大学数学 フォローアップシリーズ 第1巻 『線形代数』
(編者: 佐藤隆夫,著者: 片岡武典)
近代科学社 2026年3月6日発行
このたびご縁があり,線形代数のテキストを上梓しました.内容は,主に大学1年生で学ぶ線形代数です.ぜひ多くの方にお手に取っていただければうれしいです.
このページでは本書の紹介として,私が執筆の際に意識したことを書いていこうと思います.これから線形代数を学ぼうとしている方々や,教科書選定に関わる先生方への参考となれば幸いです.
線形代数の教科書は既にたくさん出版されています.以前,線形代数の授業を受け持つにあたり指定教科書を検討する必要があり,図書館で大学1年生向け線形代数のテキスト(50冊くらい?)を片っ端から開いてみました.言うまでもなくそれぞれのテキストにはさまざまな違いがありますが,次のことが分かりました.
扱っている実質的な内容は基本的に共通であること.
一方で選択を迫られるいくつかのポイントがあること.
数学的に厳密に書かれているものは多くはないこと.
このうち2点目と3点目については,著者の個性や執筆方針が反映されていると感じました.あまり詳しく厳密に書いても理解しにくいことが多いですし,それぞれにとって良いと考えるテキストを作成しているものと思います.そして当然ながら私にも私なりの好みがあり,それ故に既存のテキストではなかなか満足のいくものを見つけられませんでした.このことが本書執筆を引き受ける動機ともなりました.
以下では,本書の特徴を少し詳しく述べていきましょう.
既存のテキストではどれもおおまかな内容は共通しており,具体的には
行列・行列式・対角化・ベクトル空間
の4つです.これだけ共通していることにはやはり合理性があるのだろうと考え,本書でもこの選定を踏襲しました.
本書では上記の4つをこの順番で扱う構成としました.類書では対角化の前にベクトル空間を扱うことが多いようですので,この点で本書はやや珍しいかもしれません.この構成にした理由としては,対角化までを行列論として完結させて,それとは独立した話題としてベクトル空間を紹介する方が理にかなっていると考えたためです.類書では対角化の際に内部直和といったベクトル空間の用語を持ち出すことがあり,ベクトル空間の理解が曖昧となりがちな初学者には難しいように思いました.そこで本書ではハードルを低くするために,対角化までを行列論として展開して完結したのです.なお本書での対角化(や行列式)とベクトル空間の部分は概ね独立しているので,読む順番を入れ替えても大きな支障はありません.
なおまえがきにも書いたとおり,本書では大学の通年授業でそのまま使えるように章と節を調整しました.具体的には,1回の講義でちょうど1節の内容を説明できるような分量として,前半13節で行列と行列式,後半13節で対角化とベクトル空間というようにピッタリ区切れるようにしました.この調整にはかなり苦労しました.もちろん必要に応じて内容を取捨選択して学ぶこともできます.
用語の導入や手法の説明の前後には,練習問題を過不足なく,必要かつ十分と思われる数を配置しました.また問題の難易度は抑えており,本書を順に読み進めれば無理なく解けるよう配慮しています.よく言われることですが,数学は問題を自分で解いてこそ理解が進みます.そのため内容理解のための問を吟味して掲載しています.
本文中の練習問題を2つほど例示しましょう.
行列の基本的な用語を定義した後には,具体的な行列の(2, 3)成分や第2列を答えるような問題を出しました.
→押さえるべき用語であることを明示しています.
固有ベクトルを定義した後には,平面の鏡映変換や平面の回転変換に対する固有ベクトルを答えるような問題を出しました.
→固有ベクトルは一般的な計算方法ばかり学びがちですが,そもそもの定義の意味を問うています.
また本書を通じて,扱うトピックをできる限り絞り込みました.線形代数に限らず専門書では,練習問題として発展的なトピックを紹介することがよくあります.線形代数での一例としては,商空間などの種々のベクトル空間の構成がしばしば該当します.これによりページ数に比して多くのことを紹介でき,読者に多くの知識を紹介できるという利点があります.しかしながら本書では,そのようなことをしないように意識しました.というのも本書の読者には,「この本に書いてあることすべてを理解できた」という達成感を,無理なく味わって欲しいと考えているためです.(とはいえジョルダン標準形や双対空間は補足として名称だけ出しました.)
私はいわゆる純粋数学を専門としており,どうしても厳密で証明付きの記述をすることは避けられませんでした.もちろん,できる限り平易に理解しやすい記述を常に心がけています.
厳密さの一例をあげましょう.先述の通り類書を確認していたところ,ベクトル空間の定義(8つの公理)を正しく記述しているものは思いの外少なく,体感ではおよそ半分ほどでした.特にゼロベクトルと逆ベクトルの記述が適切でないものが多い印象でした.数学書では定義が非常に重要です.本書では厳密さを重視して,ゼロベクトルと逆ベクトルをベクトル空間の構成要素に組み込み,公理では量化子を登場させずに8つの等式系としました.この方が初学者にとってもシンプルで混乱が少ないと考えます.また公理を説明するからには,その基本的な使い方も説明しました.理論の全てを公理から導くのは現実的ではないので例示に留めましたが,結果としていい塩梅の記述になっているものと考えています.
他にも,0行・0列の行列やゼロベクトル空間を例外としないような記述を意識しました(とはいえ初学者には混乱を招きうるので本文中ではこのことを強調してはいません).そのため随所の議論では,それら0の場合が陽に現れてしまうような数学的帰納法は陽に利用せずに説明しました.また「ゼロ行列は正則でない」というように0次の場合に反例となることも書かないように注意しました.
類書でも選択が分かれている細かなポイントについてコメントします.
スカラーを実数に限るか,実数と複素数とするか,一般の体とするか.
→本書では実数と複素数としました.ただしそれらをまとめて K で表し,実際に K と書いた際の議論は常に一般の体で通用するよう配慮しました.というのも,まず複素数の場合は多くの理学系分野で必要となるでしょうから必要と考えました.また専門的ではありますが大学3年生くらいで環上の加群の理論を学ぶ際には,一般の体上のベクトル空間は既知となっている,あるいは「実数体の場合と同様にできる」で済まされることがあるように感じます.そこでその際にも参照できるようなテキストにしたかったのです.とはいえ交代性を扱う際は標数2でないことを暗黙に利用していることがあります.一方で一般的な体の定義を本書内で紹介するのは,読者への負担が大きいと考えたのでやめました.なお内積を用いる議論では,実数体と複素数体の特殊事情を利用していることも明示しました.
行列式の定義に置換と符号を利用するか,使わずに工夫して切り抜けるか.
→本書では置換と符号をきちんと定義して利用する,正統派の定義を採用しました.あまりその場しのぎで応用の効かない議論をしたくなかったためです.また群論を学ぶ際の参考にできるようにという考えもあります.
ただし置換と符号は,線形代数に用いるだけなら重要ではありません.そこで本書では置換と符号の節をスキップしても支障ないように最大限の配慮をしました.唯一,4次以上の場合に固有多項式がモニック多項式であることなどの部分でのみ,仕方なく定義式を利用してしまいました.余因子展開でなんとか説明できなくもないですが,少し無理があると感じました.2次と3次の場合は別途示しているので,一般の場合の雰囲気も十分に伝わると期待しています.
対角化では実対称行列の対角化を扱うか,さらに正規行列の対角化を扱うか.
→本書では,正規行列の対角化まで扱いました.まず実対称行列の対角化は,2次曲線・2次曲面への応用があるためぜひ紹介したいと考えました.すると実対称行列の対角化でも,固有値がすべて実数であることの証明に結局複素数を経る必要があり(いろいろ調べて考えましたが避けることができませんでした),そのため正規行列まで扱うことが自然と考えました.
ただし単なる正方行列の対角化も含め,初学者には詳細を追うことがどうしても難しいトピックです.そこでこれら種々の対角化では,予め実践的な計算方法を提示して身につけてから,必要に応じて理論的な詳細を確認するという読み方をできるような記述としました.
私は本書の執筆のためにかなりの時間をとって真剣に取り組みました.上記の他にもコメントしたいことはたくさんありますが,このあたりでやめておきます.読者のみなさんが線形代数を学ぶにあたり,本書が役立てばうれしく思います.