「話が違うよ、荼毘」
ナンバーツーとの待ち合わせは地下鉄の改札口だった。全ての出口がアンダーグラウンドにほど近い、ヴィランご用達の暗く汚らしい駅だが、同時にそうとは知らず利用する市民も多くラッシュ時は混雑する。それを逆手にとってか、ホークスは変装もせずにラフな格好で現れた。とはいえ顔は包帯やテープで覆われ、背にバカでかい翼はない。いつもより小ぶりの赤いピアスだけが目を引いた。
「何が?」
壁にもたれるのをやめて足元にあるスーツケースを持ち、わざとらしく首を傾げてやる。
「全部だよ。群訝山荘の急襲計画は事前に話してやっただろ。お前が安全に逃げられる算段も」
男は額に汗を浮かべていた。指定した時間に遅れてきやがったくせに謝罪一つしないのは、人助けでもしていたからだろう。こいつにとってヒーロー活動はすべての免罪符になりうる。たとえば、この後俺を殺す算段をつけていたとしても。
構内に目を走らせれば、改札内で一人、通路に一人、柱の陰に一人、鋭い目つきの人間が息を潜めていた。単なる警官ならいいが、誤魔化しきれない殺気が漏れ出ている。
地上を目指して歩き出すと、ホークスは慌ててついてきた。早足で向かえば、靴の音が複数ついてくる。舐めるなよクズども。てめえらが把握していないルートなんざいくつもある。
「あのさあ、話聞いてる? 俺たちが群訝山荘に突入したら、迎えに行くから最上階で待っててって言ったよな」
「あァ待ってたさ。でも誰も来なかった。先に約束を破ったのはお前の方だ。あいにく気の長い方じゃないんでね、扉を開けて階下を火の海にしてやったってわけだ。ついでにお前がうんざりしてるヒーローを笠に着た自己中どもを何人か燃やしておいた。それより俺が目を離した隙にトゥワイスを殺した理由を聞かせろよ」
「説明しただろ。あの日は公安のマイクロデバイスも装着してたんだ。あそこで信用を失うわけにはいかなかった」
ホークスはしおらしい表情でそう言うと、ほんの一瞬だけ左右に視線を向けた。俺の監視を警戒しているのか、それとも俺には感知できないほど気配を殺した公安のヒーローどもがいるのか。どちらにせよ、今日でこの探り合いも終わりだ。右手の温度を上げながら狭い地下通路を幾度も曲がる。
「信用と仲間を天秤にかけた結果ってわけだ。あいつが死んじまって悲しいぜ、俺は」
「よく言うよ、笑ってたくせに。それに暴露動画も事前の打ち合わせじゃスライディング・ゴーが二重スパイだ、って話のハズだ。なんで自分語りしちゃったの。おかげでエンデヴァーさんは大炎上だよ」
「俺の話で不服か? 今からでも暴露してやろうか、ナンバーツーは犯罪者の息子だって」
振り返れば、ホークスは真顔で俺を見つめ返した。未知の通路に追跡を諦めたのか背後に追っ手の気配はない。
「いいよ。ヒーローなんかいつでも辞められる」
「そうこなくちゃな」
更に地下へ潜る階段を下りながら、滅多に拝めない男の真顔を反芻する。どうも足取りが軽かった。
群訝山荘へヒーローが奇襲をかけてきたのは先週のことだった。計画は前の晩、ベッドの中でホークスから聞いていた。向こう見ずな猪どもの策略だ、カーマインが対策をしているだろうと高をくくっていたが、蓋を開けてみれば知らされていたのは俺だけだった。
混乱に乗じ、ホークスはトゥワイスを殺した。逃げる背を一突きだった。だから俺も、間髪入れずその卑怯な背中を掴んで燃やしてやった。
男はよく燃えた。飛び火し熱風が渦巻く室内から逃げ出そうとしたところを何度も蒼炎で塞いだ。お前も死ぬぞ、と嚙みつかれたが構わなかった。勢いよく飛んできたホークスの羽根を鷲掴みにして燃やし、その灰を踏みつけながら叫び返す。
「何を怖がってるんだよ、鷹見啓悟」
黄金色の目がかっと見開かれた。
「俺たち、とっくに死んでるだろ?」
ホークスの目から殺気が薄れたのが分かった。俺はここでホークスを仕留めるべきだったし、ホークスは死に物狂いで俺を刺すべきだった。だが、しなかった。
「……誰だ、お前」
男は鬼気迫る表情で、俺がまとう蒼炎をものともせずに肩を掴んできた。男の全身へ火の粉がかかり、黒い革手袋がぼろぼろとこぼれていく。
「答えろ、荼毘!」
「ホークス!」
窓から第三者の声がした。とっさに俺はホークスの腕を払って背を向け、外に向かって蒼炎を噴射した。その刹那、後方から大きな破壊音がした。振り返った時には、扉は壊れ、廊下の窓に男の足がかかっていた。
「てめェ、逃げられると思うなよ」
蒼炎を叩きつけてやろうと腕を振り上げた瞬間、男の手は冷静に消火器のノズルの先を俺に向けた。瞬く間に浮かび上がった十数本の赤い羽根の鋭い先端は、すべて俺の心臓へ向けられていた。
「邪魔が入りそうだね。もう少し話したいな。一週間後、空けといてよ」
ホークスは燃えて短くなった羽根を携えたまま、煤にまみれ酷い火傷を負った顔で昨晩と同じ甘い笑みを浮かべた。
「いつもの駅。古湖街の地下で会おうよ、荼毘」
そう言い捨て、ひしゃげた窓枠をくぐり抜けて青空の方へ落ちていった。
店内は洒落て薄暗かった。首都の外れに位置する古湖街は、廃れたビジネス街だが唯一地下のダイナーだけが人を集めていた。
客層は悪い。顔の半分を包帯やガーゼで覆われた俺に比べ、身なりがよく金ヅルに見えたのだろうか、デトラネット社製の耐火コートを羽織った荼毘は、席に着くまでに転ばせようと片足を出され、ぶつかって来られ、そのすべてをひらりとかわしていた。剛翼があれば助けてやれたけれど、あいにく羽根は護身用程度しか生えそろっていない。そもそもコイツに焼かれたんだから自業自得だ。
荼毘は中央の二人席でreservedの札をテーブルの端に押しやり黙ってソファ側へ座った。俺はおとなしく向かいの椅子に腰かけ、男の胸元を指さした。
「どこ行ってたの」
「京都観光」
男は瞳孔の開いた目を細めてにいと笑った。この一週間、この不気味な笑顔がマキアの肩で輝いているのを画面越しに何度も見てきた。
「結構仲良くなったと思ったんだけどなあ。なんで俺に内緒で行ったわけ?」
「ニュースでご覧の通り。なあ、腹減った」
呆れつつメニュー表を開けば、ピザ、アヒージョ、カルボナーラ、スパークリングワイン。病的なほど痩身の――実際ろくな治療も受けていなさそうだし病気なのかもしれないが――液体か栄養ゼリーしか口にしているのを見たことがない男にしては高カロリーなラインナップだ。スマホで適当に注文すれば、運ばれてきたカクテルに荼毘は「水でいい」とのたまった。
「そういうわけにはいかないだろ。なんでここにしたの」
「お前が喜ぶかと思って」
荼毘は傾けたグラスの水を揺らしながら言った。
「罪滅ぼしだよ。背中のそれ、焼いちまったからさ」
明け方によく聞いた甘いトーンに目を見張る。コイツ、てっきり今日は俺を殺しにきたと思ったけど、もしかしてまだ俺のこと結構気に入ってる?
荼毘には盗癖があった。一緒に寝ても必ず夜更けに起き上がり、ベッドの下に落ちた俺の羽根を拾い上げてどこかにしまい、何食わぬ顔でまた眠る。おかげで羽根の感覚が生きている間は、いい盗聴器になった。荼毘が俺に黙って信用テストでハイエンドをけしかけるつもりなのも、家族に恨みを抱いているのも予測できた。だから俺はあえて家を意識した言葉をかけた。
――いつ帰ってくる?
――おかえり。遅かったね。
群訝山荘に荼毘が姿を現せば、必ず俺は窓から飛んでいって迎えた。荼毘はその度に睫毛を震わせ、悪態をつきながらも俺の手をとってくれた。
種は蒔いた。まだ俺のことを信用したいと思っているなら、今度こそうまくいきそうだ。トゥワイスのようにはさせない。荼毘は生け捕りにする。
「俺の本名知ってたのはなんで?」
「調べた。なかなか教えてくれねえから寂しくてな」
「そういう時はお前から開示するんだよ」
肩をすくめると、荼毘はテーブル脇に色の変わるサイドランプを弄びながら鼻で笑った。
「自ら種明かしする手品師なんざ興ざめするだろ。散々ヒントをやったのに、だぁれも分かんねえんだから」
白、青、赤、また白。ツギハギだらけの手がランプのスイッチをオフにし、つまらなそうに頬杖をついた。それから、また期待に満ちた目を向けられて生唾を飲む。
「なあ、お前はどこまでわかってた?」
「……何にも」
ツギハギだらけの顔が一瞬奇妙に歪んだ。しまった、間違えた。フォローを入れようとした瞬間、荼毘は喉の奥を鳴らして笑った。
「へえ。公安ってのも大したことねえんだな。俺に撒かれるぐらいだしなァ」
やっぱり追っ手に気づいてたのか。俺はテーブルの下で膝を叩いて合図を送った。待ち合わせ場所だけじゃない。荼毘が選びそうな店にはあらかじめ公安所属ヒーローが配置されている。
「もうお前だけか?」
蒼い目が伺うようにこちらを見つめるので頷いてやると、縫い跡の目立つ唇が緩く弧を描いた。
「なら本題だ。あの日の釈明はもういい。過ぎたことだ。これから――」
ガシャン。俺のグラスをとって揺らす荼毘の背後で、棚に並んだワインの瓶が突如弾け飛んだ。狙撃だ。ざっと店内を見渡すが、周囲は酒に酔ったヴィランばかりが蠢いていて見えない。誰だ、一体どこから――。
「早いな」
荼毘が他人事のように呟いた。思わずその平然とした顔を睨みつければ、男は肩をすくめて両手を広げた。
「そんな目で見るなよ、ナンバーツー。保険だ。お前だって素敵なお仲間を紹介する気だったんだろ」
「違う。俺はそんなつもりじゃ」
「ないってか。じゃあ、こっから俺と一緒に――」
荼毘が片手を挙げ、ふいに周囲の気温が上がった。俺は即座に立ち上がって背中に残った羽を展開させた。男の蒼い瞳孔が開く。心臓がどくんと跳ねる。来る!
「――逃げてくれるんだよなァ!?」
Fooooosh!!!
俺たちの周囲を残し、辺り一面が蒼炎に覆われた。酒に浮かれていたヴィランたちが真っ青になり、悲鳴を上げて我先にと出入口へ押し寄せた。巻き添えを食らった数人が火だるまになって悶え苦しみ、床を転がるのを、公安の仲間たちが〝個性〟を使って消火している。その様子を荼毘は楽しそうに指さし数えていた。
「いち、にい、さん、し……へえ、公安ってのは随分お行儀のいい奴らがそろってんだな。俺が事を起こすまで姿も現さねえってわけだ」
「誤解だ。荼毘、聞いて」
近寄ろうとした瞬間、ツギハギだらけの腕が俺の前へ火を放った。荼毘が転がしていたスーツケースもたちまち燃え始め、中から赤いものがいくつかこぼれ出た。確認しようと視線を向ける前に、蒼い目がぎらりと光る。
「すげえ悲しいよ、啓悟。結局てめえはそっち側だ。俺ァ、ヒーロー社会が瓦解すれば堂々お前と街を歩けるンだと夢見てたが、お前の方は俺を海底のハコにぶち込むことで頭がいっぱいだったってわけだ」
「だから聞いて、荼毘!」
荼毘の腕が頭上に伸びた。バン! 鋭い破裂音とともに吹き抜けの天井にはめられていたガラスの欠片が雨のように降り注いだ。
「ナンバーツー、俺たちの戦い方を教えてやるよ」
いうが早いか、荼毘は足に蒼炎を灯し、勢いよく地上へ向かって飛んで行った。次いで、ごおっと熱風とともに蒼炎が燃え上がり天井に到達する。炎の壁で、店の様子はもう見えない。ここは仲間に任せるしかなくなった。
――なあ、お前はどこまでわかってた?
荼毘の声がよみがえる。あのとき蒼い目は期待して輝いていた。どうしてアレに正しく答えてやれなかったんだろう。それに。
――俺と一緒に逃げてくれるんだよなァ?
ずきりと胸が痛んだ。あんな癇癪めいた叫びなのに、あんな狂った目を向けられたのに、たしかに夜更け、一人で俺の羽根をかき集める男の横顔が浮かんだ。俺が迎えに飛んでいけば、ほんの一瞬蒼い瞳を揺らすのを思い出した。
「……クソッ」
一回り小さくなった翼を羽ばたかせ、俺はなんとか飛び上がった。吹き抜けから店を脱出し、荼毘を追うことにした。
荼毘はビルからビルへと飛び移っては、死角から真正面から蒼炎を浴びせてきた。剛翼はもう飛ぶことしかできない。かろうじて風切羽を一つ携えているけれど、先が燃えてしまっていた。
「ホークス、助太刀しよう!」
ふいに後方から声がした。おそらくエンデヴァーさんだ。公安が派遣してくれたんだろう。ほっとすると同時に、なぜか落胆した。どうして今。どうして、俺たちは二人で――。その一瞬の気の迷いがよくなかった。
「ホークス、止まれ!」
気づいた時には、俺の傍まで赤い炎の渦が迫っていた。ヤバい。身を捻るも、剛翼がうまく羽ばたかない。ダメだ、間に合わない! その瞬間、蒼い光をまとった影が目の前に立ちふさがった。
荼毘だった。
蒼炎はあっというまに赤い炎に呑みこまれた。俺はとっさに羽ばたくのをやめて落下し、かろうじて直撃は免れた。再び上昇しようとしたところで、黒い影がすぐ傍を真っ逆さまに落ちていった。焦げてぼろぼろになったコートが翼のようにはためいていた。
「荼毘!」
俺は宙返りして方向転換し、そのまま必死に追いかけた。落下速度を利用して最速で、誰よりも早く!
「待て!」
荼毘を追い越し、その身体を抱き留めて最後の力を振り絞って上昇した。それから俺はゆっくりと地上へ降り立った。ビルの隙間で周囲に人影はない。安心したせいか足に力が入らず、荼毘の上半身を抱えながらその場に座り込んでしまった。
「よかった、荼毘、」
声をかけようと荼毘の姿を見とめ、みるみるうちに血の気が引いていくのが自分でも分かった。これは、もうダメだ。
黒煙を上げながらアスファルトに身を投げ出した荼毘は、かろうじて人の形を成していた。白髪と右手は失われ、青白かった肌は焼け爛れて赤黒く変色し、ところどころ骨が見えている。目の焦点も合っていない。
「なして、俺ば庇った……」
荼毘は答えない。いつもそうだ。コイツは何もかも教えてくれない。轟家を出た後、どんな人生を送ってきたか。どうしてそんな姿になったのか。そのくせ期待して俺を見る。
「荼毘、確保」
冷静な声が聞こえた。方々に散っていた公安の仲間が静かに集まってくるのが分かる。俺の肩を叩いて、荼毘を引き取ろうとする腕が伸びてくる。
荼毘を確保? コイツ、なんとかしてやらないともうすぐ死んでしまうのに。
見捨てるばかりの人生だった。それが正しいとずっと信じてやってきたけど、俺はいまだに胸を張って飛べない。今でさえ、俺の演技に絆された男が腕の中で息絶えていくのを黙って眺めているだけだ。
「とう、」
口にし慣れない名前を呼ぼうとした瞬間、黒ずんだ唇からかすれた声がした。
「ぞろぞろと……今さら遅え登場だなァ」
荼毘。急に熱いものがこみあげてきて、俺は口を開けたけれど言葉にならず、ただ息が出ていくだけだった。荼毘。俺ね、違うんだ、本当は――。
は、と何度か目の息が漏れたとき、荼毘はようやく俺の方を向いた。その瞳は焼けた体の中で異質なほど蒼く輝いていて、俺を断罪しているような気がした。お前は親を捨てて、トゥワイスを捨てた。今度は俺も見捨てるんだな。
目を瞑りそうになった俺の前に、ふいにぼろぼろの腕が伸びてきた。そうして今にも剥がれ落ちそうな熱い手のひらが、俺の左頬にそっと当てられた。
「よかったな。お手柄だ、ヒーロー」
薄っすら笑みを浮かべたまま、呆然とする俺を映した蒼い目はゆっくりと閉じていった。
ガシャンという硝子が割れる派手な音に気づいたのは、看護師だった。通報を受けた僕が駆けつけた時には、生命維持ガラスポッドは粉々に割れていた。破片が部屋中に散らばり、リノリウムの床に赤い足跡が点々とついて、それは窓の前で途切れていた。
窓の向こうは絶壁、下の岩場には太平洋の波が絶え間なく押し寄せてくる。ヒーローたちも加えてチームが組まれ、数日間の捜索を行ったが遺体は見つからなかった。
轟燈矢死刑囚は自殺した。公安はそう結論付け、誰もそれに異を唱える者はいなかった。元々、彼は緩やかに死へ向かっていたからだ。死刑のスイッチを押さなくてよくなった刑務官はきっと胸を撫でおろしたことだろう。
荼毘と初めに相対したときの衝撃は忘れられない。様々なパイプにつながれた焼死体が、蒼い目だけを爛々と輝かせて僕を見ていた。
『ホークスはどうした』
吐息のような声が、スピーカーからノイズとともに部屋に響き渡る。あれで生きているのか。僕は思わず目をそらし、蛍光灯を反射するガラスポッドのてかりを見つめて答えた。
「ホークスは多忙でね。これから僕が君の警護を務めることになる。公安所属で武器は一通り扱えるが、専門は医療だ。吉田先生の門下生でもある。安心して体を預けてほしい」
『そりゃあありがたい。さぞ優秀な納棺師なんだろうよ』
一瞬、何を言われたのかわからなかった。滑らかな低音を咀嚼して、ようやく蒼い目が笑っているのに気づいた。ようやく公安同期の中で一番の出世頭であるホークスが、なぜ奥に引っ込んでいる僕にこんな重要な案件を頼んだのか理解する。出会い頭にこれだ。毎月のように警護のヒーローが変わるとは噂できいていたが、これが原因に違いない。
僕の予想はもちろん的中した。荼毘はとにかく棘のある言葉を返してくる。そして、それは身内にもっとも鋭く突き刺さる。
『今日は愛しのお父さんが話しに来る。あんた、毎日暇だろ。花束を買って来てくれよ』
荼毘が眠っている間が僕の本業だから全く暇ではないが、警護対象者とは信頼関係づくりが大切だ。僕は頷いた。
「構わないよ。どんな花がいい?」
『菊』
荼毘はかろうじてつながっている顎が外れるのではないかと思うほど口の端を吊り上げて笑った。邪悪な笑みに言葉を失っていると、畳みかけるように『俺の髪と同じ真っ白の』と付け加えた。
『線香も一箱必要だな。ああ、マッチはいらないぜ、あいつにつけてもらうからさァ』
けたけたと楽しそうな笑い声がひとしきり響いたのち、荼毘はようやくバイタルサインが低下し眠った。その頃には面会時間が近づいており、僕は仕方なく隣の百均で菊の造花と線香を購入し、エンデヴァーに渡した。
申し訳なかったが、これが公安のヒーローだ。警護対象とは信頼関係を築くことが何よりも大切だ。僕が報告すると、荼毘は大笑いして意識を失った。次に意識を取り戻した時、彼は微笑んで――頬の筋肉が収縮していたからおそらく微笑んで――言った。
『明日、あいつが来るだろ』
「ホークスのことなら、よくわかったね。何か入用?」
『……何も』
珍しく荼毘の歯切れが悪い。「遠慮なくどうぞ」と促せば、蒼い目は窓の向こうを見つめてかすれた声で言った。
『明日は睡眠薬の投与をやめろ』
荼毘の警護は、彼がいなくなるまで続いた。事故後、僕は会長ホークスからどんな降格処分が下るか戦々恐々としていたが、事態は急展開を迎える。
ホークスも明くる日に姿を消したのだ。
防犯カメラのブレた映像の中で、彼はいつものように黒いスーツを着て静かにたたずんでいた。空っぽの延命ポッドをしばらく眺め、それから血痕をたどって窓へ歩いて行った。その瞬間だった。黒い革靴の先が窓際へかかったかと思うと、次の瞬間には黒いスーツがひらりと窓枠を越えて落ちていった。
男の横顔は、皆の知る公安委員長ではなかった。あれは今も鷹だった。自分の翼で飛び、けして巣に帰らない孤高の英雄。
『ホークス!』
防犯カメラのぼやけた画面の中、早足で横切りながら目良さんが叫んでいた。それでもホークスは一度も戻ってこなかった。
あれから三年が経った。僕らは今頃思い知らされている。オールマイトがトップにいなくても、僕たち公安直属ヒーローが裏を牛耳らなくても、もちろん彼がいなくても、世界は緩やかに回る。
ホークスの目撃情報は一つもない。荼毘とは潜入中に何かあったらしいし後を追った可能性もあるが、公安の中で最も諜報に優れていた男だ。どこかでうまくやっているのかもしれない。そんな僕の予想を裏付けるのが、今日だとは思いもしなかったけれど。
「お久しぶりです、先輩」
休日のショッピングモールはごった返している。冬のコートを品定めしていた僕の前に、突然現れたホークスは囁くように言い、人好きのする笑みを浮かべた。
「三年ぶりかな、元気そうで安心したよ」
声をかけてから、ふとホークスの傍らにいる男から睨みつけんばかりに見られているのに気づいた。
「おい、こんな四角四面なクズとどこで知り合った」
随分な言いようだったが、それよりも気になったのはやや舌っ足らずな発音だった。
「僕らは昔馴染みだよ。この辺りに住んでる?」
「ハ? こいつが古湖街に住んだことはねえよ」
どういう誤解だろう。訂正しかけた時、ふと男の目が合わないことに気づいた。彼は、僕の口元のあたりを凝視しているのだった。
そういうことか。僕は男の鼻を指さし、それから左手のひらを前に向け、右手の指で左手のひらを軽く払うように動かした。たしか、これで「あなたは今」。右手の指を立てて左右に軽く揺らしたところで、隣のホークスが吹き出した。
「相変わらず超ド級の真面目っスね。いいんですよ、コイツ手話わかんないんで」
「じゃあどうやって意思疎通しているんだ」
「読唇術はある程度教えましたよ。それにチャットで会話できますしね。コイツ、人の言葉尻を変に捉えてわめくクセあるんでちょうどいいんですよ」
ホークスにしては珍しい、独善的な言い方だった。そうとは知らない男は、態度とは裏腹に緊張した面持ちで一歩前に出てきた。
「公安が何の用だ」
「プライベートだよ」
大げさに口を開けて話せば、男は眉をひそめて元の位置に戻った。それでも妙に熱気を感じて注視していれば、男の左手からほんの一瞬蒼い炎が噴き出した。
「こら、危ない」
ホークスが子どもでも叱るような調子で左手を掴んだ。じゅっといやな音がして、慌ててホークスの手を掴み上げれば、手のひらは真っ赤だった。驚く僕に、ホークスは慌てて手を振りほどき、人差し指を口に当てて「しっ」と言った。
「すぐ治りますから。ね、お前やりすぎ」
「お前が庇うのが悪い」
ふてくされた台詞とともにひやりとした冷気があたりに立ち込めた。男の手がホークスの手に触れ、自然に指を絡めていく。あまりに距離が近いが、ホークスは気にしていないらしい。
「どうして行方をくらませたの?」
「月並みなこと言いますけど、俺も家族がほしかったんス」
ホークスはあっけらかんとした顔で言った。
「深夜に飛んで帰ったら、ベランダの前で待ち構えられてて遅いってキレられてみたかったんです」
僕は傍らの男を見てから首を捻った。蒼い目がぎろりと僕を睨んだ。
「わからないな」
「先輩はそうでしょうね。ま、家族なんて巷でいうほどロクなもんじゃないっスよ」
ホークスはまた声を上げて笑ったが、僕はまだ繋がれた手を眺めて言った。
「相変わらず嘘が上手だね」
「バレてました?」
痺れを切らしたのか縫い跡だらけの白い手が、おどけるホークスの袖を強く引っ張った。彼は黄金色の目を細めて、自分より少し背の高い男の頭を宥めるように撫でた。
フードコートの端の席で人だかりができていた。眉をひそめられながら人をかき分け、
「お待たせしました。行きましょうか」
勝手に握手会を開催されていたショートに声をかければ、彼はとっくに食事を済ませていたらしく、さっと立ち上がった。
今朝、匿名で通報があった。「今店に来た客二人組のうち、一人が荼毘に似ている」。当然現役ヒーローに出動要請がかかり、ショートに蒼炎対策で決まった。ところが荼毘と聞いて、決戦後デビューの世代は気後れしたらしく、全く手が挙がらない。公安からの要請により、荼毘と接した経験のある僕が担当することになった。
「お前のと同じでいい」
「いやいや袖いらないでしょ。お前に合うのはこっち」
上着を羽織らせる優しい声が耳を素通りしていった。ショートはその声に少し振り返ったが、背中しか見なかったらしい。口角を上げるだけでまた僕についてきた。
「仲がいいですね。さっき話し込んでましたよね、知り合いですか?」
ショートの純粋な好奇心に満ちた左目は、あの男と同じように蒼かった。僕は真実を口にしようとして、同じ色の巨大な炎が天を突き上げるのを避難所から見たことを思い出した。次いで、後輩の見たこともない穏やかな表情がその炎を消し去る。
僕はついさっき、ヴィランを見逃した。公安のヒーローとしては失格だ。けれども、あの二人の姿を見て、何人がそれを咎めることができるだろう。彼らはかつて世に仮の名を轟かせ、ずっと行方不明者のままだった。それが今、たしかに帰る場所を見つけている。
買い物客の賑わいに軽やかな流行歌が重なり、遠くから誰かの笑い声が聞こえてきた。返事を待って首をかしげるショートへ僕は告げた。
「名前も知らない人たちでしたよ」