2012年度入学式式辞 「《わたし》と《みんな》」
皆さんのご家族、ご親族、お友達のなかには、東日本大震災で被災された方がいらっしゃるかもしれません。まず、被災されたみなさまに心からお見舞いを申し上げます。昨年の四月は東日本大震災が起こったために、大学全体の入学式も学部の入学式も行われませんでした。
皆さんも「白熱教室」でご存じのマイケル・サンデル教授は、東日本大震災後の日本を見て、「あれだけの震災に遭いながらパニックも起こさず、ハリケーン・カトリーナの時に見られた強盗も便乗値上げもなかったことは驚きだった」、「(原発問題では命懸けで取り組むという)信じられない自己犠牲もあった。この際立った公共性、秩序、そして冷静さ。略奪や便乗値上げなど考えもしないコミュニティーへの連帯意識があった」(『日経ビジネス online』より)と、日本人を称賛しました。確かに、避難所でいさかいが起こったというニュースはめったに耳にしませんでした。それは報道されなかっただけかもしれませんが、起こったとしても大きなニュースにならなかったことは確かです。私が個人的に知っている一人のヨーロッパ人も(この人は長いこと日本に住んでいて奥さんも日本人なのですが)、日本人の助け合いの精神をまのあたりにして驚いていました。「君の国で同じことが起こったらどうなる?」と質問したところ、すぐにケンカが起こるよ、との答が返ってきました。世界が日本人の連帯感に驚きました。
東日本大震災が起こったほぼ四ヶ月後、なでしこジャパンはFIFA女子ワールドカップで優勝しました。彼女たちの一人一人に注目すれば、ほとんどの対戦国の選手たちよりもすぐれているとは言えないでしょう。優勝できたのはチームワークのおかげだということはまちがいありません。2011年の東日本大震災における人々の助け合いとなでしこジャパンの活躍は、その後、「絆」という合い言葉に結晶しました。
しかしながら、その一方で、数年前から私は「ぼっち」という言葉を耳にするようになりました。「一人ぼっち」に由来する表現です。友達がいない孤独な若者を指す時に使われます。さらには、少し汚い言い方になりますが、「便所飯」という関連語も同じ頃、聞かれるようになりました。いっしょに昼ご飯を食べる友達がいないことを他の人に見られたくないので、トイレで食事をする学生を指します。最近では「ランチメイト症候群」という少しきれいな言葉が当てられています。本当にそのような学生がいるかどうかは疑問です。それに、どのような表現であれ、一人でいることそのものをネガティブに評価する傾向は好ましくありません。けれども、このような言葉が出てきている背景には、友達を作ることが苦手でありながら、しかもそれを他者の視線から隠そうとする若者が増えてきたという事実があることは確かでしょう。
ここにいらっしゃる岡村先生と吉田先生は学生担当教務主任をつとめておられます。学生の悩みを聞き、その悩みを解決するのが主な仕事です。このところ学生や親御さんから寄せられる相談でじょじょに増えてきているのが、大学に来ることができない、という悩みです。高校までは週五日クラスメートはほぼ同一で、教室内の座席の配置も決まっていました。しかし大学では授業ごとにクラスメートが異なり、座席も決まっていません。高校までは自分の座席の周囲は週に五日はほぼ同じ人が座っていました。ところが大学はぜんぜん違う。大学に来ればそのまま知り合いができるわけではないのです。自分から知り合いを作らなければならない。これは結構ハードです。
東日本大震災における人々の助け合いとなでしこジャパンの活躍から結晶した「絆」という言葉は、大学生活には少なくとも形式上はほぼ無縁です。それは、クラスや教室や座席という形式が外枠となって「絆」を保証してくれないということです。入学そうそうつらい話をお聞かせすることになり、申し訳ありません。
次の二つのグラフをご覧下さい。
2007年から2011年までの推移が示されています。これは朝日新聞社が発行する『朝日新聞』、『アエラ』、『週刊朝日』という定期刊行物の中に、二つの検索語が何回登場したかを示したグラフです。2007年から始めたのは、一方の検索語が2007年に初めて登場したからです。その検索語は2006年以前は、ヒット数ゼロでした。その検索語は「そんなの関係ねぇ」です。「そんなの関係ねぇ」というフレーズは早稲田大学教育学部を卒業したあるお笑いタレントが口にした言葉で、2007年に初登場しすぐに流行語となりました。2008年にはヒット数が二倍になっています。テレビで流行した言葉に、人々が共感し、日常生活でも使われるようになったのでしょう。もちろんこの種のデータはもっとこまやかに分析しなければなりません。たとえば「そんなの関係ねぇ」というフレーズが否定的な文脈で言及されている場合です。「「そんなの関係ねぇ」というフレーズを若者たちが口にするようになったが、これは困ったことだ」、という文章の中で、このフレーズが使われていたとすれば、それは逆にヒット数から除外すべきかもしれません。しかし、ごくごく大ざっぱな傾向を見る場合はそのような例を無視してもいいでしょう。
もう一つのグラフは「絆」という言葉のヒット数です。「絆」は東日本大震災後に日本を復興するための合い言葉になりましたから、ヒット数が2011年に爆発的にアップしているのは当然でしょう。注目したいのは、年を追うごとに、「そんなの関係ねぇ」が減少し、「絆」が増加しているということです。「そんなの関係ねぇ」はいわばスタンドアローン宣言です。誰かが困っていても、「ベツニー」こっちが困るわけじゃないないから「シラネ」という反応は、他人とかかわり合いになりたくない、一人で楽しくすごしたい、という気持ちから来るものです。その意味でスタンドアローン宣言と呼んでみました。私は少し批判的な口調でこのスタンドアローン宣言を説明しましたが、実は東日本大震災が起こる前、若い人たちのなかにはこのスタンドアローン宣言にひそかに共感する人も少なくなかったように思われます。たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公である碇シンジは、他の人たちとの軋轢がない世界を求めます。最後の場面はいろいろな解釈がありますが、自分の存在意義に対する自覚が極度に研ぎ澄まされていることは間違いないでしょう。2003年に発表された「世界に一つだけの花」という歌を知らない人はいないでしょう。そこには、「一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに/一生懸命になればいい」(作詞 槇原敬之)というフレーズが含まれています。『新世紀エヴァンゲリオン』にせよ「世界に一つだけの花」にせよ、利己主義を勧めているわけではなく、そこには他者へと開かれる回路もひそんではいるのですが、そこに他者への眼差しを読みとるのはそれなりに高度なために、多くの若者はスタンドアローンである自分がそのまま肯定されていると思い、これらのアニメやJ-popに、ある種の居心地のよさを感じてしまったのではないでしょうか。その意味で、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』から2003年の「世界に一つだけの花」への流れが、2007年の「そんなの関係ねぇ」においてスタンドアローン宣言となったというのが私の理解です。
これはしかし、1995年から2007年までのほぼ十年間だけに特化された傾向にとどまりません。一般に受験勉強は、若い人たちをスタンドアローンにしてしまう傾きがあります。大学の入学定員が決まっているわけですから、友達が合格したということは、理屈の上では自分が合格できる可能性が低くなったということです。皆さんの多くは友達もいっしょに同じ大学に合格してほしいと願っていたに違いありません。友達が不合格になることを願った人はおそらくいないでしょう。しかし、友達と自分の二人が合格するということは、その二人が知らない他の二人の高校生が不合格になるということを、理屈の上では意味しています。つまり、受験勉強は構造的に他者への眼差しを遮断してしまうのです。それに加えて皆さんは、先に述べたように、時代がスタンドアローンをうながす方向に向かっていた時代に生まれ育ち、高校に進学しました。つまり二重に個人主義的にならざるをえない状況にいたということです。言うまでもなくこれは皆さんの責任ではありません。ですから、皆さんを責めているわけではありません。
皆さんは2012年4月に大学に入学します。それは、このスタンドアローン宣言が有効期限を終えつつある時代に大学生になるということです。スタンドアローンだと思い込んでいる《わたし》のまわりに、実は《みんな》がいたことが見えてきた時代が、「絆」の時代です。《わたし》は実はスタンドアローンではなかったということを具体例で説明しておきましょう。私は昨晩、夕食でトンカツを食べました。私が口にしたその豚肉は、もともと生物としての豚から切り出されたものです。私とトンカツとの間には、一頭の豚を解体してくれた人がいるのです。私にはそれが見えない。通常は見えないでもいいのですが、しかし、存在しないわけではない。たとえばそういうことに思い至った時、スタンドアローン宣言は無効になります。《わたし》が鍵をかけた自分の部屋のなかで一人で生きているつもりであっても、《わたし》が口にする食べ物のみならず、《わたし》が使う電気も、見えない他者たちによって《わたし》にもたらされている。
スポーツ選手はこのことを体感しているようです。サッカー日本代表監督をつとめるザッケローニ氏は、AFCアジアカップで優勝した後、「選手たちがio(自分)でなく、noi(我々)の勝利として喜びを爆発させたこと」に驚き、日本代表の選手たちを手放しで賞賛していました。繰り返しになりますが、なでしこジャパンがFIFA女子ワールドカップで優勝したのも、《わたし》がスタンドアローンを脱し、《わたし》と他の《わたし》が《みんな》へとネットワークを結ぶことができたからでしょう。男子も女子もスタンドアローンの《わたし》で勝負したのではなく、《わたし》が動きながら、動いている他の《わたし》にパスを出しつづけることで、ダイナミックなネットワークとしての《みんな》になることができたからです。
このことは団体競技に限ったことではないようです。2010年バンクーバー冬季オリンピックにおいて、モーグルの日本代表をつとめた上村愛子さんは、惜しくも金メダルを逃し四位にとどまりました。上村選手はその時、涙を流していましたが、その涙の理由をたずねられて、自分を支えてくれたまわりの人たちのことを思うと涙がでてきたと答えていました。個人競技であっても、試合に至る長いプロセスの中では、《みんな》が一人の選手の《わたし》を支えている。
ただし私は、《わたし》が《みんな》へと組織化されることをそのまま賞賛するつもりはありません。あるいは「絆」を作ること自体を目的として、それを絶対化するつもりもありません。組織や国のために、つまり全体のために個人が犠牲になることの悲劇は、皆さんもご存じでしょう。女子代表であれ男子代表であれ日本代表の選手たちはプレイの間は一つの組織のコマとして動きながら、しかしプレイが終了した時点では個人に戻ります。《わたし》に戻ります。メダルは一人一人の《わたし》に渡されます。一人一人が別のクラブに戻ります。スカウトされて海外に出て行く選手もいます。一人一人がチームという全体に寄与しながら、結果的には、チーム全体の成長が一人一人の成長をもたらす。極端に言ってしまえば、自分のためにこそチームで頑張る、ということです。言うまでもなく、他の仲間を支えるということがその前提になっています。また、チームは固定していません。その都度のミッションに応じて、チームができます。日本代表としてプレイすることもあれば、クラブでプレイすることもある。しかもクラブを変わることも可能です。ここでは三つのレベルでダイナミックな動きを観察することができます。
1)《わたし》たちが《みんな》になるネットワークが常に動いている。動きながらのパス回しを想像してください。
2)一つの《みんな》がばらばらになって、また別の《みんな》になることもある。同一の選手が別のチームで活躍する場合です。
3)《わたし》が《みんな》の中の一メンバーになった後、《わたし》は《みんな》を離れ、成長した《わたし》に変じる。
特にこの三点目を強調したい。「絆」そのものを目的とするのではなく、寄与する《わたし》→《みんな》への「絆」→寄与される《わたし》というプロセスのなかで「絆」が作られるわけです。
早稲田大学はこのような、寄与する《わたし》→《みんな》への「絆」→寄与される《わたし》というプロセスを頭で学ぶだけでなく、身体で覚えるための絶好の練習場です。このプロセスを身体で覚えるためには、できるだけ多くの人と接することが必要です。しかも、自分と異なる人のほうがいい。もちろんそれは、インターネット上のヴァーチャルな世界ではなく、現実の世界でなければなりません。
大多数の学生は三月に卒業しますが、留学等を理由としてそれがかなわない学生は九月に卒業します。ごく少数ですので彼らの一人一人と言葉を交わすことができます。昨年は「早稲田大学に来てよかったことは何だった?」とたずねてみました。もっとも多かった答は、「多くの人に出会うことができたこと」でした。実際、早稲田大学で学ぶ学生の出身地は、日本全国だけでなく海外にまで拡がっています。学部もたくさんあります。「オープン科目」という授業を履修すれば、他の学部の学生たちといっしょに勉強することもできます。これは本当は言うべきではないのですが、学力の幅も非常に大きい。すごく勉強できる学生もいれば、すごく勉強できない学生もいます。早稲田大学には、自分とは異なる人たちがたくさんいるのです。その意味で早稲田大学は社会の縮図になっています。四年間、いろいろな人たちと《みんな》の「絆」を結んだり、その「絆」をほどいて別の新しい「絆」を結ぶことで、寄与する《わたし》→《みんな》への「絆」→寄与される《わたし》というプロセスを身体で覚えることができるようになるはずです。
昨年早稲田大学教育学部を卒業し、目下、北海道日本ハムファイターズの投手として活躍している斎藤佑樹選手が、慶応大学との優勝決定戦で勝利投手となった時、ヒーローインタビューで口にした言葉を皆さんご存じでしょうか。「いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは仲間です」。これは「絆」を先取りするネットワーク宣言とみなすことができそうです。スタンドアローン宣言として私が解釈した「そんなの関係ねぇ」は2007年の新語・流行語大賞のトップテンに入っていましたが、斎藤選手の言葉は2010年の新語・流行語大賞の特別賞を受賞しました。そう言えば、「スタンドアローン宣言」とか「ネットワーク宣言」というようなコムズカシイ言葉を使わずに、「そんなの関係ねぇ」と「仲間を持っている」という分かりやすく耳に残る言葉を口にすることのできたこの二人は、二人とも早稲田大学教育学部の出身でした。早稲田大学教育学部ってすごくないですか?
そろそろ話を結びたいと思います。早稲田大学教育学部で四年間をすごす皆さんに私がぜひともお勧めしたいのが、寄与する《わたし》→《みんな》への「絆」→寄与される《わたし》というプロセスを身体で覚えるということです。入学直後から四年先の就職のことを考えたり、そのための勉強をしたりする必要はまったくありませんし、そんなことをしてもほとんど無意味でしょう。とはいえ、やはり就職のことは気になります。早稲田大学教育学部ですごす四年間で、寄与する《わたし》→《みんな》への「絆」→寄与される《わたし》というプロセスによって、その都度ネットワークを作ったり、一生続くネットワークを作ったりするようにつとめてください。そうすることによって皆さんの《わたし》は縮こまらずに大きく成長するはずです。
しかしながら、基本的な前提が一つ皆さんに欠けていることを、先日知りました。先週の金曜日に、私が所属する学科の新入生ガイダンスが開かれ、そこで新入生が一人ずつ自己紹介したのですが、半数以上の学生が口にした言葉があります。「私は人見知りなので、ぜひ声をかけてください」というフレーズです。そのような若者たちを「人見知り世代」と呼んでしまいましょう。「人見知り世代」は、めぐまれた若者たちです。欲しいものを、必要なものを、自分から求めないでも与えてもらってきたのでしょう。その結果、「人見知り」世代はウエイティングモードに陥りがちです。この自称「人見知り」な学生を待ち受ける未来は大きく分けると二つあります。一つは、声をかけてもらうまで待ち続け、四年間をすごし、就職活動の際に、人に話しかけるスキルだとかコミュニケーション力のつけ方を本で学ぶ。もちろん付け焼き刃ですから面接の際にはメッキがはがれます。これが一つ目の未来です。もう一つの未来は、人見知りはダメだということを理解して、自分から少しずつ声をかけるようになる。これは実は難しい。声をかけても無視される可能性があるからです。それでもめげずに自分から声をかけつづける。それが、《わたし》と《みんな》のネットワーク作りの前提です。このハードルをまず超えなければなりません。この学部入学式が終わったら、隣の新入生に、できれば両隣の新入生に声をかけ、自己紹介しあってください。「絆」を絵空事の美しいお話にとどめずに、「絆」を自分の足下から広げるための最初のレッスンになるはずです。
「人見知り」世代と遭遇して衝撃を受けたのが先週の金曜日、3月30日のことでした。同じ3月30日、プロ野球が開幕しました。斎藤佑樹投手は開幕投手をつとめ、プロ野球選手になってはじめての完投勝利を飾りました。彼は試合後のヒーローインタビューで、「今は持っているのではなく、背負っています」と語りました。「人見知り」世代に属する新入生一人一人の《わたし》が《みんな》へと結び、やがてその《わたし》が《みんな》を「背負う」ことになることを願っています。四年後には皆さんがさまざまな場所で《みんな》を「背負う」ことのできる卒業生となって旅立っていくことを確信しています。その時まで、「ご入学、おめでとうございました」というお祝いの言葉はとっておきます。充実した四年間をすごしてください。
教育学部在学生へのメッセージ(2011年3月28日)
東北地方太平洋沖地震で被災された在学生、そのご家族、お友達に心からお見舞い申し上げます。
すでにメール等でお知らせしましたが、2011年度の授業は5月6日から開始します。余震がまだ続いており、計画停電のために交通機関の混乱が起こっていることがこの措置をとった主な理由です。本来ならば4月の新学期から始まる授業や課外活動に向かっていた皆さんの気持ちが、そがれたかもしれません。そこで、この空白期間を有効に使ってもらいたいと考え、この文章を書くことにしました。
少なからぬ数の学生が一刻も早く被災地に出向いてボランティア活動をしたいと考えているようです。ボランティア活動など、学生にできることを教えてほしいという希望が寄せられています。そのような学生たちを相手に教え学ぶことができることを、私は誇りに感じました。しかし、現地では今多くのボランティアを受け入れることができないようです。早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターのサイトには、「今すぐに被災地に行かない、物資を送らない」、「今、東京でできることをやろう」、「支援の気持ちは、今は募金であらわそう」、「長期的に関心を失わず、要望があったらボランティアできる体制を整えよう」という四つのアドバイスが記されています(*1)。被災して困っている人を助けようという自分の気持ちを最大限に評価しつつ、上記のサイトを参考にして、それを空回りさせない方策を考えてください。
それと並んで、この悲劇を悲劇のままに終わらせず、この悲劇から何を学ぶことができるか、ということを考えるために、新学期が開始するまでの一ヶ月を使ってください。考えるためのきっかけになるかもしれないポイントを二つ挙げます。一つは《つながり》、もう一つは《生きかた》です。
【つながり】
私はこの文章を3月25日に書いているのですが、この大震災の被災者支援慈善試合に出場するために数日前帰国したサッカーの長谷部選手が、帰国直後のインタビューで「日本が一つになり助け合うことが大事。今こそ手を取り合ってやって行きたい」と語っていたのをニュースで目にしました。ご存じのように、ワールドカップ南アフリカ大会では日本代表チームは大活躍しましたが、そのかげには、メンバー一人一人をみごとに結束させたゲームキャプテンとしての長谷部選手の力がありました。
現在、日本代表チームを率いているザッケローニ監督も、アジア杯で優勝した直後のインタビューで、「選手たちが io(自分)でなく、noi(我々)の勝利として喜びを爆発させたこと」に感激し、その日本代表チームの団結力を勝因として挙げていました。
この未曾有の自然災害のあとに私たちが今まのあたりにしているのは、サッカーの日本代表チームが体現してくれた日本人の団結力です。今ではいささか手垢がついてしまった「日本人特有の和の精神」が、悲劇を乗り越えるための団結力として発揮されていることに、その団結力がこの悲劇を乗り越えるだろうということに、世界中が今、驚いています。
正直に言えば、私は長谷部選手をゲームキャプテンとするサッカーの日本代表チームのプレーを昨年のワールドカップと今年のアジア杯で観戦した際には、今の若者のあいだでは「そんなの関係ねぇ」という言葉に象徴される人間関係が支配的だと思っていたので、非常に驚き、日本代表チームのメンバーを例外的な若者たちだと早合点してしまいました。それは私の勘違いでした。宮城県石巻市の蛇田中学にもうけられた避難所では、自身も被災した中学生たちが困窮した人々の世話をしています。それ以外にも、若者たちが眼前の悲劇を「それは自分に関係ある」と感じて援助の手をさしのべている姿を、私たちは大震災以来日々目撃しています。
思えば、皆さんが絶対に忘れることができないであろうこの2011年は、数々の「伊達直人」の活躍によって開始しました。善意が《つながる》ことを示唆する事件でした。サッカーの日本代表チームが先行して実現したのは、皆さんのなかに潜在していた連帯意識だったにちがいありません。連帯意識とは《つながり》への意志のことです。それを私たちは今、目撃しています。
【生きかた】
昨年の夏は猛暑だったことを皆さんはまだおぼえているでしょうか。私たちは気候温暖化を実感し、温暖化ガス排出量を削減することが急務であることを確信しました。気候温暖化を防ぐためには、石油ではなく電気をエネルギーとして使うことが有効であるのは間違いないでしょう。ですから、石油を使わない電気自動車の普及は一つの打開策でした。実際、オバマ大統領は石油や石炭に代わるエネルギー源を確保するために、原子力の利用を拡大する政策を発表していました。今回の大震災はオバマ大統領のこのエネルギー政策にも決定的な打撃を与えているようです。また、ドイツではエネルギー政策が抜本的に見直されています。
5月6日から授業が開始しますが、当面、大学の授業は計画停電の影響をそれほどは受けないでしょう。しかし、おそくとも7月以降は大学の授業環境は悪くなることが予想されます。エアコンによる電力需要が増加すれば、計画停電が再開するからです。エアコンが効かないだけならば、窓を全開にし、薄着にして、ウチワでしのぐこともできるかもしれません。しかし、照明がないとノートをとることもままなりません。今、大学ではその対策を考えているところです。
学問の府としての大学だけは聖域だから電力を供給すべきだ、と主張することも可能です。ただし、そうなるとエネルギー使用論争が起こるでしょう。いやもうすでに起こっています。プロ野球のナイターを行うかどうか、という議論です。電気の使用目的に関して、使用許可の基準が設けられるようになるかもしれません。公的に基準ができなくても、私たちの心のなかに基準ができ、たとえばPCでゲームをしている際に、「こんな時に、こんなことで電気を消費していいのか」というような自問がわきあがるかもしれません。
この自問は常識の枠内から発するものです。その一方、次のような主張もあります。ホリエモンこと堀江貴文氏はTwitterに、「一番やばいのは東京から人がいなくなって経済が回らなくなる事。自粛ムードで経済を停滞させること。ほんとはどんどん経済回さないといけない。なのに節約自粛だと本当に日本経済がクラッシュする。放射能よりも怖いのはそっちだ」と書いています。正直なところ、この過激な主張にもうなずける点があります。ただでさえ経済が疲弊している状況に消費自粛ムードが加わると、就活はもっときびしくなりますから。
現状の水準でエネルギー消費していくか。そうだとすれば、どのようなエネルギー源を使用すべきか。それがしっかりと実用化され、今、原子力発電所が供給している電力量をカバーする時点まで、どのようにしのいでいくのか。それとも、私たちの《生きかた》を根本的に変革し、少ないエネルギーと少ない消費で持続可能な社会を実現すべきなのか。皆さんは、こういう問題に直面しています。頭ではなく、身体で直面しています。そんな難しい問題は自分で決めないという選択肢もあります。しかし、その場合でも、今までの《生きかた》をそのまま継続することはほとんど不可能でしょう。
どうやってつながり、どうやって生きていくのか。この一ヶ月でそれを考えてみてください。とても中身の濃い一ヶ月になるはずです。できれば、皆さんが考えた結果をなんらかの形で公表できるような機会ももうけたいと思います。
*1:http://www.waseda.jp/wavoc/news_project/20110315_3.html
早稲田大学教育学部複合文化学科:『複合文化学通信』8(2007年4月1日)に掲載された教員の自己紹介の文章を転載します。
神尾 達之( かみお たつゆき)
1.略歴(学歴もふくむ)
みうらじゅんが「日本のチベット」と呼ぶ《雑多》な町、高円寺で生まれました。借金を返すためだったと確信しますが、ある日突然父親が勝手に家を売却してしまったので、その後は賃貸生活を余儀なくされ、それが悲しい習い性になり、現在まで●●回転居=漂流。人生が旅かも(^_-)。高校は石神井の早稲田大学高等学院。いちおう理工学部に入学したのですが、女子学生がいないことを最強の理由として(^_^;)、第一文学部に転部=漂流。ドイツに2年間留学、某地方国立大学に12年間勤務したのち、1994年に早稲田に漂着。
2.教員から第1期新入生へのひとこと
東京生まれの方も地方から来た方も、この4年間を使って東京を歩き回ってみてください。できればデジカメを持って。早稲田を中心に四方八方探索し、マイ・スポットを発見するのも楽しいですね。町には複合文化学のネタがいっぱいころがっています。そういえば「書を捨てよ、町へ出よう」というキャッチ・フレーズを作ったのも、みなさんの先輩であるT.S. でした(←問1:誰?)。入門編としては、塩地蔵尊があるこんにゃく閻魔(異界への迷入)→文京シビックセンターの展望室(鳥瞰という視座)→ラクーアのサンダードルフィン(混濁する感覚)がお薦め。付近には、某思想家が住む猫顔のビルもあります(←問2:誰?)。ポストモダンは過去の様式を折衷=パッチワークしますが、伝統とモダンが《雑多》に混在している(調和ではなく)東京を楽しみながら、みなさんの歩行によって、東京の《雑多》さに自分のラインを書きこんでみてください。そうすれば歩く複合文化学者になれる?
3.これはぜひという本・映画・音楽
(1)これは読んでほしいという著作1冊:金塚貞文『オナニズムの秩序』(哲学っぽくて難しいIV 章やVI 章は流してもかまいません)推薦理由× 3 →①複合文化学が扱うテーマの多くは日常生活に隠れています。自分の周辺部に目をやると、文化が立ち上がるプロセスが見えてくることがあります。たとえば、みなさんは人間であると同時にヒトでもあるので、オナニーは身体にほとんどプリインストールされています。オナニーは近親相姦や同性愛と同じようにタブー化されていますが、これらの性衝動がタブー化されることで人間の文化が成立していきます。ざっくり言えば、《雑多》さから《秩序》への編成です。②みなさんは、大学でおそらくフーコーという名前や「言説」という概念を耳にし、知ったかぶりをすることになるでしょう。しきりに語られること、あるいは語っても問題ないことがある一方で、排除され語られないことが沈殿し、しかも語り方のフォーマットにも実はお約束があったりして、というのが「言説」の構造です。この本はその仕掛けをうまく説明してくれます。③複合文化学は立ち上がったばかりの「学」問ですが、ヒトの性衝動に関する話は今からだいたい100年前頃に学問になりはじめました。性科学という学問です。性科学の歴史をながめれば、一般に、学問と言われている営みが、最初から学問だったのではなく、元来は生き生きとした好奇心から発したことが分かるはずです。さて、タイトルに引かれて興味本位でこの本を読む人、あなたは複合文化学を学ぶ最初のハードルをクリアーしました。興味本位を大切にしてください。興味がないのに、「教授に言われたから」とか「必読文献に入っているから」などいう教養主義から本を読むことくらい、つらいことはないです。少なくとも私にとっては。
(2)これは観てほしいという映画1作品:タルコフスキー『サクリファイス』今はやりの《セカイ系》に分類されるかもしれません。1986年に発表されました。チェルノブイリ原子力発電所とスペースシャトル・チャレンジャー号が爆発し、日本ではバブル景気が開始した年とされています。みなさんがこの世に生を受ける数年前のおぞましくも楽しい時代にふさわしい、チョークールでチョーホットな映画です。バッハのマタイ受難曲の"Erbarme Dich" が頭から離れなくなるはず。武満徹は新しい曲を書くとき、かならずこのアリアを聴いた言われています。DVD は絶版。大学の図書館で観ることができます。
(3)これは聴いてほしいという音楽1曲:スクエアプッシャー『GO PLASTIC』。私にとって音楽はお勉強の対象ではなく、お勉強をする際に脳を活性化してくれる清涼飲料水にすぎず、個人的な嗜好が反映しているのでお薦めしません。ヘッドフォンを装着した脳内では、岡村靖幸、マッシヴ・アタック、クセナキス、70年代のマイルスが混在しているので、いちおうCross the border - close the gap かも。
4.研究室のモットー
私の研究室は、「事務処理」と「授業準備」のための悲しい「仕事室」です。この二つで両手がふさがっていますが、いちおう「研究室」という名称を剥奪されないために、ごくまれに、恥ずかしながらシコシコと「研究活動」にふけることがあります。事務処理 → 授業準備 → 研究活動 →みなさんとのおしゃべり、という順番で自分の時間を使っているので、研究室を訪問される場合は、メールによってアポイントメントをとっていただけると、激うれし、です。最後に:「一体全体学者といふ者は、弱虫で引込み思案の癖にうぬぼれの強い動物だ」という山本宣治( ← 問3:この人、誰?)の言葉をドスのように懐に入れて研究室をノックすると、大事に至らないですむかもしれませんよ。
2010年度入学式式辞 「インプットとアウトプット」
皆さん、おはようございます。そして、ご入学おめでとうございます。
今日は教育学部の入学式ですが、4月1日には早稲田大学の全体入学式が開催されました。私はその入学式にも参列しましたが、そのほぼ一週間前の3月25日には卒業式が行われました。大学を一つのユニットと考えれば、入学式というのは大学に新入生がインプットされる儀式であり、卒業式というのは大学から卒業生がアウトプットされる儀式です。大学よりも一人一人の大学生のほうが重要なことは言うまでもありませんが、一人一人の大学生が充実した大学生活を送るためには、大学というユニットも生き生きと動いていなければなりません。大学というユニットが生き生きとした状態を保つためには、学生も教員もいわば「新陳代謝」することが必要になります。「新陳代謝」というのは英語だと metabolism で、これは最近よくいわれる「メタボリック症候群」の「メタボリック」の名詞形ですが、metabolism という単語は語源をたどると、ギリシャ語で「変化」を意味していました。
大学のような組織も私たちのカラダも「新陳代謝」することで生き続けています。「新陳代謝」の停止は死を意味します。「新陳代謝」というのは、厳密に言えば、私たちのカラダの外部にある世界から私たちのカラダが摂取した物質が、私たちのカラダの内部で分解されたり合成されたりして、私たちのカラダの一部になり、最終的には老廃物などとして私たちのカラダの外部に再び排出されるプロセスのことです。私たちのカラダが不思議なのは、このようにインプットとアウトプットを絶えず繰り返していても、私たちのカラダがほぼ一定に保たれている、ということです。毎日、食べる物は異なっているのに、私たちの体温や脈拍はおおむね一定です。みなさんは、「アイデンティティ」という言葉をよく耳にすることがあると思いますが、この「アイデンティティ」という言葉の一つの意味は、私たちのカラダがたえずインプットとアウトプットを繰り返していても、それなりに一つであり一定している、ということです。
ただし、この「一定」は静的な(static)なものではありません。「静的な」「一定」というのは、たとえばみなさんが座っている椅子のようなものです。椅子のかたちは、私たちのカラダよりもしっかりとしていて「一定」です。いわば「一定」度が高い。しかし、椅子は「新陳代謝」していません。それに対して、私たちのカラダは、インプットとアウトプットから成る「新陳代謝」を行っているにもかかわらず、たとえば体温や脈拍やカラダのかたちなどが「一定」している。変化しながら「一定」だ、ということです。
福岡伸一さんが書かれた『生物と無生物のあいだ』というベストセラーを読まれたかたもいるでしょう。とても分かりやすい文章で書かれているので、受験勉強の際に現代国語で扱われたはずです。理学科生物学専修の新入生にとっては必読書かもしれません。この本のなかでもっとも重要なキーワードは「動的平衡」です。英語だと、dynamic equilibrium [ダイナミック・イクイリブリアム]です。この本の一節を引用してみます。「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としてのみ実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」。この本の中にはさらにまた、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」というクールなフレーズも登場します。私たちの体の「秩序」を維持するためには、絶えず新しい栄養分や酸素や情報をインプットして、古い部分と入れ替えてやらなければならない、ということでしょう。さらに重要なことは、私たちの遺伝子のなかには成長のプログラムも組み込まれていますから、私たちは常に同じでありつつ、同時にまた、少しずつ成長もするということです。
私たちのカラダはたえずインプットとアウトプットを繰り返すことで、静的にではなく、static にではなく、動的に、つまり dynamic に「一定」し、成長していきます。これは私たちのカラダだけではなく、私たちの脳にも当てはまります。脳といっても脳の物質的な組成のことではなく、思考のことです。思考というとあまりにも抽象的なので、大学での勉強に限定してみましょう。みなさんは今ちょうど科目登録をしているところだと思いますが、大学の授業は大きく「講義」と「演習」に二分することができます。「講義」というのは、比較的大きな教室で、教員が原則として一方的に学生に話しをするというかたちをとります。「教育学概論」とか「法学概論」がこれにあたります。それに対して、「演習」というのは、少人数のクラスで、学生が発表し、教員や他の学生がコメントをつけるかたちをとります。最近はやりの言葉で言えば、「演習」はテレビゲームのようにインタラクティブ型で、「講義」は新聞やテレビのようなブロードキャスト型です。ただし、これは典型的なかたちにすぎません。あとからお話くださる岡村先生は、大人数の「講義」であっても、学生一人一人に話しかけ、学生一人一人の名前を覚えているそうです。みなさん、岡村先生の「講義」をとったら、「自分の名前を覚えているか」試してみてくださいね。
もう少し「講義」と「演習」という言葉にこだわってみます。私が親しんでいる外国語であるドイツ語では、「講義」はVorlesung と言います。Vor-というのは英語に対応させれば、 before の fore やテニスの forehand の fore に相当します。Lesung は「読むこと」という意味で、英語で言えば reading です。ですから「講義」というのは、もともとは教授が書いてきた原稿を学生の前で読み上げることを意味していたのです。みなさんも名前くらいはご存じのはずのヘーゲルというドイツの哲学者が「講義」をしているところを描いた有名な画像があります。偉い先生が高い場所から学生に向かって貴重な学問的成果を授けてくださり、それを学生が受け取るという一方的な流れを見てとることができでしょう。
「演習」はSeminar といい、英語のセミナーとスペルは同じで発音もあまり違いません。英語のセミナーにせよドイツ語のゼミナールにせよ、いずれもラテン語に由来しています。前半部の Semin- は、ラテン語で「苗」をあらわす言葉から、後半部の -ar はラテン語で「場所」をあらわす言葉から来ています。したがって両者を併せると、Seminar というのは「苗床」を意味します。「苗床」というのは、「種が発芽しやすいようによく耕した土地」のことです。ではなぜ「苗床」が大学の「演習」の意味に変化したのか? Seminar、つまり「演習」というのは、まだ「種」にすぎないみなさんが学問に目覚め、つまり発芽し、最終的にはしっかりした論文を書くことができるように成長を助ける空間なのです。つまり主役は学生一人一人であり、教員は肥料や水をやったり、周囲の雑草を抜いたりする役割を果たすわけです。
さて、この「講義」と「演習」はインプットとアウトプットとどのような関係があるのでしょうか。みなさんを中心にして考えると、「講義」というのは情報がみなさんにインプットされる授業形態です。それに対して「演習」は、みなさんが発表者である場合は、みなさんが情報をアウトプットする授業形態です。みなさんが「演習」の発表者ではなくて、単なる参加者にとどまる場合でも、「演習」というのは学生が主体的に発言する場ですから、やはり広い意味で、みなさんがアウトプットできる授業形態だと考えることができるでしょう。重要なことは、人のカラダの場合と同じように、大学の授業でも、私たちの脳においてインプットとアウトプットが繰り返すプロセスが用意されているということです。みなさん一人一人が、「講義」で学んだことを、「演習」で生かすという循環を自分のなかで作るということです。逆に言えば、一方的に目や耳に入ってきたことを、そのままノートに書き写したり丸暗記したりするだけでは、みなさんの脳の栄養分にはなりません。そのまま、揮発してしまう。「講義」においてインプットされたこと、学習したことを、「演習」でアウトプットしてみることで、学習したことが頭脳の栄養分になります。
おそらくみなさんも数ヶ月すると、「自分がいちばん頭がよかったのは、受験勉強をしていた時だった」と悔しい思いをすることがあるかもしれません。夏休みがあける頃には、二人に一人の学生がそのような印象を持つようになるはずです。もう大学に入学しているので、そのようなネガティブな印象があっても、あまり痛くはないでしょう。そんなもんか、で終わりかもしれません。しかし、これはあまりにももったいない。脳内にたくさんの知識を貯金したのに、その貯金がたった数回の入学試験で使われただけで、どんどん揮発するというのは、あまりにももったいない。銀行の貯金と脳内の知的貯金の違いは、銀行の貯金はよほどのことがない限りパーにならないし、微々たるものですが利子がつくのに対し、脳内の知的貯金は、使えば使うほど額が右肩上がりに上昇するのに対し、使わないと残額がどんどん減っていく点にあります。情報のインプットとアウトプットは、脳内の知的貯金を殖やすために不可欠です。
みなさんも英語の勉強をしている際に経験したことがあるかもしれませんが、耳や目に入った単語をただ理解しているだけでは、それらの単語を覚えたり使いこなすことはできません。耳や目に入った単語を実際に自分で使ってみる。インプットのプロセスだけにとどまっていた単語の学習を、アウトプットしてみる。そうすることで、自分が理解できるばかりでなく、使いこなすことのできる単語量が増えていく。私たちが口に出して発音した単語は、私たちの無意識が、それは重要だから口に出されたのだ、と判断し、その結果、脳内に記憶するに値するものとしてお墨付きを得る、という説もあります。いずれにしても、「講義」と「演習」だけでなく、単語の学習と単語の使用という小さな局面でも、インプットとアウトプットをセットにして繰り返すことが重要です。キャッチフレーズ風に言えば、これは「学習の呼吸」です。知識や単語を吸って吐く。この繰り返しを習慣づけてください。
ここまでインプットとアウトプットの繰り返しの必要性について、私たちのカラダと学習という二つの局面で説明してきました。カラダと脳の二つの局面と言いかえてもいいでしょう。実は、この二つは別々ではありません。みなさんは「健全なる精神は健全なるカラダに宿る」という言葉を聞いたことがあるでしょう。古代ローマの詩人であるユウェナリスの言葉です。実は、この言葉はかなり危険で、たとえばカラダが不自由な方はどうなるのか、という問題が浮上します。ですから、慎重に扱わなければならない言葉なのですが、私の話に結びつけて言えば、カラダと脳はそれなりに関係がある、ということだけは確実なようです。
具体的に話します。私は朝一番の授業を担当することが多いのですが、どんなに寒くても窓をまず全開にします。なぜか。どんよりとした目をしている学生がかなりいるからです。私が窓を全開にしないと、学生たちは閉め切った教室のなかによどむ空気を吸い続けることになります。吸い続け、そして吐き続ける。しかし、閉め切っていると、空気中の二酸化炭素含有量が増え、酸素含有量が減っていきます。脳細胞が必要とする酸素が充分に供給されないわけです。火事の際の死亡原因としてよく挙げられるのが窒息死ですが、これは火災が起こると、物が燃焼するために室内の酸素が使われ、室内の酸素が急激に減り、脳の神経細胞がやられてしまうことに起因します。もちろん、教室の窓を閉め切りにしていても、生死にはかかわることはないはずですから安心していただきたいのですが、それでも、脳の働きに悪影響を及ぼすことは確実でしょう。
私は合わせて三年間ほどですがドイツで生活していました。窓を開けることに関して、今でも覚えていることが二つあります。ドイツは日本よりも寒い。町中でも気温が零下まで下がることはまれではありません。ところがドイツ人は、どんなに寒い冬でも窓を少し開けたまま寝るのです。なんでそんなことをするのか、とドイツ人にたずねたところ、室内に常時、酸素が入るようにするため、という答が返ってきました。ついでに言えば、窓を開け放しにしていると、物騒じゃないか、と思われるかたもいるかもしれませんが、ドイツの窓は非常に頑丈であるとともに工夫もされていて、図のような「引き倒し式窓」というのがあります。さすがに、省エネの時代らしく、最近では、「冬は夜間、窓を開けっ放しにしないように」という呼びかけがなされています。裏返せば、ドイツ人は省エネのことを考えなければ、冬でも、睡眠時の酸素を部屋の外部からインプットし、自分の体内から出た二酸化炭素を部屋の外部へとアウトプットするような生活をしてきたということでしょう。また、ドイツの学校では休み時間には子供たちがみんな校庭に出され、教室は鍵がかけられてしまいます。休み時間に外気にあたり、空気を吸い、カラダを動かすことが奨励されているわけです。ドイツ人のこのような外気好きは、省エネ効果という点では、手放しで肯定することができませんが、頭脳労働をするためにはやはり効果抜群です。不幸にも私の授業をとった新入生は、朝一番に教室の窓を一回全開にして、脳内に酸素をインプットしてください。
これと関連して、新入生のみなさんにぜひともお願いしたいのが、快食快便の習慣をつけることです。快食快便というのは、私たちのカラダへのインプットと私たちのカラダからのアウトプットに対応しています。高校までと異なり、大学に入ると生活が不規則になります。授業が朝一番からある曜日、授業が午後から始まる曜日など、一週間の生活が不規則になります。そうすると食事の時間とトイレに行く時間、つまりインプットの時間とアウトプットの時間が一定しなくなり、カラダと思考がどんどん乱れてきます。一人暮らしを始める新入生は食事の内容にも気をつけてください。私たちが大学や図書館で頭脳労働することができるためには、電気や上下水道やガスや道路といったインフラストラクチャーが安定していることが必要です。それと同じように、私たちの脳が動くようにするためには、カラダというインフラストラクチャーを安定させておかなければなりません。とくに朝が問題です。いろいろな事情があると思いますが、朝のインプットとアウトプットのリズムを大切にしてください。
さて、ここまでは、みなさん一人一人のカラダと脳に着目してインプットとアウトプットについてお話してきました。インプットとアウトプットはみなさんが社会とつながる場面にも観察することができます。それは経済生活の場面です。給料をもらって、何かを買うこと、つまり収入と支出もインプットとアウトプットです。カラダの場合、インプットされアウトプットされたのは、食べ物と老廃物、酸素と二酸化炭素でした。脳の場合は、インプットされアウトプットされたのは、大づかみに言えば情報です。経済生活の場面では、お金がみなさんのお財布のなかにインプットされ、やがてみなさんのお財布のなかからアウトプットされます。
このところ、経済生活におけるインプットとアウトプットのバランスが、少なくとも日本では大きく変わってきているようです。私はみなさんの親御さんと同じ世代に属するのですが、私たちの世代とみなさんの世代は経済生活の面で大きく異なっています。私たちの世代がみなさんくらいの年齢のときには、欲しい物、買いたい物がたくさんありました。たとえば、カメラ、オーディオ機器、自動車、海外旅行などです。私たちの親もまた、テレビ、クーラー、自動車などを買うために、がむしゃらに働いていました。それに対して、みなさんはそれほど強く欲しい物がない世代だと言われています。みなさんの世代を特徴づけるいくつかのレッテルを挙げれば、「欲しがらない世代」、「シンプル族」、「嫌消費世代」などです。みなさんはすでにデジカメも iPod も持っており、海外旅行の経験者も多いし、海外旅行そのものがそれほど高価なものではなくなってきています。みなさんはすでにほとんどのものを所有している。みなさんが所有していないのは、誇張して言えば、欲しい物です。欲しい物が欲しい世代が、みなさんの世代でしょう。
それに拍車をかけるように、みなさんはお父さんお母さんや私の世代よりも、しっかりとした環境教育を受けていますから、大量消費大量廃棄が自分たちの未来にとって悪であることをしっかり認識しています。古着屋さんで服を買う若者が増えているのもそのためかもしれません。エネルギーを大切にする点でも、みなさんのほうが、私たちよりもずっとしっかりしている。自動車離れという現象もその一つでしょう。物質的にはすでに満ち足りており、しかも、大量消費大量廃棄に対して批判的であるという二つの条件は、みなさんの経済生活におけるインプットとアウトプットのレベルを低下させます。給料は少なくてもいい、物はそんなに要らないけれども、できるかぎり多くの自分の時間がほしい、ということは、インプットつまり収入とアウトプットつまり支出のレベルが下がってくるということです。
とはいえ社会の中枢で働いている人たち、つまり、みなさんの親御さんや私の世代は、多くのインプット、多くのアウトプットというスタイルで生活しています。しかも資本主義社会を維持発展させるためには、high input high output のほうが望ましい。みなさんが消費しなくなると、お金を使わなくなると、アウトプットしなくなると、会社は営業不振に陥り、給料は上昇せず、さらにはつぶれる会社が増えるかもしれません。昨年の二月に一人一万二千円の「定額給付金」が出されましたが、これは、リーマンショックで冷え込んだ日本経済を再び、high input high output の循環システムに戻すための方策でした。しかし、その一方でみなさん若い人たちは、low input low output のライフスタイルを選ぶようになってきている。みなさんは、high input high output 社会から、low input low output 社会の境界線上に立っているのかもしれません。みなさんもご存じのように、鳩山首相は昨年の九月に開かれた国連気候変動サミットで、温室効果ガスを2020年までに1990年比で25%削減する、と世界に向けて約束しました。この方針はかならずしも経済成長の停滞につながらないかもしれませんが、low input low output 社会が少なくとも日本においては近づいていることを予感させます。しかしたとえ high ではなく low になったとしても、社会が存続するためにはインプットとアウトプットの循環が必要です。みなさんは、high input high output 社会に代わる、low input low output 社会のシステムを考え出さなければならなくなるでしょう。考え出すだけではなく、さらにはそれを実行し、それが自然であるような生活をしなければならなくなるでしょう。そのためにこそ、みなさんは私たち以上に、カラダと脳を鍛えなければならない。そして、カラダと脳を鍛えるためには、みなさんは是非、快食快便を心がけ、朝は一回、窓を全開にして深呼吸をしてください。
インプットとアウトプットというワードを軸にしてお話をしてきました。みなさんにお願いしたいのは、自分にふさわしいインプットとアウトプットのリズムを作ることです。当然のことながら、人によってそのリズムは違うはずです。highかlowかの違いはあまり問題ではありません。このようなインプットとアウトプットのリズムを作ることができた学生は、四年後には、「早稲田まで」の人ではなく、「早稲田から」の人として、早稲田から自分をアウトプットさせ、社会に船出することができるはずです。
最後に一言。みなさん、すごく緊張して、まじめに私の話を聞いてくださいました。なかにはメモまでとってくれている方もいるようです。それこそ、しっかりインプットしてくれています。今日の話のなかで私は、「~なければなりません」とか「~が必要です」という言葉を多く使ってしまいました。まじめな新入生によく見受けられるのですが、教師が口にした「~なければなりません」とか「~が必要です」をそのまますべて我が身に引き受けて、完璧主義者になろうとし、それができないと、いっきょに自己嫌悪に陥る。これは絶対に避けたい事態です。インプットとアウトプットのリズムを作ることは重要ですが、それができなくても、なんとかなる。向上心は持ちながら、まだまだダメな自分をそのまま受け入れるようにしてください。それにアウトプットというのは、何もいいレポートを書いたり、授業で最高点をもらったり、いい卒業論文を書いたり、みんなをうならせるようなゼミの発表をすることだけではありません。息をアウトプットする。息を抜く。息抜きをする。リラックスする。ときどき、もうダメだーとなったら、クラス担任の先生や学生担当の岡村先生や石原先生や私のところにやってきて、息抜きしてください。「もうだめです。頭ぱんぱんです。目標に到達できない自分がいやです。友達ができない自分がいやです」と、悩みをアウトプットしてください。そうすれば、そのあとからクリエイティブなアウトプットができるはずです。
みなさんが自分の人生で最高に楽しく充実していたと言えるような四年間を早稲田大学教育学部ですごすことができることを、心から願っています。短いですが、以上をもって、私の式辞といたします。
2009年度入学式式辞 「4年間の大学生活を10倍生かす方法」
皆さん、おはようございます。そして、ご入学おめでとうございます。
私の式辞には「4年間の大学生活を10倍生かす方法」というタイトルを付けました。あえて4年間としたのは、卒業時のことまで考えてほしいからです。大学4年間は、就職のことを忘れて、勉強やサークル活動や、ときにアルバイトや、ときに恋愛に熱中すべきだという意見もあります。しかしこのような社会情勢では、今日ご臨席いただいている保証人の方々や皆さんご自身も、就職のことを意識せざるを得ないでしょう。少なくとも私は、自分がこのように教師という定職に就いている以上、皆さんに「就職のことなんか考えなくてもいい」とはなかなか言えません。とはいえ、個別的、具体的に企業や職種を今から決めるのは、あまり意味がないということも確かです。早稲田大学が専門学校あるいは職業学校ではないということもその理由の一つですが、それよりも強い理由は、社会が猛烈なスピードで変化しているということです。リーマンブラザーズの破たんから、世界経済が一挙に悪化しました。今安定して見える職業でも、4年後にどうなっているかは分かりません。就職のことを考えるということは、しっかりとした社会人になることができるように、自分を鍛えていくという意味です。この4年間でしっかりとした社会人になるように自分を鍛えていけば、4年後の就職という局面でも必ず道が開けるはずです。逆に、3年生の後期になり、就職活動が始まる時期になって初めて、敬語の使い方や、おじきの仕方や、初対面の人との接し方などを学んでも、すぐにメッキがはがれ、使いものになりません。ですから「4年間の大学生活を10倍生かす方法」というのは、「4年後に第1希望の会社に見事就職できる方法」ではありません。そうではなく、4年後に社会がどんな形になっていても、それにたじろぐことのない精神力と思考力を皆さんが4年間で身につけ、同時にこの4年間をかけがえのない時間として楽しむということ、この二つを実現するための方法、それを私は「4年間の大学生活を10倍生かす方法」と考えています。
全部で五つのポイントにまとめました。一つめ、「脳内通帳の利子を増やそう」とちょっと比喩的に書きました。おそらく皆さんも、いまから1ヶ月、2ヶ月後、5月か6月ごろには実感すると思います。自分が一番頭が良かった、賢かったのは、受験勉強に熱中した数ヶ月前だったなということをです。覚えるのにかかった時間、理解するのにかかった時間の10倍以上のスピードで、どんどん自分が知識を忘れていくことに愕然とすることでしょう。受験勉強の知識が、身についていないわけです。それはなぜか。それは、受験勉強の知識が、受験を目的にしていたからです。大学に合格したら目的が達せられてしまうため、受験勉強の知識が揮発し、蒸発し、消滅していくのは当然のことです。しかし、これではあまりにももったいない。揮発させないようにするためにはどうすればいいか。蒸発させないようにするためにはどうすればいいか。大学入学直前までに、脳内に貯金した知識が、徐々に残額ゼロに近づいていくことを防ぐためにはどうすればいいのか。いや、むしろ利子がもっとつくようにするためにはどうすればいいのか。不思議なことですが、銀行に預けていたお金が知らぬ間に少なくなったら、あるいはなくなってしまったら誰もが大騒ぎするのに、脳内通帳から知識の貯金がなくなっていっても、「まあ、いいか」という人が多い。あるいはそれを自覚しない人が多い。脳内通帳では、預けている元金が保証されません。しかし逆に、使えば使うほど、あるいは出し入れすればするほど、利子がついてくる。使えば使うほどというのは、大学入学直前までに脳内に蓄えた知識を、大学入学後も使うということです。別の言葉で言えば、高校卒業までの知識を脳内でリサイクルしていくということです。大学の授業で使ってください。使えば使うほど、知識に広がりと深みが出てきます。今まで点だった知識が平面になり、さらにはその平面が立体になっていく。これが、私の言うところの利子、脳内通帳の利子です。
二つめのポイントは、「関係づけというソフトを徹底的に利用しよう」。大学の授業で使う、今まで蓄積した知識を使うといっても、かつて学んだ知識を思い出すだけでいいのでしょうか。もちろんそれも大切です。ただ、それだけだと、利子のつき方が鈍い。点の知識を結んで平面にする。点の知識を結ぶというのはどういうことか。高校3年生までの勉強というのは、原則的に科目の縦割りになっています。ご承知のとおり、国語、世界史、日本史、政治経済、地理、数学、物理、化学、生物、地学等々です。大学にも別の種類の縦割りがあります。学部名の縦割りです。教育、政治経済、法学、文学、商学、理工学などのような区分です。ただし、大学の授業の半分以上は、そのような科目の縦割りにはなっていないでしょう。言うまでもないことですが、皆さんが4年後に出て行く実社会は、科目名や学部名の縦割りにはなっていません。脳みその中の縦割りは、大学4年、あるいは学部に入るころまでです。実社会は、科目名や学部名の縦割りに対応した形で構成されていません。ところで、官公庁の縦割り行政というのが批判されていることは、皆さんもご存じだと思います。今はだいぶ少なくなりましたが、かつてお役所に行くと、それはここの管轄ではないとよく言われて、いろいろな部署をたらい回しにされた経験が、私にもあります。働いている人も、隣の部署の同僚がやっていることが、よく分からなかったりする。これによって、組織がどんどん硬直化していきます。それが「縦割り行政」で、批判されてきました。もうだいぶ改善されましたが。しかしながら、そのような縦割り行政を批判する私たち自身も、自分の脳内の縦割り行政から脱するようにしなければならない。そうしないと、脳内がどんどん硬直化してしまう。脳内に貯金した知識が増殖せず、縮こまって、どんどん小さくなって、限りなくゼロに近づいていってしまう。
さて、今お話していた二つめのポイント、関係づけと脳内縦割り行政批判とは、どのように結びつくのか。例えば世界史で学んだことを世界史の内側だけで限定的に使うのではなく、例えば地理で学んだこと、英文学で学んだことに結びつけてみる。例えば、先ほどお話しくださった宮口学術院長は、教育学部では地理がご専門の先生ということになっていますが、先生のご本の中では、ワインや美術館やエコロジーや村おこしが関係づけられていて、縦割りになっていない。縦割りの知識がクロスされ、関係づけられることで、知識が有効活用され、それが平面化し、立体化したりするモデルだと、私は思いました。もう一つ実例を挙げます。皆さんは中学生のころ、星座を問う試験問題を解いたことがなかったでしょうか。星座を問う試験問題が理科で出たことがなかったでしょうか。言うまでもないことですが、星座は元々天空に図柄として張りついていたわけではありません。スタンドアローンにある一つ一つの星、1個1個の星を、古代の人々がイマジネーションを膨らませることで結びつけ、関係づけ、一つの図柄が見えるようになったわけです。それまで見えなかったもの、というよりも、それまで存在しなかった星座というものが、あたかも実際に存在するかのように思いなされ、さらには試験問題になるほどまでに拘束力を持った、そういう存在に格上げされたわけです。関係づけの結果が、今では試験問題にまでキャリアアップし、実際に存在するもののように見なされていくわけです。これが、関係づけの威力です。
では、三つめのポイント、「想像力によって創造しよう」。関係づけるといっても、むやみやたらに関係づけることはできるわけではありません。スタンドアローンな個々の知識、個々の星を結びつけるためにはイマジネーションが必要です。よく言われることですが、想像力は創造力、つまりイマジネーションはクリエイティヴィティでもあります。古代の人々がイマジネーションを駆使して、一つ一つの個別のスタンドアローンな星から星座という図柄をクリエイトしたように、皆さんも、大学入学前に皆さんが獲得した手持ちの知識と、大学入学後に新たに習得する知識をフル活用してイマジネーションを駆使し、4年後には自分の星座をクリエイトしてください。
ところで、この想像力、イマジネーションというのは、なにも勉強の局面だけで重要であるわけではありません。想像力は、勉強だけではなく、皆さんが生きるうえでも大切な能力です。地球温暖化への対策が遅れているのは、未来に向けて伸びていくべき、私たちのイマジネーションが足りないからでしょう。自分の残りの人生の時間しか考えないというのは、イマジネーションがみすぼらしい証拠です。4年後のことだけでなく、50年後、100年後のことまでイマジネーションを伸ばしていけば、私たちはもっと環境を大切にするはずです。
イマジネーションが勉強にだけ役立つのではないということの別の例を挙げます。苦しい受験勉強を脱した今、おそらく皆さんは大学生活を楽しもうという気持ちで満ち満ちていると思います。青春というのは、今現在目の前にある時間がもっとも楽しい時期であると言ってもいいでしょう。だから、青春時代、皆さんが生きている今は、実は未来のことはあまりくよくよ考えていない。それはそれで仕方のないことであり、当然であり、私もそのようにして生きてきました。例えばスポーツをするときのように、今現在目の前にある時間に徹底的に集中していくのが青春です。ただし、ときには少しだけイマジネーションの翼を広げて、4年後に想いを馳せてください。楽しいことだけに没入すると、4年後がきつい。楽しいことしかしてこなかったために、4年後には自分が学費をドブに捨ててきたことが悔やまれたりすることがある。そのためにもイマジネーションを使ってください。
想像力の効用についてもう一つ。勉強以外の効用についてです。どの学科・専攻・専修に所属するかとは別に、どの学科・専攻・専修に所属していても、教育学部で学ぶ皆さんに、4年後までに等しく、ぜひ身につけてもらいたい能力があります。それがコミュニケーション力です。これについてはあとで再度述べますが、例えば相手の耳に届く言葉で話すことは、コミュニケーション力の一つだと思います。相手の耳に届く言葉で話すというのは、声が大きいということだけではありません。自分が言っていることを相手が理解してくれているかどうかをイマジンし、相手が理解してくれていないようであれば、その都度分かりやすく言い換えたり、繰り返したりする。そして、言いっ放しにするのではなくて、自分のメッセージが相手の心に残るようにする。これはとても難しい技です。今私も、皆さんにこのように語りかけながら、自分の言葉が皆さんに届いているかどうかをつかむことができずに、実は非常に不安です。相手に理解してもらい、相手の心にメッセージを残すことは、最も広い意味での「教育」です。ですから、教育学部の皆さんには、是非この能力を身につけてもらいたい。そのためには、相手の理解力や感情をイマジンすることが不可欠です。そうすることによってこそ、信頼で結ばれた友人関係をクリエイトする。言いっ放しにするのではなく、命じるのではなく、相手が自然に受け入れてくれる説得力ある言葉で語っていくこと、そうすることによって、皆さんは本当の意味での友人を獲得することができるでしょう。
四つめのポイント、「答えのない世界で、問いと答えを自分で作ろう」。先ほど、想像力を鍛えて、スタンドアローンな知識を関係づけ、拡張し、平面化し、立体化するということを言いました。それは、別の言葉で言えば、皆さん一人ひとりが答えを作っていくということです。大学入試までは、原則としてどのような問いにも答えがあらかじめ与えられています。あらかじめ与えられた答えを、どれだけ早く、どれだけ正確に見い出すかという発見ゲームを皆さんはしてきたわけです。偏差値というのは、この発見ゲームの能力を反映する数字だったと言ってもいいでしょう。もちろん、あらかじめ与えられた答えを発見する能力はそれなりに重要で、実社会でも求められるはずです。しかし、大学での勉強は発見型ではなく、むしろ発明型だと、私は思います。発見型の場合は、問いも答えも、偉い先生があらかじめ持っている。あるいは、問題集の後ろに書かれている。あるいは、答えは大学の金庫の中のどこかに厳重に保管されていたりするわけです。それに対して発明型の場合は、自分が立てた問いに対して、自分が答える。問いからして、学生が作るということが求められる。自分が立てた問いに対して、自分で答える。先ほどからの話につなげて言うならば、発明型というのは、知識を点から平面へ、平面から立体へと構築していき、星座という図柄を自分で発明し、それを説得力ある形で周りの人たちに伝え、共有してもらうことだと思います。大学の勉強は、学年が上がるにつれて、発見型から発明型へと変わっていきます。そして卒業論文は、この発明型の勉強の最終的な到達点です。最初から発明型の勉強はできないでしょう。しかし、大学4年生になったときは、皆さんが自分で作った星座を発明して、説得力ある形でそれを論述し、先生方に読んでいただくというところまでいってください。
今私は大学のことに限定して話をしました。では実社会では、4年後に皆さんが出る実社会ではどうなのか。当然のことですが、実社会でもやはり発明型の思考が求められます。なぜ会社の経営がうまくいかないのか。会社の経営がうまくいかないということはだれの目にもはっきりしてるのに、どこに問題点があるのか分からないというような状況が、おそらく今、日本の多くの会社で起こっているでしょう。問題点のありかが分からないから、当然解決策も出てこない。発見ゲームしかやってこなかった若者は、社長が答えを持っていると考えてしまう。実は、社長すら答えが分からない。もし社長に答えが分かっていれば、社長は手をこまねいてじっと待ってるのではなく、社員に対応策を命じるわけです。社長ですら答えが分からない、そういうときこそ、早稲田大学教育学部で発明型の勉強をしっかりしてきた皆さんが活躍するときです。
最後の方法にいきましょう。「コミュニケーション力をつけよう」。コミュニケーション力というのは、口がうまい、しゃべりがうまいということではありません。あるいは、声が大きい、滑舌がいいということではありません。皆さんは「巧言令色鮮し仁[こうげんれいしょくすくなしじん]」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。言葉が上手で、うまく表情を作って相手に気に入られようとする人は、実は相手に対する本当の思いやりに欠けるということです。この「巧言令色鮮し仁」を裏返してみると、コミュニケーションの究極の形態が見えてくるはずです。それは、たとえ言葉にならなくても、相手に自分の意思を伝えることです。ブスッとしていても、相手がしっかり心を読んでくれるという状態です。ガールフレンドやボーイフレンドと一緒に、海辺でぼやーっと1時間、何もしゃべらずに過ごすとき、コミュニケーションは成立していないと言えるでしょうか。いや、むしろ私は、そのときこそ究極のコミュニケーションが成立している、あるいは成立しかかっていると言いたい。恋人の間に限らず、夫婦の間でも、ときに親子の間でも、このような理想的なコミュニケーションが実現することがあります。しかし、このような、言葉を使わない、理想的なコミュニケーションに至るためには相当の時間が必要ですし、相手との間に深い関係を築いていることが必須です。そのようなコミュニケーションが可能になる相手とは、人生でそんなにたくさん遭遇できるわけではありません。それが親友であり、恋人であり、配偶者であるでしょう。私たちが出会う大多数の人とは、残念ながら、言葉を使ったコミュニケーションをせざるを得ない。しかも、「巧言令色鮮し仁」にならないような形でコミュニケーションをしなければならない。先ほども触れましたが、相手に理解してもらい、相手の心にメッセージを残すこと、これがコミュニケーション力の到達目標です。
早稲田大学の教育学部で学んだ学生たちは、全員が教員になるわけではありません。しかし、早稲田大学の教育学部で学んだ学生たちは、教員にならなくても、《教育》とは一生かかわっていくことができるようにしてください。ただし、この場合の《教育》というのは、この括弧を付けましたように、通常の意味と違って、最も広い意味で使いたい。それは、人に教えることを意味します。この括弧の付いた最も広い意味の《教育》というのは、学校教育に、教員に限定されません。生徒に教えるだけでなく、自分の子どもや同僚や部下や仲間に教える。家族の間で、上司と部下の間で、同僚同士で、さらには恋人同士で《教育》が行われる。しかも、この最も広い意味での《教育》では、教える者と教わる者のポジションが固定していません。学校教育では、原則として、教師と生徒というのは固定しています。しかし、最も広い意味での《教育》では、そのポジションは固定していない。教える側が教わる側に回ったりすることも、まれではありません。実は、学校教育の真っただ中にいる私も、つまり教える側と教わる側が固定しているような現場にいる私でも、実は学生から多くのことを今まで学んできました。それは、例えばアニメについて、漫画についてですけれど、それのみならず、悲劇や不幸に直面したときの姿勢に関して、私よりずっと秀でた学生に接してきました。そのとき、その若者が悲劇や不幸に直面したとき、それになんとか耐え忍び、乗り越えていく姿を見て、私は学びました。この最も広い意味での《教育》では、さらに、教えることで教える側が共に成長することもできます。つまり、最も広い意味での《教育》では、立場の逆転もあるし、一方通行ではない、双方向性もあります。教える側も教わる側も、コミュニケーションすることで、共に成長することが理想でしょう。このようなコミュニケーション力を身につけるためには、授業に積極的に参加することが大切です。例えばゼミで発言してみたり、クラスメートの発言を膨らませたりすることで、コミュニケーション力がぐっと伸びるでしょう。課外活動やアルバイトや恋愛活動でも、コミュニケーションは鍛えられます。コミュニケーション力があれば、麻薬の誘いを断ることは簡単なはずです。コミュニケーション力があれば、友達になってくれることをほのめかしつつアプローチする人間を見抜き、巧言令色を見破り、麻薬の誘いを毅然として断ることもできるはずです。優しいママとパパが包んでくれた温かい子ども部屋に閉じこもっていては、コミュニケーション力はつかないということも、しっかり認識してください。実社会で皆さんに求められているのは、発見ゲームによってレベルアップした偏差値ではなく、このコミュニケーション力であることをしっかり押さえていって、4年間を過ごしてください。そして、早速今日から、コミュニケーション力をつける練習をしてください。この学部入学式は皆さんと一緒に早稲田大学の校歌を歌って終わりますが、歌い終わったところでそのまま帰るのではなく、是非、偶然隣り合わせに座った方と自己紹介し合ってから帰ってみてください、できれば両隣の人と。これから4年間、早稲田大学教育学部で過ごす友達になるわけですから、隣の人、両隣の人と自己紹介して、帰ってみてください。初対面の人に声をかけることができる、これがまずコミュニケーション力の最初の一歩だと思います。
まとめます。「4年間の大学生活を10倍生かす方法」を五つのポイントにまとめました。五つのポイントをもう1回繰り返して言います。「脳内通帳の利子を殖やそう」。つまり、今までの知識をリサイクルしよう。二つめ、「関係づけというソフトを徹底的に利用しよう」。つまり、脳内の縦割り行政を打破しよう。三つめ、「想像力によって創造しよう」。点と点をイマジネーションで結びつけて、自分の星座を作り上げ、人々に共有してもらおう。四つめ、「答えのない世界で、問いと答えを自分で作ろう」。発明型の思考を、できる限りしていこう。徐々にしていこう。最後、「コミュニケーション力をつけよう」。最も広い意味の《教育》とは、コミュニケーションによるお互いの変化と成長であるということを、肝に銘じてください。
皆さんが4年間の大学生活を10倍生かす方法をうまく実行できれば、それはそのまま、学費を10倍にして回収する方法にもなるかもしれません。成功を期待しています。そして、たとえこれがうまくいかなくても、あきらめたり、絶望したり、自虐に走るのではなく、少しずつステップアップできている自分を褒めてください。4年後に皆さんと楽しい言葉を交わすことができることを、深く願っています。短いですが、以上をもって、私の式辞といたします。ご入学、本当におめでとうございました。
早稲田大学教育学部:『がくぶほう』94(2005年2月3日)に掲載された拙稿です。
授業料がいくらかご存じの方はどれくらいいますか? 文系は70万円強、理系は100万円強です。年間に履修できる単位の上限は40です。二つの授業料を40単位で割り算してみると、1単位のおおよその値段が算出できます。文系では17500円、理系では25000円です。語学などを除くと、通年科目はおおむね4単位です。したがって、通年科目は、文系では70000円、理系では100000円となります。それぞれの金額を、1年間の授業の上限回数である30でさらに割り算してみます。そうすると文系の1回の授業は2333円、理系は3333円となります。実際は30回はないので、大ざっぱに1回の授業には文系は2500円、理系は3500円払っている(親が?)と見当をつけることができそうです。さて、これは高いですか? それとも安いですか? 先日、ペアレンツデーでこの話をしたところ、教師の休講について指摘を受けてしまいました。痛っー!
大学を卒業する頃には、学生さんと先生方との間には師弟関係という一種の〈愛〉もめばえるでしょうから、あまりお金のことを言うのはえげつない感じもします。しかしながら、入学当初から〈愛〉を前提にすることはできません。あるいは、大学と専門学校は違う、大学では授業料以上のものが得られる、と言っても、それを学生の皆さんが実感できない限りは、知識の習得という点で専門学校に大きく差をつけられてしまうでしょう。もちろん、〈知識〉ではなく〈知恵〉を授けるのが大学だ、という言説もありますが、この言説はお題目ではなく、実態をともなうことではじめて説得力をもちます。先生方は、このことを念頭におきながら授業の改革につとめておられるはずです。
そこで教務を担当している者として、学生の皆さんにいくつかお願いがあります。
1.いったんは師弟間の美しい〈愛〉や〈敬意〉を棚上にして、経済効率の点から授業をみなおしてみてください。「同じ90分間でバイトをすれば…」、「昼寝の場所を確保するのに数千円払うの?」というような問いを立ててみてください。私たちの夢は、教育学部で設置されているすべての科目が、「この授業はお金に換算できない位の価値があった」という実感を皆さんに与えることです。
2.大学を使ってください。早稲田大学は他の大学に比べて施設が充実しています。4年生になってはじめて図書館に足を踏み入れた、なんて、ひどくもったいない。国立大学の図書館で日曜日も開館しているところがあるでしょうか? 22号館のコンピュータ自習室は24時間開室しています。なんと年末年始でも大学のPCで勉強(!)できるのです(住民登録は不可ですが)。また、オープン科目もたくさんあります。教育学部に設置されている科目だけに自己規制する必要はありません。自分の〈本来〉の関心を授業内容に重ねるためには、他の学部や大学の授業を履修することも必要になるでしょう。
3.勉強の中身を充実させその効率を高めるためには、私たち執行部にどんどん要求してください。もちろんすべての要求を満たすことはできません。100の要求のうち20しか採用されないかもしれません。しかし要求しなければ、私たち教職員の念頭に浮かんだことしか改善できないのです。私たちがイマジネーションを最大限に働かせても、学生の皆さんの立場に十全に立つことはできません。とはいえ、そのような要求の背後には、それなりの正当性も必要になります。自分が踏んで壊したiPodを交換してくれと、買ったお店に頼んでも受け付けてはくれません。あなたに有益なことが、他の人にとって不利益になったり、不平等を引きおこすかもしれない、ということにも思いをいたすべきでしょう。
いずれにしても、現執行部の任期が終わる20ヶ月後には、教育学部がさらに充実した素晴らしい学部になるように、私たちも全力をつくしますので、皆様の暖かい叱責と助言を期待しています。
早稲田大学語学教育研究所:『外国語の手引き セレクション』(2001年)に掲載された拙稿です。一部、手直しした個所があります。
ドイツ語を学んだ人は、病院では医師に「ドイツ語は使わないでください」と頼むほうがいいでしょう。医師があなたのカルテに目をやり、隣に立っているインターンの学生に、たとえば「クレープスだよ」とささやいたら、あなたは癌です。あなたはまだ心構えもできていないのに突如、知らなくてもいいことを、大学時代にドイツ語を学んだばかりに知ることとなり、今までとは決定的に違った生き方をしいられるでしょう。「クレープス」という単なる音が、ドイツ語を知っているあなたにとっては、物理的なショックよりも強力な効果をもたらしたわけです。このように,新しい言葉を学ぶと言うことは、音や文字といったそれ自体は無害なものに触発されて、今まで知らなかった世界を経験することです。まっとうな市民でありながら(おまけに単位までもらいながら)、おそらくLSDを摂取したとき以上の恐ろしくも素晴らしい体験が待っているはずです。
もちろんそのような体験を可能にしてくれる言葉は、ドイツ語に限りません。「クレープス」なんていうおぞましい言葉を理解できてしまうくらいならドイツ語はごめんだ、と考える方もいるでしょう。医学で使われる外来語にはドイツ語が多く、有名なところでは「アレルギー」もドイツ語です。上に挙げた、「カルテ」というのもドイツ語で、ただでさえ文法が難しいと言われているドイツ語には、語彙の点でもなんとなく暗いイメージがつきまとっていて、こんな言語とつきあっていると「ノイローゼ」になってしまうかもしれない、などとは思わないでください(ほら、案の定、「ノイローゼ」もドイツ語です)。
さて、ドイツ語は実用性という点では英語にはるかに及びません。ドイツ人の多くは英語を、しかもわかりやすい教科書的な英語を話してくれるので、「ビジネスにドイツ語は不可欠だ」とは残念ながら言えません。日本においてドイツ語がある意味で特別扱いされてきたのは、「教養主義」のおかげでした。実用性はないが、「文化」の香りに包まれ、深い「精神性」に貫かれている言葉として、ドイツ語は位置づけられてきたのです。確かにドイツ語はゲーテ、シラー、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクス、フロイトらが本を書くのに使った言葉であり、バッハ、モーツァルト、ベートーベンが、さらにはアインシュタインらが口にした言葉ではあります。けれども同時にそれは、ヒトラーが演説の際に用いた言葉でもありました。パパゲーノの軽やかな旋律から強制収容所の戦慄までが、ドイツ語の言語的なキャパシティであると言ってもいいかもしれません。実用性はあまり得ることできないドイツ語が、もし大学で学ぶに値する言語であるとすれば、その理由はこのような言語的なキャパシティの大きさにあるのではないでしょうか。 文化という歴史の光の面だけに目を向けたのが、かつての「教養主義」だったとすれば、これからは歴史の光と歴史の影の両面に目を向けることこそが、「教養主義」であるべきでしょう。モーツァルトやヒトラーの脳みその中を通過した言語、つまり歴史の表舞台で正と負の両方の極に振り切れた言語としてドイツ語を学べば、実は「天使」と「悪魔」の両方が私たちの人間の中に潜んでいることを、予感することもできるようになるかもしれません。それこそがおそらく身につけるべき「教養」のひとつでしょう。
「うひゃー、ドイツ語って、なんだか七面倒だなあ」という印象を解毒するために付け加えれば、英語に比べると、文法は難しいが、発音は簡単です。総じて例外が少ないので、いったん規則をおぼえれば、あとは楽なはずです。最後は楽しい言葉でしめることにしましょう。Viel Spass(フィール・シュパースと発音します)、「たっぷり楽しんで来なさい」という意味です。義務からではなく、最後に来るはずの大いなる「楽しみ」を目標に、ドイツ語と取り組んでみてください。
これ以外の雑文