立花隆先生が生前に残された原稿や資料等が廃棄されるかもしれません。

これらのものは立花先生の思想や考えが詰まった社会的・文化的にも価値のあるものだと

私達は考えています。


もし上記の廃棄の噂が本当なら思いとどまって欲しいという想いから、

生前に立花先生と親交のあった方々へお声がけさせていただき、

私達の意見に賛同いただける方々のメッセージを下記に掲載しています。



立花隆ゼミ 有志一同

2022/10/03 18:36:55 緑 慎也

立花さんの著作『思索紀行』『エーゲ』『小林・益川理論の証明』『がん 生と死の謎に挑む』『自分史の書き方』『四次元時計は狂わない』『サピエンスの未来』や、2010年代以降の講演のための資料集めを担いました。これら資料は個人的に思い出深いものです。資料の価値は、それを目にする人によって、そのタイミングによって変わります。立花さんの指示で、あるいは私がよかれと思って集めた資料に、将来の研究者によって新たな光が当てられるなら本望です。私は立花さんの初期から中期の重要な作品、特に「角栄研究」の数々、『宇宙からの帰還』、『中核VS革マル』、『日本共産党の研究』、『脳死』シリーズ、『天皇と東大』などの資料集めには携わっておりません。しかしこれが将来の研究者にとって貴重な価値を持つことは間違いありません。資料を是非保存していただきたく、お願い申し上げます。


2022/10/31 11:25:58 岩田 陽子

ヒロサワシティで立花さんの資料を保管することになったというお話は、事務所の方からのご連絡や新聞記事で存じておりました。そのお話を伺ったとき、率直に「立花隆さん、つまり、”知の巨匠”と呼ばれる人物の頭脳がこの世に残ることになる」ということに喜びを感じておりました。

しかし、そうした資料が廃棄される恐れがあるということを伺い、正直、驚いております。 どうか、ぜひ、未来のために、保管する方向で前向きに検討いただきたいです。なぜ、未来のためなのか、私自身の立花隆さんとの経験を基に、ご説明させていただきます。


私自身は、立花隆さんと、東北大震災直後に、子どもたちに少しでも前を向いてもらうために、宇宙を題材にした教育を展開するというプロジェクトでご一緒させていただきました。 (詳細は「立花隆の宇宙教室」をご確認ください)

その際、私が立花隆さんから学んだことは「”知る”ことの重要性」です。立花さんは「人間は無知であると思った方が良い」「世の中の事はほとんどがわかっていない」とおっしゃっておられました。。特に「宇宙」ということを前にすると、人間は無力だということもおっしゃっておられました。 だからこそ、我々は、特に未来を支える子どもたちは「知る」ということが重要なのだと思います。

何より、人は皆、「知る」ことによって前に進めるし、新たな知恵やアイディアが創出できます。inputがなければoutputも脆弱であることは容易に想像いただけると思います。

立花隆さんの数々の資料は、立花隆さんが「知る」ということにどのように向き合ったのかという歴史を知るうえで、さらには、ある出来事についての深い洞察を、立花さんはどのように行ったのかということを知るうえで、極めて重要なものです。

これほど本気で「知る」ということと向き合った人間は世界でも数少なく、日本では立花隆さん以上の方はおられないと考えております。 つまり、「知る」という人間にとって重要なミッションの「プロセス」がどのようなものであったのか、ということを我々が理解するうえで、立花隆さんが残された数々の資料は貴重であり重要であると思います。

私個人的には、「知る」ということを教育的にどのように展開できるのか、未だに模索中であり、引き続き、立花隆さんから学びたいと思っております。

ぜひ、後世のために、資料の保管をご検討いただきたいです。

何か私がお役に立てることがあれば遠慮なくお申し付けください。

前向きなご検討をよろしくお願いいたします。


2022/10/20 23:02:20 石田 英敬

 立花隆さんの資料が廃棄されるかもしれないというお話を聞き大変驚いています。

 私の理解する限りにおいて、立花隆さんがご自身の判断でそのように決断されることは想像しにくく、何かの間違いではないかと思います。その理由を以下に述べます。

 私と立花隆さんとのお付き合いは2007年に立花さんが東京大学大学院情報学環に特任教授として立ち上げられた「現代ジャーナリズム研究機動中心(代表 立花隆)」フォーラム「クロスメディア・クロスファイア」の発足準備会(2006年12月ごろから始動)以来です。当時私は情報学環副学環長、学環長は吉見俊哉さんでした。この会は、金平茂紀さん、筑紫哲也さん、村松康雄さん、吉岡忍さんが委員でした。

 立花さん執筆の趣意書には、

「メディアの受け手も送り手も世代交代がすすみ、メディアに対する意識、メディアが伝えるものに対する意識が大きく変わりつつあります。メディア・ジャーナリズムはこれからどう変わっていくのか、またどう変わっていくべきなのかを考える上で、私たちのメディア・ジャーナリズム文化の「近い歴史」を振り返り、証言を集め記録、分析、研究の対象として、近い未来の課題に備えることは、いつにもまして重要なことであると思われます。

 そこで、現代ジャーナリズム研究の第一歩は、TVメディアTVジャーナリズムが勃興期のひ弱な存在から今日のごとき大きすぎるほどの大きな影響力を獲得するにいたるまでの歴史的転換点の生き証人たちに組織的ヒアリングをすることからはじめてはどうかと考えています。」と述べられています。

 この会は2007年2月頃から活動を始めましたが、回を重ねる中でジャーナリズムの関係者からの聞き取り、オーラルヒストリーを実施しようということになり、2008年にかけて筑紫哲也さんのジャーナリストのオーラルヒストリー聞き取りなども行って、次世代への証言を残す活動を行いました。

 次に立花隆さんご自身の記録に関しては、以上のジャーナリズムの聞き取り調査の延長上で立花さんご自身のお話を伺うことも計画されていたと記憶しています。私が情報学環長をつとめた2009年以降では、2009年に筑紫さんの没後一周忌のシンポジウムを福武ホールで開催、その他にも電子書籍化をめぐるシンポジウムにご登壇いただいたりと継続的に情報学環の活動にご協力をいただいていました。

また2012年度から2016年度にかけて私は東京大学付属図書館副館長として新図書館計画の実行責任者を務めましたが、その計画にも立花さんからは多大なご助力をいただき、『立花隆の書棚』(2013年)を刊行された頃でしたので、2013年には東京大学図書館トークイベント「立花隆と語る東大図書館」を開催させていただき、『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』(同年)では巻頭対談をさせていただくなど、読書と書籍の歴史・現在・未来について実に広範なお話をいただきました。

東京大学新図書館計画では、大学全体の資料のデジタル化や保存も課題として掲げられていましたから、将来的にはさまざまなアーカイブを充実させていくことがめざされており、この計画の立案中に、立花さんからは一度お電話をいただいたことがあり、ご自身が「田中角栄研究」の際に使った膨大な資料群があるので、それを東大でなんらかの役に立てることはできないか、というお話をいただいていました。当時は、まだ新図書館計画は建物改修改築が立案実行の段階でしたので、その段階が一段落して中身の話になった段階でぜひ検討いたしましょうということで、そのときはそのままになっていた次第です。

 詳細については、今後、さまざまな記録を調べて詳しい点を必要ならば報告いたしますが、以上の立花さんご本人とのやりとりから言えることは、立花さんは、ジャーナリズムの歴史、同時代史、書籍の活用、ジャーナリズムの実践記録、ご自身のジャーナリストとして事績について、客観的・学問的にしっかりとした記録を残し、後代の研究に委ねようという意志を明確にもった知識人であったということです。少なくとも、同じ大学の同僚としてお付き合いした者として、この認識はゆるがないと私は考えています。

ご自身の蔵書を整理なさろうと考えられたことと、ご自身のジャーナリズム史のなかでの後輩・後代への記録の継承について考えられていたこととは、明確に区別されていたのではないかと思いますので、取り返しのつかないようなかたちで、歴史的な記録を遺棄されたりせぬよう、十分に再考されることを、関係者のみなさまにはくれぐれもご理解いただけますよう切に願っております。


2022/11/14 10:07:20 筑紫 ゆうな

相続人様

初めまして、故筑紫哲也の次女の筑紫ゆうなと申します。

2008年に父が他界して、親族として残された闘病記録やノートをどうしたものかと困り果てていた時、

立花さんに託するほかないと思い至り、お願いしました。

快く引き受けて下さったのち、熱心に隅々まで読み込んで、色々な質問を頂いたのを覚えています。

一つの記録として頂いたことに今も深く感謝しています。

父が明白に遺言してくれていたらどんなによかったろうと思いながら、

私が受け取った生前の姿やことばから、その人柄から自分なりの判断をしてきました。

ですから、「立花さんは資料を安易に目に触れさせたくないと考えていた」

とのことばに背筋が寒くなりました。

私としては、本人の許諾が取れないもの、本人による吟味と反証、取捨選択がなされないものをいわば無断で扱うこと

に苦悩と恐れがつきまとっていたからです。

取材対象者の方々や一般の人々が関係している場合は、責任の重さに腐心しました。

そのことを立花さんにも打ち明けたところ、後世に残した方がいいと思うと仰り、

その箇所を編んで下さいました。

量も内容も私の場合と重ねられることではありませんが、

できることなら、廃棄と結論した経緯や不安点を詳しくお聞かせ頂きたく思います。

たくさんの方々が寄せられたメッセージを拝読して、様々な方策や解決策があることを知りました。

ドキュメントと思弁を分ける方法もあると思います。

残してほしいと願う協力者の方々と直接お会いして、

本当に信頼して任せられるかどうかを見極めた上で、判断することもできると思います。

どうか今一度再考をお願いいたします。


2022/12/07 21:21:20 平山 礼子

「立花隆の資料を捨てる」にショックをうけた者のひとりです。同時に、これから立花隆伝を書こうとする人が困るじゃありませんかという現実的な心配も頭に浮かび、もやもやしています。

しかし冷静に考えると、立花さんはある程度の指針を遺していかれたのでは、と強く思いました。蔵書についてはご遺志で古書店に渡されたわけですね。これは本を「生かす」ことでしょう。

また、愛蔵されていたオーディオ機器はたくさんのCD、レコード、音楽関係の雑誌とともに生前、長崎在住のしかるべき方のもとに届けられたことを、昨年刊の「立花隆 長崎を語る」で知りました。これも「生かす」ことですね。

ご自分の資料類について具体的な指示がなかったのは、それを託すべき機関が当面、見当たらなかったからではないでしょうか。東大図書館にしろ他の図書館や資料館にしろ、どこも大量の書物、史・資料類にアップアップしていて、場所の問題、人員面や予算面などから、たとえ価値ある資料であっても受け入れる余裕はないでしょう。もし立花さんが資料は破棄したいと思われていたのなら、それこそはっきり言い残されていたと思います。できるなら、生かしてほしいと思われていたのでは。

仮の話で恐縮ですが、もしご存命中にザ・ヒロサワ・シティの案を耳にされていたら、興味を持たれたのではないかと想像してしまいます。何でも面白がって好奇心いっぱいの方だったようですから、「へえー、テーマパークなんだ。行ってみよう」と出かけて見物し、あれこれ質問されたかもしれません。しかもその地は、茨城です。立花さんが数年を過ごされ、学友も多く、橘孝三郎のこともあり、橘さんご一家にとって縁深いところです。立花さんの資料を受け入れる場所として,お膳立ては整っているように思うのですが……。

形あるものがいつかは消滅するなら、立花さんの資料もまたそうなるでしょう。あるいは、いつか何かの事情で廃棄することになるかもしれません。しかしどう考えても、それは今ではありません。

その他の投稿内容はこちら

2022/10/06 16:35:56 曽我 麻美子

今回のこと、晴天の霹靂で驚きました。 これまでヒロサワ・シティに託すことで同意されていたものが、なぜ急に前言撤回になったのか、判然としません。資料というのは、それが出来上がるまでの労力と過程そのものであり、立花さんはもちろんのこと、立花さんが関心を寄せた取材対象者(時代のトップランナーだけでなく一般の人々も含まれます)の生の声や生きた証がともに詰まっているものです。 また出版社やテレビ局等の業界関係者が参照するだけのものではなく、公共的価値のあるもので、歴史そのもの、そして、それを手に取って研究する人が現れる可能性を秘めた「未来」そのものでもあると思います。 資料を捨てることは、まさに立花さん以外の人々の生きた声、生きた証をも奪うことにならないでしょうか。破棄だけは何としても思い止まっていただきたいと思いますが……。


2022/10/10 10:30:40 柴野 次郎

立花さんの資料の様子について知り、驚きました。なにしろ、今さらお断わりすることもなく、立花さんの業績の多くは、あの猫ビルをはじめとした密閉空間で、数多くの文献や資料を基に思考し、執筆することで成り立っていたと思います。つまり、過去の無数の人間たちが残し、伝えてきた文献・資料がなければ「立花隆」という存在はありえなかったことは断るまでもありません。さて、立花さんは私に「オレの本はさ、みんな古本屋に売るんだ。まとめて大学に寄付してもさ、めんどくさがられて図書館の地下に放り込まれたままで将来の誰の役にも立たないままになっちゃうだけだからね。その点、古本屋に渡せば、その本を必要とする人の手に渡すことができるから」と話していました。その通り、立花さんの蔵書は、今、古本屋で、バラバラに次代の誰かの手に渡る時を待っているはずです。しかし、「複製品」「商品」としての本からなる蔵書とは異なり、原稿やゲラ、執筆資料や取材ノートなどは、立花さん以外には残せない「一回性」のものであるがゆえに、途方もなく貴重で、かつ脆いものだと私は思います。もしも、こうした資料が廃棄されるとしたら、それは橘隆志さんではなく、立花隆さんという知的存在自体を消し去ることになってしまいませんか? 信じられない話です。未来の「立花隆」に知的刺激を伝える可能性を残すために、どこかの地下室でほこりをかぶったままにならない形で資料を残していかねばなりません。なんだかんだ言っても、立花さんにさまざまな恩恵を蒙ってきた私としては、少しでも恩返しできればと思っています。クラウドファンディングでもなんでも、今はさまざまな方法があるはずです。この場での議論が深まり、現実化していくことを願って、まずは取り急ぎ。


2022/10/10 13:23:32 大西 隼

あまりに寝耳に水のことに、とても戸惑っています。立花隆先生が生前に残された原稿や資料等が 廃棄されるかもしれないということ…。その真偽や背景を知らない私のような元学生が、どんな声を挙げるべきか、まだ確信はありません。ただし、歴史的な仕事を残された立花先生の資料が失われることに対して「一体なぜ?」という率直な疑問、茫漠たる不安が自らの胸に渦巻いております。映像制作者でもある私としては、せめて廃棄の前に、寛容なものだけでも撮影・記録してデジタルアーカイブに残せないものか・・・と考えてしまいます。


2022/10/11 17:02:17 齋田 行宏

「立花がまた東大病院に入院しました。で、この入院中に 事務所の整理をしたいのですが 手伝っていただくことは可能ですか?」

2020年6月、一通のメールが届いた。差出人は立花隆事務所からだった。

コロナ感染拡大による緊急事態宣言が発出されている時期だった。仕事現場が止まり、時間を持て余していた私はその依頼を二つ返事で受けた。高齢である先生の入院は心配したものの、いつかそのうち退院するだろうとそのときは気楽に考えていた。そうして私は先生の妹で秘書だった方と、先生の事務所である猫ビルの整理を始めた。

この整理の一番の目的はとにかく「大事なもの」を見つけて保管することだった。

思わぬところから何が出てくるか分からない。本棚の隙間に封筒に入った札束が雑に置かれていたのを見つけたこともある。貴重な古書が出てきたりもした。間違って「大事なもの」を捨てないように、一つずつ丹念に確認しなければならなかった。

「大事なもの」は、地上4階、地下2階の猫ビル内のあらゆる場所に点在していた。本棚やその上に中身が分からない紙袋や封筒やファイルが置かれており、地下には大量の段ボール箱があった。私がそれらを集めてきて、事務所の方と中身を確認する。確認した結果は、ただの本のコピーだったり、科学論文のコピーだったりすることが多かった。

特に地下2階には取材資料が50箱以上の段ボールで保管されていた。箱の外側に中身を書いてあるものもあるが、すべて開けて確認した。開けてみると中身がカビていて全部ダメになっていることもあった。地下2階は湿度が高く、紙の資料の保管には適した環境ではなかったのだ。段ボール箱は湿気を含み使い物にならなくなっているものがほとんどで、持ち上げるとその重みで形が崩れた。

しかしそんな中でも、たまに古い写真や取材ノート、先生と著名人との手紙など大事そうなものが出てきたのだ。

また、見てすぐに「大事なもの」だと分かるものについてはいいのだが、出てきたものが「大事なもの」なのか、捨ててもいいものなのか判別することそれ自体が難しいものも多数あった。難しいからと言って、全て残しておくと一向に片付かない。書かれている単語からこれはどういう分野の資料かと当たりをつけていく。分からないものはインターネットで調べながら進めていった。

整理の作業の序盤では、私には見慣れない単語だらけですぐに調べるほかなかった。それを繰り返す度に自身の無知を痛感したが、悲嘆に暮れる時間はなかった。作業の終盤には人物名を見ればどの分野に関する資料なのか、私にもある程度は分かるようになってきた。今後さらに勉強を続ければ、あのとき見た資料はどういう位置づけのもので、どういう価値があるのか少しは知ることができるかもしれない。

2022年7月、猫ビルからベッドや本棚、取材資料など、ほとんどの荷物の運び出しが終わった。先生の遺志により、蔵書はすでに古書店が引き取っていたから、猫ビルはほとんど空になった。猫ビルにはこの2年間で計142回通った。途中まで本当に終わるのか分からないまま進めていた。確認した資料はそれほど膨大な量だった。ここまで膨大な資料を先生が残していたのは、蔵書が古書店を通じて必要な人に届いてほしいということと同様に資料を役立ててほしいと考えていたのだと思う。私もそうであってほしい。

これからも学び続けなければならない。先生が健在だったころ、猫ビルを訪れ、あの圧倒的な蔵書に囲まれて感じていたことでもある。今回の整理を通して私はまた強く実感した。猫ビルは片付いても、まだ私の心の中には知識の壁が立ちはだかっている。


2022/10/11 23:10:54 福井 規公子

資料の今後の行方に関して、立花先生ご自身はどうお考えだったのだろうか、

メッセージを送るにあたり、そのことがずっと頭の隅にあった。

意見が二分する時、真っ向から意見が対立する時、戦争が起こる時、私はいつも

AかBではないCを探したくなる。妥協ではない、折り合いをつけるという究極の選択。

しかし、資料が破棄されるのか保存されるのか、のC案に私は辿り着けない。

それならば、先生のお考えに触れられる何かがどこかにないだろうかと「立花隆のすべて」(永久保存版)に目を配っていると、あるページに目が留まった。ある番組でのタイトル「あなたは捨てる派?捨てない派?」で、先生は捨てない派だったのだ。

捨ててしまうというのは自分の個性を切り落とすことだといつになく感情的に語気を強めたらしい。「その人が持っているもの、頭の中にあるガラクタな記憶すべてを含めて、その人の個性です。人類史はなぜここまで進化したのか。それはいろんなものをとっておくということで文化、人類はここまで来たんです」と言われたらしい。

ここに先生の思いのヒントがあるように思える。先生の意思を尊重するということをC案とするのはどうだろうか(結果論ではなく、もしも捨てる派だったならそれも然り)。先生はいつも授業でおっしゃっていた、歴史は100年単位でみなくちゃいけないんです、と。100年後の未来に(私たちの子孫のために)、もちろんそれまでにも先生のたくさんの資料がそれらを必要としている人たちのために分けられますように。


2022/10/12 08:18:59 高澤 秀次

私、現在「評伝立花隆」に取り組んでいます文芸評論家の高澤秀次と申します。ご参考になるかどうか、個人的にかつて今年没後30年を迎えた作家・中上健次の年譜(中上健次全集第15巻)、評伝(いずれも集英社)を手がけたことがあります。彼の故郷・和歌山県新宮市の市立図書館では作家の死後、中上健次資料室を設け、ご遺族、新宮高校同窓生、そして私ども研究者などで資料収集委員会を組織、故人の立ち上げた市民講座「熊野大学」の夏期セミナー開催と平行して、毎年夏に収拾委員会を開き初出雑誌から書簡の回収まで資料収集につとめてまいりました。新宮図書館は老朽化のため、昨年、文化総合施設丹鶴ホールの4階に移設され、あらたに中上健次コーナーが設けられました。収集委員会はこれに伴い中上健次顕彰委員会に発展的に解消されました。ともかく30年にわたってご遺族、同窓生の全面協力のもとに資料収集と保管を行えたことは故人の文学的志と業績を広く周知、共有するために重要な営みだったと思います。今回の立花隆さん関連の資料についてですが、私が言えることは立花隆さんが公人である以上、ご子息たちの一存で貴重な資料を廃棄することは許されないのではないか、できるならば旧ゼミ生などを中心とする第三者機関を設け、ご遺族にとっての個人情報に属し、かつ公開を望まれないものと公開可能な資料を弁別し、責任をもって保管し何らかの形で公開すべきではないかということです。どうぞ穏便な形で首尾よく、資料が保護されますよう祈念しております。


2022/10/12 11:16:53 稲本 裕

故立花隆先生の原稿や資料が廃棄される可能性があるとのことで、非常に驚いています。署名活動を行ってでも、何とか思いと止まって頂きたい。立花隆さんは、公的な部分も多くあるので、大事に保管して、今後の時代に役立つ形にしたい。私に出来る事は協力します。何としても残したいです。


2022/10/12 16:45:06 青木 肇

立花さんが長年にわたって集められた資料や書き残されたメモなどは、その時代を知る上で大変貴重なものだと思います。どのような形であってもよいので、保存していただけたら、とても嬉しいです。


2022/10/12 21:58:24 安井 秀樹

故立花隆先生の原稿や資料が廃棄される可能性があるとのことで、非常に驚いています。

ヒロサワシティに寄贈されると読んでいたので、拝見できることを楽しみにしていましたので。

30年以上前に「知のソフトウェア」を拝読し、立花先生の取材メモや、執筆にあたっての材料メモ、チャート、年表などの方法に感銘を受けました。

私自身も、仕事で取材や執筆が必要な際は、これらの方法を活用し、今でもその有用性を享受しています。全ての知的活動に応用できる優れた方法論であると感じています。

いちファンとしてだけでなく、執筆などを求められる職業人としても、先生が存命時の実際のメモなどを見れる日を楽しみにしていました。

資料等が廃棄されることなく、保存、公開されることを強く望みます。


2022/10/12 22:03:08 武藤 久資

 立花隆さんが遺した資料は一個人の記録の域を遙かに超え、文化遺産といって過言ではありません。たしかに、相続したあとは、それをどのように処分するかは法的には何も制限なく、仮にすべて廃棄しても法的責任を問われることはないでしょう。しかし、違法でなければ何をしてもよいかといえば、人間が社会で営む以上、時には、社会的責任、道義的責任を負い、社会常識、慣習等に照らして良識と節度ある行動、態度が求められているといえます。

 私のようなものが軽々しく「資料は廃棄しないでください」と一知人の立場で無責任に言えるものではないと感じています。

 しかし、それをあえて承知で言わせていただければ、その遺産は後世に遺すという社会的責任も同時に負っているという認識をお持ちいただけたらと思っています。

 私は数年前、神奈川近代文学館で開催された「与謝野晶子展」を観覧しました。そこには生前、使用していた数々の物品をはじめ、自筆原稿、多数の書簡、当時の写真など、どれも歴史的遺産というものばかりでありました。また、ドイツのベートーヴェン博物館を見学したときは、生前使用していたピアノをはじめ、自筆の楽譜、手紙やメモなど、貴重な史料に目を奪われました。これらは言うまでもなく、一度廃棄されてしまえば二度と復元不可能なものばかりであり、人類共通の文化遺産として、責任ある者(団体)に引き継がれているのだと思います。立花さんの遺産(資料)は想像をはるかに超えた膨大な量であるとお察しします。

 また、このような問題は、家族関係者だけで抱え込んでしまうと、どうしても内向きになって行き詰ってしまいがちかと思います。できれば今後、中立的な第三者を交えて、解決策・妥協策を見いだせるような検討の機会を設けることも一案ではないかと思っています。

 私でお役に立てることあれば、いつでもお申し付けください。無論協力を惜しみません。


2022/10/13 22:25:23 田中 武雄

私どもは、筑西市で拝観できることを待ち望んでいます。立花隆さんのお仕事は、歴史的価値のある公共性に富んだ社会的財です。是非、資料保管へのご配慮をお願い致します。


2022/10/13 22:25:57 田中 多美子

資料の保管がなったおりには、筆の力で世を動かした立花隆さんの一端に資料を通して触れてみたいと考えています。


2022/10/15 00:41:21 中村 博海

 出版された本は何万冊であろうが喪失しても、又買うことが出来ますが、原稿や資料は一度喪失したら、2度と戻ってきません。立花隆さんの原稿や執筆資料は、後の者が彼の著作の内容が、どのような資料や草稿・原稿から生み出されてきたか知るうえで、大変貴重なものであり、学究にとって必須の「原典」です。今ここで破棄などしたら、永遠に「原典」を失うことになります。

 この資料や原稿は、蔵書や骨董価値を持つ稀覯本と違い金銭的価値のあるものではありません。従い、この資料や原稿の保存は、これらの学的価値を理解して、保存と公開・閲覧の責務を引き受けてくださる方か機関が必要です。今回、この労を引き受けてくださるザ・ヒロサワ シティは、最適な機関であると考えられます。

 立花隆さんの生まれ故郷茨城県で、茨城県の文化事業を営利目的ではなく、幅広く展開しているこのザ・ヒロサワシティ(廣澤財団運営)を仲介してくださったのは、立花隆さんの中学生からの親友で、元NHKの専務理事をされていた板谷氏(茨城県出身の陶芸家板谷波山のお孫さん)です。何れも信頼に値する機関であり、人物です。寄託してくださる資料や原稿の所有者の方々に、迷惑をかけるようなことはありませんし、誓約ももしてくれるはずです。

 今回対象になっている資料は、『日本共産党の研究』と『中核VS革マル』という、立花隆と講談社のコラボでなければ書けなかった傑作2著に関するものが入っています。この2著の内容は、立花隆さんが初めて世に問うたもので、その「歴史の判断」は、これからの歴史の推移を待たねばなりません。その資料を今失っては、取り返しのつかないことになります。「この資料を失うことのデメリット」は、計り知れないものがあります。資料の所有者=相続者の皆様に何一つ負担になることありませんし、資料を保管し、公開してゆくことに「デメリット」などあろうはずがないと思いますので、破棄などということを是非にもご再考されるよう、お願申し上げます。

 (茨城県民で、立花隆さんの高校・大学の後輩で、著作の愛読者の元企業人です)


2022/10/15 14:32:34 中田

廃棄という決断に至る前に、もう少し時間があったらと思った。

先生の功績を後世に遺すべく、周囲の方々があらゆる可能性を模索された結果「ヒロサワシティに委託」という方向に至ったのだと思う。それが実現されないかも、というのはとても残念でやるせない気持ちになる。皆さんのご苦労はなんだったのか、、、という気持ちに成らざるを得ない。

一方、故人の遺産整理は大変なものとも聞く。一般人ならまだしも立花先生のご遺産となると、ひょっとすると日本でも一番大変なのかもしれない。

それは単にモノの量・重さだけではなく、気持ち・世間からの反応といった意味でも、当事者にしか分からないことがあるのでは、と想像したりもする。

ただ、一度捨ててしまうと元には戻れないのは事実なのだろう。

もう少し時間をかけることで、新たなアイディアや思わぬ解決方法が出てくると私は信じたい。最善策が見つかると信じて、もう少しだけ時間をいただきたい、というのが私の今の正直な気持ちです。


2022/10/15 14:40:30 中田

立花先生の功績は世界に誇れるものと思います。なんらかの形で痕跡を残していただき、私たちが折に触れて目にする機会をいただけたら有り難く思います。

どうか、よろしくお願い申し上げます。


2022/10/17 22:24:10 中西 恵子

大変に残念なことでございます。ご遺族の皆様には大変に荷の重いお仕事であり

外部からこのような勝手なお願いをすることは誠に心苦しい限りではございますが、

立花さんの資料が失われるということは、日本のノンフィクション史に大きな空白を作ってしまうことになるのではないかと、懸念しております。

以前、立花さんと大江健三郎様との対談記録等をお預かりしたことがございますが、ノンフィクションという世界は、ただ創作される作家さんご個人のみの世界ではなく、取材されるお相手もあってのことと思い、立花さんの取材に懸命に応え、なにがしかの未来を志向された方々の肉声や思いも根こそぎ失われてしまうのではないかと思うと残念でなりません。

立花さんが創作過程で集められた資料は、既に立花さんご個人の財産であることを越えて、社会の公共財であるようにも思っております。

現在、新聞、テレビ、雑誌をはじめとするジャーナリズムには以前のような勢いがありません。その一方で、世界はジャーナリズムの力を必要とすることばかりが次から次へと発生しています。日本のジャーナリズムの発展にも大きな足跡を残された立花さんのお仕事の過程を残してくださることが、混迷を極めるこれからの社会を思考するための手掛かりにもなると信じております。

ご遺族の皆様方にできる限りご負担がかからない形で資料を残せるような方策があればよいのですが……。誠に勝手な希望を申し上げ、恐縮頻りではございますが、なんらかの解が導き出されることを心より祈念しております。


2022/10/19 21:35:49 岡田 仁

立花隆先生の業績や思想の本質を総合的に理解するためには、世に著された刊行物や映像だけではなく、未だ光が当てられていない遺された直筆原稿や資料などに光を当てることでしかその全容は解明され得ないと思います。今後の立花隆研究のために、そして、先生の最期のメッセージを正確に読み解くために、保存されることを強く願います。先生は、長崎の原爆、香月泰男画伯のシベリア抑留、宇宙からの帰還、インデイオの聖像など、目に見えるものを超えた、目に見えない何ものかを探求されていたのではないでしょうか。人間の一生涯の命、人間の生存期間や生活である「ビオス」だけではなく、生きて活気のある状態、永遠のいのちという意味の「ゾーエー」があります。ビオスは肉体的・生物学的な命、ゾーエーは常に神との関係の中で考えられ、神から与えられるいのちです。聖書では、ビオスとしての命の次元を大切にとらえつつ、その有限性を指摘します。そしてこの、ビオスを越え、ビオスを支えるゾーエーとしてのいのちの次元をさし示しています。ゾーエーとしてのいのちが重要であるのは、それが神に由来するいのちであること、さらに言うと、イエス・キリストの十字架と復活に由来するいのちであるという所にあります。永遠のいのちは、私たちが神のように無限にいつまでも生きる者になることではありません。私たちが有限の命を生きるべく、神と隣人に喜ばれる平和と和解の人生を送るべく新しく創造されることです。この生物学的な命を超えた命を、どこまでも探求されていたように思います。最近のNHK特集は素晴らしい内容ではありましたが、この課題がまだ十分解かれているとは言えないかもしれません。ご遺族に過重な負担がかからない方策を話し合いのなかで前向きにご検討いただきたいのです。


2022/10/20 11:16:17 村上 信夫

立教大学大学院で、立花先生のゼミで学びました。当時、立教大正門前にあったジャンボオムライスが名物の喫茶店で、よくコーヒーをご馳走になりました。その店には常連客があれこれ好きなことを書き込むノートが十冊程ありました。それを読んでいた立花先生が、ゼミの課題に「最初に、このノートに書いた人を探しなさい」という謎の課題。僕らは様々な手を使ってやっと辿り着いて。確か、実家にも電話をしました。連絡がとれ、その人たちと店を借りて大コンパをしました。わかったことを報告する度、「それでそれで」と聞いてくる立花先生は、知の巨人と言うより好奇心の塊。些細な調査だったけど、立花流の好奇心、掘り下げ、その一端を垣間見た気がしました。僕らが実感できるサイズでそんな課題を出しのか、あるいはただただ好奇心なのか。時々、思い出します。猫屋敷の蔵書がなくなった映像もショックでしたが、先生の思索の跡も処分されようとしていると聞きました。残したい、残して欲しいと切に思います。到底、追いつけない頂でしょうが、少しでも教えを受けた一人として、後を追う道しるべをと、思います。残すことに障害があり、明確なのであればそれに対して、何か対応もできると思います。関係者の皆さまにお願い、そして、僕が出来ることがあればと考えています。


2022/10/23 10:00:45 井上 慶太郎

 ご連絡ありがとうございます。

 先生の資料が廃棄されると聞けば、率直に残念です。専門家の方の発見に繋がるものが残されているように思います。

 同時に、重要な資料は元の取材先にも残されていると思いますので、必要なら自らの足で得ることができるようにも思います。取材先が明確でしたら、原稿の処遇を先方に委ねるのはどうか?など、と、様々な思いがないまぜのまま。

 投稿フォームでは手が止まっておりました。

 ふと、『追悼 立花隆の書棚展』の会場。文藝春秋ギャラリーで思いを語られた保坂康正さんの言葉が思い出されました。

 ”立花隆氏は不思議な人物で、言葉を交わした後、我々に変化をもたらす人だった・彼はある種の召命を受けた人のようだった・同時代に生きた我々にとってなんらかの触媒だった”と、(裏覚えながら)話されていたと記憶します。「媒体だった」という言葉が印象的でした。

 もう一つ、NHKの追悼番組の、海を背景にした場面が思い出されました。

 「おれの本読んでないでしょ?」と、ディレクターさんに不満を漏らされていた立花先生が印象的です。授業中の飄々とした先生の口調とも違いました。

 今、「話しをちゃんと聞いていましたか」と問い糺される気がします。

 知が専門分野に分化しないことを先生は願われていたと思いますが、それは、広大な知のネットワークの海原で、ご自身が航海士となって調査され続けた末の、切実な願いだったと思います。追悼番組『見えた 何が 永遠が』を視聴した後、腑に落ちた思いがしました。先生が調査報道を重んじた理由は様々あると思いますが、本人の足で資料収集をせず仕上がった記事に、どのような意味があるのかに先生は精通されていたと推察します。

 成果物や著作までとは言われていないと思います。

 仮に先生が「無に帰す」という言葉で、ご自身の航海誌のエピローグを締めくくるとしたら、その趣旨が薄まることがないことを願います。そこに意図があるだろう、と考えさせられるからです。専門研究が発展することと同じか、それ以上に、総合知の連続性を立花先生が重視されていたとすれば、私自身には、「あなたの船で海を渡りなさい」と仰られているようにも思えます。

 様々なご意見があると思いますので、最終的には先生が深く憂慮されていた日本の未来のために、最適な判断がなされることを願います。

立教立花ゼミ


2022/10/26 19:55:00 宮坂

 イーブックイニシアティブジャパンの宮坂と申します。電子書籍『立花隆全集』の担当をしておりました。

 『立花隆全集』は氏の著作初の電子化でしたので、「紙書籍ではできない、電子書籍ならではのなにかを入れたい」と立花先生に相談しながら進めた記憶があります

 電子化第一弾「田中角栄研究」で立花先生が提案されたのは、「紙書籍では入れられなかった資料を掲載したい」というものでした。電子書籍は紙書籍と違って“、紙幅”や“折”の制限はないので、いくらでもページ数を増やすことができます。

 早速、私は資料を探しに猫ビル地下2階に潜りました。地下室中にダンボールが詰められていて、階段周辺5歩ぐらいしか動けるスペースがないことに驚きました。 観察していると、ダンボールには「臨死」とか「宇宙」など、一応の分類が書かれていて、立花先生が取り組んできたテーマの資料が、地層のように並んでいることがなんとなくわかります。「…ということは、田中角栄関係は奥の奥だな…」。ダンボールの山を見ながら私は、湿布を買って帰ることを決意しました。

 それから、何度となく地下2階に潜り、関連がありそうなダンボールを引っ張りだしていきました。特に記憶に残っているのは、千葉県内の大量の登記簿でした。これが一体なんなのか、私にはさっぱりわかりません。

 その意味は、増補編集・解説に協力いただいた小林俊一さんによる解説によって示されました。「紙面では1行に過ぎない記述にも多くの裏付けとなる資料が存在する」ということです。

 それからというもの、私は資料と著書を見比べることで、おぼろげながら立花先生がどのように資料から結論に至ったのか、ほんの少しでも追体験することができたと思っています(もちろん私の理解が及ぶわけではないのですが)。その時の立花先生がどんな問題意識を持って資料を集め、どのように取捨選択して原稿を書いたのか…。それは、完成稿だけではわからない、当時の臨場感や深い理解に至る”体験”を味あわせてくれたと思っています。


2022/10/26 23:18:45 玉串 和代

私は仕事を通して立花先生とは数回お話をし、猫ビルにも2度訪問の機会を得ただけなのですが、猫ビルは何やら先生の執筆活動の化身のように思え、圧倒されたことを覚えています。そこにあったに違いない多くの資料が、ヒロサワハウスへの寄託が決まったにもかかわらず、ご遺族の意向で廃棄されるかもしれないと聞き、大変驚くと同時に信じられない思いです。一般的にも、立花先生のような方の資料は、多くの研究・探求者の手を経て真の価値が明らかになるもので、その機会を与える間もなく廃棄されるなど、到底起こり得ないことと思っています。

廃棄を望む遺言でもあれば、仕方ないことかもしれませんが、側聞する限りそのような事実はないように思われます。ご遺族が言われる「資料の価値より残すことのデメリットが大きい」との詳細はわかりませんが、こうした活動を通して資料の価値や保存について議論を深める意義は大きいと思います。他方、デメリットへの対応も必要になってくるでしょう。

相続権や著作権、個人の権利がからむ大変複雑でやっかいな問題ですが、まずは貴重な資料が消失しないことを願うばかりです。


2022/11/04 14:15:35 北 堅太

私は立花先生とお会いすることはかないませんでしたが、没後、その著述を再構成した『いつか必ず死ぬのになぜ君は生きるのか』という金言集を、編集者として担当する機会に恵まれました。同書制作にあたっては、古本屋などに通いながら、先生の著書の多くを、あらためてむさぼり読みました。正直に言って、おもしろくも、時間と手間のかかる大変な作業でした。ただ、その苦労は、そもそも先生がしてきた取材量の足元にも及びません。膨大な著作の裏には、さらに膨大な取材があるのです。その辛苦は私たちが想像する以上のものだったでしょうし、何よりその足跡がなければ、今なお多数の読者を「知の世界」へと誘う数々の著書も、この世に存在しえなかったのです。先生の仕事の足跡そのものであり、かつ時代をひらいた原点でもある資料は、残す価値があるものだと確信します。


2022/11/06 11:35:28 鈴木 寿伸

 立花先生の資料が破棄されるかもしれないということを聞きましてコメントをさせていただきます。僕は、立教大学で先生の授業を受けた生徒でありました。そのときに、先生の授業を手伝っている自主ゼミに参加しました。卒業後も、そのときの仲間と関係が続いていました。その経緯があって、今回このお知らせを聞きました。

 先生の資料については、授業を受けてきた立場の人間としては保存を望みます。重要なものは後生に伝えるべきものではないかなと思っています。立花先生の功績を考えるとそう思います。

 この資料の保存については、人それぞれの立場があって上手く進むものではないかもしれません。親族の方々が最終的に決めることであって、干渉はできないでしょう。ただ、そういった考えを持っている人がいるということは知ってほしいと思います。

 先生の授業を受けたのは、およそ十三年前で大学四年でした。当時の僕は、卒業後の進路が決まっておらず、不安な日々を過ごしていました。そんなとき先生の授業を受けて、授業の手伝いをすることによって、自分には居場所があるのだと認識することができました。先生の授業は、僕にとってそんな場所でありました。

 なので、もしかしたら資料を保存することによって、僕のように何かしら問題を抱えていた人の役に立つことがあるかもしれません。僕は、先生の授業を受けることによって救われました。その先生が残した資料であるなら他の誰かを救うことができるものだと思います。破棄したら全てがなくなってしまいます。たくさんの人に影響を与えてきた人物として資料を残すことが未来へのメッセージになると思っています。

 あくまで個人的な見解ですが、ひとつの思いとして考慮していただけたら幸いです。


2022/11/13 16:32:01 佐倉統

立花隆関連資料の廃棄に反対です。メモやノートなどはお金では買えません。この世界で唯一無二の情報です。保存しておくこと自体に価値があります。大阪の民博にある梅棹忠夫資料館では、生前の梅棹に関する資料が保存されており、今も貴重な知見と情報を提供し続けいています。立花資料も、是非保存をお願いします。


2022/11/20 20:08:20 木許 裕介

立花先生の資料が廃棄される可能性があるという報を聞き、先生の側で学ばせて頂いたものとして強い懸念を表明致します。それは決してノスタルジーによるものでありません。後世に対する資料の価値という観点から、廃棄の事態はなんとしても避けるべきと考えます。

私は指揮者として、これまで幾人かの作曲家の楽譜校訂や伝記作成に関わってきました。この文章を書いている今も、ブラジルの「ヴィラ=ロボス博物館」というところに席を頂き、作曲家ヴィラ=ロボスの自筆原稿や手紙を片っ端からリサーチしているところです。当博物館にはこの作曲家に関わる大部分の資料や物品が収蔵されているのですが、このようにきちんとアーカイブが残されていることは、後世の人間がその人を理解するうえで非常に役立ちます。たとえば、演奏上で出版楽譜の記載事項に疑問が生じたときには、真っ先に作曲家の自筆譜を当たって考えます。彼が何を記したかということだけではなく、どのホテルのメモ用紙に、どのように書き損じながら、どのような筆圧をもって書いたのかということが演奏解釈において新しい発見の糸口になることがあります。しかし、自筆のものや個人的な資料が残されていない場合、こうした研究はほぼ不可能になってしまいます。

さらに、ヴィラ=ロボスや立花先生のように多作で知られる作り手は、同時に複数の仕事に取り組んでいることが多いのですが、出版物として公にされる以前の草稿や資料には、異なるテーマが並行して進められていた様子が残っていることがあります。私が目にしたことのある立花先生の草稿には、田中角栄のことと香月泰男のことが一緒にメモされているものがありました。まったく関わりのないものが同時に思考されている!この一枚の草稿の存在によって、まさしく「その人の頭のなか」とでも言うべきものが浮かび上がるのです。

「その分野の本を100冊読んで、やっと少しだけ書くことができる」と言っていた立花先生が自らの著書として残したものは、彼の頭のなかに渦巻いた宇宙のほんのわずかな部分だけでした。彼がいったい何に関心を持ち、何をどのように知ろうとしたのか。それは先生の著書にもまして、残された資料が雄弁に物語ります。どうか、資料の保存をお願いいたします。廃棄という文化的損失を避けるべく、自分にできることがあれば是非協力させてください。