「それは?」
「ああ、さっき貰ったんだ。セーバルには、似合わないんだって」
穹の手には小さな小瓶が握られている。それは蛍光色のマニキュアだ。たしかにやや人を選ぶだろうか。丹恒はセーバルの顔立ちを思い出しながら相づちを打つ。
「なのは要らないって。姫子も趣味じゃないらしい」
「そうか」
列車の女性達はオシャレに敏感で、自分の個性を大事にしている。なのかの普段着に蛍光色の緑は少し浮きすぎるだろうし、姫子は言わずもがなだ。丹恒は納得したが、穹はつまらなそうにマニキュアの小瓶を揺らした。
「でも、きれいだと思わないか? すごくキラキラしてるだろ、なんかもったいなくってさ」
「……そうだな」
透明なガラスからのぞき見ても発色は悪くない。同意してみると、穹の唇がわずかに緩む。彼は嬉しそうに破顔した。人なつっこい声で言う。
「丹恒も塗ってみる?」
一瞬、意味を理解しかねた。穹が小瓶の蓋を開けて丹恒の前に掲げてみせる。半透明できらきらと輝くその液体が何なのか、もちろん丹恒は知っている。マニキュア、爪の塗装剤。化粧の一種。
丹恒は首を振った。
「いや、俺は」
「意外と似合うかもよ。ほら」
穹は小瓶の中身を刷毛に取ると、丹恒の手首を取ってその指に塗りつけようとする。慌てて手を引っ込めた。
「俺はいい」
穹は不満そうに唇を尖らせる。幼げに膨らんだ頬を、丹恒は居心地悪いまま、しかしじっと見つめた。穹の頬にそのマニキュアと同じ、蛍光の緑が浮かんでいたからだ。
「穹、頬が汚れている」
今度は自らそっと指先をのばす。頬に触れた瞬間、穹はやけどでもしたように飛び退いた。
「あ、う……」
酷く動揺した様子で、丹恒の手から逃れたあと、ぎこちなくも慌てたように自分の手で頬の汚れを擦り取る。しかしそれは乾ききっていてなかなか落ちない。その焦りようをみて、丹恒は側に置いた荷物の中からハンカチを出すと、水筒の水で濡らし穹の頬をぬぐってやる。今日に外出の予定があって良かった。
「あ、ありがと」
穹はぶっきらぼうに礼を言って、視線をさまよわせる。頬の汚れを拭ってやってもなお、丹恒が凝視しているからだろう。
「……なに?」
「ああ」
「まだ顔に何かついてる?」
「いや」
丹恒は短く首を振った。穹の頬からハンカチを離し、そして自分の手を見つめる。愛槍をふるい、己の前に立ちはだかる敵を容赦なく屠ってきた無骨な手だ。到底繊細な装飾とは無縁だった。
「丹恒?」
穹が丹恒の顔を覗き込む。その頬を、丹恒は両手でそっと包んだ。
「え」
穹の頬は柔らかい。体温は小さな子供のように高く、丹恒の手にはほんのりとした熱がうつる。穹の肌に他の汚れが無いかを細かくチェックする。
「た、丹恒?」
「ああ」
「な、なに?」
穹の声は動揺で裏返りかけている。気ままに生きている男だ、石のように固まって、こんな硬い声を出すことは滅多にない。それこそ彼よりも自由な振る舞いをする者を前にしたときくらいで。少し愉快だった。
「お前は、誰に塗っていた?……頬にはそのとき付着したんだろう」
「え、えっと」
穹は視線を泳がせる。丹恒が手を放してやると、一歩後ずさった。そしてか細い声で言う。
「自分のあし……」
「そうか」
穹は頬に手を当てると、困った様子で眉を寄せた。
「綺麗に塗れたか?」
「……解ってて聞くとか、意地悪だ」
穹は肩を落としてブーツに覆われた自分の足先を見つめた。
「丹恒の色だと思って……」
それに首をかしげる。日報だけじゃない、穹の言葉は話し言葉であってもいつも要領を得ない。
「丹恒の目の色って、飲月君の時……こう、キラキラになるだろ? 光るみたいにさ」
丹恒はあの時の姿を自分であまり見ないから、細やかな変化など解らない。幽囚獄に居たときには毎日視界に入っていた水面に映る姿は、日の光から閉ざされた冷たく暗い地の底では確認することができなかった。
ぼんやりと過去に指先を這わせながら曖昧に相づちを打つ。
「おそろいに……なるかなって」
穹の頰が、また少し赤くなる。丹恒は現実にピントを合わせて穹の瞳を見つめた。そしてその手に目を落とす。彼の爪の縁には、拭い取ったあとのような、キラキラと光る塗料が残っていた。
彼は足に塗ったと言った。しかし手に付着したそれは、どう見たって何かを隠してごまかしている。
それが意味する、少し胸がくすぐったくなるような躊躇いと羞恥心は丹恒の心にも小さなさざ波を立たせた。
「穹」
「う、うん?」
「俺が塗ってやろう」
「え!?」
穹が素っ頓狂な声を上げる。それから、ぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよ!……俺にはあんまり似合わなかったから!」
丹恒は穹を見た。誰に縛られることもない、そんな彼には珍しい、このような卑屈さこそが不釣り合いだった。
「そんなことはない。……似合うと思う」
たとえば穹が持ちだしたその色が、丸く輝く月の色をしていたなら、丹恒はきっと塗ってやろうかと言う穹の言葉を振り切ることはしなかった。きっと穹と同じように彼の瞳を想いながら自分の爪を見たのだろう。
おそろい。そんな可愛いことをされては、こちらだって負けていられない。
「似合うだろう。お前が言った、俺の色だと。なら、きっと似合うはずだ」
押し切るように言い切った丹恒に穹はぽかんと口を開けた。丹恒はその隙に彼の手からマニキュアの小瓶を奪い、キャップを回して外す。穹は丹恒の強引さにたじたじになりつつも、抵抗はしない。従うことにしたようだ。
「俺にはきっとこの色より、月のような金色が良い」
「なるほど……自信たっぷり。飲月君だもんな」
何やらひとりズレた納得する穹に、丹恒は訂正をしない。刷毛にたっぷりと塗料をとり、穹の手を取る。そして真っ直ぐ均等に、その端正な爪に一線を引く。
視線を上げて盗み見るように視界に映した穹の眼は、まるで憧れのスターにサインでも貰っているみたいな、そういうむずかゆくなるようなキラキラとした色をしていた。塗料に負けないほど鮮やかに輝いて見えて、思わず丹恒は薄く笑って、しかし一本一本丁寧に塗っていく。きっと日常の中で、光に透かすようにきらめくと、そのたびに穹は今回のやりとりを思い出すだろう。であれば、その色彩が常に側にあると良い。傷ついて、すり切れて、剥がれるまでは。
ネオングリーンは嘘みたいに明るく、穹の爪をコーティングしている。