江戸時代の大阪は諸国物産の集散地として栄えており、現在の大阪市西区の西横堀川跡西岸に瀬戸物町が形成されておりました。
『つぼ善』は、瀬戸物町に1867年(江戸時代末期)から店舗を構え、2021年の店舗閉店まで4代に渡り瀬戸物町の発展を支え尽力した老舗陶磁器店の1つでした。
当時、西横堀川は舟運の幹線道路として機能しており、京、有田、九谷、益子、瀬戸物などの商人たちがこの地に多く集まり、陶磁問屋街として活気に溢れていました。
商人たちは尾張物や肥前物などを扱い、地元の窯元と直接取引し、陶磁器の生産向上に貢献しました。
我が社の2代目 御崎 善右衛門は陶器商の中でも先駆的な存在であり、既成の商品だけでなく独自の商品を次々に開発していきました。
ひとつ例を挙げると、米をつく木製棒の減りが早いという事に目をつけ、棒の先端に特殊な陶磁器を塗布し長期的に使用できる米つき棒を開発し、特許を取得しました。小さなきっかけから、陶磁器の可能性を拡げるひとつの大きな開発となりました。
また、善右衛門は陶磁器協会を愛するがあまり1906年から1943年の37年間、戦況により紙の配給が途絶えるまで、毎月1回「陶業時報」という業界機関誌を自ら編集し欠かすことなく発行し続けました。
内容は陶磁器業界の最新情報から文化や歴史に関する記事まで多岐にわたりました。
紙面に溢れる彼の正義感と気骨、そして その幅広い見識は全国各地の読者から共感と支持を集め、大阪の陶磁器業界の名門として評価されています。
その後、善右衛門ら先代の精神は四代目の御崎 正之にも受け継がれ、正之は洋風の食生活が浸透することに目をつけ、1950年代後半からヨーロッパに何度も足を運び、イギリス皇室御用達の伝統あるロイヤル・ドルトンやミントンなどの洋食器を日本に紹介し、輸入販売を手がけました。
さらに1995年には「瀬戸物町」の名が明記されている天保年間の地図「浪華名所獨案内」を有田焼の絵皿に復元するなど、瀬戸物町の繁栄を維持しようと努めました。
瀬戸物町の特徴的な行事として、火防陶器神社で行われる「陶器祭」がありました。
業界の無事平穏を感謝し、祈願する献納行事として各店が陶器を身にまとわせるなど、工夫を凝らした造り人形を奉納し、また多くの店舗が出店する陶器市が開催されていました。にぎやかで活気のある地蔵盆は浪速の名物、夏の風物詩とも言われていました。
しかし、戦災や都市計画の変化によって、この伝統的な行事は次第に衰退していき、2000年を最後に陶器市は終了しました。
その後、時代の変化に抗うことは難しく瀬戸物町は衰退の一途をたどり、かつて繁栄していたその姿を大きく変えました。
店舗数も減少していくなかでしたが、正之は瀬戸物町の歴史や文化に深い造詣を持ち続け、店内には多くの日常品から工芸品、さらには歴史的珍品を揃えつつも、古書店で見つけた瀬戸物町や西横堀に関する書籍や絵画を展示し、瀬戸物町の博物館ともいえる店舗としてこれまでの歴史を大切にしてきました。
また、瀬戸物町の歴史を次の世代に継承するため、様々な媒体で語り継ぐ新しい取り組みにも挑戦してきました。彼は時代にマッチした新たな姿より、瀬戸物町の面影を残した懐かしさを感じさせる瀬戸物屋の姿を守ることにこだわり『つぼ善』としてのプライドを保ちましたが惜しまれつつ、2021年9月30日をもって店舗は閉店となりました。
現在は5代目へと引き継がれ、新たな『つぼ善』として歩み始めている。