学校の階段を数段飛ばしに駆け上がり。
鉄扉に全部の体重を乗せて、体当たりしながら開ける。
普段は立ち入り禁止にされている屋上の、異様に低いフェンスの向こう側で。
あいつはイヤホン越しに何か聴きながら、突っ立っていた。
なんで、あんなところに……!
慌てた俺は、あいつのいるところまで全速力で走った。
冬の訪れを感じさせる強い風が、俺たちの髪を逆さに撫で上げて。
あいつの片足が、屋上のコンクリート床から宙に伸ばされた瞬間。
ようやくそのすぐ後ろまで駆け付けた俺の腕も、あいつの歩幅と同じくらい伸びた。
確かに俺は、腕を掴んだ。
けれど、世界は無感情な顔で、俺たちを重力という名の透明な縄で引っかけながら地上へと引きずり落とす。
同時に落下する俺たちの速度は。
富士山近くにある遊園地のジェットコースターなんかよりもずっと速くて、怖かった。
*****
一瞬、何が起きたのか、わからなかった。
落下した、かと思えば柔らかい地上に転んでいて。
気付けば湿気のない砂に全身をまみれさせていた。
彼、久川(ひさかわ)はしばらくの間、呆然とこの世界を見つめてから呟く。
「これが、地獄?」
なんか、思っていたよりも平和な場所みたいだ。
そう思っていると、彼の後ろで吹き出すような笑い声が聞こえた。
久川は飛び上がるように驚き、振り返る。
「地獄、つーか……砂漠だろ」
見れば、そこにはなぜか、久川が苦手だと思ってきたクラスメイトの藤堂(とうどう)がいた。
「藤堂さん!? なんで……というかここ、どこです?」
動揺する久川に、藤堂は衣服に付いた砂を埃のように手で払い、立ち上がってから苦笑交じりに答える。
「お前、屋上から飛び降りようとしただろう? あの時俺、腕掴んで、引き留めたつもりだったんだけど……」
久川は数秒ほど、口を開けたまま硬直してから。少し気まずそうに視線を逸らして言った。
「全然、気付かなかった」
「そりゃお前、イヤホンつけてたからな。今度やる時は外しとけ」
そう言って笑う藤堂に、久川は小さく言い返す。
「……余計なお世話」
それから二人は、ポケットに入っていたはずのスマートフォンを探ったが、見つからず。
落としたのだろうかと、二人して手触りの良い砂の中を探ったが。
結局スマートフォンは見つからなかった。
「参ったな……これじゃあどこなのかわかんねえな」
天高く昇る太陽の光を見上げてから、藤堂は諦めたように大の字になって砂の上に寝転んだ。
一方の久川は、どうすれば家に帰ることができるのか、自分たちを救助してくれる人は現れるのだろうかと不安に思い。
それから自嘲気味な薄い笑みを浮かべて、ため息を吐いた。
自ら死を選んでおきながら、助けは来るのだろうか、なんて。
久川は自分の中にある矛盾に、つばを吐きたくなった。
そんな時、突然藤堂が勢いよく起き上がる。
同時に藤堂の首元で、リングの通されたネックレスが光を反射して輝いた。
「な、なんです……」
驚いてから、怪訝な目を向ける久川。
だが藤堂の視線は久川の先に向いており。
疑問に思った久川が振り返ろうとした時、藤堂に突き飛ばされ、砂の上をまた転んだ。
直後に聞こえる、藤堂の悲鳴。
「いってえ! こんの、離れろ!」
立ち上がり、何かと格闘している藤堂を久川が見上げると。
藤堂の腕に、細長い何かが巻き付いているのが見えた。
細長く、砂と同系色の見た目をしたそれは、藤堂の腕に絡みつき。
ほどよく焼けた素肌を離さないとでも言うかのように、藤堂の腕に噛みついていた。
「へ、蛇!?」
慌て立ち上がり、藤堂を助けようと近づく久川に、藤堂は近づくなと言わんばかりに腕を振り回した。
同時に蛇は吹き飛ばされ、砂地に叩きつけられる。
警戒し、後ずさる二人だったが。
蛇は吹き飛ばされた衝撃で頭をふらつかせてから、砂の中へ潜るように逃げていった。
「くそ、いってえなあ……逃げるなら最初から襲ってくるなってーの」
軽い口調で悪態をつく藤堂だが。
その腕からは血が、二本の線を作るようにして流れ出ている。
「藤堂さん、止血! えっと、ど、どうしよう!」
流れ続ける血液に気が動転する久川を、藤堂は目を丸くして眺めてから。
なだめるように静かな口調で言った。
「あー、俺わかるから、大丈夫。手伝ってくれるか?」
数度頷き答える久川に、藤堂は「ありがと」と答え、着ていた白シャツの袖を引っ張るように指示した。
藤堂の指示を受けながら。
久川は引きちぎったシャツの袖で、出血した箇所を押さえるように締め付け、圧迫する。
「よしよし、これで大丈夫じゃねえかな?」
そう言って藤堂は久川に笑顔を向けた。
その笑顔に対し、久川は気まずいのか、再び視線を逸らす。
本当はこの時、久川はお礼を言うべきだった。
あの時、藤堂が突き飛ばしてくれなかったら。
噛まれていたのは久川だったかもしれないからだ。
だが久川はそれをしなかった。
日々勉強漬けだった久川は。
校則を破って髪を染め、教師の説教にも動じず、似たような仲間を寄せ集めて、教室の中で堂々とはしゃぎ、笑っている。
そんな藤堂が、はっきり言ってしまえば嫌いだった。
だから、そんな相手に礼を言うのがなんだか癪で、何も言わずに彼は立ち上がった。
「おいおい、どこ行くんだよ?」
「近くに建物があるかもしれないので、探してきます」
「置いて行く気かー? ひっでえなあ」
そう言いながらも、藤堂は笑っていた。
立ち上がりもしない。
藤堂はまだ、ここから動く気はないようだ。
さすがの久川も、負傷した藤堂を一人残していくのは酷な気がして。
渋々その場に座りこんだ。
「じゃあ、血が止まるまで待ってます」
「サンキュ」
藤堂の出血が止まるまで待つことにした久川は、頭上に浮かぶ白い太陽を見上げる。
まさか、生き延びることになるとは思わなかった。
こうして生きていることに対して、喜べばいいのか、恨めばいいのか。
久川は、どうして自分は死のうと思ったのか。
その理由を思い出して、複雑な気持ちを抱くのだった。
「久川、砂漠って行ったことある?」
突然、藤堂がそんなことを尋ねてきた。
「……ないです」
「だよなあ、俺も行ったことない。あ、でも親父が昔、仕事で行ったことあるって言ってたぜ? どこだっけな……シルクロードってところ」
「シルクロード? 中央アジアを横断している、あそこですか?」
そんなところへ行くなんて、どんな仕事をしているのだろうか。
久川が首を傾げていると、藤堂が明るい表情で答える。
「そうそう、取材で行ったらしい」
藤堂が聞いた話によると、藤堂の父はテレビの映像を作る会社に勤めているらしく。
シルクロードへ取材に行ったのも、番組に流す映像を撮影するためだったそうだ。
「でさ、親父のやつ、シルクロードのど真ん中で車が止まっちゃったんだってさ」
撮影の途中、スタッフの乗った車が一台、故障して動かなくなった。
もう一台の車は動いていたため、故障した車を置いて、ひとまず宿へと引き返すことになったのだが。
動く車に乗れる人は限られており。
藤堂の父親は渋々、迎えが来るまで故障した車で一人、待機していることになった。
まだ太陽も昇ったばかりで、撮影日数的にも余裕があり。
この日の内には自分も宿に帰ることができるとわかっていたから。
藤堂の父は渋々とはいえ、気長に車内で迎えを待っていた。
「で、ここからが不思議体験なんだけどさ。親父、砂漠の中で一人の少年を見つけたんだってさ」
「不思議体験?」
訝しげな目で見る久川に、藤堂は「まあ聞けよ」とニヒルな笑みを返す。
藤堂の父は、車の窓から砂漠の地平線を眺めていた。
だが、そんな視界の中に一つの、小さな人影が見えた。
シルクロードという、有名な交易路だ。
他にも人がいたっておかしくはないのだが。
その人影は一つだけで、目をこらして見れば、子供だった。
藤堂の父は驚き、車を飛び出してその人影に駆け寄った。
人影は、確かに人間の子供、少年だった。
輝くような金色の髪に、白い素肌、ボロボロな白い衣服。
この辺りで見かけた住民たちとは、見た目も背格好も違う。
現地の子供ではないことだけが、よくわかった。
少年は、藤堂の父に抱き留められる形で倒れた。
体を揺すり、声をかけても応答がない少年。
藤堂の父は彼を車内にまで連れて行き。
大量に乗せていた水筒の水を、口元にゆっくり流し込んだ。
「最初は意識がなかったんだけど、ちゃんと水も飲んでさ。数分後には、起き上がれるくらいには元気になった。で、その子供が開口一番、発した言葉がびっくりなんだよ」
藤堂は、ここからが本番だとでも言うかのように。
身振り手振りを交えながら続けた。
助けられた少年は、日本語で言った。
「助かった、ありがとう」
藤堂の父は、目を丸くして尋ねた。「きみは、日本人なのかい?」と。
だが少年は首を振って、答えた。
「ぼく、こことは別の星から来たんだ」
「なんか、どこかで聞いたことのありそうな話ですね」
「そう思うか? でもこれ、実話なんだぜ」
驚いている藤堂の父に少年は礼だと言って、ポケットからネックレスを取り出し、手渡した。
そのネックレスは黒い麻のようなひもで作られており。
金色のリングが一つ、通されていた。
ネックレスを受け取らされた藤堂の父が顔を上げると、そこにはもう誰もいなかったと言う。
「すげえよな、学校の七不思議よりも立派な不思議体験だぜ?」
「作り話じゃないんですか?」
久川が呆れのため息を吐いて尋ねるが、藤堂は「本当だって!」と言ってから、自らの首元を指さした。
「これがその証拠、親父がくれた」
藤堂の首元には、金色のリングが一つだけ通された、黒いヒモのネックレス。
久川は一瞬、目を見開いたが。すぐに疑り深く目を細めて言った。
「話が嘘である可能性は、否定できていませんよね?」
「……まあな!」
藤堂が豪快に笑ったため、久川はもう一度呆れのため息を吐いた。
たとえ、その話が本当だったとして。
だから何だよ、と言いたくなるのだが。
そこはぐっと堪えて、久川は立ち上がる。
「血、そろそろ止まったんじゃないですか」
「そうだな、ちょっと待ってろー」
藤堂が腕を締め付けていたシャツの結び目をほどくと、白いシャツについた赤黒っぽい色が久川の目に映る。
傷のついた箇所は、出血が止まったのだろう。
牙で空けられた二つの穴がよくわかるものの、出血してはいないようだ。
代わりに、雑菌が入ったのか。
鬱血とは少し違う色が皮膚に現れていた。
「うお、変な色だなあ……まいっか」
血のついたシャツを着直して、藤堂も立ち上がる。
ずっと座っていたせいか、少しだけふらついたが。
すぐにしっかりと立ち、無邪気そうな笑みで久川に言った。
「で? どっちに向かって歩きゃあいいんだ」
「……とりあえず、太陽の沈む方向に」
久川が頭上を見上げる。
太陽が少しだけ、傾いていた。
この砂漠地帯は、砂漠のくせにそこまで暑くはなかった。
冬の時期は、砂漠であっても暑さを感じないものなのだろうか?
疑問に思いながらも、久川は藤堂と共に歩き続ける。
視界の先には、一面の砂。
砂はどこまでも続き。
地平線の先まで行けたとしても、ここからでは何も無いように見えた。
「俺んちの話なんだけどさ」
まだ数秒しか経っていない無言時間に耐えかねたのか、唐突に藤堂は話しはじめた。
藤堂の家は元々四人家族で。
父と母、それと姉が一人いたと言う。
父と母の二人は、よく喧嘩もするし、おしどり夫婦というわけではなかったが。
それでもよく二人でテレビのバラエティ番組を見ては、一緒に笑っているような人たちだった。
口喧嘩と笑顔を見せることの多かった両親と違い。
姉の方は物静かでおっとりとした人だった。
よく服の袖をドアノブに引っかけたり、小石が無い駐車場の白線でなぜかつまずいたり。
とにかく目が離せない人で。
食べ物の好き嫌いが多く、猫が大好きだった。
年の差はそれほどなく。
藤堂が中学二年生だった時、姉は高校三年生だった。
「姉ちゃんの髪はさ、いつも長かったんだ。前髪も、胸のところまであってさ。普段から邪魔だ邪魔って言ってるくせに、めったに切らないんだ」
藤堂の視線は、青白く、遠い空に向けられていた。
藤堂の口ぶりからして、その姉に何かあったのだろう。
姉のことを語る度に、時折言葉を詰まらせながらも。
藤堂は話し続けた。
おっとりとしていた姉は絵が上手く、よく催し物に使われるイラストを描いていた。
それは学校で配布される冊子の表紙や、近所に配られるチラシのタイトルなどに使われており。
当時は近所の主婦たちにも褒めちぎられるほどだった。
絵が上手かった姉の持つ、将来の夢は、イラストレーター。
高校三年目の夏、藤堂の姉は美術系の大学に通うのだと言って、張り切っていた。
しかし、そんな前向きな意気込みとは裏腹に。
その頃使っていた姉のスマートフォンには、陰湿ないじめを思わせるメッセージが何件も届いていた。
後に、遺品となったスマートフォンを調べたとき。
メッセージ自体は消されていたのだが。
姉がわざわざ撮影、記録し、残していたやり取りの画像を見て。
家族は絶句した。
「……亡くなったんですか」
「うん。四、五年くらい前の、二月五日。卒業も間近って時に、近くのきったない川に飛び込んだ」
視線を地面に落とす藤堂。
彼の足取りはいつの間にか重くなり、気付けば久川も同じ歩調になっていた。
袖をドアノブに引っかけるような間抜けをする姉だが、実は結構図太いところもあった。
もっと幼い頃は、弟の誕生日ケーキに乗ったイチゴをこっそり横取り。
ついた嘘がバレた時には「うん、嘘だよ」とあっさり種明かしをした。
度胸があった、とも言えるだろう。
メッセージのやり取りを画像で記録し、残していたくらいだ。
時期が来たら、この画像を両親に見せて、法的に仕返しするつもりだったのかもしれない。
「でも姉ちゃんは死んだ。それが俺たち、ずっと疑問で……モヤモヤしたまま一年くらい経った頃にさ。姉ちゃんのクラスメイトが一人、家に来たんだ」
そのクラスメイトは、姉が亡くなった後の、校内の様子も知る男子生徒だった。
彼も元々、絵を描く人間だったのだが。
藤堂の姉がいじめられているのを見て、やめてしまったらしい。
藤堂の姉が亡くなった後、後悔と恐怖に苛まれたのか。
同級生が恐ろしくなり、大学にも行くことができず。
今は家に引きこもっていると話した。
彼は藤堂の家に来た理由を、おどおどした様子のまま、長い時間をかけて近況を話してから切り出した。
「彼女が亡くなった理由、ご存じですか?」
それは、知りたいから聞いたという風ではなく。
もし知らないのであれば伝えた方が良いだろうと思い、ここに来た。
という感じの尋ね方だった。
久川は、何も聞かなかった。
お姉さんが死んだ理由って?
という疑問の言葉は、藤堂の傷を抉る問いなのだと、すぐにわかったから。
問いは、知るべきことにするべきだ。
藤堂の姉が死んだ理由は、久川が知るべきことではない。
少なくとも久川自身はそう考えた。
「俺もその話、聞いたんだけどさ。マージで腸煮えくり返ったよ……そいつらの名前を聞いて、一生働けない体にしてやりたいって、思ったんだ……」
藤堂が、砂地に膝をついた。
今までの歩調からなんとなく察していた久川が、倒れようとしていた藤堂の体を支えると。
彼の口から、苦しげに呼吸する音が聞こえた。
嫌な予感があった。
だが、そんな現実味のないことが、事実だったとして。
自分に何ができるだろうか?
「だ、大丈夫ですか……少し休みましょうか」
動揺の表情を浮かべる久川に、藤堂は額に汗を浮かべながらも、薄い笑みを浮かべて。
震える言葉で問いかける。
「なあ、久川……お前は、なんで死のうとしたんだよ」
藤堂の言葉が、久川の胸を突いた。
あまりにも強い衝撃に、両目から涙が溢れ、こぼれ落ちる。
久川家の大黒柱だった父が、事故で視力を無くして、仕事を辞めた。
母が働きだして、自分が父の傍にいるようになって。
自分の将来にとてつもない不安が押し寄せた。
だから死のうと思った。
何も考えたくなかったから、頭の中をイヤホン越しに聴く音楽で埋めて、死のうとした。
久川は頭の中で、明確だった自分の『死ぬ理由』を思い出す。
なのに、何も。
言葉にできなかった。
一度は死のうとして、今度は死にかけている人間を前にして。
しかも、死にそうな彼の語りを聞いた後ではもう。
返す言葉が何一つなかった。
藤堂の腕を見ると、鬱血とは明らかに違っていて。
噛まれた箇所から緑色に変色しはじめていた。
「しっかりしてください……ここで倒れたら、大変ですよ」
藤堂の左肩を担ぐようにして、久川は歩き出す。
太陽が駆け足で沈みはじめ。
空はいつの間にか、深い橙と紫が混合した色を出している。
風も次第に寒く感じるようになり。
まるで、世界が二人を冷ややかに眺めているかのようだった。
そういえば、乾燥している砂漠の夜は、寒いんだっけ。
そんなことを今更思い出しながら、久川はひたすらに歩き続けた。
「ごめんな……俺、重いだろ」
「そう思うなら、自力で歩いてくださいよ」
「悪い、それは、できないや……」
最初は饒舌だった藤堂の口数が、時間と共に減っていく。
次第に消えていく明るかった世界と、藤堂の口数に。
焦る久川が必死に声をかけ続ける。
大丈夫ですか、生きていますか。
ちょっと寒いですけれど、がんばりましょう。
きっと、どこかに建物があって、誰かが助けてくれますから。
だから……。
ふと、空を見上げると。
まるで風に舞い上がった砂のように細かい星々が、目が眩むくらいに輝いていた。
月はない。
この、真っ黒な夜空にきらめく星たちは。
欠けてしまったことで輝きを持った、大切な何かの破片だったりするのだろうか。
そんな詩的なことを考えるくらいに、きれいだった。
久川につられて、夜空を見上げる藤堂。
すると彼は、久川から離れて数歩、砂上を歩く。
「大切なものは、目に見えないって、言うよな……」
藤堂が夜空を指さす。
「でも……今なら見える気、しないか?」
おぼつかない足で、藤堂が振り返った。
そして仰向けにゆっくりと、砂地に倒れはじめる藤堂の姿。
まるで、スローモーションになった映像を見ているかのようだった。
そのくらい世界が、異様に輝いていた。
駆け寄るために走りだす久川の姿さえも、ゆっくりと動いて。
藤堂の首元が、鋭く光った。
夜空に瞬く星のように。
チャイムの音が、少しだけ懐かしく感じた。
視界が急に明るくなり。
かと思えば、いつの間にか久川は教室の自席に座っていた。
「それではホームルームを終了します。皆さん、気をつけて帰ってくださいね」
担任の教師がそう言って教室を出て行くと、クラスメイトたちは一斉に立ち上がり。
各々のグループに群がるようにしながら、教室から少しずつ、いなくなっていく。
久川は少しの間、呆然と教室内を見回してから、窓の外を見た。
今は、十一月。
学校に生えるイチョウの木は黄色く色づき、秋らしい色で校庭を飾っていた。
久川は、窓に反射して映る自分の顔を見つめてから、呟く。
「……夢?」
当然だが返事はない。
教室に残っている生徒は、もうほとんどいなかった。
小さくあくびを出しながら、学生カバンを背負い、人気の少ない廊下に出る。
そして家に帰ろうとしたところで、久川は立ち止まった。
あれは本当に、夢だったのだろうか?
久川の足が、自然と。
屋上に続く階段へ向かった。
屋上の、鉄扉の前まで来て。
そのドアノブに恐る恐る、手をかける。
この扉は普段、鍵が閉められているのだが。
この日は貯水タンクの清掃があり、清掃員には鍵が手渡されていることを久川は事前に知っていた。
あの時は、清掃員が掃除している隙を狙って忍び込み、いなくなったところを見計らって飛び降りた。
だから、まだ清掃員が来ていない今、この鉄扉が開くわけがない……。
「……開いた」
鉄扉は、想像していたよりもずっと軽い手応えで開いた。
まるで、誰かが久川を招き入れているかのように。
鉄扉は音を立てながらも、静かに開いていく。
冷え切った、冬の訪れを感じさせる風が、久川の全身に吹き付けた。
固いつばを飲み込んで、久川は屋上へと足を踏み入れる。
この屋上から見る空は、飛び降りようとして見上げたあの時と同じ色をしていた。
沈みだした太陽は真っ赤に燃えて。
煙のように伸びる雲は、濃い紫とビビッドなオレンジ色をしていた。
遠くに見える建物の影は焦げ茶色。
そんな影で作られた山の谷間からは、電車が通り過ぎていく様子がはっきりと見えた。
今日はいつもより風が強いのかもしれない。
雲の流れは速く、久川が瞬きする度、形を変えている。
そんな、夕暮れ時の空を見つめる久川だったが。
突如、慌ただしく階段を駆け上がる音が聞こえてきて。
驚き振り返ると、閉まりかけていた鉄扉が勢いよく開けられた。
「ひ、久川……!」
肩で息をしながら、久川に駆け寄りその肩を掴んだのは、藤堂だった。
「ぜえ、ぜえっ……なんで! ここにいるんだよ!」
「ご、誤解です! 落ち着いてください」
「これが! どう、落ち着けるんだってんだよ!」
「いいから、息を整えてください……大丈夫ですから」
久川は藤堂の呼吸が落ち着くまで待つ。
だが藤堂は、呼吸が整うなり久川に向かって怒鳴った。
「死ぬな! いいから死ぬなあ!! うえ、げほっ!」
「もう死にませんって……つば、飛ばさないでください」
「じゃあなんで! ここにいるんだよ!」
怒鳴られた久川は、バツが悪そうに視線を逸らしてから、空を見上げる。
「はじめは夢だと思ったんです。あの砂漠も、僕がここから飛び降りたことも……でも」
久川は視線を藤堂に戻して、苦笑した。
「どうしても、夢だったとは思えなくて。確かめに来たんです」
「……それで? 確かめられたのか?」
あれは夢だったのか、何なのか。
その疑問に、久川は数秒ほど考え込んでから。
自分が飛び降りたはずの場所を見た。
「そもそも、屋上から飛び降りるなんて。ここじゃできないですよね」
だってここには、転落を防止する、背の高いフェンスがあるのだから。
どこまでも砂が広がっていたあの景色が、全て夢だったとは思えない。
だけれども。飛び降りたはずの世界では、こんなにも背が高いフェンスなんてなかった。
それが異常であることにも気付けなかった。
二人が見た、同じ夢。
そんな風に思うことが、何も考えなくて気楽ではある。
だが久川は、こう考えた。
「僕たちは、違う世界線ってやつに来たんじゃないですか?」
「……どういうことだ?」
「実は、僕たちは元々、こことは違う世界で生きていたのだけれど。飛び降りたことをきっかけに、この世界で生きていた僕たちと入れ替わった……っていうのかな」
自分で言っておきながら、意味がわからない。
そう思い久川は再び苦笑するが、それでもなんだか面白かった。
どうしてこうなったのかわからない。
けれど、自分は確かに、砂漠の中で藤堂のことを知り。藤堂のおかげで考えを改めることができた。
久川は藤堂に向き直り、一度は言おうとしてやめた言葉を告げる。
「ありがとう。僕を、助けてくれて」
「俺も落ちたけどな」
「そこじゃないよ」
「は? じゃあ、どこだよ」
疑問符を浮かべる藤堂に、久川は「自分で考えて」と言い、笑った。
「そろそろ、帰りましょうか」
カバンを背負いなおし、歩き出す久川。
しかし、藤堂の返事がなかったため、立ち止まって振り返る。
「どうしたんです、帰らないんですか?」
「いや……」
藤堂の視線は、空に向かっていた。
久川も空を見る。
すでにいくつかの星が、淡い光を放っていた。
「空、きれいだなーと思って」
「そうですね」
藤堂は目を閉じ、深呼吸を一度だけする。
強い風が吹いて、色違いな二人の髪を逆さに撫で上げた。
「……帰る!」
藤堂も満足したのか、満面の笑顔を久川に向ける。
それから二人は、並んで屋上を後にした。
帰り際、清掃員の人たちに見つかって職員室に連行されたが。
それもまた、良い思い出になるのだろう。
教師からの説教で、すっかり暗くなった帰り道を、つい先ほどまで友達ですらなかったはずの二人が肩を並べて歩く。
炭のように黒い空には、いくつもの星が瞬いていたが。
あの砂漠で見たような輝きはどこにもない。
「そういえば、ネックレス。どうしたんですか?」
久川が指摘して、藤堂は気付いたのだろう。
自分の首元を見てから「あれ?」と首を傾げ。
胸ポケットからズボンのポケット、カバンの中まで手探りで探ったが。
リングのついたあのネックレスは見つからなかった。
「おっかしいなあ、マジで無いんだけど……家に帰ったらちゃんと調べるか」
残念そうにため息を吐く藤堂に、隣を歩く久川が言った。
「あのネックレス、もしかしてお守りだったんじゃないですか? ちゃんと、現実へ帰ってこられるように」
「……お前って発想が柔軟だよな。そんなこと、ちっとも思わなかった」
「そうですか? そうだったらいいなって、思うんですけどね」
久川は数歩先を歩くと、藤堂に言った。
「じゃ、僕はこっちなんで」
「そっか、じゃあなー」
「うん、また明日」
久川が笑顔で手を振ると、藤堂も笑顔で返す。
「おう、また明日」