吉無田水源
〜水と大地と人がつむぐストーリー〜
第一章 水と大地がつむぐストーリー
〜「火の国」熊本は「水の国」〜
世界有数のカルデラを誇る阿蘇を有する「火の国」熊本は「水の国」とも称されています。
阿蘇の外輪山の西側に降り注いだ雨が地下水となり、火山活動によってできた地層を通って、水前寺・江津湖・六嘉一帯で湧き出しています。
こうした豊富な湧水により、熊本市は日本で唯一、水道水源の全てを地下水で賄っています。
これは世界的に見ても大変めずらしいことです。
熊本市周辺の地中深くには、岩盤が盆地状に広がっています。
これが地下水の受け皿であり、「地下水盆」と言われています。
この「地下水盆」の上に、地下水が浸透しやすい「阿蘇火砕流堆積物」などの地層が積み重なっています。
阿蘇は約27万年前〜約9万年前にかけて4回の大噴火(Aso-1〜4)を繰り返し、地下水が浸透しやすい「阿蘇火砕流堆積物」が広がりました。
熊本地方の滞水層は2層あり、地表に近い「第一滞水層」はAso-4、その下の「第二滞水層」はAso1〜3により構成されています。
※Aso-1:約27万年前・Aso-2:約14万年前・Aso-3:約12万年前、Aso-4:約9万年前
また、Aso-1とAso-2の間に外輪山西側の益城町赤井に「赤井火山」が形成されました。
この溶岩流は益城町砥川の地名にちなみ「砥川溶岩」と呼ばれています。
特に地下水が浸透しやすいこの地層は、益城町・嘉島町・熊本市東部などに分布しています。
地下水の大きな流れは、外輪山西側に広がる台地や白川中流域の「地下水プール」で涵養された流れです。
その他にも、植木方面からの流れと、御船方面からの流れが加わり、熊本の湧水地帯を形成しています。
第二章 水と人がつむぐストーリー
〜「元禄・嘉永井手」物語〜
「水の国」熊本の水源涵養エリアにある吉無田水源。
毎分8トンの湧水量を誇り、水を汲みに来られる方たちで賑わっています。
水源を囲んで国有林がうっそうと茂り、森林浴を目的に来られるもいらっしゃいます。
実は、この水源と国有林は、人の手で作られたものなのです。
江戸時代、吉無田の裾野に広がる丘陵地帯の水不足を解消するため、1654年に全長約20㎞の用水路「元禄井手(清水井手)」が造られました。
しかし、水量の少なさによる水不足は続いたため、1815年に水源涵養のための一大植林事業を興し、1847年にかけて240万本を植林し、吉無田に広大な山林が誕生しました。
これにより吉無田水源の水量は増し、「元禄井手」の流量を増大させるとともに、新しい用水路として1853年に造られたのが全長約28㎞の「嘉永井手」です。
「嘉永井手」は、「八勢川」の3つの渓流から取水してトンネルを通した後、尾根を隔てた「矢形川」に一旦落としてして4流とし、さらに井手として取水して下流で「元禄井手」と合流させるという壮大かつユニークなシステムを採用しています。
この計画における最大の工事が全長864mの「九十九折トンネル」の掘削でした。
阿蘇の溶結凝灰岩でできた固い岩盤を貫く掘削は難航を極め、現在も当時のまま機能していて、標高約600~250mに通された他の流路とあわせて測量・土木技術の高さを伝えています。
「元禄・嘉永井手」により中山間地の新田開発は大きく進み、総受益面積は当時300haに及び、集落移転などの地域開発を実現させるに至りました。
また、「元禄・嘉永井手」によって生まれた「寅舞」や「井手祭り」などの文化は現在も息づき、御船町内の子供たちは郷土史教本の中でこの偉業を学んでいます。
このように「元禄・嘉永井手」は誇るべき吉無田の遺産です。
私たち愛郷吉無田も、流域でフットパスやマウンテンバイクイベントを開催し、新たな地域づくりに発展させたいと取り組んでいます。