公益財団法人大谷美術館 所蔵浮世絵 Web展示

歌川派の描く

明治期の役者絵


※2020年3月4日より当館で展示予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため休館となりました。皆様に少しでもお楽しみいただけますよう展示web公開をすることにいたします。

大谷美術館について

(公財)大谷美術館は鉄鋼業・ホテルの経営で知られる大谷米太郎(1881~1968)が晩年に計画し、実現を見ずして世を去った事業です。 
大谷米太郎は、雪深い富山の貧しい農家に生まれ、一代で財を成した人物として知られています。学校に通うこともできず、生涯字の読み書きができなかっと言われています。30歳まで小作農として暮らしていましたが、わずかな所持金を携え上京し、身寄りもない中、日雇い人夫として働き始めました。力自慢が認められ、相撲の力士となり各地巡業する中、室蘭製鉄所を見学し事業のアイデアを習得しました。角界引退後は国技館に出入りを許される小さな酒屋からはじめ大谷重工業を発展させるに至りました。ホテルニューオータニの事業に取り組んだのは80歳を過ぎた晩年の事でした。全く新しい事業に80歳を超えてから取り組むというのは、大変なエネルギーの持ち主であったと思われます。


今回の展示

江戸時代から明治期という時代の移り変わりには、文化も大きく変容していきました。歌舞伎は“江戸時代の象徴”の一つとも言えるものであリましたが、役者たちや関係者の努力や工夫によって「日本の伝統的な演劇」という地位を得ることにより、その人気を持ち続け、現在にまで至っています。本展示では、明治という新しい時代において、歌舞伎が浮世絵でどのように描かれていったのか、歌川派絵師の作品を中心にご紹介します。歌川派は、江戸時代末期から浮世絵界を席巻した絵師の一派であり、多くの人気絵師を輩出していきました。その流れは現代の日本画家たちにもつながっています。また、明治期の浮世絵は、化学染料を多用した江戸時代の浮世絵よりも鮮やかな色彩が特徴で、特に赤、紫といった色は明治の浮世絵の特徴であり、そこから明治期の浮世絵は“赤絵(あかえ)”とも称されました。歌川派の絵師たちによっていきいきと描かれた、新時代の役者絵をお楽しみ頂ければ幸いです。



歌川国芳 Utagawa Kuniyoshi

『菅原伝授手習鑑』

すがわらでんじゅてならいかがみ

四代目坂東三津五郎の梅王丸、二代目中村芝翫の松王丸

上演:天保三年(1832) 五月 中村座  板元:川口屋正蔵

歌舞伎の三大名作の一つとも称される『菅原伝授手習鑑』を描いた作品。『菅原伝授』は菅原道真を中心とした物語だが、主人公は松王丸・梅王丸・桜丸の三兄弟である。その三兄弟のうち、長男の松王丸と次男の梅王丸が対峙する場面が描かれており、この場面では松王丸と梅王丸は敵対している。役者の向きや落款の位置から、三男の桜丸の絵が右に添えられた三枚続の作品であったと推測される。本作の特徴として、画面上部には芝居の台詞が記されている。台詞入りの役者絵は同時期の他作品にもしばしば見られるため、この時期に流行していた形式のようである。本展示では唯一江戸時代の作であり、他の明治期の作品と比較すると紅(赤色)など、鮮やかさが抑えられた絵の具で摺られている。



歌川周重 Utagawa Chikashige

『一谷嫩軍記』

(いちのたにふたばぐんき)

三代目片岡我童の判官義経、四代目中村芝翫の熊谷直実、九代目市川團十郎の弥陀六、四代目嵐璃寛の相模

上演:明治十五年(1882) 四月 市村座  板元:山村鉄治郎

本作に描かれた歌舞伎の演目『一谷嫩軍記』の三段目は、通称「熊谷陣屋(くまがいじんや)」と呼ばれ、現在でも人気演目として頻繁に上演されている。『一谷嫩軍記』は源平合戦を主題とした演目であるが、物語は人間の忠義や情といったものが大きなテーマとなっている。「熊谷陣屋」の主人公である武将の熊谷直実画面中央上は、義経の忠臣として、義経に命じられ幼い我が子を犠牲にするという苦しい決断を行う役であり、高度な演技力が求められる。本作では、熊谷直実は幕末から明治期にかけて活躍した名優の四代目中村芝翫によって演じられており、役の緊張感を示すような鋭い眼差しが表現されている。背景は、鮮やかな紅一色で摺られた「紅潰し」となっており、この紅色は明治期の浮世絵を象徴する色として頻繁にこの時代の作品に用いられる。



豊原国周 Toyohara Kunichika

『初日影三筋之隈取 小人国之場』

(はつひかげみすじのくまどり こびとこくのば)

初代市川左団次の朝比奈三郎義秀

上演:明治二十四年(1891) 二月 市村座  板元:片田長治郎

まるでガリヴァー旅行記の物語を彷彿とさせるような、小人の国に漂着した朝比奈義秀を描いた作品。朝比奈義秀は鎌倉時代初期に現存した武将で、剛力無双であったと伝えられる。父である和田義盛が北条氏と対立した和田合戦の後、浜から船で逃げ延びたと言われており、そこから小人の国、巨人の国、手長・足長の国などを旅する「朝比奈の島巡り伝説」の物語が生まれ、歌舞伎においても上演された。朝比奈は歌舞伎では「猿隈(さるぐま)」という独特な隈取りと「鎌髭(かまひげ)」と呼ばれる髭が外見の特徴であり、仇討ものとして有名な曽我兄弟の物語に登場する。右手に持つ煙管の豪快さや、髷に付けられた「力紙(ちからがみ)」という白紙も、朝比奈の大力を象徴するものとなっている。



豊原国周 Toyohara Kunichika

『歌舞伎十八番の内 勧進帳』

(かぶきじゅうはちばんのうち かんじんちょう)

初代市川左團次の冨樫左衛門、九代目市川團十郎の弁慶、初代中村福助の義経

上演:明治二十年(1888) 六月 新富座  板元:三宅半四郎

七代目市川團十郎によってまとめられた、市川團十郎のお家芸「歌舞伎十八番」の内でも、最も有名な演目とも言える「勧進帳」の一場面を描いた作品。勧進帳のあらすじは、源頼朝に追われている義経画面左や弁慶画面中央らは、山伏の一行に扮して安宅(あたか)の関を通ろうとするが、冨樫左衛門画面右の詮議を受けるというものである。この作品では水墨画風に摺られた松を背景に、白紙の巻物を勧進帳に見立てて読み上げる弁慶、それを見破ろうとする冨樫が緊張感をもって描かれている。義経は、座っているだけでも高貴さを表現するという難しい役所であり、本作でも二名を静かに見据える様子が表現されている。



鳥居忠清 Torii Tadakiyo

『歌舞伎十八番 不動』

(かぶきじゅうはちばん ふどう)

九代目市川團十郎の成田不動

制作:明治二十八年(1895)   板元:長谷川寿美

市川團十郎の「歌舞伎十八番」シリーズのうち、『不動』を描いた作品。初代市川團十郎は子宝を願って不動明王が本尊である成田山新勝寺に参詣し、のちに二代目市川團十郎となる子を授かった。初代團十郎はこのことに報謝して成田山新勝寺の不動明王を演じ、大当たりをとったという記念的な演目。市川團十郎の屋号「成田屋」もこのエピソードに因んだものである。作者は、鳥居忠清という「鳥居派」の絵師である。明治期に浮世絵界を席巻していたのは歌川派の絵師たちであったが、浮世絵には他の流派もあった。その中でも鳥居派は、歌舞伎の絵看板を描く役割を担う一派として非常に長い歴史を持ち、歌舞伎の初期から現代に到るまで続いている。



豊原国周 Toyohara Kunichika

『皇国自慢初陽因雲閣』

(こうこくじまんはつひのでのうんかく)

制作:明治三十二年(1889) 十二月  板元:木村豊吉

大勢の人気役者たちが、それぞれの当たり役の姿で一同に会するという作品。題名に「初陽(はつひので)」ともあることから、正月に向けて作られた作品である。舞台は京の禅寺・南禅寺の山門で、ここでは石川五右衛門と真柴久吉(ましばひさよし)羽柴〈豊臣〉秀吉の名を変えたものが対峙する場面が有名であり「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」から、本作には五右衛門が描かれている。他にも、「南総里見八犬伝」の犬飼権八・犬塚信乃や、奴凧、蝦蟇の仙術を操る児雷也、佐賀の怪猫など、様々な登場人物が見られる。この様に、役が舞台の垣根を超えて描かれることは珍しく、正月にふさわしい非常に賑やかな画面となっている。なお本作は後摺で、この絵柄が人気のために再販されたと考えられる。初摺では豊原国周の落款があり、下にさらに三枚が繋がる六枚続の大画面の作品となっている。



梅堂国政 Baidou Kunimasa

『梅雨燕比翼稲妻』

(ぬれつばめひよくのいなずま)

四代目岩井松之助の傾城小紫、初代市川権十郎の不破伴左エ門、四代目中村芝翫の唐犬権兵衛、四代目中村福助の白井権八、三代目片岡我童の名古屋山三

上演:明治十九年(1886) 五月 市村座  板元:堤吉兵衛

夜空に満開の桜が映える吉原遊廓のメインストリート・仲ノ町において、武士の名古屋山三画面右・水色の着物と不破判左衛門画面右・黒地に雷の着物がいがみ合うところを、侠客の唐犬権兵衛が仲裁する場面が描かれている。名古屋山三と不破判左衛門の対峙は「鞘当(さやあて)」の名で上演されてきた古典的な演目の一つである。後世になると、実在した武士である平井権八(ひらいごんぱち)をモデルにした白井権八と、人気遊女の小紫とのエピソードを絡めた物語として上演されるようになり、本作に描かれた演目もその一つである。鮮やかな紅・紫・緑といった色が用いられた本作の派手な配色から、いかにも明治期の役者絵らしい作品といえよう。



小林幾英 Kobayashi Ikuhide

『川上座新演劇百種の内 備後三郎』

(かわかみしんえんげきひゃくしゅのうち びんごさぶろう )

川上音二郎の備後三郎

上演:明治二十五年(1892) 三月 市村座  板元:山田米吉

明治の流行歌である「オッペケペー節」で有名な俳優の川上音二郎が、南北朝時代の武将である備後三郎児島高徳を演じる様子を描いた作品。備後三郎は、北条氏に対抗した後醍醐天皇に忠誠を尽くした武士として知られており、明治以降に人気が高まった。後醍醐天皇が敗れて隠岐へ遠流となった際に、院庄現在の岡山県津山市まで追っていき、桜の木に「天莫空勾践 時非無范蠡[意味:天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう。]」という漢詩を刻み、天皇を勇気付けたというエピソードが有名であり、本作もその一場面となっている。また「川上座新演劇」と題されており、新演劇とは、歌舞伎が「旧劇」や「旧派」と呼ばれていたのに対し、明治期に「新劇」や「新派」とも呼ばれた新たな演劇の一派である。当時新劇は、歌舞伎を凌ぐ人気を得ていた。

Copyright (C) Otani Museum. All Rights Reserved. 当サイトの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。Web作成:兼松藍子(大谷美術館学芸員)http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/