社工(しゃこう)

筑波大学の社会工学」についての書き散らしです. 公式サイトには載らないような内容の充実を目指して2015年ごろから書き始めましたが,一向に進みません. 公式サイト,Annual Report,その他公刊された出版物をはじめとした信頼性のある資料を事実関係の典拠として用いていますが,複数の文献間でしばしば生じる齟齬や不正確な記述,また黒田の誤認によって,不本意ながらも虚偽の内容が混入している可能性があることにご注意ください. 主観的で偏った記述も含みます.また経政関連では,現大塚(ビジネス)分も半端に混在しております.

何名かの先生方や同輩からは,記述の空白部分や誤りについてご指導,ご指摘をいただいております. 厚く御礼申し上げます.

※2018年7月追記:Googleサイト(HTMLボックス)の出力挙動が変更されたため,当初意図していたレイアウトとは異なる形で表示されているようです.相すみません.

※2020年8月追記:新しいGoogleサイトに移行したため,さらにおかしくなっているかもしれません.

※2023年10月追記:黒田が社工を離れたため情報のアップデートがほとんどできなくなりました.


社工―筑波大学の社会工学―は,「社会工学類(理工学群)」・「社会工学専攻(大学院システム情報工学研究科)」,および対応する教員組織「社会工学域(システム情報系)」から成ります. 一定程度認知・使用されている「社工」以外の略称としては SK (ShaKo), PPS (Policy and Planning Sciences), POPS (POlicy and Planning Sciences), しゃえ(「社」音読み+「工」仮名)などがあります.

社工の誕生は1975年の社会工学系設立まで遡り,1977年に社会工学類の第一期生が入学して本格的な教育活動がはじまりました. その後幾つかの改編や改組を経て,学類は「理工学群社会工学類」として,大学院は「理工情報生命学術院 システム情報工学研究群 社会工学学位プログラム・サービス工学学位プログラム」として運営されています.

社工は3つの分野,すなわち社会経済システム(社経),経営工学(経工),都市計画(都市 または 都市計)の3つの主専攻から成り,各専攻は異なる文化と文明によって運営されているようです.


「社会工学」とは

詳細は以下の文献を参照されたい.


概要

社会工学は社会問題の解決を目指す実践的なアプローチを試みる学問領域であるとされています. この“社会工学”なる学問を説明する,あるいは定義づける特徴として 「文理融合」,「学際/学融合」,「実践的」,「問題解決」,「意思決定」,「工学/数理」 といった語句が挙げられます. 同時に,社会現象や社会問題に対して単に工学的・数理的手法を適用しただけのものではない,とも説明されます.

東工大の社会工学で長年にわたって教鞭をとられた肥田野登先生は「社会問題解決のための工学」である社会工学を,より厳密には「地域や社会の問題を地域や社会の厚生を増進させることを唯一の目的に,あらゆる手段体系を用いて,特にコンセプト,政策,計画によって,解決するための理論の構築とそれを実現する技術を開発する学問」であると説明されています. 肥田野(2000)は 1. 目的的な技術集団のための個別的手段による問題解決ではないこと,2. 実践的学問であること,3. 意味の付与・価値の再発見や提示など精神世界を視野に入れること,4. 異分野にわたる情報と議論が求められること,5. 新領域創設に際しては原理構築・理論化を重視すること,の5つをその特色として挙げています. 小野善康先生による動学理論(『景気と経済政策』 参照)や中村良夫先生による風景学(『風景学入門』 参照)がこれに該当するとの由. 先生によれば社会工学においては,まず人工物・自然物の世界が存在し,その上に市場経済(財・サービス),さらにその上位に貨幣金融市場が存在し,最上位にメタな精神世界が存在するのだそうです.

類似する学問とはどのように異なるのでしょうか. 例えば「都市工学」は建築,土木などの工学技術を背景とする点で,人文社会科学を主要な原理と位置付ける社会工学と異なります. また都市工学における計画が物的な構造物であるのに対し,社会工学における計画の対象は社会や経済政策です. では社会を対象とし人文社会科学に立脚する「総合政策学科」はどうでしょうか. 肥田野先生によれば,社会工学では実施者の主観が反映されるデータ収集までが対象に含まれる点において,また政策やデザインの実施を自ら行ってそのフィードバックから学ぼうとする態度において,総合政策学科とは異なるのだそうです. (単に企業経営における意思決定を領域に含みうるかという相違点が簡明ではなかろうかと思う節もありますが,詳しくは 今田・橋爪 [2000, Ch. 4] を参照)


思想・学問としての社会工学の歴史

思想としての社会工学(social engineering, social technology)は19世紀末から20世紀初頭には既に認識されており,カール・ポパーの説く漸進的な社会改良(piecemeal social engineering)を目指す社会思想の一つとして存在していました(cf. K・ポパー 『歴史主義の貧困』 第3章など). これは「ある青写真に従って理想社会を一気に実現させることは不可能であり,むしろ私たちができることは,日常にある種々の悪と闘うことが唯一行える道である(原文ママ.今田・橋爪 [2000,p.112] より引用)」というものです(cf. フランス革命の省察から生まれたE・バーク的な意味での保守主義). 一方で1960年代には社会問題への工学の適用という考え方が広がり,social engineeringは社会技術として受容され始めます. 1965年に米国カリフォルニア州で開始されたカリフォルニア・プロジェクトは社会工学的アプローチによる研究開発活動として国外からも注目を集めたようです(『社会開発プロジェクトの展開―アメリカにおける社会工学的アプローチ』 参照). 余談ですが建築家の黒川紀章氏は1969年に「社会工学研究所」を設立されています. 1960・70年代,日本では東工大や筑波大に社会工学の研究教育組織が編成されます. 肥田野先生によれば,数十年にわたる研究により社会工学的アプローチについて [1] 現実との対峙による理論の深化と手法の精緻化, [2] 政策の作成やデザインなどの社会的行為は学問と研究者自らの反省に不可欠, [3] 現実のデータを収集することは現実に肉薄する有効なアプローチである, などの妥当性が実証されたと述べています. 一方で,既存の学問体系を機械的に融合させても問題解決の学問としては成立しない点などが指摘されるようになります.

これらの流れと並行して,科学の発展に伴う専門分業体制と学問領域の細分化,また知識の蛸壺化が指摘されるようになります. このような状況下では,個別の学問領域が持つ自律性と独自性によってひかれた境界を侵犯しないことを前提とした「学際協力」には,領域同士の間隙で発生する問題への対処は困難であったり,また協力体制における責任の所在が不明確であるとの現実があったのです. そこで,それまで進行していた社会の機能分化や学問の専門分化とは逆方向の脱分節化(dedifferentiation)の一つの帰結として文理融合(collage や pastiche ではなく fusion)の学問「社会理工学」が形成されていったようです(もっとも東工大内部に留まっている印象ですが). 「21世紀の研究境域体制はいかにあるべきかという問いと実践から生まれた」とか「大学における研究教育のあり方をリストラクチャリングする試みの中から生まれた」などと表現されることもあります. 今田・橋爪(2000)は社会工学を包含した文理融合の「社会理工学」を解説していますが,そこでは社会理工学の主要なキーワードを「意思決定」とし,経営学,オペレーションズ・リサーチ(OR),政治学(政治算術の学)などがこれに直接的に関係していることを挙げています. 東工大で社会理工学研究科の設立に尽力された今田高俊先生は,この方法論を基礎づける科学の認識活動である観察帰納法(具体・一般),仮説演繹法(抽象・普遍),意味解釈法(特殊・個別)の3つを「メソドロジーの三角形」と呼び,認識を存在に接続する理性手続き(つまりは科学)に従っており方法的に等価であると説いています. 先生によればマックス・ウェーバーの構築した「理解(理解科学)」は「演繹・帰納・解釈が渾然一体となった認識法」であり,これは今田先生の提唱する「メソドロジーの三角形」とトポロジーが異なる同様の類型・区分であるようです(黒田の勝手な解釈).


日本における研究教育組織としての社会工学の歴史

日本において社会工学を冠する組織設立の皮切りとなったのは1966年の東京工業大学社会工学科(Department of Social Engineering)設置で,ここでは社会開発や空間開発を中心としていました(「経済と建築の共存型」という評も). 東工大の社会工学については前掲の今田・橋爪(2000)のほか,石原(1979)中井(2014)などを参照. これに続いて1975年には筑波大学に社会工学系が設立されましたが,東工大に比べて社会経済計画の色合いが強かったようです. 他にも「環境社会工学科」など名称の一部に「社会工学」を含む組織がいくつか存在します. 東工大は2016年4月に学部と研究科が一体となって教育を行う学院制を導入したため,組織としての社会工学は姿を消すこととなります. 改組後,学部は第4類・経営工学系,大学院は工学院・経営工学系などが対応する組織となっているようです.

1966年の東工大・社会工学専攻設置(授業開始は67年)は,人文社会科学系(永井道雄,川喜田二郎,永井陽之助,宮城音弥)と経済系(阿部統,鈴木光男)からの流れに,さらに都市計画(石原舜介ら)からの流れが加わったものが源流であったといわれています. さらに縦割りを避ける新たな領域の工学を創ることが訴えられ,経済工学科,情報工学科,社会工学科の3学科からなる社会工学部の設置が決定されます. 実際には諸事情により社会工学科の一学科として設立されました. 成立当時の東工大では講座制が敷かれており,社会工学,開発計画,計画数理,産業計画,資源計画,地域計画の6講座から成るものでした(ただし講座の教授・助教授は独立して研究室を運営していたとのこと). 1980年代にはゲーム論が社会工学から外れ,その一方で環境,景観工学が社会工学に加わります. その後 [1] 土地利用計画のように施設やモノによって区分された計画よりも国土・都市計画のようにシステム全体のデザインの重要性が認識された, [2] 公共システム・デザインを公共性の概念のもとに考え直す必要性が認識された, [3] 個別計画のバックボーンとなる「計画理論」なる概念が導入された, といった大きな修正を加えられながら,数十年にわたって「計画」を中心として研究教育がなされてきました. 東京工業大学では1996年に人文社会系と理工系を融合した大学院社会理工学研究科(Graduate School of Decision Science and Technology)が設置され,“科学技術と人間社会の不調和から発生する諸問題を解決して住みよい人間社会を実現する”ことがスローガンとして掲げられました. この社会理工学研究科は人間行動システム専攻,価値システム専攻,経営工学専攻,社会工学専攻の4専攻から構成されており,このような文理融合はMIT(米国)やエコール・ポリテクニーク(仏国)に端緒が見られるとのことです. ちなみに東工大には戦後間もなくから経営(システム)工学科が設置されて資産運用理論などが研究されており,やがて盛んにおこなわれるようになった金融分野の研究が後の理財工学研究センターへと繋がっていきました.


様々な定義


下図は『学問のしくみ事典』(日本実業出版社,2016.amazon.co.jp)に「工学のフィールド」として掲載された図に,社工に関連するものに下線を加えたもの.

Field of engineering and relationships among sciences

“つくばの社工”の来歴

詳細は以下の文献を参照されたい.

年譜


発足

1973年10月,のちのつくば市となる茨城県新治郡桜村に筑波大学が開学します(この時期までの我が国における教育政策については 文部省 『学制百年史』 1981年. を参照). 70年代の大学紛争から生み出された“新構想大学”「筑波大学」は,その特色として (1) 学群・学系制度の導入,(2) 新しい大学自治,(3) 開かれた大学 を掲げていました. 遅くとも同年9月に示された「筑波新大学創設準備会」の報告(通称「青表紙」)では,筑波大学全26学系の一つとして社会工学系が定められ,学際性と政策指向性を大きな二つの特色とされていました. また,のちに社会工学系に所属することとなる一部教員は1974年創立の地域研究研究科(修士課程)で教鞭をとり始めており,社会科学系に籍をおいていたようです.

1975年には教員の研究組織である社会工学系(当時の英称は Institute of Socio-Economic Planning)が設立されます. 第一陣で着任したのは,宍戸駿太郎,福地崇生,目良浩一,渡辺浩,大西治男,和合肇の計6名の先生方でした. 宍戸先生は筑波大学社会科学系から,福地先生は国際基督教大学から,目良先生は(財)国際開発センターから,渡辺先生は東北大学から,大西先生は京都大学から,そして和合先生は日本経済調査協議会からの異動です. 初代学系長を務められたのは宍戸先生でした. 当時は第三学群の学舎がなかったため,体育芸術学群棟が拠点だったそうです. 6月には7人目の教員となる丹羽冨士雄先生が西ドイツ原子力研究所(西ドイツ・カールスルーエ原子力研究所?)から異動してこられます. 七人の侍の略歴を示します.

島田勘兵衛は宍戸先生でした. 宍戸先生に関しては以下のような言及も確認できます.

初年度の主な研究活動は,1974年度の社会科学系共同プロジェクトから引き継がれた「プロジェクト研究―公害制御についてのマクロ分析」や,2010年代現在も続く「各種の社会・経済統計のデータバンクの作成」などでした. 同年7月に第一回目となる社会工学系研究会が開かれ,福地先生が発表されました. 12月には Institute of Socio-Economic Planning Discussion Paper Series No. 1 が発刊されます. 記念すべき第一号は,宍戸先生と経済企画庁の星野進保先生による "Economic Planning Techniques in Japan" と題する55ページにわたる論文でした. ちなみに No. 2 も宍戸先生の共著論文です.

社会工学系の設立と同時に,大学院博士課程社会科学研究科に計量計画学専攻(Quantitative Policy Analysis)が発足します. 計量計画学専攻の編入学試験が4月に行われ,翌5月には大学院の入学式が挙行され,授業が開始されました(入学定員6名). 当初の計画によれば「社会工学研究科」として発足する予定だったそうですが,なぜか「社会科学研究科」を構成する下位組織として設置されました(Annual Report によれば「時期的な配慮から」だそうです).

1976年,おそらくは7月前後と思われますが,年次報告書に相当する "Annual Report 1975-1976 No. 1" が発刊されます. 当時は現在のそれとは異なり,研究の具体的な内容や学会発表時の討論内容,さらには着任した教員の自己紹介までが含まれていました.

1976年,修士課程である大学院経営・政策科学研究科(Graduate School of Management Sciences and Public Policy Studies)経営政策科学専攻が筑波キャンパスに発足します(定員20名). この“経政”はのちに2学年合わせて100名程度を定員とする小規模のビジネス・スクールとなります. 後年には日本語を母国語としない学生の割合が3割から4割程度となり,東アジアからの留学生や,2003年からはJICA奨学生の受け入れもなされていました. 金澤雄一郎先生によれば「授業内容はいわゆる文科系のビジネス・スクールとはかなり異なり、アメリカのビジネス・スクールの標準にかなり近い」とのことです. 教員のほとんどは社会工学系の先生方でした. 詳細は渡辺(1984, OR)を参照されたい.

同じく1976年,第三学群設置のための準備委員会が作られ,内部からは宍戸先生などが参加しておられました. 社会工学類設立のための準備委員会には,大阪大学の筑井甚吉先生や,地域計画連合(民間コンサル)の小島重次先生などがおられました. 小島先生が委員となられたのは社工に着任する前で,外部識者としての参画だったようです. この時点では一般社会工学,経営工学,都市工学の3専攻体制が検討されていたとのこと.

1977年,第三学群(Third Cluster of Colleges,別名「経営・工学群」)の創設とともに社会工学類(College of Socio-Economic Planning → 90年代 College of Policy and Planning Sciences に変更)が設置され,4月19日に第一期生116名が入学しました(男性92%・現役率61% / 競争倍率4.16 / 定員120名). 当初の(主)専攻は社会経済計画経営工学都市計画の3つでした(専攻振り分けは2年次に実施し,3年次進級時に配属). この時点での教員(国立大学の法人化前なので正確には「教官」)は23名です. 教員のほとんどは東京教育大学以外の教員で,多くは学士の入学と同時に着任したのだそうです. 初代学類長の倉谷好郎先生は新入生のオリエンテーションで以下のように語ったそうです.

当時は校舎の建設中だったらしく,第二学群棟の仮学舎を使用していました. 倉谷先生は社会工学類の特徴を以下のように語っています.

ちなみに「学群」という名称をはじめて使用したのは筑波大です(出典:日経「大学で増殖する造語、「学群」「学域」「学環」って?」2015年5月6日). 当初の計画では以下のような科目が開講されることが決まっていました.

1977年の第三学群創設時は,社会工学類のほかに情報学類と基礎工学類をあわせた計3学類で発足しました. 1983年には国際関係学類(国際総合学類の前身),1991年には工学システム学類が開設されます. 組織改編は複雑なため,理工学群の公式サイト「学群の歴史」をご覧ください. 社工の関係組織である環境科学研究科(修士課程)が発足したのも1977年4月でした(内部からは社工のほかに自然(現・地球学類),農林(現・資源),生物学類の進学先の一つだった).

社会工学類は発足初年度から学園祭(第一回は「紫桐祭」として1975年に開催.翌年からは「雙峰祭」として開催)に参加し,以後各クラスで模擬店を出店したり,学術企画として実習作品の展示や社会工学に関連した研究発表などを企画していました. 参加初年度の1977年は社工学類文集「社会工学われらの原点」を発行し配布したようです. ちなみに1979年の筑波大学は,学生が無許可集会を繰り返し行う,学園祭実行委員の主張(主に,企画内容審査拒否と顧問教官制廃止)が大学側に受け入れられず,学長への直接交渉を求めて学生が本部等に座り込む,学生呼び出し等への抗議として当時の基礎工学類長を深夜2時まで拘束する,これに関連した無期停学を含む学生処分と,その告示を持ち去ろうとした学生の現行犯逮捕,等々,大変に物騒でした. そのために1980年は学園祭が中止となり,自主学園祭(幻の学園祭)が開催された,という歴史があります. 翌1981年には再開しますが,1984年は再び中止され,翌1985年からは現在に至るまで毎年開催されています(2020年=第46回=は新型コロナウイルスのため中止).

1977年11月,学内連絡バスの運行が始まります. 当初は8:30-17:15に15分間隔で運行しており,区間は大学本部棟前から大学附属病院までとなっていました(一の矢までは行かずに,現在の「第二エリア前」を経由するルート). なお2005年8月からは新学内交通システムの運用が開始され(TXの開業と同日),関東鉄道バスの路線バスを使用することとなります. この検討プロジェクトチームの主査を務めたのは,社工の石田東生教授でした. 詳細はWikipedia「筑波大学キャンパス交通システム」をご参照ください.

社工とは直接関係ありませんが,この頃の学生生活を垣間見るには比文出身の作家谷川直子さんの小説『あなたがはいというから』(河出書房新社,2021年,§2, 4, 6)がおすすめです.学園都市の風景,学生宿舎での生活,コンパ,サークル,情報処理の授業の Fortran の課題,etc. 

1978年,社会工学研究科(Graduate Program in Socio-Economic Planning)が開設され,すでに発足していた計量計画学専攻(博士課程)を納め,これに加えて都市・地域計画学専攻(Urban and Regional Planning,博士課程)が新たに設置されました. 課程修了者が取得する学位は,のちに「学術博士(Ph.D. in Socio-Economic Planning)」(または学術修士)に決定します. また学系ではデータバンク委員会が発足します. さらに同年筑波大学ラテン・アメリカ特別プロジェクト研究組織が発足し,系の細野昭雄先生らが活動を開始されます. 年度末には前年度に入学した1期生の専攻振り分けが行われ,社会経済計画専攻 41名,経営工学専攻 21名,都市計画専攻 48名 として,翌79年度に3年次に進級しました. 当初は各主専攻に受け入れ上限人数が設定されており,これ(各48名)を超過した場合には“総合成績算出方式”によって選抜が行われることとなっていました. 第1期生の場合は都市計画の希望者が定員を上回ったために,成績下位者は他専攻への移動を余儀なくされたそうです.

1978年度初めには第三学群棟や工学系学系棟の工事が終わり始め(完成は1979年3月),教官室,教室などが移転してきます. 年度末には第三学群B棟も完成します. また,同じく1978年8月には,新制度である帰国子女の入学選考が行われ,2名の学生が社会工学類に入学しました. この制度は現在でも続いています. 9月には何回かの引っ越しを経て3F棟が学系の本拠地とされ,これが現在まで続くこととなります(F棟への全面移転は翌79年11月).

1979年,社会工学研究科に経営工学専攻(Management Science and Engineering,博士課程)が加わります.しかし,設置決定直後に行われた4月の入学者選抜試験では適格者がおらず(!),在学生が一人もいないまま初年度は終了します. 学系所属の教官はおよそ80名を数えるまでになり,筑波大学では臨床医学と体育に次ぐ第三位の大型学系へと成長します. なんでもこの頃には教員の筑波山合宿があったとか.

遅くとも1980年頃から,東京工業大学の社会工学科や東京大学の都市工学科と比較して教官積算校費単価が軽実験扱いのために低く,これを重実験化するべしとの意見が継続的に出ていました. 東工大・東大では実験講座単価となっていたため,軽実験扱いの筑波は相対的に低額だったようです.

詳細な時期は不明ですが,1980年代の学類の入試では個別検査(2次試験)で数学と社会が選択可能だったようです(関谷・山本,2010). その当時は共通一次が利用されていましたが,センター試験になってしばらくは後期日程を受験するためには社会科目が2科目必要という時期が続きます. 前期・後期ともに社会科目が1科目のみと変更されたのは2010年代初めのようです.

1980年には統一教会に傾倒していた福田信之先生が学長に就任し,1983年に発足した国際関係学類(通称「こっかん」,現・国際総合学類)でも統一教会系の人物や核武装論者などが教員に就任するなど筑波大学は大いに騒がしかったようですが(出典:朝日新聞「筑波大の国際関係学類 どこか偏った感じの教授陣(真相・深層)」1984年9月1日3頁),社工周辺ではそのような物騒な話もなかったようです. 社工発足当初に名を連ねた経済学者の先生方も,近代経済学の方ばかりでした.

筑波大学で教員を務めていた降旗節雄先生は自著 『筑波大学―開かれた大学の実態』 の中で,筑波大学における社会科学系の弱体化と対比して,また国際関係学類との関連について,および学問の計量化の象徴として,社工について言及されています.

降旗先生は,社会工学系の佐藤英夫教授がこの国際関係学類設置を推進する中心人物であったと指摘しています. なお降旗先生が社会学類(当時は第一学群)で教鞭をとっていた経済学者であることを知れば,上記発言の偏りに留意できるでしょう.

1984年6月,社会工学類としてはじめてやどかり祭に参加し,模擬店を出店したようです.

1985年2月,『社会工学類誌』 Vol. 0 が発行されます. 同年7月,学類誌の正式名称が決まり "SOCIO-TECH" として Vol. 1 が発行されます(実質的には第2号). Vol. 1 最初の記事は社工の新入生に向けたPC入門者向けの記事「やさしい(?!)コンピューター講座」,2つ目の「平砂悲惨物語」は天久保にある平砂学生宿舎の不快さを余すことなく伝える記事となっています. 以後,多い時では月1-2回ほどのペースで発行されました. 主な内容は,社工に纏わる時事ネタ,社工教員へのインタビュー,「学園祭問題を考える」(連載),「東京人による私の東京マップ」(連載),「私のいばらき」(連載)などの正統的な内容でしたが,中には「ためになるアイドル教室」と題する日本の女性アイドルを取り上げた連載記事も掲載されていました. このページにタイトルを記載することすらためらうような内容の記事もあります. 1978年5月には社会工学類誌 『海嘯(資料によっては「海瀟」のような表記)』 (おそらく「かいしょう」と読みます)が創刊されていますが,詳細は不明です. また1980年には社会工学類ミニコミ誌 『快翔』 が発行されていました(Ibid. p. 120). 概要によれば「好き勝手に発言できる場」として設けられたもので,教員似顔絵から,「自由主義国における唯物史観の崩壊」と題する論考まで掲載されていました. この当時は,大学の大半の学類が学類誌を発行してたようです. 2010年代にも残っている歴史ある学類誌は,情報科学類誌 『WORD』 (1979年創刊)と社会学類誌 『そおしあ~る』 (1981年創刊)くらいです(2024年時点でそしあの活動が確認できなくなっています). 近年では,知識情報・図書館学類誌 『MILK』 が2011年に発刊しています.情報メディア創成学類誌 『MAST』 は2008年創刊,2015年Web形式に移行しましたが,2020年頃以降の活動が確認できません.


10周年を迎え,安定期へ

1985年6月,3F棟に飛び降り防止の網が設置されます. 理由はお察しください.

1985年12月,設立10周年を記念して筑波大学で記念シンポジウムが開催されました. シンポジウムは,第1部会「国際社会と日本―21世紀への国際政治・経済課題」(司会:宍戸先生,加藤先生),第2部会「21世紀の日本的経営システム」(司会:高柳先生),第3部会「21世紀の都市・地域政策」(司会:坂下先生),第4部会「新しい総合社会システム論」(司会:山田先生)の4領域に分けられ,発表と討論が行われました. 1987年には参加者による論説20本が収録された 『社会工学概論―21世紀への問題提起』 が出版されましたが,この時すでに社工を離れていた倉谷先生はこの書について「社会工学研究者の恐らく世界でも最大の集団である筑波大学社会工学系の教官を主体とする今回の労作」としながらも,

と評されています.

1988年,筑波大学で初となる寄付講座「山一證券ファイナンス講座」が開設されます. メインは経営・政策科学研究科(修士)だったものの,学類でも授業が開講されました. 寄付金は5年間で1億2500万円. 先方の意向は「金は出すが口は出さない,ただし超一流の人事をしてもらいたい」というものだったそうです(柴川先生談.SOCIO-TECH Vol. 18 参照).

同じく1988年,やどかり祭のための神輿を作る「社会工学類神輿を作る会」(企画委員会に相当)が発足しました. かつて存在した "Socio-Tech-Omaturi-Project" (参照元の原文ママ)を源流とするそうです. このころ,社学・国際・情報と並んで「就職四天王」と呼ばれていたとか.

1989年4月,夜間修士課程となる経営・政策科学研究科経営システム科学専攻が文京区の大塚キャンパスで発足します. 翌1990年には同じく大塚キャンパスに企業法学専攻が設置され,これによって経政(科)が経政(専攻)・経シス・企業法学の3専攻を擁する形式となります. 1996年には夜間博士課程となる企業科学専攻が発足します. 経政(専攻)では修士(経済学)または修士(経営科学)の学位を取得することができました. 一方でこれら課程のための新規教員採用は少なく,大半は「筑波キャンパスから振替/協力」という形であったため,東京教育大学(筑波大の前身)の跡地への移転計画においては「多大な苦労と犠牲を払って東京から筑波に移転したのに,なぜ東京に新教育組織を作るのか,なぜ筑波地区の教育組織が犠牲を払って東京に作らねばならないのか」という疑問も呈されたとのことです(『筑波大学30年史稿』 p. 58).

この頃の社経は研究面でとりわけすぐれた業績をあげていたようです. 朝日新聞社の「大学ランキング」によれば,筑波大学所属者の1989年と1992年における一流経済学雑誌への論文掲載数が東大,阪大に次いで3位になっていたのだそうです(過去の学類公式パンフレットより).

1992年4月,関連組織となる国際政治経済学研究科(博士課程)も発足します. 1992年度,初となる工業高等専門学校(高専)卒業生を対象とする編入学試験が実施されました. この制度も,現在でも続いています.

1995年12月,社会工学類に対して外部評価が実施されました. 委員長を務められたのは東京大学名誉教授の近藤次郎先生です.

1996年には,経営・政策科学研究科(経営システム科学専攻)の修士課程修了生が「自分のアイデアの論文なのに筆頭の著者名をすり替えられ、名誉を棄損された」として同研究科の教員らを相手取って訴訟を起こしました. 同年7月に東京地方裁判所は原告の主張を認める判決を下しています(出典:朝日新聞 「論文著者順位、『変更は不法』 東京地裁判決」 1996年7月31日朝刊 p. 26; 「論文差し替え裁判 筑波大学に賠償金支払い命令」『筑波大学新聞』第136号、1997年4月10日; 日本ユニ著作権センター 「学会誌著者順序入れ替え事件」).

1997年4月,社会工学研究科に博士課程として計量ファイナンス・マネジメント専攻(Quantitative Finance and Management)が加わります. 斯波先生曰く,楠本先生の指導のもとで開設され,当初は順調だったものの,教員は社工に限定され「寄せ集めの感は免れないもの」だったようです(証券アナリストジャーナル2008年10月号 pp. 60ff). さらに,従来の3専攻(計量計画学,経営工学,都市・地域計画学)は社会経済システム専攻(Socio-Economic Systems),システム情報数理専攻(System, Information and Mathematical Science),都市・環境システム専攻(Urban and Environmental Systems)にそれぞれ名称を変更しました.


大学院重点化による研究科の部局化と学系の幕切れ

2000年4月,理工系大学院の改変に伴って社会工学研究科は新設されたシステム情報工学研究科(Graduate School of Systems and Information Engineering)に再編され,社工相当の組織は計量FM専攻と社会システム工学専攻(Doctoral Program in Policy and Planning Sciences)に再編されます. 翌2001年,シス情にリスク工学専攻(Doctoral Program in Risk Engineering)が新設されます. 担当教員は理工学群(社会工学類,工学システム学類),情報学群(情報科学類),ビジネス科学研究科を担当する教員などです. 詳細は紀要『リスク工学研究』 Vol. 1 を参照されたい.

2001年4月,経営・政策科学研究科のうち経営システム科学専攻(89年~@大塚,Mのみ),企業法学専攻(90年~@大塚,Mのみ),企業科学専攻(96年~@大塚,D)の3専攻が研究科から分離・独立し,この3専攻からなる「ビジネス科学研究科」(社会人大学院)を東京キャンパスに新設します. これをもって経営・政策科学研究科は博士後期課程の専攻を含まないこととなり,翌2002年度には修士課程研究科に戻りました. 2001年度には従来の経営科学分野/政策科学分野が,「MBA」,「ビジネス情報数理」,「社会経済システム」,「都市計画」の“コース制”に変更されます。 2000年度には同窓会「経政会」が発足したようであるが,果たして現在は……?

2004年4月,筑波大学が国立大学法人になってシステム情報工学研究科は部局化し,社会工学系は組織評価・企画提言を行う組織へと変更されます. これにともない,社会工学系に所属していた教員の多くが社会システム・マネジメント専攻の所属となりはじめます. ただしこの時点で「学系」自体はまだ廃止されていません. この年のAnnual Reportでは歴代の学系長がこの改編について所感を述べる節が設けられました. 2003年8月にこの世を去った坂下先生を除いた歴代系長が社工に対するそれぞれの想いを寄稿されているのに対して,腰塚先生だけは,腰塚系長時代に雷が鳴っているとかの理由で会議を休んだ先生の思い出話に終始するという誰にも真似できない自由さを見せつけておられました. 腰塚先生の寄稿は「季節はずれの激しい雷雨があった10月のことであった.」で始まり,「後になって,その人は雷が激しくなったので帰ったのだという.よほど雷に恐怖をお持ちだったのだろうか.」で終わったのです. アニュアル・レポートにまとめられた研究活動報告で「基礎的理論的研究では紙屑以外のものは殆んど得られなかった(原文ママ)」と総括されたことも印象的です(1979年度). 豪傑な方だったようです.

2004年度には学類でカリキュラムの大改革も行われました. 社経は「社会経済専攻」から「社会経済システム主専攻」に改称され,主専攻に加えて副専攻も指定できる,いわゆるメジャー・マイナー制度も導入されます. 基礎と専門を織り交ぜた「くさび型カリキュラム」のもとで,専門科目についてはエリア制が導入されました. このタイミングで主専攻ごとのエリア(各主専攻4つ)に加えて2つの学際エリアも開設されますが,2008年度には「21世紀と社会工学」の1エリアに減少し,2014年度頃を最後に廃止されます.

リスク工学の先生方が総合研究棟Bに移られたのはこの時期だったようです(2004年3月).

2005年4月,社会システム工学専攻は社シス(英称は Master's Program in Social Systems Engineering に変更.前期)と社会システム・マネジメント専攻(Doctoral Program in Social Systems and Management,後期)に改組されます. 経営・政策科学研究科はシステム情報工学研究科経営・政策科学専攻(前期)へ. 同年の入学者から,修士(ビジネス)を取得するMBAコース,または修士(公共政策)を取得するMPPコースのいずれかを選択することになりました。 2005年12月(?),学生による学生のためのサイト「InfoShako-Students」の運営がはじまり,2008年3月ごろまで続いたようです. これとは別に,2015年頃には学類の有志などで運営する「InfoShako Students」というサイトもあったようですが,長くは続かなかったようです.

2006年に社会工学類30周年記念式典が行われ(archive),初代学類長の倉谷先生より社会工学類の教育の発展を願った寄付によって基金が設立され,ここから倉谷賞が授与されることとなりました. 2006年度が第一回目で,社会経済システム1名,経営工学2名,都市計画1名の計4名に賞が贈られました. その後はほとんど各主専攻一名ずつになっています. ちなみに経営工学主専攻では卒業研究の発表に対する教員の評価に基づいて推薦者を決定しているようです. 長年教鞭を取られていた山本先生曰く,はじめに6段階での教員評定の中央値によって数名選び,次いでその中から成績を考慮して選出するという2段階の選考が行われています(山本,2017).

2006年,明治大学情報コミュニケーション学部元助教授F先生の論文に対して盗用が指摘され,翌2007年1月には盗用が認められて懲戒免職処分となりました(出典:朝日新聞 「明大元助教授の論文「全体の96%が盗用」大学が会見」 2007年1月30日朝刊 p.33). このF先生は2000年から2004年3月まで社工に在籍した人物で,論文盗用と同時に問題視された国費の不正受給は社工在籍中である2004年3月上旬にフランスから無断帰国したことが関係しています.

2007年4月,筑波大学が数字で分類する学群制(ナンバー学群,英訳は cluster of colleges)を改め,第三学群社会工学類から理工学群(School of Science and Engineering)社会工学類になります.

2008年3月,開成出版より社会工学類編 『社会工学が面白い―学祭学問への招待』 が出版されます. この本はオムニバス形式で構成され,社工の教員26名それぞれが自身の研究対象における代表的なトピックのうちの一つを社会工学的側面から簡潔かつ平易にまとめたものです. そのため,社会工学とは何ぞやという問いに対する答えが明示的に示されているわけではなく,学部の一年生が授業の最初に聞くであろうお決まりのネタが一揃い集められた本,というイメージです. 表紙には「自由に社会好学してみよう」という文字がポップなフォントで配置されていますが,この語呂合わせが本体で触れられることは一切ありません. 執筆者を主専攻ごとに掲載順に敬称略で列挙します. 社工から離籍された方についてはカッコ書きで転出先等を記します(2020年時点). 半数以上の方はもう社工にはいらっしゃらないのですね.

2011年度(頃)の入学者から,社工での体育科目(必修・実技)に関する卒業のための履修要件が4単位から3単位に減りました. さらに,1980年度(1981年3月)から続いた筑波大学英語検定試験(いわゆる「筑波英検」)が廃止されます. ちなみに合格点は「TOEFL相当で約410点」(外国語センターの人文社会系・磐崎弘貞教授談)だったそうです. さらに余談ですが,当初はA-Dで評価されており(Dは不合格),初回の受験者数は1,600人,Aは46人,Dは約150人だったそうです. Aの42%が医学専門学群と生物学類であったたのに対して,芸術専門学群の学生はCとDのみで,基礎工学類と体育専門学群では20%程がD,という学類間格差もあったようです(『筑波大学新聞で読む筑波大学の40年』 p.47).

2011年10月,(学系を経て2004年ごろから)研究科に所属していた教員が,「系」に所属することとなります(全学レベル). 社シマ所属の先生方が所属する教員組織として,システム情報系社会工学域が発足します. 開学から続いた学系は,2012年3月末をもって廃止されました.

2011年12月,経営・政策科学専攻の特定課題研究報告書(修士論文のようなもの.個人ではなくグループで執筆)に不正(無断引用)が発覚し,一名の学生について学位取消しになっています(参考:修士の学位及び課程修了の取消しについて, 2011-12-16).

2013年3月,長らく社工で教鞭をとってこられたゲーム論の金子守先生が定年退職し,最終講義(題目:「完全競争と人類共同体原理」)が開かれました. 社工の先生方が退職される際の最終講義は毎年決まって3A棟の204教室(300人以上を収容する大教室)で開催されていましたが,金子先生の最終講義には大学会館が選ばれました. さすがに金子先生だけあって,前座となる紹介や来賓挨拶からして,他の先生方の最終講義とは違った様相を呈していました.

2013年頃から「つくばの社工」と銘打ってブランディングを行いはじめ,2013年5月頃からはtwitter(すでにアカウント削除),翌年4月からはfacebookの公式アカウント(日・英)の運用が開始されました.


改組―経政からサービス工学へ

2014年4月には改組により社会システム工学専攻(修士)と社会システム・マネジメント専攻(博士)が社会工学専攻社会工学学位プログラムとして新たな門出を迎え,さらに経営・政策科学専攻は廃止されました.また,社会工学専攻に修士のみのサービス工学学位プログラムが新設されました.「経政 → サービス工学」という単なる改名ではなく,別組織と考えたほうがよさそうです. この大規模な改組により,博士の学位として「博士(社会工学)」しかとれなくなってしまいました. 英語では「Ph.D. in Policy and Planning Sciences」だそうです. ちなみに改組以前(社シマ)は社会工学(Doctor of Philosophy in Policy and Planning Sciences),社会経済(Economics),マネジメント(Management),工学(Engineering)の4つから適切な学位を選択することができました.

改組によって,2013年後半ごろより,それまで社工一族が拠点としていた工学系3C・3E・3F棟に加えて,経政の根城8A(文科系修士棟)も含んだ広範囲にわたって,事務室・研究室の引っ越しが数多く行われました. 研究棟については,リスク工学の先生方がいらっしゃる総合研究棟Bのみ美しく,3C/E/F/8Aは相対的に劣ります. 3Fが数理系のリサーチ・ユニットに,8Aが計画系のリサーチ・ユニットにおおむね対応しているとかいないとか. 院のコースワークは3C(サービス工学学位プログラム)や3E(社会工学学位プログラム)がメインとなります.

この改組のタイミングで,大学院の授業科目から通常日程(通年や半期など)で開設される「ミクロ経済学」が消失します. 「価格理論」と「ゲーム理論」に分割して大学院ミクロの標準的な範囲を実質的にカバーする,ということであればよかったのですが(ちなみに契約理論は改組以前から殆ど扱われてこなかった模様),そうではありません. 2013年度以前から続いていた「ゲーム理論」(主に非協力ゲームや社会選択理論を対象とし,金子守先生や山本芳嗣先生をはじめとする錚々たる先生方も担当)は改組後もそのまま据え置かれ,改組前には消費者理論から一般均衡理論までを扱っていた「ミクロ経済学」の領域がすっかりなくなってしまったのです. 社工として経済理論をどのように位置づけるかのみならず,経営工学や都市計画の教員が経済系の教員とどのように付き合っていくのかという意思表示も含まれていると見ても飛躍のしすぎではないでしょう(2013年3月に金子先生が退職された後というタイミングにも着目). 2014年度は社シス用に他大学から非常勤講師を招いて夏季集中講義として「ミクロ経済学」という名称の科目が開講されましたが,内容は数理ファイナンス. 2015年度も同様に社シス開設としてのみ(集中でないコマで)「ミクロ経済学」が開講されますが,内容はやはり数理ファイナンス. 2016年度は社シスに在籍する学生がいなくなったと見られ(正確には,2017年3月に閉組?),これで社工系列で「ミクロ経済学」はシラバス上からも姿を消します(その後阿武先生・澤先生が担当する「ミクロ経済学」が復活). ちなみに時を同じくして「計量経済学」も同様の仕打ちを受け,シラバス上には既にエコノメの授業はありません(その後,計量経済学に相当する「ミクロ計量分析」が追加). 学類の「ミクロ経済学」を長年担当されていた渡邊直樹先生は2016年4月に他大学に異動されながら,2016年度は非常勤講師として引き続き授業を担当されており,学類についてもミクロという基幹科目を学外の先生に頼らざるを得ない状況です(こちらものちに解消).

2015年1月,「サービス開発・改善のためのビッグデータ利活用」(Center of Excellence in Big Data & Analytics for Service Engineering、サービス工学ビッグデータCoE)を設立しました. これに関連して日本IBMからソフトウェア提供などの支援を受けるようです.

2015年2月,つくば国際会議場で 「(第1回)筑波大学サービス工学シンポジウム」 が開催されました. これ以降毎年2月にシンポジウムが開催されていますが,シンポジウムの後半(第2部)はサービス工学学位プログラムの修士論文計画発表が行われています. 2015年度の学類生研究室配属より,長年続いてきた話し合い(という名のじゃんけんが行われていたこともある)中心の研究室決めに替わってDA(deferred acceptance)アルゴリズムを用いた配属が始まります. 当初は社経のみで実施されていたものの,その後経工,都市(の一部の研究室)と対象が拡大しています.

2015年9月にはトヨタ自動車との共同研究開始を記念した「トヨタ・社工共同研究キックオフシンポジウム」が開催されました. シンポジウムの総括をした石田東生先生は「いい意味で噛み合っていなかった」と講評するなど石田節が炸裂. トヨタ自動車とは,筑波大学だけでも数理物質科学研究科や生命環境科学研究科などとも共同研究等で連携・協同しているようです.2023年には共同研究の成果をまとめた『スマートモビリティ時代の地域とクルマ 社会工学アプローチによる課題解決』が学芸出版社より出版されます.

2016年4月,社会工学コモンズ・センターが開室します. 告知によれば「社会工学関係者が共通して使用する社会工学コモンズ(社会工学実験室、サービス工学ビッグデータCOE、都市計画アーカイブ等)の中心としての役割を担う場所」となるのだそうです.また,詳細な時期は不明ですが,2016年頃(?)の入学者から配布されるメールアドレスが全学のもの(ドメイン部分が @u や @s)のみになったようです.それまでは社工の @sk アドレスが割り当てられていました(一時期は学籍番号に基づいたアドレスを主として名前のエイリアスも使用できていました).

2015年4月の改組から2年後の2017年度入学者から,サービス工学学位プログラムで推薦入試が開始されます. 2017年4月には「未来社会工学開発研究センター」(R&D Center for Strategic Frontiers (in) Social Planning, 通称「F-MIRAI」)が大学に設立され,社工で学位を取得されたばかりのトヨタ・髙原特命教授がセンター長として就任しました(筑波大プレストヨタプレス). また同じ時期に社会工学学位プログラム地域未来創生教育コースの入学が開始されました.

長い間続いていた学類のAC入試は2018年度(2018年4月入学)で終わり,2019年度入試からは実施されないこととなりました. また,2018年度から教職非対応となりますが(それまでは社会・数学の中学校教諭一種,公民・数学・情報の高等学校教諭一種が取れた),2020年度から数学の中学一種・高校一種が取得できるようになります.

2019年度から,学士課程では全学的に「専門導入科目」が提供されることになります.社工が提供する専門導入科目は以下の6つです:経済学の数理,経済学の実証,会計と経営,社会と最適化,都市計画入門,都市数理(社工生にとってはいずれも専門基礎科目.cf. ミクロ経済学・マクロ経済学は専門基礎科目から専門科目に区分が変更).2021年4月には「総合選抜」と呼ばれるいわゆる大括り入試によって学士課程に入学し総合学域群を経て2年次から各学類・専門学群に配属される制度が始まりますが,専門導入科目はこの入試改革を念頭に整備されています.社会工学類は120人の定員のうち30人をこの総合学域群からの受け入れに充てており,うち15人は選抜区分「理系I」からの優先枠となっています.2022年4月には総合選抜入学者1期生が社工に移行します.これに対応するためだと思われますが,「社会工学演習」(2019-20年頃に「社会工学実習」から「~演習」に変更し単位数のカウントが変更.他の実習科目も同様.なお,令和4年度大学設置基準改正により実習科目でも2モジュール×週2コマ=2単位や3×4=6単位に設定できるように変更された)の標準履修年次は1年次から2年次に変更されています.さらに,主専攻配属のタイミングが2年次4月から2年次秋学期に変更されています.

2020年4月に大学院課程は全学的に改組され,社工については理工情報生命学術院(Graduate School of Science and Technology)システム情報工学研究群(Degree Programs in Systems and Information Engineering)社会工学/サービス工学学位プログラムとなります.リスク工学は学位プログラム化するとともに,リスク・レジリエンス工学学位プログラム(Master's/Doctoral Program in Risk and Resilience Engineering)に改称されました.また,社会工学類が文科省の「大学における数理・データサイエンス教育の全国展開」の協力校に採択され(2020・21年度),この業務のために助教の先生が着任されました.

2023年度頃(?)から社工端末室(3C102, 104, 114)が全学計算機システム管轄のサテライトという位置づけに変わったようです.2024年,学類卒業生の五十嵐歩美さん(東大数理情報)が学類出身者としてはおそらく初めて「安田リスト:国内版」に掲載されます.

2024年11月実施入試から私費留学生・帰国子女向けの「外国学校経験者特別入試」が新設され定員化されました.これにより,学類定員120名の構成は次のようになりました:前期(学類選抜)60名,後期12,推薦12,外国6,総合選抜30


組織

社会工学類は他大学の学科に相当します.

入試偏差値は,代ゼミ 60,河合塾 57.5,駿台 52 (出典:大学受験プラス,2015年度)程度との由. 一般入試・前期の競争率(受験者数÷合格者数)推移は,2.1倍(2010年4月入学) → 2.3倍('11) → 2.6倍('12) → 2.3倍('13) → 3.2倍('14) → 3.0倍('15). 社会工学類は社会経済システム主専攻,経営工学主専攻,都市計画主専攻から成り,学生は二年次進級時に一つの主専攻を選択します. 主専攻とは「卒業してから,何を中心に勉強したかを明確に主張できる分野」を意味しています(『筑波大学十年―その成果と課題』 p. 10). かつては各種専攻ごとに50名程度の定員が設けられていたため,志望者が50名を超えた場合は(当時は3年次から主専攻に分かれていたため)1-2年次の成績上位者が選ばれる制度もあったようです(出典:SOCIO-TECH Vol. 9, p. 12). 一時期「仮進級」という制度もあったようですが,1987年頃から廃止されています. 主専攻の他に副専攻を選択することもできますが,この major minor 制度を利用するのは例年数えるほどしかいません. 2009年度入学(33期生)では学類全体で2名が選択しており,一人は主・経工(副・社経),もう一人は主・都市(副・経工)でした. 大学院からは専攻の垣根が取り払われていることになっていますが,建前と実運用に差があるのはいかなる組織にも共通することでして…. かつて(1980年代)は都市計が一番人気だったようですが,その後都市計の人気は下がり,現在(2010年代)まで経工が人気ナンバーワンになっているようです.

以下,SOCIO-TECHを典拠として過去の社工の専攻ごとの特徴を振り返ります. 1986年の社会工学類座長を務めたある学生(当時B2)は「体力の都市計・数学の経工・ノミよりひまな社経」と表現しています(前後の文脈を読めば冗談めかして書かれていることが分かりますので念のためその旨追記しておきます.東大の「ネコ文二」みたいなものですね). 社経(当時の正式名称は「社会経済計画」)主専攻(当時は「主専攻」ではなく「専攻」ですが)については「学生の色としては,経工ほどドライでなく,都市計ほどパワーはなく,要領のいいタイプの人間が集まっている」「イージーな人間でも生きていける」のだそうです. 経営工学主専攻については「マイペースな人が多い」とのこと. 都市計画主専攻については「なんたって知力がない代わりに体力がある!」「実習のために生きている」「徹夜を苦にしない」「グループワークが多いことから集団で学び,集団で遊ぶ」のだそうです. SOCIO-TECH(No. 13, 1987年)に掲載された特集「専攻紹介」によれば,以下のような特徴が挙げられていますが,あくまでも当時の実態であって,2010年代は必ずしも当てはまらない部分もあるような.

以上にない項目を中心に2010年代の社工を振り返ってみると,以下のようなイメージです.

卒論・修論の発表会には主専攻ごとの違いが顕著に表れます. 卒論発表会については,指導教員と討論者を中心に数えるほどの教員しか参加しない社経,教員の半数ほどが参加し討論者などは設定されていない経工,教員の大半が参加しコメント希望教員が決められている都市計. 経工では2015年度(2016年1月)から発表エリアが設定され,数理工学,マネジメントなどと区切られるようになっています. 学生と指導教員の主専攻が異なる場合,学生の主専攻側で発表する場合,指導教員側の主専攻で発表する場合,両方で発表する場合があります. ちなみに社経では中間発表がなく,経工は各学生が中間発表担当教員と個別に日程調整して発表,都市計は最終発表と同様に教員勢揃いの場で発表. 修論発表会については,社経と都市計は卒論時と同様ですが,経工は出席する教員の数が明らかに少なくなります(それでも社経よりはずっと多い). 発表会に参加すると,どの先生が学生の教育に注力されているのか,どの先生のもとに優秀な学生さんが集まる傾向にあるのかが観察できます.

学類の一年生は,確認できる範囲では遅くとも1980年代からは,必修科目としてプログラミングを学んでいました. 当初はPascal(Turbo Pascal),2000年代にはJava,その後はJavaに加えてPython,という変遷を辿っているようです. 必修であるかは不明ですが,CやFortranなども授業で扱われていたようです.

第二外国語(いわゆる「二外」)は,いつのまにか必修ではなくなりました. 以下に示すカリキュラムのように,過去には社工にも二外はあったようなのですが.

多くの学生は入学と同時に学生宿舎に入居しますが,二年次ではほとんどの学生が抽選に漏れて民間のアパートに引っ越していきます. ところが1986年頃の記録によれば,社工の学生のうち抽選のくじ引き(1年生 → 2年生)での当選率は60%ほどで,2人部屋に移る学生も含めれば,定員120名のうち100人ほどは宿舎に残っていたようです(出典:SOCIO-TECH Vol. 8, p. 18).

SOCIO-TECH(Vol. 13, p. 32, 1987年)に掲載された「社工度チェック」を転載します. 当てはまる項目数が 11-19 の学生が「標準的社工生」とのこと.

社会工学類には同窓会 「筑波社工会」があります(東工大の社会工学科学科・同窓会の名称は「社工会」です). 卒業時のクラス代表(?)が幹事となり,年に一度(7月頃) 倉谷賞 受賞者の発表会と懇親会が開催されています. 出席される教員はほとんどが経営工学の方で,都市計画からはかろうじて役職者(≒ 専攻長/PL・学類長)のみ参加,社経の先生はほぼ出席されません.都市計画同窓会 がある都市計画の先生方はともかくとして,社経の先生方が来られないあたりに色の違いを感じます. 2014年には同年3月に亡くなった倉谷先生偲ぶ会も同時に行われました(写真:専攻公式FB 2014年7月17日).

歴代の社会工学類長は以下のとおりです(敬称略).


社会工学専攻は社会工学学位プログラム(博士前期+博士後期),サービス工学学位プログラム(博士前期)から構成されます. 2014年4月以前の入学者は社会システム工学専攻/社会システム・マネジメント専攻に属し,2015年4月時点ではこれら旧専攻の在籍者が在学しているため,旧専攻も正式に存在しています.

推薦入試による選考については,出願の主な要件は「総取得単位のうち A+ または A の割合が概ね 70% 以上」で,A+ 導入前(A-Dの4段階評価の時代)は「A 70% 以上」となっていました. ただし指導教員によってこの要件の捉え方が異なり,あくまでも目安と考える先生もいれば,わずかでも基準を下回っている場合は推薦入試を認めない先生までいらっしゃるようです.

経営・政策科学研究科長(敬称略)

社会工学研究科長(敬称略)

国際政治経済学研究科長(敬称略)


社会工学域は1975年の社会工学系発足に端を発し,2011年にシステム情報系社会工学域となって現在に至ります. 学系は公的には「専門分野別の研究組織」とされていますが,実質的には「専門分野別の教員組織」でした(『筑波大学30年史稿』 p. 44). 教育組織である学群・学類や大学院の博士課程とは別に研究組織が設置されていたことになり,筑波大学全体で「研究と教育の分離」がなされていました. 筑波大学の開学当時は「全学の教員は必ず専攻分野に応じたいずれかの学系に所属する」ことになっていました(『筑波大学30年史稿』 p. 61). 1980年時点で社会工学系の研究分野は「公共政策科学,経営政策科学,都市・地域政策科学」でしたが,2003年時点では「社会経済,公共政策,計量ファイナンス,数理工学,情報システム,経営学,都市・地域計画,環境システム,国際関係論」と細分化された分野が示されていました. 学問領域の広さは,一般的な学部より狭く,学科より広かったようです. 系の発足当時から,他の系に比べて人事異動の激しさは突出して多く,初期には毎年10人近い転出と転入があったようです. 専門の多様性も特徴の一つで,1990年ごろの資料によれば教員の所属する学会は重複を除いて100を超えていたようです. 歴代の社会工学系長,および社会工学域長は以下のとおりです. いつからか,博士課程(社シマや社工後期)の専攻長を兼務されています.

サービス工学学位プログラム・プログラムリーダー


ここ十数年の転出者を列挙します.連携大学院教員(国土技術政策総合研究所、国立環境研究所、建築研究所、産業技術総合研究所)は除きます.職階が変更された場合(e.g., 准教授→教授)は併記しているつもりですが,漏れがあると思います.


転入:


関連人物(一部)

教員(主な担当が東京キャンパス以外)


教員(主な担当が東京キャンパスの社会工学系教員.2004年,ビジネス科学研究科に移籍.その後,ビジネスサイエンス系へ)


卒業生


社工(東京キャンパスを含む)卒業生・修了生 → 筑波大教員(常勤)


卒業生紹介など


卒業生の起業(学歴が公表されている方のみ)


※Wikipediaには「日本の社会工学者」というニッチなカテゴリーがあります.


報道等


リンク集

関連リンク (外部向け)


関連リンク (内部向け)


関連リンク (内部向け.学内/社工ネットワーク内からのみ接続・閲覧可能なページ)