中学2年の春。
数学が苦手だった三崎 柚葉は、塾で出会った大学生講師・佐野 恭介に支えられながら、少しずつ成長していく。
やがて彼に秘めた想いを抱くようになるが、その気持ちを伝えられないまま時が過ぎる。
恭介に出会って3年、高校生になってからも柚葉は変わらず塾に通っていた。
しかし、恭介は就職が決まり、塾のアルバイトを辞めることに。
もう会えなくなると知り、勇気を出して「あのね、先生——」と言いかけたものの、
その先の言葉を紡ぐことはできなかった。
それから10年後——。
社会人となった柚葉は、仕事のスキルアップのために英会話スクールへ通うことを決意する。
そこで再会したのは、かつての憧れの人・佐野恭介だった。
再び交わる二人の時間。塾講師と生徒ではなく、英会話の先生と生徒として始まった関係の中で、
柚葉は過去の淡い想いを思い出しながらも、変わったはずの距離感に戸惑いを覚える。
季節が移ろう中で、偶然の再会や何気ないやり取りを通じて、二人の関係はゆっくりと変化していき——!?
そして柚葉は10年前に伝えられなかった想いを胸に、一歩を踏み出そうとする。
——「あのね、先生」。
あの時、言えなかった言葉を、今度こそ。
ーーー
🌸春の再会
社会人になってからの毎日は、
学生の頃のように劇的な変化があるわけでもなく、淡々と過ぎていくものだと思っていた。
この日を迎えるまでは———
社会人生活も4年目になり、最近は取引先とのやり取りで英語を使う機会が増えてきたのだが…
自分の英語の語彙力に限界を感じ、挙句には上司からも
「英会話スクールとか通ってみたら?」と言われてしまう始末。
私は正直あまり乗り気ではなかったが、仕事に必要だから仕方なく…
くらいの気持ちでビジネス英語を学ぶために、「まずは初回体験コースからでいっか…」
と会社からの推薦で選ばれた英会話スクールに申し込んだ。
———そして迎えた英会話スクールの初日。
教室の扉を開けると、誰もいなかった。
ガランと空いた教室。20人弱の広さだろうか。
まぁ、体験コースだし…1人でもおかしくはないか…
けれど時間になっても結局、教室には誰も来なかった。
英会話スクールって、初めてだけどどんな感じなんだろう。。
誰かにちゃんと教えてもらうのは、中学の塾以来だなぁ。。
そんなことをぼんやり思っていると、
「佐野さーん!こっちこっち!」
聞き覚えのある名前が教室に響いた。
そして振り返ると1人の男性が教室に入ってきた。
「佐野です。よろしくお願いします」
そう言って微笑みかけられた瞬間、私は息を飲んだ。
そこに立っていたのは——
ーーー
🌼 先生との出会い
そう、あれは今から10年以上前の話——
中学二年の春。
数学がどうしても苦手で、親に勧められるまま近所にあった個別塾に入った。
今までも、集団塾、家庭教師と色々な方法で学力をつけさせようと両親に入れられてきたが、
正直塾なんて、いいイメージは皆無で、苦手な勉強をひたすら強制的にやらされる場所。
楽しい場所なんかじゃないし、面倒だし、通いたくなんてなかった。
不安と緊張と憂鬱とで始まった初日、
塾長室で塾長から説明を受けて、「じゃあこっちに」と案内された。
案内された先には、
白いシャツに深い緑色のカーディガンを羽織った
爽やかな雰囲気の男の先生がこちらを向いて立っていた。
肌はやや白く、ゆるっとしたこげ茶で無造作な感じの髪、
少し長めの前髪は横に流していて整えすぎずナチュラルにまとまっている。
その柔らかな目元や落ち着いた雰囲気は、どこか年上らしい安心感があった。
口元に時折できるえくぼが印象的だった。
この人が私の担当なのかと思ったら一気に緊張が増した。
しかも、ワンツーマンの個別指導なんて初めてで——
できれば女性の先生がよかった。
親族以外の男の人は、ちょっと苦手だ。
「はじめまして。今日から担当する佐野です」
佐野先生は、緊張で固まっている私にそう声をかけてくれた。
落ち着いた声。穏やかな微笑み。
初めて会ったのに、どうしてか少し緊張がほぐれた気がした。
この日以来、佐野先生が私の数学担当になった。
先生は大学2年で、中学生の私から見れば遥かに大人だった。
授業もわかりやすくて、数学が苦手な私でも理解できるように、ゆっくりと教えてくれた。
何度も同じところを間違えても、嫌な顔一つせずに「次はきっとできるよ」と励ましてくれた。
雑談もたくさんして、授業の後はいつも教室で最後の1人になるまで
先生とケラケラ笑いながら喋っていた。
いつの間にか、塾に行くのが楽しくなっていた。
授業が終わったあと、帰り際に「またね」と微笑まれると、
それだけで胸が高鳴った。
どんどん先生のことが好きになっていくのがわかった。
そして、高校一年の冬。
私は、先生に気持ちを伝えようとした。
「あのね、先生——」
けれど、その先の言葉が出なかった。
「なんでもない」と笑って誤魔化した。
所詮、私は高校生だ。相手は大学生、脈なんてないんだ…
結局、先生は大学卒業を機に塾を辞めることになり、
私は最後まで何も言えないまま、別れの日を迎えた。
——そして、私は現在(いま)、1人の先生の前にいる。
ーーー
———え?
驚いて顔を上げると、そこには十年前と変わらない微笑みを浮かべた先生がいた。
そう——”あの”佐野先生が立っていた。
「……先生?」
心の声が、無意識に漏れてしまった。
目を丸くしてこちらを不思議そうに見る先生を前に、ふとそう言ってしまった自分にも驚いた。
勝手に「先生」なんて気安く呼んでしまった…!
でもまさか、まさかで……
「…あっ私、三崎 柚葉です…」
咄嗟に言う。
「わ、私が中学生のとき…そ、その、塾でアルバイトしてませんでしたかっ…」
そう言うと、先生の目が少し驚いたように細められた。
「もしかして…”あの”三崎さん…?」
先生の表情に驚きと戸惑いが滲んでいた。
それもそのはず、10年も経てば当然だ。
中学時代のあどけない顔とはそりゃ変わってるし、
今の自分はメイクもするようになったし……
「はい! ”あの”三崎です!」
十年ぶりの再会。
英会話スクールでの偶然の再会に、私は心の中で何度も驚きながら、
一気にこみ上げてきた嬉しさと懐かしさを隠して必死に平静を装っていた。
また先生に教わる日々が始まるなんて——
私はただ、それが嬉しくて嬉しくて、仕方なかった。
***
先生との再会を果たしたあの日から早数週間が経った。
休日の今日は天気もよく、桜が満開の見頃を迎えていた。
街にはたくさんの人。桜の下を歩く私の心は弾んでいた。
——まさか、先生と再会できるなんて。
私はまた、英会話スクールに行くのが楽しくなっていた。
先生と話せる時間が待ち遠しくて仕方ないのは、あの頃と同じ気持ちだった。
先生はあの頃と変わらず優しくて、教え方も丁寧で、少しだけくだけた話し方が心地よくて…
先生って、昔と全然変わらないな…
ふと、そう思っていたとき———
交差点の向こうに見覚えのある後ろ姿が見えた。
黒いジャケットに、少し無造作な髪。そしてあの落ち着いた佇まい。
……先生?
無意識のうちに足が止まっていた。先生は誰かと一緒だった。
小さな女の子の手を引きながら、隣にはロングヘアの女性が寄り添うように歩いている。
女性は先生に何か話しかけ、先生は笑って頷いた。
女の子が駆け出そうとすると、先生が優しく手を握り直し、
「危ないよ」と言っているのが聞こえた。
まるで、家族みたいな———
胸の奥が、ズキッとした。
——そっか、先生、結婚してたんだ。
そんなの、考えたこともなかった。
でも…………
たしかに、奥さんがいて子供だっていてもおかしくない歳だよね。
昔みたいに自由な時間はなくて、仕事をして、家庭を築いて、守るべきものがあるんだ………
「…バカみたい」
急に恥ずかしくなった。
10年ぶりに再会して、先生の変わらない優しさに懐かしくなって………
少しだけ期待していた自分に。
もう一度、あの頃の気持ちを取り戻せるんじゃないかって。
そして今度こそ、先生にあの時伝えられなかった想いを
ちゃんと言葉にできるんじゃないかって。
だけど、それはただの思い上がりだった。
先生には、もう別の人生がある。
ただ呆然と立ち尽くす私の前に
一ひらの桜の花びらが舞い落ちた。
——知らなかった方が、よかったな。
春風が吹き、桜の花びらが舞い散る。
先生と女性が並んで歩く後ろ姿が、ぼやけて見えた。
なんでだろう、
こんなに胸が苦しくなるのは———。
胸の奥がじんと痛む。どうしてこんなに苦しいのか、
自分でも分からなかった。
ただ、
たった今、自分の中の何かが崩れてしまった気がする。
信号が青に変わった。
先生は女の子の手を握ったまま、女性と一緒に横断歩道を渡っていく。
その姿が、どんどん遠くなる。
………帰ろう。
帰り道、なんとなくスマホを取り出して先生とのメッセージを開いたいた。
そこには昨日送られてきた授業の復習内容と一緒に、
『次回はリスニングを強化しましょう!』
と、優しい言葉が添えられていた。
あんなに嬉しかったはずの先生からの言葉が、
今はただ、
色褪せてにじんで見えた。
ーーー