翌月のある日の朝。まもなく、俺たちは家を出発して王都へ向かう。
初めてのパーティー、初めての王都、そして初めてのお出かけ……。初めてづくしで俺は興奮してしまい、昨日の夜はあまりよく眠れなかった。それでも、アドレナリンが出ているせいか、目はバッチリ冴えている。
荷物はもうほとんど積んでおいたので、今、俺たちはほぼ手ぶらだ。実際、俺の場合、今は本を一冊持っているだけだった。
「さて、そろそろ出るか」
玄関に集まった俺たちの前で、バルトがドアを開ける。この向こうに、俺の知らない景色が広がっていると思うと、本当にドキドキする。
滑らかに開いたドアの向こうには、前庭が広がっていた。芝生の中に小道が、少し曲がりながら足元から向こうへ伸びている。その先には門があり、庭を囲んでいるのと同じ塀が左右へ続いていた。俺たちは小道を歩んでいく。
門の両脇で敬礼する門番の間を通り抜け、俺はこの世界に生まれてから初めて、家の敷地の外を踏んだ。
門の外は広い大通りだった。道幅は十メートルほどあり、石畳で綺麗に舗装されている。きっと、多くの人や馬車が通る道なのだろう。しかし、早朝だからか、人の姿は俺たち以外見られなかった。
そんな大通りで今一番目立っているのは、間違いなく俺たちの目の前に停まっている数台の馬車だろう。我が家の前を塞ぐように、道の脇に一列に並んでいる。
前後の馬車に比べ、ちょうど俺たちの正面にある真ん中の馬車は、特に豪華だ。綺麗な装飾が施されていて、他の馬車より乗り心地が良さそうだ。
今回の旅は馬車で行く。文明レベル的に自動車や鉄道はないだろうと思っていたので、ある意味予想通りだった。
前世から考えても、馬車に乗るのは初めてだ。どんな乗り心地なんだろう……。あまり揺れないといいけど。
「皆、気をつけるのよ」
「ああ」
「シャルはちゃんと朝起きるのよ」
「わかってるってー」
今回、ルーナはお留守番だ。バルトの代行として、俺たちの旅行中はラドゥルフの行政の仕事を担うことになっている。もしかしたら、今までバルトの仕事を手伝っていたのは、こういう事態に備えるためだったのかもしれない。
すると、ルーナが屈んで俺と目線を合わせる。
「フォル、ママがいなくても大丈夫?」
「……うん」
正直、ルーナが一緒に来てくれないのは寂しい。この三年間、一日たりともルーナと離れて過ごした夜はなかったのだから。
だが、ルーナは俺の母親であると同時に、この街を治める貴族の一家だ。公人として、その責任を放り出すわけにはいかない。
「旅行中はジージとシャルの言うことを聞くのよ」
「うん」
「それと……これ」
すると、ルーナが何かを取り出した。
小さな指輪だ。金色に光り輝くリングに、小さな青い宝石が埋まっている。
俺はこの指輪を見たことがあった。確か……。
「ジージがくれたゆびわ!」
「そうよ。失くさないようにね」
ルーナは俺の手を握ると、親指にそれを嵌めてくれた。
プレゼントされた時は、大きすぎてすっぽ抜けていたのに、今は落ちてこない。成長したなぁ……。
「ありがと、ママ」
「どういたしまして」
きっと、貴族のパーティーでも見劣りしないように、とでも思ったのだろう。
「それに、本も失くさないようにね」
「もちろん」
俺は持っていた『魔法の使い方(中級編)』を、改めてしっかり抱く。
道中、暇になったときに読むものとして、今回一冊だけ本の携帯を許された。本当は何冊か持っていきたかったが、荷物が増えるとそれだけ持ち運びが大変なので、散々迷った結果、この本を選んだ。
この本は、初級編と同様に、理論パートと実践パートの二部からなっている。中級編とあるように、内容はもちろん初級編より難しい。理論パートでは魔法陣や魔法についてより深く、実践パートでは六系統の上級魔法や複合魔法が紹介されていた。
今回の旅の中で、実際にそれらの魔法を練習できる機会があるかどうかは知らないが、読んでおいて損はないだろう。
すると、遠くからガタガタと何かが近づいてくる音がした。音のする方を向くと、馬車列のさらに後ろから、別の豪華な馬車がやってきていた。
それが最後尾に停まると、馬車のドアが開く。そして、中から一組の男女が降り、男性を先頭にこちらに向かってきた。
すると、バルトがにこやかに声をかけた。
「おお、ジンク君! アリーシャちゃん、おはよう」
「おはようございます、バルトさん」
年はバルトより一回り下、ルーナより一回り上に見える。三十代半ばくらいだろうか。ちょっとチャラチャラした感じの茶髪の男性だ。フランクな感じでバルトに挨拶をする。その後ろにいる長い茶髪の、男性と同じくらいの年の女性も、バルトに一礼した。
ジンクと呼ばれた男性は、ルーナやシャルの方へ視線を向ける。
「それに、ルーナちゃんやシャルちゃんも久しぶり」
「お久しぶりです」
「おはようございまーす!」
「ははっ、シャルちゃんは元気がいいねぇ」
続いて俺に視線が移る。次の瞬間、彼は何か納得したような表情を浮かべた。
「そうか、この子がルーナちゃんの娘ちゃんなんだっけ?」
「はい。フォルゼリーナです。ほら、フォル、ご挨拶」
ぼーっとジンクさんを見つめていた俺はルーナのその声でハッとして、慌ててルーナに仕込まれた通りに挨拶をする。
「ご、ごきげんよう。ルーナのむすめのフォルゼリーナ・エル・フローズウェイともうします。お『しみ』りおきを」
「お! ちっちゃいのに立派な挨拶ができるなんて、賢いなぁ〜」
ジンクさんは俺の頭をポンポンと撫でてくる。そして、咳払いをすると自己紹介を始めた。
「俺はラドゥルフ州の西端にある、ラサマサっていう街の長をやっている、ジンク・リー・フローズウェイだ。まあ、簡単に言うとフォルちゃんの親戚だ。よろしくな」
続けて、後ろに立っている女性も紹介する。
「こっちは俺の妹のアリーシャ。で、彼女の後ろにいるのが、俺の息子のルークだ」
「アリーシャ・リー・フローズウェイです。よろしくね、フォルちゃん」
そう言って頭を下げるアリーシャさん。俺もつられて頭を下げる。
しかし、もう一人紹介を受けたルークっていうのはどこだ……? アリーシャさんの後ろにいると言われたが、姿が見当たらない。
と思ったら、彼女の脚の後ろから、木剣を掴んだ手がニュッと出てきた。そして、そーっとこちらに顔が出てくる。しかも、全部出すのかと思ったら、半分くらいで止まった。そのまま俺をじっと見つめている。
「ルーク、ご挨拶しなさい」
「…………」
アリーシャさんが、俺を急かしたルーナのごとく、挨拶をするように言ったが、何も言わずすぐに顔を引っ込めてしまった。
「ジンクさん、息子さんが生まれていたのね」
「ああ、この冬で四歳になるんだ。フォルちゃんと年はあまり変わらないんじゃないか」
「恥ずかしがり屋なのかな?」
「ええ。かなり内気なところがあって……困ったものです」
シャルの言葉に、アリーシャさんが少し困ったような表情を浮かべる。
でも三歳児なんて、普通そんなもんなんじゃないか……? 俺が年齢不相応すぎるだけで。
すると、一旦引っ込んだルークが、再びそーっと顔を現した。先ほどと同じように、木剣を抱えながら俺をじっと見つめている。
俺はその様子にちょっと不気味さを覚えた。話しかけようにも憚ってしまう。
「とりあえず、シャルとフォルは馬車に乗っていなさい。少し話したらすぐに出発するから」
「はーい!」
「うん」
バルトに言われるまま、俺たちは馬車に乗り込む。
じっとこちらを見つめるルークの姿が、馬車に乗った後も、妙に頭の中に残っていた。
すると、馬車のドアが開いてバルトが乗ってくる。そして、ガチャリとドアを閉めると、ゆっくりと馬車が動き出した。
いよいよ旅が始まる。俺は窓に張り付いて、手を振るルーナが見えなくなるまで、ずっと手を振り返していた。