穹がそれを持って現れたとき、丹恒はとうとうこのときがやってきたか、という思いだった。もとより好奇心旺盛な少年だ、遅かれ早かれ手を伸ばすだろうと予想していたし、それに自分が巻き込まれることも想定済みだった。穹はひどく深刻そうな顔をしている。傷つけてはいけない、と反射的に思った。それがたとえいつものふざける前兆のポーズだったとしてもだ。
「丹恒の好みが知りたい」
「……知ってどうする」
……そう、ポーズだったとしても。思春期の少年とはとかく繊細なものであるらしいから。これがその規格に当てはまる男なのかは、さておいて。丹恒は自分に言い聞かせた。
「観るのは構わない、だが、お前も知っての通り俺は」
「その辺も気になってる、丹恒ってちんこ勃つの?」
「……」
直截な物言いだ。穹は一転して笑顔を浮かべた。無邪気に笑うと、つり上がり気味の目が猫のように歪む。丹恒は追い詰められた獲物の気分になった。穹は言いたいことしか言わないし、やりたいことしかしない。大事な場面においては空気はきちんと読めているので、おそらく全て周囲への信頼と甘えの表れだ。丹恒は列車の乗組員の中でも、特に穹に甘い方だった。その生い立ち故に、基本的に他人に期待していないという性質がもとよりあるからだった。そのため彼のわがままの大体のことは許容する。なのかにはだからつけあがるのだ、と苦言を呈されるのが常だ。しかし彼女も揃って穹側の人間であった。人のことは言えない。
「気になるから、一緒に観よう、AV」
「はぁ……」
ニコニコと端末を口元にかざした穹にため息をひとつくれてやり、丹恒はそこに映る文字を眺める。
人妻たちの昼下がり~夫の居ない間に私は3~……。
「シリーズ物か。一からじゃなくていいのか」
「気にするところはそこでいいのか?」
よくなかった。
穹はウキウキとタブレット端末を用意し、丹恒の布団を陣取った。あぐらを掻き、ご機嫌で手招きしてくる彼に仕方なく丹恒もそこに腰を下ろす。穹はタブレットを床に立てて動画を再生し始める。丹恒は腕を組み、隣の穹を横目に見た。視線がかち合い、にこ、と微笑まれる。丹恒は再びため息を吐いた。興味が完全に自分に向いていることを知る。それへの性的な好奇心はもちろんあるにはあるのだろうが、やはりいつものように丹恒をからかいたいという気持ちが多くを占めているのだろうと呆れた。
「俺ばかり見てどうする。動画に集中しろ」
「だって丹恒が、なんか緊張してるから」
当然だ。繁殖能力の無い持明族であるところの丹恒には、性欲も無ければ、そういった「器官」も存在しない。穹と同じ視点からこの動画を観ることはどう足掻いても無いのだ。だから、視聴の作法がわからない。これまでの人生で丹恒は人間の生殖に関する知識はあれど、実際に目の当たりにすることも無かった。正直に言って、動物の交尾を積極的に見るようなものである。そこまで興味が持てる事柄ではなかったし、自身の生態に全く関係ない生物の性交をつぶさに見守る、そんな異常趣味も無い。
「……穹、お前は緊張しないのか」
秘め事として、一人きりで見るものらしいとは、以前読んだ小説に出てきた。しかし穹はきょとんとした顔をした。
「なんで?」
「なんで……とは」
「だって丹恒の好みのタイプがわかるかもだろ?」
「人妻はお前の趣味だろう」
「そっちじゃなくて、プレイだって」
プレイ。そう言われたって、丹恒に出来ないものは出来ないし、無いものは無い。それを口にするとひたすら『どうして?』と詰め寄られることはわかっていたから、絶対に口にはしないが。
「このシリーズ、結構いろいろあるらしい。ソフトなものからアブノーマル? なものまで」
丹恒は画面を見る。映っているのは洗濯物をたたむ女性。いわゆるドラマパートというものだったが、知識の無い丹恒にはなぜこんな導入が存在するのかがわかっていない。疑問に包まれながら、穹に返事をする。
「そうか」
「そうかって、それだけ?」
「それだけだ」
困惑しながら丹恒は動画を観て眉根を寄せる。何やら怪しげな男が庭に侵入し、ガラス戸の向こうから女性を眺めている姿が映った。不審者だ。泥棒かもしれない。一体ここからどう展開したら性行為にもつれ込むのか、さっぱりわからない。そう思っていると急に男がズボンを下ろし、丹恒はぎょっとした。取り出された男の性器は既に腫れあがっており、天井を向いている。アップに映された暗紫赤色に黒ずんだ陰茎は太く、血管が浮いていてグロテスクだ。つるりとした色の違う先端からは透明な液体が溢れていた。おそらくあれが尿道球腺液と呼ばれるものだろう。非常にいたたまれない気分で丹恒は視線を自身の手元に逸らす。
この映像は、性交を、するのでは無いのか。これは自慰では。ここに来てもまるで流れがわからないまま、丹恒はそろりと視線を穹に向けた。彼は興味深げにそれを眺めている。興奮はしていないようだ。
「……何?」
丹恒の視線に気がついたらしい。小首をかしげて丹恒を見る。丹恒は慌てて視線を動画に戻した。
「いや……何でもない」
「丹恒、さっきからずっとそわそわしてて、ちょっと面白いな……」
「……画面に集中しろ」
「自分だって集中できてないくせにー」
軽口をたたき合いつつ、丹恒は自分の口が渇いていることに気がついた。穹が先ほど指摘したとおり、ひどく緊張していて、それは時間が経つごとに解けるどころか高まっている。
穹が選んだAVが、いわゆる不倫ものであることはさすがに理解している。大概そこからアブノーマルだ。どうも彼は年上の包容力溢れた女性に惹かれやすい節があるから、納得は納得だったが、嗜好が透けて見えることもいたたまれなさを増幅している。恋愛感情すら経験の無い丹恒にとって、このAVに映っている全てが未知の世界であり、他人事であり、理解不能だった。唯一親友の趣味趣向が反映されていることだけがわかる。いたたまれない。
同じ生態を持った種族であれば、あるいはそれすらも共有できただろうか。無いものねだりとはわかっているが、そんなことを少し思わないでは居られない。彼と同じであることは、丹恒にとって嬉しいことだ。友人、そういったものとはずいぶん縁が遠かった。彼がすること、興味を持つもの、それに巻き込まれるのは、全てが新鮮で楽しい。開拓の旅のさなか、それらを共有することに喜びを感じ、これが友情かと少しの感動を持って思ったものだ。秘密を抱え、距離を置きながらも彼に惹かれていた。表も裏もなく、ひたすら真っ直ぐに人を見る、まっさらな少年に。
そんなきらきらとした現実逃避をしながらも、丹恒の目に映るのは中年男性の性器だ。数人の女性たちをパッケージにしているのに、映すのはそれでいいのだろうか、と丹恒が疑問に思い始めた頃、女性がガラス戸を開け、短い悲鳴を上げる。びく、と丹恒は肩を揺らしてそれにおどろく。スローペースで男性の自慰を見せられていたから、急な展開についていけなかったのだ。それを見ていたのか、穹が声を押し殺して笑っている。丹恒は少し目を伏せた。素直すぎるのも、問題があるかも知れないと思った。じわじわと、耳が熱を持っている。
家に男が上がり込み、女性を押し倒した。丹恒は眉根を深く寄せて画面を睨み付ける。
「強姦ものか」
「え? 多分和姦、って書いてあったはず」
「どちらにせよ、あまり良い趣味とは言えないな」
「まあ、丹恒はそう言うだろうなと思った」
あっさりと肯定する。彼に丹恒を困らせるのが好き、という悪癖があることにはさすがに気がついている。これもその一環かもしれない。丹恒ですら自覚の無い部分を把握している可能性がある。だとしたら、少し、たちが悪い。
動画は急展開で進んでいく。女性の身体を服の上から乱暴にまさぐる男、いや、いやと首を振りながら、あまり逃げるそぶりの無い女。本気でいやがっているようには見えない。和姦もの、と言った穹の言葉がにわかに現実味を帯び始めた。服をたくし上げられて現れた下着は随分と大胆なデザインで、彼女の胸を強調させていた。
「うわ、エロい」
「……」
そうか、と相づちを打ちかけて、呑み込む。さすがにここでそれは不自然であると寸前で気がついた。やはり、同じ感性を得られないというのは、どうにも困る。
これで何度目になるか、穹を見た。彼は先ほどまでとは違い画面を食い入るように見ている。
「……」
丹恒はこのAVに出演している女優の外見が穹の好みだったことを知り、さらにいたたまれなくなった。丹恒へのいやがらせ、プレイで選んだのではない、単純に、完全に彼の趣味だった。下着のホックが外されると、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。ひゅ、と丹恒の呼吸も詰まる。
性欲は無い。動画を観ても性的なものへの実感もわかない。だが、性というものを、穹の動きで感じ取るくらいの機微はあった。それはどこまでも丹恒自身から遠く、しかしとても生々しさを伴って近く隣にある。それを突きつけられるのは、ひどく心がざわつく。
「ッ、」
下着がずらされて、あらわになったまろい胸に目が吸い寄せられた。大きな乳房だ。統計として、男好きのする身体つきをしているな、と素直に思った。同時に穹の身体が強張ったのを見て取り、丹恒は視線を上げた。穹の顔は耳まで赤くなり、目はわずかに潤んでいる。まるで今はじめて女性の裸体を目にして照れているかのようだった。それを見て、丹恒も硬直する。どうしてか、見てはいけないものを見ている気持ちになって、心が酷く焦った。動画は進む。女性の下着を引きずり下ろす男。あ、と穹が声をもらし、丹恒はつられるように画面を見た。
女陰に、男の指が挿入される。それを見て一気に丹恒は血の気が引いた。
「――……」
知識では、知っていた。しかし実感は見るまでわかなかった。丹恒の身体に性器は無い。しかし排出腔はついている。つまりどういうことかと言えば、それがどう見ても――自分の身体にあるそれに酷似していたため、怖気が立つほどの嫌悪感に見舞われたのだ。排出腔といっても、そこから産卵することなどもないから、心底汚物を吐き出すためだけの器官であり、そこを使うことへの恐怖は他種族には理解しがたいだろう。穹が全身を赤らめている横で、丹恒は青ざめ、固まり、息を詰まらせていた。クチュクチュと愛液が混ぜ返される音を気が遠くなるような気分で丹恒は聞いていた。
無理だろう、それは。駄目だろう、それは。
例えば男性同士の性交で、アヌスを使うことへの忌避感をさらに増幅させたようなものである。しかもそれを初めて見たし、知ったようなもので、丹恒の思考は処理落ちしかけていた。穹は丹恒の様子に気がついたようで、不思議そうな視線を一瞬向けたが、そんな彼を気遣うような言葉はひとつと出てこない。それくらいの衝撃があった。
丹恒の頭の中はどうしよう、という言葉で埋め尽くされていた。映像の中で女性の喘ぎ声が大きくなっていくにつれ、どんどん穹の顔から余裕がなくなっていくのも恐ろしいことだった。彼も映像を目にし、映像の中と同じ興奮を得ているのだ。
どうしよう、どうしたらいいんだこの状況は。今更ながらに体感を得てしまった。AVを男同士で見るということも含めて、自分のようなものが、これを見るということの重大さをわかっていなかった。
「ッ……」
「丹恒?」
怪訝そうな穹の声にも返事はできないまま、動画に視線を戻した。女性の絶頂の声が響き、男が射精しているのが見える。カメラがズームして泡だった結合部を映し出すのを絶望的な気分で見つめた。あんな、あんなものを、身体の中に入れていいものなのか。
「……」
丹恒は、ずりずりと座ったまま穹から距離を取る。急に全てが遠ざかった気がした。画面の中の男女も、隣に居る穹も。丹恒とは断絶して違うのだ。同じだなんて思って舞い上がっていたことが遙か昔に思える。
「丹恒」
「……」
穹が身体を寄せ、顔を近づけて丹恒を覗き込んだ。その顔は熱っぽく、興奮に染まりきっていた。丹恒は瞬間ドギマギと視線を揺らす。
「顔色が悪いな、大丈夫か?」
「……平気だ」
深呼吸をする。丹恒が視線を下に向けると、穹は恥ずかしそうにはにかんだ。
「勃っちゃった」
「う……」
しどろもどろになりつつも、丹恒はそうか、と言ってそこを凝視する。穹のズボンを押し上げるそれもまた、あの動画にあったような、赤黒く、ビキビキとえげつないシロモノなのだろうか。まるで子犬だと思っていたペットが発情している姿を初めて見た子供のように、丹恒はショックを受けていた。
「見すぎ」
穹は笑って言った。こんなときでも屈託のない笑みに、丹恒はいよいよ居心地が悪くなる。今自分がどんな顔をしているのか想像もしたくない。
「丹恒勃ってない」
「勃つわけがないだろう」
そもそも無いのだから、という言葉を呑み込んで丹恒は嘆息する。どうだろう、いつも通りを装えているだろうか。自信が無かった。
「じゃあかわりに俺の抜いてくれないか?」
「……は?」
「え? 何もおかしくないだろ? するために観るんだし……」
「いや、おかしいだろう。それは恋人とすることであって、俺とお前は親友であって……」
おろおろと言葉を探す丹恒を穹はそっと抱き締めた。こわばり、硬直する丹恒の身体に穹は手を滑らせる。さわさわと這うような動きに背筋に鳥肌が立った。同時に耳元に穹の熱っぽい声が吹き込まれる。
「じゃあ、俺が丹恒のことを好きだから抜いてってお願いしたら、聞いてくれる?」
「ッ!?」
さすがに悪質が過ぎる。丹恒は憤然とした気持ちになって、抱き締められたまま穹を思い切り突き飛ばした。
「馬鹿を言うな」
吐き捨てるように言って丹恒は穹に背を向けた。穹はしばしの沈黙の後、ぽつりと言った。
「ごめん、さすがに軽率だった」
「……わかっているなら、いい」
丹恒は振り返る。見るからに、しょげている。それを見てようやく胸をなで下ろす。ずっと落ち着かなかった気持ちにようやく置き場が見つかりそうだ。そう思ったそばからだった。
「……AV見てるときは青ざめてたのに、俺の見た瞬間、真っ赤になるから」
「は、」
「丹恒、俺のこと好きなのかなって思って、つけあがった」
否定しようとして、声が出なかった。――なんだと? 誰が真っ赤に? 混乱の渦に落ち、丹恒は一気に頭に血がのぼるのを感じた。目眩のようなものが襲いかかって、くらくらとする。
「ち、違う……」
否定の言葉は自分でも驚くほどか細く震えていた。口の中の唾液が粘ついている。火であぶられているかと思うくらい顔の表面が熱かった。穹は何も言わずに丹恒を見つめていた。静かな視線だった。穹はわがままこそ多いが、決して丹恒の言葉をせかしたり、遮ったりはしない。丹恒がどのような選択をしようと、否定もしない。決して。
その視線にはわずかに諦念が感じられた。それが丹恒の心をざわつかせる。嫌だ、と強く思った。どうしてそう思うのかはまるでわからなかった。
「……違うが、その……」
だから言葉を探す。けれど。ずっと、今日は言葉が見つからないでいる。穹はふっと息を漏らした。それを聞いて、頭からつめたい水を被ったように、心臓が一気に冷えた気がした。
「うん」
穹は一言そう言ってうなずくと目を閉じ、両手を軽く上げてみせた。
「もう言わない」
「……別に、それは、構わない。言いたいなら、好きに言えばいい」
焦燥にかき立てられ早口で言った言葉に、彼は返事をしなかった。ただゆっくりと立ち上がって、それからすぐに明るい笑みを丹恒に向けると少し距離を取る。丹恒は凝った体と心を持て余しながら、その笑顔から目が離せなかった。穹は心底、困ったように笑う。
「……そんな目で見るなよ」
「……どんな目かわからない」
穹の言葉に従うように、俯き視線を逸らすと、頭上から笑い声が聞こえた。それは途方に暮れたような響きのある乾いた音で、それを聞くだけで、なにやら視界が潤む。
「さっきのAVに出てた、人妻みたいな目だ」
……どんな目だ、それは。