何ていうか、普段は意識しないし忘れてるけど、ふとした瞬間に思い出す。丹恒ってもしかすると俺よりずっとずっと年上なのかもって。親友だって、最初にあっちから言われたからって、丹恒が自分から自分のことを積極的に話すようになったりすることはない。性格的にもそれはまずありえなかった。それでも以前と比べると、格段に聞いたら答えてくれるようにはなった。言葉を探しながらも、真面目な顔でいろいろ教えてくれる。丹恒は何故そんなことを聞きたがるのか、って訝しむような顔で、話し終えると俺に聞く。毎回。俺がお前のことを知りたいからだよ、と返すたびにちょっとうろたえて、困ったようなそぶりで目線を外す。常に真っ直ぐに人を見る目が、このときだけ少しそらされる。目をこらしてみれば、頬はいつも少しだけ赤かった。ずっと、それに慣れないままだ。
聞く限りでは、丹恒が過ごした過去はきっとだれにも想像が出来ないような、つらいことがたくさんあったんだろうと思う。旅の道中でたくさんの人と出会って、関わって感じる。つらいこと、苦しいこと、耐えがたいこと。多分人それぞれに限界があるけど、与えられた情報でまとめた丹恒の過去を、それでも他の人への苦しさの共感以上に上手く想像できない俺は、きっと丹恒の過去がもし自分のものだったら耐えられない気がする。その程度に察することしか出来ないのがいつも歯がゆくて、でも丹恒だって俺のカフカへの持て余しがちな感情を……皆と違って表だって否定こそしないけど……やっぱり理解はできないみたいだから、結局まったくの他人への共感意識なんてそんなものかもしれない。だからといって丹恒を知ることを、諦めたりはしないけど。
丹恒は俺にはほとんど何も聞いてこない。他の人みたいに、過去がどうとかカフカとの関係がどうとか。前者は覚えてないし、後者に関しては誰に聞かれても答えたくないけど、丹恒は俺がそう思ってることを知っているみたいに触れてこない。そんな配慮をするような丹恒のことだ。自分だって答えたくないだろうに、俺がしつこく聞くと、結局ため息をひとつ吐いて訥々と話す。初対面の最初の最初から知ってたけど、心の底から人が良い男だ。だから俺や、なのに振り回されるってわかってるのか、わかってないのか。
話が逸れてしまった。つまり、言いたいのは、なんでか知らないけど丹恒は俺に気を許してるってこと。なのには答えてあげないことも、俺には、あとからこっそり答えてくれたりもする。
それが親友ってものなのかどうかはわからない。でも丹恒にとって俺が特別な存在であることは疑いようもなかった。なにせ、俺の一部と思ってくれて構わない、だし。俺のことをそんな位置に置いてくれてることが嬉しかったし、そこまでの信頼を寄せられてなお、結局俺の、丹恒を知りたいという気持ちが無くなるわけではなかった。探れば探るほど面白いのはゴミ箱と同じだ。その行動に出るために敬意を持つべきなのも同じで、だけど丹恒に対してだけいつも遠慮を忘れてしまう。だから今回も、なんとなくで聞いてしまっただけだった。
「丹恒、本当に覚えてないの?」
いつものように、資料室で二人並んで会話をしていて、俺の思考が、どこでこう転がったのかはもう数秒前のことなのに、全く覚えてない。丹恒は少し眉をしかめる。
「……何のことだ」
「だから、俺が起きた瞬間の話、キスしようとした」
丹恒は静かに瞬きをして、じっと俺を見た。記憶を探るような仕草だ、と思っていると、それが正解だと次の言葉で教えられる。
「……ああ、違う。あれはキスではなく、人工呼吸をしようとしたんだ」
「気道確保しないのには、意味があった……?」
「気が、動転していたかもしれない」
丹恒に人工呼吸の経験が無いのは、わかる。俺はふんふんと頷いて、丹恒をのぞき込む。
「つまりキスしたかった?」
「……この話はしたくない」
丹恒はそっぽを向くように横を向いた。自分の人工呼吸が失敗していたことが今更判って、多分ちょっと恥ずかしいんだと思う。アーカイブを見る手が止まっている。俺は正面に回り込んで更にその顔をのぞき込んだ。丹恒は鬱陶しそうに目を細めたけど、知らない顔で言う。
「俺はしたいよ、丹恒ともっと話したい。俺に丹恒のこと、教えてよ」
「……意地の悪い顔をするな」
「教えて、だめ?」
俺がこうしてまっすぐに聞くのに丹恒が弱いのは知っている。だから俺はいつもみたいに答えを引き出そうとする。丹恒は唇を引き結んでから、やっぱり少し目線をずらした。それからしばらくして俺をもう一度見たとき、表情はどうしてか少し和らいでいた。
「お前が知りたいというなら、できる限り教えてやりたい。だが、お前にとってもつまらない話ばかりだろう」
「……そんなことないよ」
こういうとき。こういうときだ。丹恒ってやっぱり、俺よりきっと、ずっと年上なんだろうなぁなんてことを思ってしまう。もしかしたらそこまで年の差は無いかもしれないけど、でもやっぱり俺の揶揄いやわがままにひとつも怒ったそぶりを見せない丹恒は、俺よりずっと冷静な大人だった。だって俺のわざとらしい幼稚な部分まで、ずっと許してる。ため息をひとつ吐くくらいで済ませるんだ。だから俺は、もっと丹恒が知りたくなる。つれなくされればされるほど、追いかけたくなる、みたいなものだ。きっと。
「面白さとかどうでも良くてさ。丹恒のこと知りたいだけだから。俺は丹恒が何を見て、何を感じてるのかってことが知りたいんだ」
真面目な顔をしてうそぶいてみる。丹恒は素直だから、こういう風に切り出すと相手と同じ誠実さを向けてくるって知っていて、利用してる。多分俺は丹恒から見えてるよりだいぶ狡猾だ。
「そう……か……。ならば、過去の話をするよりも」
戸惑いながら、言葉を続けたその一瞬だけ目を伏せる。その目の色を俺は知っていた。これは何か、丹恒がちょっとわるいことを考え付いたときにする目だ。たしなめるついでとばかりに、悪戯になのをからかってその反応を見て楽しんでるときのやつ。
「今の話をしよう」
思わずきょとんと目を丸くする。丹恒はうっすら視線を緩めた。その動作に目を奪われながらも俺は聞き返す。
「なんで?」
「ようするに、お前が知りたいと言ってるのは、今の俺を構成しているものだろう。なら過去の話をするより、今の俺を教える方が早い」
「なるほど」
相変わらず丹恒は会話の理解が早いな。
「例えば、そうだな。これまでの旅で、俺はお前に嘘をついたことはない」
視線を合わせて、十秒ほど。お互いに視線を交わし合って、俺はそんな丹恒から一切ごまかしを感じ取れなかった。だったら本当なんだろう。
「他の人にはついた?」
「必要があればな」
へえ、と返事をしながら俺は丹恒の足下にしゃがみ込んで彼を見上げた。丹恒はいつもの奇行だとでも言いたげに俺を見下ろしている。俺は頬杖を突いて言った。
「今まで俺に嘘をつかなかった丹恒は、……もしかしてこれからも俺に嘘をつかないって言いたいのか?」
「つかない」
即答だ。俺は両手で頬杖を突いて、ニッコリと笑顔を作る。
「じゃあ丹恒が俺のこと愛してるって言ってくれたのも、本当だと思ってていい?」
「……おそらく、それは言ったことがない。誰かと間違えていないか?」
ぱっと見だと大真面目に返してるように見えるから、丹恒の表情筋って困る。実際は皆が思うほどじゃない。割と、色々なものがほどほどだ。多分。
「今のは嘘。俺はお前にも平気でつくよ。嘘」
そう言って鼻で笑ったのに、丹恒はやっぱり穏やかな目で俺を見ているだけだ。
「そうか」
「でも、丹恒が俺のこと親友だって思ってるっていうのは本当だって知ってるし、嬉しい」
仕方なく正直に話すと、今度は丹恒がはぐらかした。
「どうだろうな」
こういうの、なのにはよくする仕草だけど、意外に俺にはしないんだよな。まあ、なのは揶揄い甲斐があるからだろうけど。
「俺は好きだよ。丹恒のこと。なんか照れちゃうな」
冗談めかして言ったのに、丹恒は肯定も否定もしないでめずらしく小さく笑った。その目があんまり優しくて胸のあたりが、なんかぎゅっとする。少しだけ動悸がしたけどこれは多分驚いただけで、それ以外なんかじゃないはずだから大丈夫。
「俺も、お前のことは好きだ」
「知ってる」
俺が大げさに肩をすくめると、丹恒は懐かしむような顔で言った。
「宇宙ステーションヘルタを出る前、俺に相談と言って話しかけただろう。その頃には、既に好感を持っていた」
なんだと。
「それは初耳」
「そうだろう。今の俺ですら、お前は知らないことがたくさんある。過去ばかりを知ろうとしなくとも、お前は俺を知ることが出来るだろう」
どこまでも、いつだって前向きな丹恒らしい言葉だった。こういう所が俺はすごく丹恒だ、って思えて良いと思う。ポジティブとも違うんだけど……少なくともネガティブでは無いな。丹恒の前向きな真っ直ぐさは、凄い長所だ。きっと今まで、色んな人が彼のこういう部分に救われてきたはずだから。
「うん、……だったら、今の丹恒のこと教えて」
甘えるように言ってみると、同じように甘さを滲ませて返される。
「どんな話をしたらいい?」
丹恒はいつものように腕を組んだ。俺はその二の腕に寄りかかるように立ち上がって少し下の目線から丹恒を見る。丹恒はじっと待っているだけ。体幹が良いから、身も心も全然動じていない。
「うーん、何聞こう。いろいろありすぎて迷うな」
俺は悩むそぶりを見せつつも、既に聞くことは決めていた。丹恒のこと。過去じゃなくて、今の丹恒のことなら。
「さっき話題に出してから、俺にキスされること考えてる? あ、逆?」
――だってずっと、丹恒の瞳は俺の口元を追いかけている。
視線がいつもより少しだけ下にある、それが俺にはやっぱりわかってしまうから。
「――……」
それで、視線はいつも斜め下に移される。その口元が少しだけ強ばる。丹恒は何も言わないけど、それはつまりそういうことだった。俺は少しだけ照れてしまう。我ながら名探偵すぎて。丹恒は俺と違ってくだらない嘘はつかないのだ。
「なんで答えないの?」
「お前のその、ふてぶてしいところは嫌いじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……少し、苦手だ」
丹恒はまた俺の見たことのない顔をする。俺の中で知らない丹恒が知っている丹恒に更新されていく感覚は、俺をどこかいつもわくわくさせた。
「丹恒って結構俺の顔とか体とか好きだと思うけど、どうなの? たまにじっと見てるときあるよな」
「……聞き苦しいことはあまり聞かないでくれ」
その顔も、声も、どこか苦々しそうにしていたから俺は素直に身体ごと引いた。
ただし笑顔で。
「わかった、じゃあ聞かない。でも、その返答でだいたい判っちゃった」
俺が両手をひらひらと挙げてそう言うと、丹恒は少しだけ肩を落とした。それから大きくため息をつく。その吐息がさっきより熱を帯びてる気がする。もしかしたら恥じらっているのかもしれない。だとしたらかわいい。かわいいけど、あんまり良くない。丹恒は格好いい人なのに、そういうところがあると、俺はなんか……すごく、困る。
妙にふわふわした頭で、そわそわとした気分で質問する。
「今の丹恒を俺がかわいいって思ったら、困る?」
「困る……」
即答だった。俺が困るだけじゃなくて、丹恒も困るらしい。だから俺は、丹恒のことをかわいいと思ったのを全部なかったことにしなきゃいけない。気がする。
「そっか。わかった」
「……ああ」
「うん、じゃあ話を戻そう」
「戻るのか?」
「……戻らないのか?」
思わず素で首をかしげた俺に、丹恒は顔をしかめる。俺の返答が不服なのかなんなのか、よくわからなかったけど、いずれにしても結局は肯定になるんだろう。つまり俺はもうひとつだけ、いつものように丹恒に意地悪なことを言えるわけだった。
「俺が今からキスしたら、丹恒は拒否する?」
「……」
目に見えておろおろとうろたえだした。でも、他の人には判らないくらいの些細な違いだ。言葉に詰まったように息を止める。視線が左右に揺らされて、小さく口を開いて、とじる。頬はよく見ないとわからないのに、耳だけはどんどん赤くなる。逃げ場のない場所に追い詰められたネズミみたいだ。だんだんその反応がかわいそうになってきて、俺は助け船を出すように口を開く。
「これは冗談。俺は丹恒のことが知りたいだけなんだけど、その反応はちょっと……やっぱりかわいいな」
「かわいいは、やめろ……」
「じゃあ代わりになんて言えばいい? 愛らしい? 愛らしいね。丹恒、愛らしいよ」
「もういい……それは、かわいいと大差ない……」
拗ねたような声に思わず吹き出してしまった。今日はどうも、レアな丹恒がたくさん見られる日らしい。俺は再び丹恒に抱きつくように寄りかかって、下からその顔をのぞき見る。正面から見るより、この角度だと、その顔は柔らかく見える。丹恒は俺が抱きついても、本当に、全然動じない。
「全部冗談だって」
これってずいぶん便利な魔法の言葉だ。丹恒は不誠実な俺の言葉には惑わされない。でも、心からの誠実さを示さなければ、彼は俺の本心のありかなんて知るよしも無い。ようするにこれでごまかされてくれるくらいには、丹恒は俺の言葉を素直に信じてくれる。その信頼が何処に由来して、どういうものなのか、曖昧なまま俺はこの魔法を使ってる。
丹恒はまたひとつため息を吐いた。
「……俺もお前のことを少しは知っている。穹、お前は少し、悪趣味が過ぎる」
俺はからからと笑ってしまう。目に見えて緊張を解いた姿に。多分本当に全部冗談だと思っているだろう丹恒がかわいい。
かわいい。そう思うことは何故かわからないけど、双方にとってあまり良いことじゃなくて、多分お互いを幸せにしない。少なくとも丹恒にとってはそういうものなんだと思う。だから俺はできるだけそれを見ないようにする。どんどんそれが大きくなっていって、俺の視界に無理矢理入ってくるほどに成長するまでは、それまでは、全部冗談にして、見ない振りで我慢をする。
「なあ、丹恒」
「なんだ」
丹恒の顔は平常心を取り戻していた。耳も、頬も、いつもの丹恒。俺はそっとその顔を眼で撫でる。もしこの手でそうしたら、今みたいに抱きつくよりは、少しは動揺してくれるだろうか。
「俺も丹恒のこと、もう結構知ってるかも。――丹恒は照れるとき、絶対視線を逸らす」
「……いや」
丹恒は真っ直ぐ俺を見て首を振る。……自覚無いんだ。俺はにっこりと笑ってやった。
なんだかすごく気分が良い。
「たぶん、俺しか知らない」