発令いたしました。・これに伴い2021年6月17日、Twitter社より当該アカウントのIPアドレスが開示され、プロバイダへの消去禁止仮処分及び発信者情報開示請求訴訟を提起するため、サイバーアーツ法律事務所 田中一哉弁護士に対して委任契約を結びました。・今後はプロバイダとの間での発信者情報開示訴訟となり、契約者の情報が開示されて以降、刑事告訴及び民事訴訟を準備いたします。
・ただし、情報開示訴訟となりますと費用的時間的コストがさらにかかり、損害賠償請求の金額もより高額になってまいります。・不法行為の事実関係を争うかどうかは別にしても、誹謗中傷をされた方も債務が膨大になる危険が高まります。
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・このことからTwitterの投稿引用に関しては、公正な慣行に合致する方法であれば著作者に無断での引用が可能だと考えられます。・論文等で引用を行うための「公正な慣行」=「一般的な慣行」ではURLの記載は必要だと思われます。(参考)editage 「ソーシャルメディアからの情報を学術論文に引用する方法」・ただし、今回の調査については、大学生のアカウント等、未成年のものが対象となる可能性が考えられ、また、内容も論争的なものを含むことから、(場合によりますが)不必要にアカウントを人目に晒すことは本意ではありません。
・そこでTwitterに関しては「アイコン」「名前」「スクリーンネーム」及び「添付画像」について隠し、さらにURLについては場合によって検索避けのため画像での貼り付けとして、対象アカウントの保護と引用慣行の徹底を行おうと思います。・例外として、すでに削除されたものでアカウント所有者に危害が生じないと判断できる場合、あるいは研究の都合上、「名前」等を明記したほうが適切だと判断した場合は一般的な引用の慣行に従うこととします。・政治家等の公職者、メディア等の企業体等の公共性が高いと思われるアカウントについては一般的な引用の刊行に従うこととします。・ご自身のアカウント/投稿の引用方法について問題がある場合、当ウェブサイトの「お問い合わせ」からご連絡ください。

2024年3月30日

一部修正:2024年4月4日

*上記レポート作成にはChatGPTを利用しました

本ウェブサイト掲載の内容は蒲生諒太の個人研究成果です。所属機関等の公式見解ではございません。