菊池源吾に学ぶ会 副会長
1 名誉町民
龍郷町の名誉町民(10名)の方々には驚いた。2006(H18)年5月に龍郷町を訪れた。熊本県菊池市長を筆頭に約15名が町長室に案内された。私はさあっと町長室を見てすぐ菊池市長に名誉町民の方々の写真を指で示した。小さな声で福村市長に、「菊池市の名誉市民は・・・?」問いかけたが市長は、「さあ・・・?」と言って考えておられた。私は田畑町長に「どうして龍郷町はこんなに名誉町民の方々が多いのですか?」10名の名誉町民の方々は龍郷町から船で鹿児島に行き、それから汽車で京都及び東京の大学で勉強されて、政界、教育界、法曹界、経済界等々の世界に進出し、その道の達人(?)になられているのである。龍郷から鹿児島、鹿児島から京都、東京へと、その交通費だけでも馬鹿にならない。交通費はどうした?そして大学で勉強するのには、下宿代、学費、食料費、そしてお小遣い等々のお金は・・・?(私は元来貧乏性ゆえに他人事とは言え、いささか心配になってくるのである。)名誉町民の方々は、龍郷町の各地区から各々輩出されている。名誉町民の出身地区がまるで他校区に負けてたまるか・・・。競争されているように見られる。各地区の人々がお金を出し合って有望な青年を育て上げていった・・・という話を聞いた。田畑町長いわく・・・「西郷どんの影響です。龍郷におられた時、各地区の子どもたちに読み、書き、ソロバンを教えられた。相撲も教えられた。逞しい健全な龍郷の若者が西郷どんの影響ですくすくと育っていきました。すべて西郷どんしこみです。」
驚いた。龍郷時代の西郷どんの名は「菊池源吾」。私の源は菊池であるの意。どうして菊池源吾になったかは、紙数足らず省略します。
源吾どんが龍郷に来た時には、言葉通じない風俗習慣が異なったからこそ、各地区の子供たちとの交流はたのしいものであったろうが、さらに龍家の龍愛子(通称:愛加那)さんとの結婚で、源吾どんから「目からうろこ」になったであろう、子供、愛加那さん、そして男児誕生に続き女の子も産まれた。源吾どんは龍郷で2児の父親と共に身分階級の厳しい時代に、身分を越え、男と女の垣根を越え、龍郷の女性を知ったことが、更に龍郷の各地区の子供たちに愛着が生じたのであろう。龍郷町の名誉町民の方々の業績を知れば知る程、あの小さな(失礼!)龍郷町から10名の方々が輩出された・・・その源流は・・・‼菊池源吾どんが‼驚いたな‼
2 稲森和夫氏(平成の西郷どん)との話
「会長!JALのマークはそのままにしておいてほしい!」JALの再生についてご苦労されているが、私の願いを聞いてほしい。2007(H19)年9月龍郷町において「西郷どん180年生誕、没後130年」の基調講演に来られた京セラ会長の稲森和夫氏との2人きりの飲み会でのこと。カレッタハウスのプールサイドの椅子に掛けての時間。稲森会長の講演は、大盛況で私も感動した。公演後の稲森会長と夕食も済み、寝る前のひとときである。私のお願い事に稲森会長は、「・・・・・・?」すかざず私は,「JALのマークはツルです。私の名もツルです。ゆえにそのままにしておいてください。」会長は、「あなたは面白い人ですね。」と笑みをうかべ焼酎の入った盃を片手に持ち、にこやかに答えられた。「今日は阿蘇の方から来られたのですか?」「そうです。龍郷町より稲森会長の話し相手になって欲しいとのことで来ました。」
「会長!JALのことは解決しましたので、次は熊本県内に京セラの工場誘致をお願いしたい。熊本県内どこでも立地条件があえば・・・。会長のお気に入りの地だったら私が骨を折ります・・・・・・。」盃を片手したままポツンと・・・「肥後にですか?」これで終わり。稲森氏から「ヒゴにですか?」と言われた瞬間、私は「こりゃダメだ。」と悟った。薩摩人の稲森氏は肥後をあまり良く思っていない血が流れているのであろう。薩摩と肥後は昔から・・・今日に至っても仲はあまり良くない。ゆえに西郷隆盛氏についても同じ感覚が熊本県人にはある。
「会長!私はここ龍郷へ来る1週間前に釜山市で会長の義父になる雲長治博士の資料館に行ってきました。」稲森氏は盃の焼酎をグイッと吞みほし私の顔をくい入る様に見つめた。稲森会長の夫人は雲長治博士の娘である。「近代農業の父」「世界的な種の研究者」と称されていた博士は、焼上化した韓国で「種の研究家」として大統領から再三再四の要請を受けて渡韓され骨を埋められた。「義父とは研究する分野が異なっていたので・・・。義父が何をしたかよく存じ上げていないが・・・。資料館があれば時間を見つけて行きましょう。」私はすかさず、「私が案内し、説明いたします。」といったのだが実現できずに今日に至っている。「それにしても、ツルさんは何でもご存じなんですね。田中一村美術館でも、田中一村のお姉さんを恋慕っていたのが菊池源吾と行っていましたね。おれは本当ですか。」「本当です‼」
稲森会長との話は延々と続く。西郷どんの「征韓論」は後世の政治家達のつくりごと。敬天愛人は、聖書から学んだ。そして愛加那さんと結婚し奄美の女性を知り、2児の父となったこと。曰く「目からウロコ」が落ちたことなど。平成の西郷どんと称されている稲森会長は、焼酎を吞みながら私の話を聞いておられた。やっぱり平成の西郷どんであった。
3 友
「熊本弁で話しているが・・・わかりますか?」「どうぞ僕は熊本大学卒業生ですのでどんな熊本弁でも大丈夫です。」2006(H18)年の春だった。菊池市七城町に徳富蘇峰による「西郷南洲先生祖先発祥の地」の石碑が建立している。西郷どんのルーツが菊池氏であることを知った私は、「菊池源吾」と名を変え奄美龍郷町に居住していたことに大変興奮していた。龍郷町役場に電話し、「菊池源吾、西郷どんについて詳しい人を・・・」と頼んだ。そこへ学芸員だった松村智行氏が電話に出たのである。松村氏いわく「龍郷町には菊池源吾の手紙、愛加那さんと住んでいた家、等々足跡がたくさんあります。」私はすぐさま龍郷町へ行った。初対面ではあったが、気安く熊本弁で会話が出来るのでたいまち友達になった。松村氏が私に安田荘一郎氏を紹介した。「この安田さんは、奄美全体の歴史、人情、文化等々くわしく、そして何より西郷どん研究家で奄美諸島で西郷どんが何をしたか、すべて知っている人です。」 と私に紹介した。奄美西郷塾長の安田荘一郎氏であった。私はこの安田氏とすぐに友達になった。日本全国に安田氏は、友人、知人をもち、自ら独自の歴史観、人物観を備えている人である。しばらくカナダ国に行っておられたが、再び奄美市に拠点を構えて、自由自在に「西郷隆盛」について研究しておられる。松村氏は私に大変良い人を紹介してくれた。今は亡き松村氏にも今もって私は感謝している。
安田氏とは、月に4~5回電話で情報交換をしている。私は「菊池源吾に学ぶ会」の副会長をしている関係上、2か月に1回の研修会に奄美西郷塾の活躍を報告しながら進めている。今年のテーマは「征韓論」である。西郷どんが「征韓論」を推進論者と日本及び韓国でも定着しているのに私は納得がいかず、いろいろな会合で「征韓論」を西郷どんは唱えていないと安田氏共々に発信している。韓国の元国務総理主催のアカデミーで私は、西郷どんの「敬天愛人」の精神について講話をした。そこで「征韓論」は西郷どんじゃないと理由をつけて説明した。安田氏も「征韓論」について本格的に取り組み、奄美の方々に説明されるでしょう。
生前の松村氏と安田氏の2人が、三沢あけみの「島のブルース」を軽やかに鮮やかに踊りを披露されたことは、機能の如く憶えている。奄美、龍郷は永遠に私の故郷である。よき友に恵まれすぎている‼
4 そして
太平洋と東シナ海に囲まれている奄美龍郷。新渡戸稲造は少年の頃、志を立てた。「願わくば、太平洋のかけ橋とならん‼」
生涯、それを貫き通した人生であった。東北から数多くの人物が政治、経済界、文化、芸術、スポーツ界で活躍している。
奄美龍郷の人々よ‼太平洋と東シナ海のかけ橋となりましょう。西郷どんの「敬天愛人」の精神で・・・。全世界に共通する言葉です。
「龍郷三話そして・・・・・・・」
2025(R7)年8月28日 記